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あなたの妻はもう辞めます、外交文書も妻の座もお断りして侯爵家を出ます  作者: 小竹X


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第14話 六カ国会議の招待状/書庫から消えた原本

本会議の招待状を作る作業は、思っていたより難しかった。招待状は礼儀の紙だ。しかし礼儀の紙ほど、政治が染み込む。誰の名を先に置くか。誰の称号をどこまで書くか。会議の目的を「修正」と呼ぶか「確認」と呼ぶか。王国側の失態を認めすぎれば外務卿の顔が潰れ、認めなければ各国が席に着かない。


 私はオリーヌと二人で、招待状の草案を五種類作った。サラは横で、封筒に宛先を書く練習をしている。川町の訛りのある発音で国名を読み上げながら、一文字ずつ丁寧に書いていた。


「カルヴァレン公国、クロイツ公爵閣下」


 彼女が読み上げた時、オリーヌが私をちらりと見た。


「何ですか」


「いいえ」


「仕事中です」


「はい、仕事中です」


 オリーヌは真顔で頷いたが、目が笑っている。私は羽根ペンを置いた。


「公爵閣下は関係国の代表です。宛名が必要なのは当然です」


「もちろんです」


「その反応は、外交文書の精度を落とします」


「申し訳ありません」


 サラが笑いを堪えきれず、封筒に小さなインクの点を落とした。私はその封筒を練習用に回し、新しいものを渡した。以前なら、こういう空気を許さなかったかもしれない。急ぎの仕事に笑いを混ぜる余裕がなかった。今も忙しい。けれど、人が呼吸できる場所の方が、誤字は減る。


 昼過ぎ、外務卿から最終確認が入った。


「招待状の署名者は、王国外務卿ベルナール。文書責任者として、あなたの名を下部に記載する」


「補助ではなく、責任者としてですね」


「何度も確認するな。記録に入れた」


 外務卿は少し不機嫌そうに言った。だが、机の上には確かに新しい様式が置かれていた。作成者欄、校閲者欄、承認者欄。それぞれの名を書く場所がある。小さな変化だ。けれど、小さな欄があるだけで、誰かの仕事は消えにくくなる。


「ありがとうございます」


「礼は本会議が終わってからにしろ」


 外務卿はそう言って、別の紙を差し出した。


「それと、宮内局が本会議の席次に口を出してきた。ヴァルニエ侯爵を王国代表正面に置けと」


「理由は」


「侯爵位と家格」


「文書理解と発言権は」


「書かれていない」


 私は深く息を吸った。席次は絵になる。絵は噂を作る。アルマンが中央に座れば、また私の仕事は彼の補助に見える。


「席次案を作ります」


「揉めるぞ」


「揉めない席次などありません」


 夕方までに、私は席次案を三つ作った。一つは王国の家格を重んじる案。二つ目は各国の代表権を重んじる案。三つ目は議題別に発言者を入れ替える案。外務卿は三つ目を見て、眉を上げた。


「面倒だな」


「面倒ですが、正確です。保護条項では文書責任者が中央、通商条項では外務卿、軍事通行では防衛代表。侯爵位は代表補佐席に記録します」


「宮内局が嫌がる」


「各国は納得します」


 外務卿は長く黙ったあと、席次案に承認印を押した。


「本当に君を敵に回したくない」


「私は敵ではありません」


「味方だと、もっと面倒かもしれん」


 それは褒め言葉として受け取ることにした。招待状が仕上がる頃、クロイツ公爵が公文書館へ来た。私は彼の宛名入り封筒を手渡した。


「正式な招待状です」


「受け取ろう」


 彼は封筒を見て、少し目を留めた。


「この宛名はサラの字か」


「練習中ですが、正式用に採用しました。読みやすいので」


 サラが背筋を伸ばした。公爵は彼女へ向き直り、礼をした。


「丁寧な宛名をありがとう」


 サラは耳まで赤くなった。


「い、いえ、字だけです」


「字は、最初に相手を迎える言葉だ」


 その一言で、サラの顔が輝いた。私はその横顔を見て、胸の奥が温かくなった。招待状は、ただ人を呼ぶ紙ではない。そこに名を正しく書くことから、会議は始まっている。


 ◇


南書庫に残された原本が消えた、という知らせは夜に届いた。裁判所へ提出する追加証拠として、外務院が侯爵家へ保管文書の確認を求めた。その直後、灰色リボンで綴じられていた下書き束の一部が見つからなくなったという。知らせを持ってきたのは、リリーヌだった。


