第10話 戻れという王命/愛人の誤訳
王命は、朝の公文書館に届いた。赤い封蝋に王家の紋章。厚い紙。形式は正しい。内容は、私にヴァルニエ侯爵家へ一時帰還し、六カ国会議まで侯爵の補助を行うよう命じるものだった。理由は、夫婦間の不和が外交に悪影響を与えているため。
私は文を最後まで読み、机に置いた。オリーヌが青ざめている。サラは拳を握っている。マルタは一度だけ目を閉じた。
「王命なら、逆らえないのですか」
サラが尋ねた。
「逆らうのではなく、解釈します」
「解釈?」
「命令は、何を根拠にしているかで効力が変わります。これは外交補助の命令に見えますが、実質は婚姻関係の回復を強制しています」
私は王命の冒頭を指した。
「ここに『侯爵夫人として』とあります。私はすでに別居届を出し、離縁手続き中です。無償労務停止通知も受理されています」
「でも、王家の印です」
「王家の印でも、法典を超えるには理由が必要です」
そう言いながら、私自身も手のひらに汗をかいていた。王命を相手にするのは、侯爵家の抗議文とは違う。紙の重さが違う。ここで間違えれば、私は反逆的な女として扱われる。外務卿の部屋へ行くと、そこにはアルマンがいた。彼は勝ち誇った顔をしている。隣にはリリーヌもいた。彼女はいつもより控えめなドレスで、私を見ると不安げに目を伏せた。
「イザベル、王命だ。これでくだらない意地は終わりだ」
私は外務卿へ礼をした。
「この命令の発議者を確認してもよろしいでしょうか」
外務卿は渋い顔をした。
「宮内局だ。ヴァルニエ侯爵より、夫婦不和が本会議に支障を来すとの報告があった」
「つまり、私が侯爵家へ戻れば本会議の支障はなくなる、という報告ですか」
「そうだ」
「では、確認させてください。ヴァルニエ侯爵閣下は、北方語版、港湾語版、砂州語版の本会議草案を単独で説明できますか」
アルマンの表情が揺れた。
「君が補助すれば問題ない」
「侯爵家へ戻ることと、業務上補助することは別です」
「妻が夫を支えるのは当然だ!」
声が部屋に響いた。外務卿の眉が動く。私は静かに言った。
「その当然が記録に残らないため、今回の問題が起きました」
「また記録か」
「外交は記録です」
私は王命の紙を机に置いた。
「この命令を業務命令として解釈するなら、私の役職、報酬、責任範囲、署名権限を明記してください。侯爵家への帰還命令として解釈するなら、婚姻法上の根拠を示してください」
リリーヌが小さく言った。
「そこまで、しなければならないのですか」
「はい」
私は彼女を見た。
「人の一生を動かす文書ですから」
彼女は口を閉じた。アルマンは怒りで顔を赤くした。
「外務卿! この女は王命に逆らうつもりです!」
「逆らってはいません」
外務卿が低く言った。アルマンが振り向く。外務卿は王命を手に取り、ゆっくり読み返した。
「レヴィエ殿の指摘は正しい。これは業務命令と家事命令が混同されている。外務院としては、業務上必要な人員を侯爵家の私的空間へ戻す理由を示せない」
「しかし」
「本会議には、レヴィエ殿を文書責任者として出席させる。ヴァルニエ侯爵は、代表補佐として必要箇所を事前に学習せよ」
代表補佐。夫の顔から血の気が引いた。私は驚かなかった。外務卿は記録を好む。状況を正しく記録すれば、肩書もそれに従わせる人だ。
「私は侯爵だぞ」
「侯爵であることと、読めることは別だ」
外務卿の声は淡々としていた。それがかえって重かった。リリーヌがアルマンの袖を握る。彼はそれを振りほどかなかったが、見てもいない。会議室を出たあと、廊下でクロイツ公爵が待っていた。
「勝ったか」
「勝ち負けではありません」
「では、記録は正されたか」
「少しだけ」
公爵は頷いた。
「少しずつでいい。強制されなかったことを、今日は覚えておくべきだ」
その言葉で、私は初めて息を吐いた。王命の赤い封蝋は、まだ机の上に残っている。怖かった。けれど、戻らなかった。その事実だけで、足元が少し確かになった。
