第一話 だって名前が書いてなかったんですもの
十七歳の誕生日のために三月かけて仕立てたドレスは、朝食の席で妹が着ていた。
薄い月色の絹に、銀糸で星屑を散らした一着。
裾の縫い取りだけで職人が二十日かかったと聞いている。
わたくしは針子が最後の一針を刺すところまで立ち会って、鏡の前で袖を通す日を指折り数えていた。
それを、義妹のミレーユが着て、テーブルでパンにジャムを塗っている。
「……ミレーユ。それ、わたくしのドレスよ」
ミレーユは顔を上げた。蜂蜜色の巻き毛、まんまるの菫色の瞳。
誰が見ても愛らしい十五歳の少女は、心底きょとんとした顔で首を傾げた。
「あら、お姉様。だって名前が書いてなかったんですもの」
わたくしは口を開いて、閉じた。
この台詞を聞くのは、これで何度目だろう。
数えるのはとうに諦めていた。
十四歳のとき、亡くなった母の形見の櫛が消えた。
ミレーユの髪に挿さっていた。
――だって名前が書いてなかったんですもの。
十五歳のとき、王都から取り寄せた靴が消えた。
ミレーユの足に履かれ、雨の日に泥だらけで捨てられていた。
――だって名前が書いてなかったんですもの。
十六歳のとき、庭の東屋で読んでいた詩集が消えた。
ミレーユが暖炉にくべていた。退屈だったから。
――だって名前が書いてなかったんですもの。
そのたびに、父は困ったように笑う。
「テレーゼ、お前は姉なのだから」
継母のマルガレーテは、扇の陰で目を細めた。
「まあまあ、姉妹で仲良く分け合えばよろしいのよ。テレーゼさんは、お母様がいらっしゃらない分、心が広くていらっしゃるものね」
わたくしは十二歳で母を亡くし、その半年後にはこの二人が屋敷に入ってきた。
それからずっと、この家では「テレーゼが我慢する」ことが空気のように当たり前だった。
だから、わたくしは今朝も言わなかった。
そのドレスの内側、左の腰の裏に、わたくしの銘が刻んであるということを。
銘――この国の貴族が、自分の物に刻む名の紋だ。
インクでも刺繍でもない。
魔力を指先に通し、布や金属や革の表面をなぞって、真名の一画を焼きつける。
銘は普段は見えない。
魔力を持つ者が、その場所を意識して近くから視れば、水面に射す光のように淡く浮かび上がる。
貴族の子は十を過ぎる頃から、自分の持ち物に一つずつ銘を入れていく。
それは所有の証であり、同時に「わたしはここにいる」という、ささやかな宣言でもあった。
とはいえ、他人のドレスの裏地や靴の中敷きまで覗き込み、誰の銘が入っているのか確かめる者はいない。
姉妹が互いの物を貸し借りしていても不思議ではないし、身につけているというだけで銘盗みになるわけでもない。
だからミレーユは、これまで何度もわたくしの物を身につけ、何食わぬ顔で夜会へ出ていた。
わたくしの銘は、母から受け継いだ魔力のおかげで、同世代の誰よりも濃く深く刻まれる。
「テレーゼお嬢様の銘は、灯りに透かした金貨のようだ」
侍女たちがそう言うのを聞いたことがある。
ミレーユには、それが見えない。
継母マルガレーテは、もともと商家の出だ。母親譲りで、ミレーユの魔力はほとんど無いに等しい。
彼女の目に、わたくしのドレスは「名前の書いていない、綺麗な布」でしかない。
最初の頃は、教えようとした……ここに、こう刻んであるのよ、と。
けれども、ミレーユは笑って言った。
「見えないものは、無いのと同じですわ」
わたくしはその日から、何も言わなくなった。
言葉が届かない相手に言葉を費やすのは、雪に手紙を書くようなものだと知ったからだ。
最後に残っていたのは、首飾りのみ。
星霜の首飾り、とわたくしは勝手に呼んでいた。
細い白金の鎖に、青みを帯びた石が七つ。
夜に見ると、石の奥で霜が降りるように光が動く。
どこの宝石商にも似たものはなかった。
当然だ。あれは、わたくしが六年前の冬に、名前も知らない男から預かった物だった。
十一歳の冬。
まだ母が生きていた頃、わたくしは領地の森へ、母の薬草を摘みに行った。
冷え込んだ朝で、雪が膝まであった。
その雪の中に、男が倒れていた。
黒い髪に、雪と血がこびりついていた。
年の頃は十七、八。身につけている物は上等なのに、外套は裂け、脇腹が赤く濡れていた。
近くには何かの獣の、大きすぎる牙が落ちていた。
わたくしは悲鳴を上げなかった。
上げる代わりに自分の外套を脱いで彼にかけ、屋敷までの道を泣きながら大人を呼びに走った。
男は三日眠って、四日目に目を覚ましたけれど、彼は名乗らなかった。
父が何度尋ねても、ただ「言えぬのです」と繰り返すばかり。
訳ありなのは誰の目にも明らかで、父は深く追及しなかった。
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