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倒れないでくれ! ただの医学生の俺、放課後だけ地獄です  作者: 東雲 明
最終章 闘病の日々

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最終回〜そして次世代へ〜

それから十年が過ぎた。


 俺は三十三歳になり、エレナは二十六歳になり、ヒカリは十一歳になった。


 十年前、守れなかった命の重さに潰れそうになりながら、それでも「倒れないでくれ」と願われた日々があった。あの声は、今も胸の奥で静かに鳴り続けている。だからこそ、俺は医師になった。


 聖ルカ病院での長いインターンを終え、医師免許を取得したとき、白い証書の手触りは意外なほど軽かった。だが、そこに至るまでに流した汗や涙の重みは、指先の奥に確かに残っている。


 残された支援金を元手に、俺は小さな心療内科を開業した。


 無理はしないと決めていた。


 回診日は月曜、水曜、金曜の週三回。必ず一時間の休憩を取る。夜は診ない。倒れたら意味がない。あの言葉を、今度は自分に向けて守ると決めたのだ。


 医院は、街道から少し外れた、田んぼに囲まれた静かな土地に建てた。春は風に乗って土と若葉の匂いが漂い、夏は蝉の声が壁を震わせる。秋は黄金色の稲穂が波打ち、冬は吐く息が白く凍る。


 辺境と呼ばれるこの土地で、心の病を専門にする医者など、必要とされないかもしれないと最初は思っていた。


 だが、違った。


 開業前から問い合わせが殺到した。電話のベルは朝から鳴り止まず、受話器越しに震える声、泣き出しそうな声、怒りを押し殺した声が次々に流れ込んでくる。


 「先生、診てもらえますか」

 「どこへ行っても分からないって言われて」

 「もう限界なんです」


 エレナが、受付で懸命に対応していた。彼女はカルテの整理をしながら、電話を肩と頬で挟み、柔らかい声で一人一人に言葉を返す。


 「大丈夫です。先生が診ますから」

 「今はいっぱいですが、必ずお時間をお取りします」


 その声は、昔よりもずっと落ち着いていた。母になり、十年を重ねた女性の強さがそこにはあった。


 開業から十日後。


 小さな医院の待合室は、朝から人で溢れていた。壁にかけた時計の秒針が、やけに速く感じる。消毒液の匂いと、かすかな緊張の汗の匂いが混じり合う。


 俺は一人で診察室を回していた。


 机の上には積み重なったカルテ。ペンを走らせる音。患者の呼吸の乱れ。涙を堪える唇の震え。


 「眠れないんです」

 「胸が苦しくて」

 「何もしたくない」


 言葉にならない言葉を拾い上げ、丁寧に形にしていく。相槌を打ち、沈黙を待ち、呼吸を合わせる。


 気づけば、窓の外の光は傾き始めていた。


 こめかみがじわりと熱い。視界の端が揺れる。軽いめまいが波のように押し寄せる。


 ――休め。


 頭の奥で、十年前の自分の声がした。


 だが、目の前にはまだ患者がいる。


 そのときだった。


 バンッ、と勢いよく診察室のドアが開いた。


 「ちょっとパパ! また無理してるでしょ!」


 甲高く、よく通る声。


 振り向くと、そこには小さな白衣を着たヒカリが立っていた。首には少し大きすぎる聴診器。両腰に手を当て、眉間にしわを寄せている。


 普通の十一歳より小柄だ。だが、その目はまっすぐで、妙に威厳がある。


 「ヒカリ……今、診察中だぞ」


 俺が弱々しく言うと、彼女はずかずかと入ってきて、俺の顔を覗き込んだ。


 「顔色、最悪。はい、休憩。エレナママも言ってたでしょ、無理しないって」


 そう言うや否や、勝手に診察室の外へ出て行き、「キサラギ先生、体調不良のため休診」と書かれた札をペタリと貼った。


 待合室からざわめきが起こる。


 だが、すぐにヒカリの声が響いた。


 「次の方どうぞー!」


 俺は慌てて立ち上がろうとしたが、膝がわずかに震えた。エレナがそっと肩を押さえる。


 「今日はここまで。約束でしょ」


 ヒカリは、なぜか堂々と診察室に入り、患者の前にちょこんと座った。


 「今日はどんな気持ちですか?」


 その声は、驚くほど柔らかい。


 戸惑っていた患者も、いつの間にか話し始めている。ヒカリは頷き、時に真剣に眉を寄せ、時に笑い、十人ほど残っていた患者を、まるで昔から医者だったかのように捌いていく。