◇
リリーヌ・オルフェは、自分が悪人だと思ったことはなかった。彼女は幼い頃から、弱く、美しく、守られるべき娘として扱われてきた。少し咳をすれば母が泣き、疲れたと言えば父が予定を変え、学院では友人たちが重い本を持ってくれた。
だから、アルマンが「君は場を和ませる」と言った時、彼女は本当に役に立てると思った。イザベルは怖かった。いつも静かで、目が紙の向こうまで見ている。夫に冷たく、客にも隙を見せず、難しい言葉で相手を黙らせる。リリーヌには、あの人が妻として幸せに見えなかった。
だから少しだけ、代わってあげてもよいと思った。南書庫に座った時も、罪悪感より誇らしさが大きかった。アルマンは困っている。自分が支えれば、彼は笑ってくれる。難しい文書も、辞書を引けば少しずつ読めるはずだ。しかし外交文書は、彼女の思う手紙とは違った。
同じ単語が、相手によって意味を変える。優しい言い回しが、時には強い拒絶になる。リリーヌが最初に間違えたのは、北方語の「深い遺憾」だった。彼女はそれを「深い感謝」と読んだ。アルマンは怒鳴らなかった。ただ、眉間にしわを寄せ、別の紙を渡した。
「こちらを写せ」
そこには、倉庫の封鎖札に使う短い文があった。王国語の下に、港湾語の対訳が添えられている。リリーヌは港湾語をほとんど知らなかったが、単語を写すだけならできた。彼女は丁寧に写した。その札が、救援品を労務準備物資にしてしまうとは知らなかった。
知らなかったから、責任がないと思いたかった。けれど新聞社へ届いた偽造書簡の騒ぎが起きた日、彼女は自分の書いた小さな単語が紙面の端に載っているのを見た。川町の「霧」。あれは、倉庫で見た言葉だ。可愛い響きだと思い、練習用の紙に何度か書いた。南書庫の机に置いておいたはずだった。
誰がそれを使ったのか。アルマンではない。彼は川町の言葉に興味がない。リリーヌは南書庫の引き出しを開けた。そこには、イザベルの過去の原稿が何束も入っている。夫の名で提出された文書の下書き、夜会の挨拶草稿、大使への返答案。どれもイザベルの筆跡だ。
その上に、見覚えのない手紙が一枚置かれていた。差出人は、宮内局の書記長。内容は短い。六カ国会議において、クロイツ公爵とレヴィエ顧問の信用を落とす必要がある。ヴァルニエ侯爵家は、過去文書を提供することで王家への忠誠を示せ。
リリーヌは息を止めた。王家への忠誠。その言葉は、彼女には重すぎた。アルマンはこの手紙を読んだのだろうか。読んで、過去文書を渡したのだろうか。あるいは、誰かが南書庫へ入り、勝手に持ち出したのか。彼女は手紙を戻そうとして、指を震わせた。
「何をしている」
背後でアルマンの声がした。リリーヌは振り向いた。彼の顔は疲れていた。怒りと焦りで、以前よりずっと老けて見える。
「旦那様、この手紙は」
「見るな」
その短い声で、彼女は答えを知った。
「イザベル様の原稿を、渡されたのですか」
「王家の求めだ」
「でも、偽造書簡に使われました」
「私は偽造しろとは言っていない」
「でも、渡したのですね」
アルマンは唇を引き結んだ。リリーヌは、初めて彼が小さく見えた。彼女はイザベルを怖いと思っていた。けれど今、もっと怖いのは、意味を知らないまま自分が紙に関わっていたことだった。
「わたし、倉庫の札を間違えました」
「そんな些細なことはどうでもいい」
「子どもの毛布が止まったそうです」
「今はそれどころではない!」
アルマンの声が書庫に響いた。リリーヌは一歩下がった。守ってくれる人だと思っていた。だが彼が守っているのは、自分の席だけだったのかもしれない。机の上の手紙が、灯りに照らされている。リリーヌはそれを見つめ、初めて、難しい文書から目をそらしてはいけないのだと思った。
知らなかったでは済まない紙がある。彼女は震える手で、手紙の差出人と日付を覚えた。




