第21話 外務卿の椅子/外務卿の病室
外務卿ベルナールが倒れたという知らせは、朝の会議前に届いた。過労だった。命に別状はないが、少なくとも数日は執務を休む必要がある。六カ国会議の正式署名式と運用開始を控えた外務院にとっては、大きな穴だった。そして、その穴に誰が座るかで、外務院は揺れた。
宮内局は、臨時代理としてヴァルニエ侯爵を推した。監査中の侯爵を、である。理由は、家格と経験。私はその通達を読み、しばらく机を見つめた。
「またですか」
サラが呆れた声を出す。
「またです」
オリーヌは頭を抱えた。
「でも、監査中ですよね」
「監査中でも、家格を理由に押し込むことはできます。短期間なら特に」
「そんなの、めちゃくちゃです」
「めちゃくちゃなことほど、格式ある紙に書かれると通りやすいのです」
私は外務卿の執務室へ向かった。本人は寝室で休んでいるが、秘書官が指示を預かっていた。机の上には、未処理の書類が山になっている。
「代理人の指名状はありますか」
私が尋ねると、秘書官は首を振った。
「外務卿は倒れる直前まで執務されていました。正式な指名はまだ」
「外務院規則では、外務卿不在時の文書運用責任は誰に移りますか」
「通常は次官ですが、今回の条約案件に限れば、文書責任者に一部権限が」
秘書官はそこで止まった。文書責任者。私だ。だが、それは外務卿代理ではない。条約文書の運用責任に限られる。ここを拡大しすぎれば、私もまた権限の境界を曖昧にする側になる。
「では、署名式と運用通達に関する範囲で、私が文書責任を継続します。外交代表権は次官へ。外務卿代理の席は空席として記録してください」
秘書官は驚いた顔をした。
「空席ですか」
「座る資格のない人を座らせるより、空席の方が正確です」
その言葉は、少し強かった。けれど必要だった。午後、宮内局の使者が来た。アルマンも同行している。
「外務卿代理の件だ」
彼は私を見るなり言った。
「王宮の安定のため、私が一時的に務めることになった」
「正式な任命状を拝見します」
「宮内局の内示だ」
「内示では公文書に署名できません」
使者が不快そうに口を開いた。
「レヴィエ顧問。宮内局の意向を軽んじるのですか」
「軽んじていません。記録に残せる形を求めています」
「王宮の格式を理解していない」
「理解しているから、格式だけで署名権を動かしてはいけないと言っています」
空気が張り詰める。そこへ、クロイツ公爵が入ってきた。
「カルヴァレンとしても、監査中の者が外務卿代理として署名式に関与するなら、正式な説明を求める」
使者の顔色が変わった。各国代表が同じ要求を出せば、宮内局は引くしかない。アルマンは私を睨んだ。
「君はどこまで私を排除するつもりだ」
「排除ではありません。権限の境界を確認しているだけです」
「君の言う境界は、いつも私を外に置く」
「読まないまま中にいたからです」
彼は言い返せなかった。外務卿の椅子は、その日、空席のまま記録された。署名式の準備は次官と私の文書責任で進むことになり、宮内局は正式な任命状を出せなかった。夜、外務卿から短い伝言が届いた。椅子を空けておいてくれて助かった。
私はその紙を見て、少し笑った。権力の椅子は、誰かが座ることだけが意味ではない。座らせてはいけない時に空けておくことも、また仕事だった。
◇
外務卿の病室には、薬の匂いと紙の匂いが同じくらい濃くあった。
王宮医師は静養を命じていた。だが、枕元の小机には、六カ国会議の草案、宮内局からの照会、商務局の苦情、そして空白の委任状が重なっている。病人に紙を近づけるなと言いたいところだが、この紙を遠ざければ、別の者が別の意図で持ち去る。
外務卿ベルナールは、顔色の悪いまま私を見た。
「君に一時委任を出す」
「範囲を明記してください」
「病人に注文が多い」
「病人だからこそ、後で争われない形にします」
彼は苦笑し、咳き込んだ。私は水差しを取り、医師が置いた薬湯を確かめる。薬の量を間違えれば命に関わる。権限の量を間違えても、人の生活に関わる。似ていないようで、似ている。委任状の草案には、外務卿職務の一部をレヴィエ顧問へ委ねる、とあった。
