第八章
小気味のよい音が、道場の中を響き渡っている。
不機嫌を絵に描いたような勇――とはいえ、その顔は面の中に隠されてしまっているために、勇一がどのような表情を浮かべているかは周囲からは分からないのだが―は、目の前に立つ相手を見据えていた。
竹刀の先端同士がかすかにぶつかるが、相手は明らかに萎縮しているのか、どう見ても腰が引けている状態で勇一の出方をうかがっている。
苛つきが増してきた勇一が、一気に試合にけりをつけるためにダン、と力強い音とともに相手との距離を縮め、裂帛の気合い声をあげて鮮やかに銅を決めた。
「あ……」
呆然とした相手が、慌てて開始位置に戻った勇一と同様に並ぶと、軽く頭を下げて壁際へと歩き出す。
「次は誰だ!」
怒りの発散というわけではないだろうが、勇一の声には不機嫌な感情が十分に含まれている。
それに恐れを抱かない人間は、この剣道部の中でも少数しかいないことは間違いないだろう。
その一番手であるのは、この場合、一人しかいない。
「はい!僕がやります!」
元気よく勇一の言葉に返事をしたのは、もちろん忍だ。
ニコニコと満面の笑みを浮かべて手早く面を付けた忍は、軽い足取りで勇一の前に立つと、勇一は小さく嘆息してそんな忍を見つめた。
「ったく……」
呆れたのは、この場合仕方ないだろう。どうやって勇一を道場にひっぱてこようかと考えていたのが丸わかりの状態で、勢いよく前を歩きながら勇一をそのままここへと導いたのだ。
むろん、それを喜んだのは、部長以下の部員達ではあったが……。
中央に二人は立つと、軽く頭を下げて竹刀の切っ先を相手方に向けた。
ピン、と張り詰めた空気が流れる。
先程まで相手にしていた者と違い、忍は勇一の気配に押されることなくただただ勇一の隙をうかがっていた。
瞬間、勇一の心に悪戯心が起こる。
すっと息を吸い込み、勇一は先程まで纏っていた気配を消し、桁違いの闘気を身体中から放った。
忍が、一瞬だが驚いたように身体を固くするが、すぐにそれを押さえつけると、負けじとその身から強い力を身に纏う。
―へぇ……。
常人と比べものにならぬほどのに高められたそれに、勇一は唇の端を軽く持ち上げて不敵な笑みを浮かべた。
普段からは考えられないほどの鋭い空気だが、当事者達はどちらかというと力量を試すために楽しむように口の端に笑みを浮かべていた。
まるで、戦場に出たような高揚感は勇一だけではないのだろう。
忍もまた、勇一と同じような好戦的な雰囲気を醸し出しており、見る者全てに圧倒的なまでの実力差を見せつけていた、
「はっ!」
鋭い気合いとともに、忍が勇一との距離を縮める。
一合、二合と、激しく竹刀が打ち付けられ、勇一は防戦の構えを取るが、隙を見つければすぐにもそこに向かって竹刀を繰り出していく。
一進一退とは、このことを言うのだろうか。
そんな事を考えた勇一だが、次第にその瞳が細くなる。
忍が大上段に竹刀を構えた時だ。その好機を逃がさず、勇一は鮮やかに忍の小手を凪つけた。
おぉ、と道場内から声が上がる。
竹刀を落としてしまっただけではなく、勇一の力に押されて尻餅をついた忍が、面の奥で瞬きをくり返していたが、自分が負けたということを認識するや、荒い息のまま悔しさで口元を引き締めた。
「平気か?」
「はい」
にがい笑みを顔に貼り付け、忍は差し出された勇一の手を握り返して立ち上がる。
掌の力強さに、勇一は僅かではあるが驚きが身のうちに走った。
「強くなったな」
「そんな事はありませんよ。先輩みたいに実力のある人とやると、自分はまだまだだって感じますから」
「謙遜だな、そりゃ」
「そんな事はありません」
きっぱりと断言した忍の姿に、勇一は小さな笑みをこぼす。
言葉に裏がない純粋さは、忍の長所といってもよいだろう。だが、面と向かってそう言われてしまうと、そこはかとないくすぐったさが産まれてしまう。壁際へと歩き出したのを見て、慌てて場を譲った他の部員達は恐々と勇一を見やる。
部員達の行動にむっとはしたが、十分すぎるほどに広くなった場に正座をし、勇一は面を取り外すと、唇から深々と息を吐き出した。
今までの緊迫した空気が解放され、道場内のそこここで部員達が己の鍛錬を行うべく動き出す。
それを眺めた後に、勇一は立ち上がって自分の荷物に近づき、そこからタオルを取り出すとボスリと顔面そこに埋める。汗を拭きつつ一息入れようとした時だ。ふっと背筋に冷たいものが流れ、勇一はびくりと硬直する。
―何だ?
冷たく、射るような視線。
誰かが、自分の一挙手一投足を観察している。
それを理解した瞬間、勇一は周囲を注意深く探るように目線をあちこちに向けた。
「先輩?どうしたんです?」
勇一の行動に、忍が不思議そうに声をかけてくるまで、勇一の表情は硬く険しいものが浮かんでいた。
はっとしたように勇一は忍に視線を向けると、何でも無いというために頭を振ってそれを追い払う。
「なんでもねぇ」
そう答えはしたが、それで忍が納得したわけではないのだろう。何かを言いたげに口をへの字に曲げた忍だが、部員の一人に呼ばれて慌ててそちらへと足早に歩を進めた。
まさか勇一が狙われているとは思いもよらないことだろうし、そんな荒唐無稽な話しを信じろと言ったところで、忍が困ることは確定事項だ。
「誰だったんだ、いったい……」
勇一がそう呟き、道場口へと視線を向ける。
先程の視線から比べるべくもないが、一人の少女がじっと道場内を見つめており、たった一人を探すようにあちこちに視線を向けてていた。
その視線が、勇一とかち合う。
急いで頭を下げたのは、成瀬真由美だ。慌てたようにそこから離れる姿を見送り、勇一はふと先程の視線を事を思い出す。
あれは、真由美がいた方向から流れてきたものだ。
だが、あの少女には特別な『神力』があるわけではない。ただの人間。それは間違いの無いことだ。
「ったく、なんなんだよ」
そう呟いた勇一は、自分の首筋を撫で付ける。
自分達の知らないところで、何かが動いている。
まるで真綿で首を絞めるかのように、ゆっくりと、ゆっくりと……。