 もちろん、診断も処方も俺が後から確認する。だが、彼女の聞く力は本物だった。


 その姿を見ながら、胸の奥が温かくなる。


 嬉しい。


 だが、少し複雑だ。


 同じ道を歩ませたくはなかった。重さも、孤独も、痛みも知っている。


 それでも、ヒカリは確かに俺の血を引いている。人の心の声に、放っておけない性分。


 診察が終わった後、ヒカリは聴診器を外し、得意げに笑った。


 「パパ、ちゃんと休んでね。倒れたら、わたし怒るから」


 その言葉に、喉の奥が熱くなった。


 「……ああ。ありがとう、先生」


 そのとき、再び診察室のドアが勢いよく開いた。


 「おーいハヤト! 新しい医院でてんてこ舞いだって聞いたぞ!」


 懐かしい声。


 振り向くと、エマとテオが転がり込むように入ってきた。


 「お前ら……なんでここに!」


 ルミエールアカデミーで教壇に立っているはずの二人が、息を弾ませて立っている。


 エマは昔と変わらぬ快活な笑顔を浮かべ、テオは少し大人びた落ち着きを纏っていた。


 「だってさー! ハヤトがいないと、なんか気の抜けた炭酸みたいなんだもん」


 エマが肩を組んでくる。


 「結局、わたしたち、切っても切れない縁みたいね」


 テオが穏やかに笑う。


 久しぶりに交わす抱擁。懐かしい体温。笑い声。


 医院の白い壁に、その声が弾ける。


 胸の奥に溜まっていた何かが、すっと軽くなる。


 それからしばらくして。


 ヒカリのもとに、ルミエールアカデミー医療専門学校初等部から入学許可証が届いた。


 封筒を開く手が震える。厚手の紙に刻まれた文字。


 あの日、俺が手にしたのと同じ重み。


 俺は十年前と同じように、学用品を買い揃えにルミナス市へ向かった。


 駅のホームは、新入生とその家族で溢れていた。緊張と期待が混ざった空気。新しい鞄の革の匂い。焼きたてのパンの香り。


 ルミエール特急の車体が、陽光を反射して眩しい。


 「……あの孕ませ屋の娘?」

 「よく入学できたね」


 小さな囁きが耳に入る。


 ヒカリはその声に、きっと睨み返した。


 だが、泣かない。背筋を伸ばしている。


 俺はしゃがみ、ヒカリと目線を合わせた。


 十一歳の瞳は、まっすぐ未来を見ている。


 「絶対に無理しないこと。無理だと分かったら、すぐ休むこと」


 それは、患者に言い続けてきた言葉であり、自分に言い聞かせてきた言葉でもある。


 ヒカリは大きく頷いた。


 「うん、パパ大好き」


 その一言が、胸を満たす。


 やがて発車のベルが鳴る。金属の軋む音。蒸気の吐息。


 ヒカリは軽やかに乗り込み、窓から顔を出した。


 「パパ行ってきまーす!」


 白い車体がゆっくりと動き出す。


 風が頬を撫でる。遠ざかる笑顔。小さな手が、何度も振られる。


 やがて特急は点になり、空気の震えだけが残った。


 俺は隣に立つエレナの肩を抱いた。


 彼女は静かに涙を拭き、微笑んでいる。


 「大丈夫よ。あの子は、強い」


 ああ、そうだ。


 俺たちは、倒れなかった。


 何度も揺れた。折れそうになった。だが、そのたびに誰かが支えてくれた。


 今度は、俺たちが支える番だ。


 風の向こうに、ヒカリの未来が広がっている。


 診察室の窓から差し込む朝の光。待合室の笑い声。エレナの柔らかな声。ヒカリの叱咤。


 すべてが重なり合い、確かな明日を形づくっていく。


 白衣の袖を整え、俺は深く息を吸った。


 消毒液の匂いと、春の土の匂いが混ざる。


 「……よし」


 倒れない。


 倒れないでくれ、と願われたあの日から。


 俺は、立ち続ける。


 そして次世代へ。


 ヒカリの背中が、遠い空の向こうで光っている気がした。

はい、無事最終回を迎えました。露出当初は酷評の叩き台にされ、最後は失速したようになってしまいましたが、わたし自身の、書き始めた物語は最後まで書く!という意思だけで書き続けました。大好きなハヤトとしばらくお別れは寂しいです。ですが、またハヤトの話を書き始めた時は、読んでやってくださると嬉しいです。では、次回作でまたお会いしましょう。

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