第1話 妻の名前がない条約
「イザベル。南方連盟との覚書は、今夜中に清書しておいてくれ。署名式では私が読む」
夫のアルマン・ヴァルニエ侯爵は、朝食の席でそう言った。銀の燭台にはまだ火が残っている。窓の外は曇りで、王都の空気は雨の匂いを含んでいた。長卓の上には焼きたてのパン、蜂蜜、卵料理、それから私が徹夜で整えた六通の外交文書が並んでいる。
食卓に書類を置くのは行儀が悪い。そう教わって育った。けれどこの屋敷では、私の食事より先に文書が置かれることがもう珍しくなかった。
「署名式でお読みになるのは、どの版ですか」
「君が昨夜訳したものだ。リュゼール語版だけでいい。ほかの言語は各国の大使が勝手に読む」
「勝手には読みません。北方語版と港湾語版では、第七条の『一時保護』に違う語を使っています。そこを説明しなければ、国境で避難民の扱いが変わります」
アルマンはパンを裂きながら、面倒そうに眉を寄せた。
「また避難民か。君はいつも端の人間の話をするな」
「端ではありません。条約の目的です」
「目的は、王国が平和で寛大だと見せることだ」
彼の隣で、リリーヌ・オルフェ男爵令嬢が小さく笑った。淡い薔薇色のドレス。柔らかな金髪。夫が昨月から屋敷へ通わせている女性だ。病弱だと聞かされていたが、今朝の彼女は私より顔色がよかった。
「イザベル様は、本当にお仕事がお好きなのですね。旦那様のお役に立てるなんて、妻としてお幸せでしょう?」
その言葉に、食卓の端で控えていた侍女マルタが視線を伏せた。お仕事。妻として。私はスプーンを置いた。銀の縁が皿に触れ、冷たい音がした。
「南方連盟は港湾語版を重視します。昨年、港の租税訳語で揉めたからです。北方三国は古帝国語の脚注を確認するはずです。署名式で一言でも説明が足りなければ、覚書は効力を持ちません」
「だから君が書くのだろう」
「私が書いたことは、どこに記録されますか」
アルマンは、初めて顔を上げた。
「どういう意味だ」
「覚書の起草者欄です。昨夜お預かりした草案には、外務院起草、ヴァルニエ侯爵監修とありました。私の名がありません」
「妻の名を外交文書に入れる必要があるか」
リリーヌが困ったように胸元へ手を当てた。
「わたし、難しいことは分かりませんけれど、奥様の名を入れると、旦那様のお立場が悪くなるのでは……。夫婦は一つですもの。旦那様のお名前があれば、それでよろしいのではないかしら」
夫婦は一つ。その便利な言葉で、私の時間も、知識も、声も、何年も夫の名へ折り畳まれてきた。
私は六カ国語を読む。リュゼール語、北方語、港湾語、山岳語、砂州語、古帝国語。父が地方の通訳官だったため、幼い頃から紙と発音の間で育った。結婚前は外務院の下級書記として働き、結婚後は侯爵夫人という肩書で、夫の書斎の奥から国境紛争の文書を訳し続けた。
大使の前に立つのは夫。条約に名を残すのも夫。私は、妻だから当然だと言われながら、朝食の前にも夜会の後にも、誰かの手紙を別の国の言葉へ変えてきた。
「イザベル」
アルマンは、声を低くした。
「署名式にはリリーヌを連れて行く。君は屋敷に残り、各国語版の控えを整えろ」
「私が同席しないのですか」
「君が出ると場が固くなる。大使たちは君を恐れている。リリーヌなら場を和ませられる」
「大使たちが恐れているのは、誤訳です」
「その言い方だ」
彼の指が書類の束を叩いた。
「君は夫を立てるということを知らない。だから社交界で悪く言われる。外交文書を扱えるからといって、侯爵夫人としての務めを忘れるな」
そのとき、扉の外で小さな物音がした。マルタが扉へ向かう。隙間から、濡れた外套を抱えた少女が見えた。サラだ。国境の川町から来た十三歳の子で、昨年の小競り合いで家を失い、私が屋敷の写字手伝いとして雇った。サラは泥のついた靴を気にして、敷物の端で立ち尽くしていた。
「奥様、川町から急ぎの文が……」
「食堂へそんな子を入れるな」
アルマンの声が鋭くなった。サラの肩が震えた。リリーヌは鼻先に手巾を当てる。
「まあ、雨の匂いがしますわ。わたし、少し頭が痛くなってしまいそう」
「サラは文を運んだだけです」
「なら門番に預けさせればいい。屋敷の中に混ざった言葉を持ち込むな。あの訛りは耳障りだ」
混ざった言葉。それは国境で生きる人々の言葉だった。王国語だけでは薬が買えず、北方語だけでは市が開けず、港湾語だけでは税が通らない場所で、子どもたちが身につける生活の言葉だ。私は椅子を引いた。サラから封筒を受け取る。封蝋は乱れている。川町の医師組合の印だ。開くと、北方語と王国語が交互に書かれていた。急いでいる時の文面だ。
冬前の薬馬車が止められた。理由は、第七条の「一時保護」を、南の港では「労働移送」と読んだため。避難した子どもを港倉庫へ送るという通達が出かけている。昨夜、私が脚注で止めた箇所だった。
「アルマン様」
私は文を畳まなかった。
「この脚注を削れば、国境の子どもが港へ送られます」
「今は署名式の話をしている」
「同じ話です」
「違う。君はいつも枝葉で大局を乱す」
アルマンは立ち上がった。椅子の脚が床をこすり、皿が小さく鳴った。
「君は今日中に文書を完成させる。起草者欄に君の名は入れない。署名式に同席もしない。サラは今日限りで屋敷から出す。リリーヌが怯える」
サラは唇を噛んだ。泥で濡れた指が封筒の端を握っている。私は怒ったのだと思う。けれど、その怒りは燃え上がるものではなかった。胸の奥で、長く使い続けた椅子の脚が静かに折れるような感覚だった。疲れたのだ。誰かを守るためだと自分に言い聞かせ、夫の名で書き、夫の名で黙り、夫の名で謝ることに。
「分かりました」
私が言うと、アルマンの顔から力が抜けた。いつものように折れたと思ったのだろう。リリーヌもほっとしたように微笑んだ。私は文書の束をそろえた。六通ある。リュゼール語、北方語、港湾語、山岳語、砂州語、古帝国語。それぞれに私の筆跡で脚注がある。けれど表紙に私の名はない。
私は束を夫の前へ置いた。
「未完成の文書は、お返しします。完成させるためには、起草者の責任が必要です」
「イザベル?」
「妻の座も、お返しします」
食堂が静まり返った。
「あなたの妻はもう辞めます。外交文書も妻の座も、お断りします」
アルマンは、私が外国語を話した時より長く沈黙した。私はサラの肩に外套をかけ、マルタへ視線を向けた。
「荷造りを。私物と、私の名義で作った写しだけを持っていきます」
「奥様」
「いいえ」
私は、もう一度だけ夫を見た。
「今朝から、ただのイザベル・レヴィエです」
雨はまだ降っていた。けれど外へ出る支度を始めるには、遅くなかった。




