第15話 公爵の提案は保護ではない/国境橋の嵐
リリーヌを安全な場所へ移したあと、私はクロイツ公爵と外務院の臨時記録室へ向かった。夜の外務院は昼より広く見える。廊下の灯りは少なく、窓の外には黒い庭が広がっていた。靴音が石床に響くたび、自分たちが大きな建物の中で小さな紙を追っているのだと感じる。
記録室には、宮内局から来た通達の写しが保管されていた。公爵の護衛が扉を見張り、私は机の上に文書を並べた。灰色リボンの切れ端、偽造書簡、宮内局の発議書、王命、侯爵家への文書提供依頼。紙が一列に並ぶと、人の意図が形を持つ。
「宮内局書記長ルベール」
私は名前を読み上げた。
「十年前の救護協定にも関わっている」
公爵が言った。
「妹君の」
「ああ。当時は下級書記だった。南の修道院と南岸の仮収容所を取り違えた文書に、彼の確認印がある」
私は手を止めた。偶然ではない。ルベールは十年前の誤訳を隠すためにも、今回の会議を歪めたいのだ。第七条が厳密に見直されれば、過去の救護協定まで調査対象になる。
「だからエリーズ様の記録を利用しようとしている」
「私怨のある公爵が王国を攻撃している、という筋書きにすれば、十年前の誤訳は政治的な蒸し返しに見える」
「そして私を偽造書簡で信用失墜させる」
「あなたと私を同時に退ければ、曖昧な条文を通しやすい」
公爵の声は平静だった。平静すぎて、胸が痛んだ。
「公爵閣下」
「何だ」
「怒っても、記録は乱れません」
彼は私を見た。
「どういう意味だ」
「あなたは怒りを紙へ移さないために、感情を消しすぎます。けれど怒っていることを認めても、文を歪めなければ問題ありません」
言ってから、自分がかなり踏み込んだことに気づいた。だが、公爵は不快そうにはしなかった。ただ、長く沈黙した。
「私は、怒っている」
やがて彼は言った。
「十年前も、今も。妹の名が、誰かの失態隠しの道具にされることに」
「はい」
「あなたの名が偽造されたことにも、怒っている」
私は視線を落とした。記録室の灯りが、紙の端を淡く照らしている。
「ありがとうございます、でよいのでしょうか」
「礼を言うことではない」
「では、どう返せば」
「返さなくていい」
彼は少しだけ息を吐いた。
「ただ、あなたが危険な場所に立つなら、私は隣にいる」
心臓が一度、強く鳴った。隣。庇護でも、所有でも、妻の座でもない。隣という言葉が、こんなに重いものだとは思わなかった。
「それは、保護の提案ですか」
「違う」
即答だった。
「保護なら、あなたの行動を制限する。隣にいるというのは、あなたが選んだ道を私も歩くということだ」
私は言葉を探した。外交の場なら、返答を整える時間稼ぎの言い回しがいくつもある。しかし今、そういう言葉は使いたくなかった。
「私は、誰かの後ろに戻りたくありません」
「知っている」
「誰かの前に押し出されて、盾にされるのも嫌です」
「それも知っている」
「隣に立つのは、難しいです」
「だから、契約書に距離を書けばいい」
思わず彼を見た。彼は真顔だった。
「あなたは本当に、何でも契約にするのですね」
「言葉にしておけば、後で直せる」
その言い方が彼らしくて、私は笑ってしまった。緊張した夜の記録室で、笑い声は小さく響いた。公爵も、少しだけ口元を緩める。
「では、今は業務上の隣です」
私は言った。
「本会議が終わったら、その距離を改めて確認します」
「分かった」
それ以上は言わなかった。けれど、二人で並んで紙を読み直す時間が、以前より少し違って感じられた。言葉は、人を縛ることもある。だが、正しく置けば、人が逃げられる余白も作る。私はその夜、公爵の隣で、ルベールを追うための証拠表を書き上げた。