私は一部という語に線を引いた。
「一部では広すぎます。六カ国会議関連文書の照合、緊急保護条項に関する大使団照会、宮内局命令との矛盾確認。この三つに限ります」
「もっと広く受けてもよいのだぞ」
「広い権限は、今の私には便利です。でも、便利な形で受け取ると、次に便利に奪われます」
外務卿は黙った。彼は、権限がどれほど簡単に人を変えるかを知っている。だから私の訂正を、嫌がりながらも止めなかった。病室の外では、宮内局の使いが待っていた。扉の向こうから、時折靴音がする。彼らは外務卿が弱っている間に、椅子の位置を変えたいのだろう。
「ヴァルニエ侯爵を臨時補佐へ戻す案が来ている」
外務卿が言った。
「読みました」
「どう思う」
「試験前です。戻せば、会議録の訂正が形だけになります」
「君は元夫に厳しい」
「元夫だから厳しいのではありません。読めない者を読める席へ置くことに厳しくしています」
言ってから、私は少しだけ目を伏せた。完全に私情がないと言えば嘘になる。彼が席へ戻れば、私の過去もまた同じ席へ引き戻される。その恐れはある。
「私情を含む恐れがあるなら、記録へ入れます」
「何をだ」
「ヴァルニエ侯爵の任用判断について、私は元配偶者であるため、最終決裁から外れるべきだと」
外務卿はしばらく私を見て、やがて枕へ背を預けた。
「君は自分の手まで縛るのか」
「縛らなければ、私の判断も疑われます」
「疑う者は、何をしても疑う」
「それでも、疑う理由を減らすことはできます」
彼は小さく笑った。疲れた笑いだったが、そこに諦めはない。
「では、最終決裁は司法局長と私の代理官へ回す。君は資料提出まで」
「承知しました」
委任状を書き直すと、病室の空気が少し澄んだ気がした。権限を狭めたのに、仕事の道筋はかえって見えやすくなる。空白が大きい紙は、人を迷わせる。線を引いた紙は、進む場所を教える。扉の外の使いを呼び入れると、彼は私が病室にいることを見て、露骨に眉を動かした。
「外務卿閣下のご静養中、宮内局として会議運営を補佐する用意がございます」
「補佐範囲を文書で提出してください」
私が言うと、使いは私ではなく外務卿を見た。
「レヴィエ顧問が確認する」
外務卿の声は弱いが、言葉は明瞭だった。
「顧問は一時委任を受けた。範囲はこの書面の通りだ」
使いは委任状を読み、口元を引き締めた。広い権限を想像して攻める準備をしていた者は、狭く明確な権限に対して攻め口を失う。
「ずいぶん限定的ですな」
「だから有効です」
私は答えた。彼は反論を飲み込み、補佐案を提出すると言って退いた。夕方、病室の窓から王都の屋根が見えた。雨上がりの瓦が鈍く光り、遠くで鐘が鳴っている。
「君は疲れないか」
外務卿が尋ねた。
「疲れます」
「それでも続けるのか」
「疲れていることと、辞める理由は同じではありません」
昔の私は、その二つを混同していた。疲れているのに続けた。続けているから、辞めてはいけないと思った。今は違う。辞めるべき場所からは出る。続けるべき仕事は、形を変えて続ける。外務卿は目を閉じた。
「休める時に休め。君まで倒れたら、また私が起きることになる」
「それは困ります」
「なら、命令だ」
私は委任状を封じ、青い印章ではなく外務卿の代理印を押した。自分の印を使うべき文書と、他人の印を預かる文書は違う。そこを間違えないことが、今日の私の仕事だった。病室を出ると、廊下にクロイツ公爵が立っていた。
「待っていたのですか」
「病室へ入る用事はなかった」
「では、なぜ」
「君が出てくる場所を、間違えないためだ」
意味を聞き返す前に、彼は私の手元の封筒を見た。
「歩けるか」
「歩けます」
「では、記録室まで一緒に行こう。途中で誰かがその封筒を借りたいと言うかもしれない」
私は少しだけ笑った。守られるのではない。隣を歩いて、奪われないようにする。病室の委任状は、たった三つの範囲を示す紙だ。けれど、その三つの範囲を守れなければ、会議も、名簿も、子どもたちの契約も揺らぐ。私は封筒を胸の前で持ち直し、廊下の先へ歩き出した。




