第2話 侯爵家を出る荷造り
離縁を口にした直後、人は意外なほど細かなことを考える。外套はどれを着るか。雨の日に使える靴はどこへしまったか。
私名義の通帳は南書庫の右から三番目の引き出しで、外務院から来た任用証の写しは古帝国語辞典の箱に挟んである。サラの雇用契約は、夫の署名ではなく私の署名で作っておいた。マルタの給与も三か月分までは私の口座から出せる。
泣いたり怒鳴ったりする余裕はなかった。怒りは、荷物の順番を間違えさせる。
「奥様、本当に出られるのですか」
南書庫で鞄を開くと、マルタが震える声で尋ねた。彼女は十年近く私に仕えている。私が結婚してこの屋敷に来た日、まだ若い侍女だった。夜会から戻った私が外套を着たまま文書を訳し始めても、茶を淹れ、黙って灯りを足してくれた人だ。
「出ます。あなたは残っても構いません。侯爵家の侍女としての立場があるでしょう」
「わたくしの立場は、奥様の侍女です」
マルタは即座に答えた。その声があまりにはっきりしていて、私は筆箱を持つ手を止めた。
「あなたを巻き込みたくありません」
「巻き込まれたのではありません。今朝の旦那様のお言葉で、わたくしも決めました。奥様が十年働いて作った書庫を、奥様の名も残さず渡す家に、これ以上お仕えする気はございません」
サラは書庫の入口で濡れた髪を拭いていた。大きな目で、私たちを見比べている。
「でも、わたしは……」
「サラも来なさい」
「わたし、奥様の荷物に入るものなんて持ってないです」
「あなたは荷物ではありません」
そう言うと、サラは少しだけ目を丸くした。私は机の上を確認した。公文書の原本は置いていく。あれは外務院と侯爵家の管理に入っている。持ち出せば、私の正当性が最初から崩れる。
持っていくのは、私が自費で買った辞書、私の私信、父から譲られた発音手帳、そして私名義で作成した翻訳練習用の写しだ。写しには実務で使った表現が含まれているが、公印はない。さらに、外務院の受付印がある過去の任用証の控え。私は結婚前、確かに外務院の下級通訳官だった。
アルマンは、その事実を忘れたがる。私自身も、忘れたふりをしてきた。
「イザベル!」
廊下から夫の声が響いた。続いて、リリーヌの細い声も聞こえる。
「旦那様、奥様はきっとお疲れなのですわ。少しお休みになれば、考え直されます」
私は手紙箱に鍵をかけた。南書庫の扉が開く。アルマンは朝食の時より顔を赤くしていた。後ろにはリリーヌと、彼女に付き添う侍女が二人いる。
「何をしている」
「荷造りです」
「子どものような真似をするな。離縁など、君が一人で決められるものではない」
「正式な離縁届は、三年前に作成してあります」
アルマンの表情が固まった。
私は引き出しから封筒を出した。結婚して二年目の冬、彼が外務院の晩餐会にリリーヌを連れていき、私を『家庭のことしか知らぬ妻』と紹介した夜に作ったものだ。使うつもりはなかった。ただ、持っていると呼吸が少し楽だった。
「私の署名と、レヴィエ家側の証人署名があります。あなたの署名欄は空白です。今日、王都公証人へ提出します」
「そんなものは無効だ」
「そうでしょう。あなたが署名しなければ、離縁は成立しません。ですから私はまず別居届と、無償労務停止の通知を出します」
「無償労務?」
彼は、言葉の意味が分からないように繰り返した。
「結婚後に私があなたの名で行った翻訳、交渉草案、謁見用口上、国境紛争記録の整理です。今日以降、私は一切行いません」
「それは妻の務めだ」
「法典には書かれていません」
私がそう言うと、リリーヌが一歩前に出た。
「イザベル様、旦那様をそんなふうに追い詰めるのはおやめください。ご夫婦でしょう? 旦那様は、あなたの才能を信じて頼っていらっしゃるのです」
「なら、名を出せばよかったのです」
「名なんて、そんな……」
「名は、責任です」
リリーヌは言葉を飲んだ。アルマンは私の手から封筒を奪おうとした。マルタが鞄を抱え、サラが反射的に私の前へ出る。小さな背中だった。朝の食堂で震えていたその背中が、今は私を庇おうとしている。
「サラ、下がりなさい」
「でも」
「大丈夫」
私は封筒を上げた。
「アルマン様。ここで破れば、公証人に提出する写しの説明が楽になります」
夫の手が止まった。彼はようやく、自分が扱っている相手を思い出した顔をした。私は、夫の屋敷で妻をしていた女だ。けれど同時に、十年分の外交文書を整えてきた女でもある。
「脅すのか」
「記録するだけです」
廊下に雨音が届いていた。マルタが外套を差し出す。私はそれを羽織り、南書庫を見回した。壁一面の本棚。何度も磨いた机。夜明けまで灯したランプ。積まれた辞書の跡。ここには、私がいた証が残っている。だが、私の名は残らない。
ならば、残す場所を変えるしかない。
「馬車を呼びます」
マルタが言った。
「いいえ。侯爵家の馬車は使いません。辻馬車で行きます」
「雨です」
「雨の日に出ていく女がいてもいいでしょう」
サラが初めて小さく笑った。玄関へ向かう途中、屋敷の使用人たちは壁際に寄って頭を下げた。誰も声をかけなかった。けれど料理番の老女が、包みにしたパンをマルタへ渡してくれた。門番はいつもより長く扉を開けていた。アルマンは階段の上から叫んだ。
「イザベル! 戻ってこなければ、後悔するぞ!」
私は振り返った。雨で薄暗い玄関ホールの奥で、夫は高い場所に立っている。私は外の石段の一段目に立っている。リリーヌは彼の腕に触れていた。この絵を、社交界は私の敗北として話すだろう。侯爵夫人が雨の中、屋敷を追われたと。
構わなかった。
「後悔は、もう終わりました」
私はそう言って、扉の外へ出た。王都の雨は冷たい。サラがくしゃみをし、マルタがパンの包みを守るように抱えた。石畳の向こうに辻馬車が一台、ゆっくりと近づいてくる。屋根を打つ雨音が、初めて私の耳に心地よく聞こえた。