◇
本会議の三日前、国境橋で騒動が起きた。北方三国から来る麦馬車が、橋の向こうで足止めされた。理由は、王国側の通行証に古い様式が混ざっていたためだ。薬馬車の時と似ているが、今回は規模が違う。麦馬車は二十七台。止まれば、救護院だけでなく川町全体の冬支度が遅れる。
しかも空は嵐の前だった。私はクロイツ公爵、オリーヌ、サラとともに橋へ向かった。風が強く、馬車の窓が何度も揺れる。サラは膝に手帳を抱え、現場用通達の写しを守っていた。
「また紙が足りないんですか」
「紙は足りています。足りないのは、紙を信じる仕組みです」
橋に着くと、雨が横から吹きつけてきた。王国兵、北方の御者、港湾連盟の荷受け人、川町の住人が狭い橋詰めに集まり、怒鳴り合っている。言葉が重なり、意味が崩れていた。嵐の時、人は短い言葉しか聞かない。私は外套の襟を押さえ、橋の中央へ向かった。
「静かにしてください!」
王国語では足りない。同じ言葉を北方語で、港湾語で、川町の混ざった言葉で繰り返す。サラが隣で、川町の言葉を補った。人々の声が少しずつ下がる。北方の御者頭が私に詰め寄った。
「通行証はある。なぜ止める」
王国側の隊長が反論する。
「様式番号が違う。偽造の可能性がある」
港湾の荷受け人が叫ぶ。
「雨で麦が湿れば、誰が払う!」
それぞれ正しい。それぞれ正しいから、進まない。私は通行証を受け取り、番号を確認した。確かに古い様式だ。しかし紙に押された印は本物。しかも番号の違いは、宮内局が先週出した様式変更によるものだった。外務院への通知が遅れている。
誰かがわざと現場を混乱させている可能性が高い。
「この通行証は有効です」
私は言った。王国隊長が渋る。
「しかし、様式が」
「様式変更通知が現場に届いていないだけです。旧様式の有効期間は本会議終了まで残っています」
「その証明は」
私は青い印章を出した。
「臨時外交顧問イザベル・レヴィエとして、外務院へ責任を持ちます。さらに、カルヴァレン公爵閣下が関係国代表として確認します」
クロイツ公爵が雨の中で一歩前へ出た。
「確認する」
たった一言だった。だが、王国隊長の背筋が伸びた。北方の御者頭はまだ不満そうだったが、サラが川町の言葉で何かを言うと、眉を下げた。
「何と言ったの?」
私が尋ねると、サラは少し照れた。
「麦が濡れたら子どもが怒るって」
御者頭は大きく笑い、部下に合図した。馬車が動き出す。嵐の橋を、一台ずつ麦馬車が渡る。車輪が濡れた板をきしませ、馬の息が白く見えた。王国兵が左右を支え、港湾の荷受け人が荷台の覆いを直す。誰か一人の勝利ではない。
全員が少しずつ譲った結果、麦が動く。最後の馬車が橋を渡り終えた時、雨はさらに強くなっていた。サラがくしゃみをし、オリーヌが慌てて外套をかける。私は濡れた通行証を革袋へ入れた。
「これは証拠になります。様式変更の通知元を調べましょう」
「ルベールか」
公爵が言った。
「可能性が高いです」
彼は私の手元を見た。
「手が冷えている」
「雨ですから」
「戻ったら温める」
言い方があまりに自然で、私は返事に詰まった。サラがまた「わ」と小さく言い、オリーヌが必死に空を見上げる。公爵は、自分の言葉の響きに気づいたのか、少しだけ視線を外した。
「業務上、風邪を引かれると困る」
「承知しました」
私は雨で濡れた髪を耳にかけた。嵐の橋の上でも、言葉に詰まることがある。それでも麦馬車は進んだ。今は、それでよかった。




