第二話 だって、名前が書いてなかったんですもの
五日目の夜、わたくしは彼の部屋に忍び込んで、こう言った。
「お名前、いつか教えてくださいね」
彼は目を丸くして、それから、静かな顔で笑った。
「……なぜ、今ではなく、いつか、と?」
「今は言えないのでしょう?だったら、言えるようになったときで構いません。名前は、返せるときに返してくだされば」
「では、これを預かっていてくれ。名を返しに来る日まで」
そう言うと、懐から首飾りを出した。
受け取った首飾りは、雪の粒みたいに冷たかった。
「重い物だぞ。持っていれば、いつか厄介ごとが来る」
「では、そのときはあなたが助けに来てくださいませ」
わたくしは笑った。
十一歳の、何も知らない笑い方。
「名前を返しに来る、と約束なさったでしょう?約束のある人は、必ず戻ってくるものですわ。母がそう言っていました」
彼はしばらく何も言わずに、それからそっと手を伸ばし、わたくしの髪に触れた。
触れて、すぐに引っ込めた。
まるで、触れてはいけない物に触れてしまったというように。
「……ならば、必ず戻る」
彼は翌朝、いなくなっていた。
首飾りの内側には、銘が刻まれていた。
わたくしにだけ読めるほど深い、金色の銘。
そこにあったのは、聞いたこともない名だった。
――ジークヴァルト。
誰の名なのか、六年間、わたくしは知らなかった。
その首飾りが、化粧台から消えたのは、建国祭の三日前の夜。
わたくしが青ざめて部屋を飛び出すと、廊下の向こうで振り返ったミレーユの細い首に、青い石が七つ並んでいた。
「あら、お姉様。似合いますでしょう?」
「……ミレーユ、それだけは――」
「だって名前が書いてなかったんですもの」
ミレーユは鏡の前でくるりと回った。
「それに、お姉様ったら、こんな綺麗な物を箱の底に隠して。宝石は着けてこそですわ。ねえ、これで建国祭に出たら、きっと素敵。ルドガー様も惚れ直してくださるわ」
心臓が、ひとつ鈍く鳴った。
「……ルドガー様?なぜ、ルドガー様の名が出てくるの?」
「あら、聞いていらっしゃらないの?」
ミレーユは唇の端を上げた。
愛らしい顔が、そのときだけほんの少し歪んだ。
「ルドガー様、わたくしと婚約なさるんですって」
ハイム伯爵家嫡男ルドガー・フォン・ハイムは、わたくしの婚約者だった。
両家の当主が決めた縁談で、十三の頃からの付き合いだ。
特別に胸が高鳴ったことはないけれど、穏やかな人だと思っていた。
年に数度、庭でお茶を飲み、天気と馬の話をした。
それだけの関係でも、六年もあれば情のようなものは生まれる。
その夜、ルドガーは屋敷の応接間に来て、わたくしの前に立った。
ミレーユは彼の腕にぶら下がるようにして立っていた。
首には、星霜の首飾りがあった。
「テレーゼ嬢。……申し訳ないが、婚約は白紙にさせていただきたい」
わたくしは膝の上で手を組んだ。
「理由を伺っても?」
「君は、冷たい」
ルドガーは目を逸らした。
「六年、君は一度も俺に何かをねだったことがない。笑ったことも、怒ったこともない。……ミレーユ嬢は違う。彼女は俺を必要としてくれる」
ミレーユが、うっとりと彼を見上げた。
「お姉様、ごめんなさいね。でも、お姉様ってば、ルドガー様のことちっとも大事になさらないんですもの。いらないんだと思って」
そして、いつもの台詞。
「だって、名前が書いてなかったんですもの」
父は黙っていた。
継母は嬉しそうに扇を鳴らした。
わたくしは、そのとき初めて笑ってしまった。
声を上げてではなく、ただふっと息が抜けた。
だって――それだけは、この子の言うとおりだったからだ。
この国で、婚約は書面だけでは完成しない。
互いの真名を口にし、互いの持ち物に相手の銘を刻み合う。
「銘を交わす」という。
それを済ませて初めて、婚約は神の前でも、王家の記録でも確かなものになる。
ルドガーとわたくしは、六年それをしていなかった。
彼が「まだ早い」と言い続けたからだ。
わたくしはそれを、慎重な人なのだと思っていた。
違った。
彼は、いつでも降りられる場所に立っていたかっただけ。
ミレーユは正しかったのだ。
あの人には、確かに何も書いていなかった。
「ええ、そうね、ミレーユ。あの方には、何も書いていなかったわ」
そう頷くと、ミレーユは勝ち誇った顔をした。
わたくしの言葉の意味は、たぶん、これっぽっちも伝わっていない。
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