 彼女は翻訳組合の小部屋の入口に立ち、外套の裾を握っていた。以前のような強い香水の匂いはしない。雨に濡れた髪が頬に貼りついている。


「イザベル様」


「こんな時間に一人で来たのですか」


「侍女には、買い物だと言って出ました」


 マルタが眉をひそめた。サラは警戒して、私の隣に立った。リリーヌは小さな包みを差し出した。


「これを、持ってきました」


 中には、灰色リボンの切れ端が入っていた。私が侯爵家で使っていたものと同じだ。端にG-42の番号がある。裁判所で提出予定だった束の一部である。


「どこで見つけましたか」


「南書庫の暖炉の中です。燃やそうとした跡がありました。でも、全部は燃えていませんでした」


 私はリボンを受け取った。焦げた匂いがする。胸の奥が冷えた。文書を燃やす人間は、そこに何が書かれているか知っている。知らない紙は捨てる。証拠になる紙だけを燃やす。


「アルマン様が?」


 リリーヌは首を振った。


「旦那様は今夜、宮内局の方と会っていました。書庫へ入ったのは、宮内局の使いの人です。名前は、たぶんルベール。書記長の側近だと聞きました」


 偽造書簡の差出人。宮内局書記長。糸がつながり始めた。


「なぜ、これを私に」


 私が尋ねると、リリーヌはしばらく黙った。


「わたし、イザベル様のことが嫌いでした」


 正直な言葉だった。


「怖くて、冷たくて、旦那様を困らせている人だと思っていました。わたしなら、もっと優しくできると思っていました」


「そうですか」


「でも、わたしは何も読めませんでした。読めないのに、優しいふりで紙に関わりました。そのせいで、毛布が止まって、偽造書簡にも利用されました」


 彼女の声が震えた。


「知らないままでいたら、楽でした。でも、もう見てしまいました」


 私はリボンの切れ端を見た。許すには早い。彼女が私の苦痛を軽く見たことも、南書庫を自分の部屋のように扱ったことも、消えない。けれど今、この証拠は必要だった。


「ありがとうございます」


 私が言うと、リリーヌは目を伏せた。


「感謝される資格はありません」


「資格ではなく、行為に対する言葉です」


 彼女は泣きそうな顔で頷いた。その時、扉の外で靴音がした。マルタが素早くランプを消す。サラがリリーヌを部屋の奥へ引いた。私はリボンを手帳へ挟み、机の上の書類を閉じる。ノックは三回。低い声がした。


「レヴィエ顧問。クロイツです」


 緊張がほどけた。扉を開けると、公爵が護衛を一人連れて立っていた。


「宮内局の側近が、侯爵家から外務院の裏門へ入った。あなたのところにも動きがあると思った」


 彼は室内を見て、リリーヌに気づいた。リリーヌは怯えたように背筋を伸ばす。公爵は何も責めなかった。


「証拠を持ってきたのか」


「はい」


 彼女が答える。


「なら、今夜のあなたは重要な証人だ。護衛を付ける」


 リリーヌは驚いて公爵を見た。


「わたしに?」


「証人を失うと、文書が黙る」


 公爵らしい言い方だった。私はリボンの切れ端を取り出し、公爵へ見せた。


「G-42。去年の港湾租税協定の下書きです。偽造書簡に使われた筆跡資料の一つかもしれません」


「宮内局書記長が関与しているなら、本会議で仕掛けてくる」


「目的は、会議を潰すことではなく、条約の中身を歪めることかもしれません」


「避難民を労働力として扱う余地を残すためか」


 私は頷いた。雨の夜、古い小部屋に、敵味方の線が少し変わっていた。リリーヌはまだ味方と呼べるほど近くない。けれど、読めない紙から目をそらす人ではなくなろうとしている。それだけでも、今夜は大きな変化だった。

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