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倒れないでくれ! ただの医学生の俺、放課後だけ地獄です  作者: 東雲 明
最終章 闘病の日々

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第157話 闘病手記5〜それぞれが選ぶ道〜

「俺たちは、ルミエールアカデミーに戻るよ。」


 その言葉が告げられたのは、冬の匂いを含んだ夕暮れだった。


 孤児院の窓から差し込む光はやわらかく、廊下の床板に長い影を落としている。子どもたちの笑い声は少し前に途切れ、建物全体が静かな呼吸をしているようだった。


テオはいつものように胸を張り、けれどどこか覚悟をにじませた目で俺を見ていた。


 隣にはエマ。白衣の袖口から、ほのかなハーブの香りが漂う。その匂いは、俺にとって「大丈夫」の象徴だった。


 その頃の俺は、まだ精神薬を飲み続けていた。小さな錠剤を舌に乗せると、じわりと苦みが広がる。


 以前はその苦さに耐えきれず、甘い飲み物で流し込んでいた。だが今は、水だけで飲み込める。喉を通り過ぎる感触を確かめながら、これは逃げないという決意なのだと、自分に言い聞かせる。


 幻聴はほとんど聞こえなくなった。夜中に目を覚ましても、かつてのようなざわめきはない。それでも、油断すれば崩れるという不安は、胸の奥に薄く残っている。寛解にはまだ遠い。だが、それでも前を向いている自分がいる。


「ルミエールアカデミーに戻るって……大丈夫なのか? 退学したのに」


 俺の声は、思ったよりもかすれていた。


「ああ。だから匿名で俺とエマが指導医になるんだ」


 テオは笑う。その笑みは強く、迷いがない。


「名前じゃなく、仕事で認めさせる。あそこで学んだことを、今度は支える側として返す。それだけだ」


 エマが静かに頷く。


「過去に縛られるためじゃないわ。前に進むためよ」


 胸が熱くなる。三人で過ごした日々が、波のように押し寄せる。夜通し患者と向き合ったこと。ぶつかり合い、笑い合い、泣いたこと。


「そんな顔するなよ、ハヤト。どこに行っても、俺たちはゴールデントリオだ」


テオの言葉に、俺はようやく笑った。


「そうよ。距離ができても、絆は減らないわ」


 エマが言い、俺たちは自然と抱き合った。白衣越しに伝わる体温、背中を叩く力強い手。言葉にしなくても分かる想いがあった。


 少し離れたところで、エレナが目を潤ませている。唇をきゅっと結び、泣くまいと堪えている姿が胸に刺さる。


 翌朝。冷たい空気の中、テオが運転する救急車に、2人は乗り込んだ。


「体に気をつけろよ」


「無理しないで」


 短い言葉しか出てこない。ドアが閉まり、車がゆっくりと走り出す。白い車体が角を曲がり、見えなくなるまで、俺は立ち尽くしていた。


 胸が空っぽになる感覚。けれど同時に、彼らの背中が誇らしくもあった。


 その日の午後、共有スペースから明るい音楽が流れてきた。テレビではキッズモデルが踊っている。軽快なリズム、カラフルな衣装、弾む笑顔。


 ヒカリはまだ一歳だ。言葉はほとんど話せない。けれど音楽が流れると、体を揺らし、両手をぱたぱたと振る。よちよち歩きでテレビに近づき、画面に映る動きを真似しようとして、くるりと半分だけ回ってバランスを崩す。


「おっと」


 俺は慌てて抱きとめる。ヒカリは驚いた顔をしたあと、声を上げて笑った。「あー!」と楽しそうに叫び、再び体を揺らす。


 小さな足が床を踏みしめるたび、ぺたぺたと可愛い音がする。リズムに合わせて膝を曲げ、手を叩く。その仕草は拙いが、確かに心が躍っている。


 俺はビデオカメラを回した。レンズ越しに見るヒカリは、光そのものだった。何も知らない、ただ音と色に反応する命の塊。


 夜、布団を並べると、ヒカリはアイドルの写真が載った雑誌を触りたがった。ページをめくろうとして、指が滑る。紙の感触が面白いのか、ぱりぱりと音を立てて笑う。きらびやかな衣装の写真をじっと見つめ、手を伸ばして叩く。


 まだ意味はわからないだろう。それでも、あの光に心を引かれているのは確かだった。


 少し前まで、俺はヒカリの未来を勝手に思い描いていた。医療の道を歩ませるのだと。自分が救われた世界に、彼女も導くのだと。


だが今は違う。


 この子が何に目を輝かせるのか、それを奪わずに見守りたい。転び、泣き、また笑う。そのすべてを支えられる存在でありたい。


 数日後、夕暮れの台所で、俺はエレナに言った。


「結婚式、ちゃんとしようか」


 彼女は驚いたように振り向き、すぐに目を潤ませた。


「……うん」


 孤児院近くの小さな教会。木の扉を押すと、ひんやりとした空気と、古い木の香りが広がる。ステンドグラスから差し込む光が床に色とりどりの模様を描いていた。


純白のドレスに身を包んだエレナは、静かに微笑んでいる。震える指先を、俺はそっと握る。


「健やかな時も、病める時も、変わらず永遠の愛を誓います」


 言葉に込めたのは、誓いだけではない。これまでの痛みも、支え合った日々も、すべてだった。


エレナも同じ言葉を紡ぐ。涙が頬を伝う。


 俺はゆっくりとベールを上げ、唇を重ねた。静かな教会に、衣擦れの音と、遠くの風の音だけが響く。


 後ろでは、ヒカリが椅子に座り、ぬいぐるみをぎゅっと抱いている。状況はわからないまま、ぱちぱちと手を叩き、声をあげて笑う。その無垢な笑顔が、祝福そのもののようだった。


 式を終え、外に出ると、冷たい空気が頬を撫でた。空は高く澄み、遠くで鐘の音が鳴る。


 夜。静かな部屋でパソコンを開く。画面の光が、俺の決意を照らす。


聖ルカ病院の人事部宛てのメール。


深く息を吸い、ゆっくりと打ち込む。


「ハヤト・キサラギ

――心療内科のインターンを希望します」


 送信ボタンを押す。小さな電子音が鳴る。


 別れがあった。選択があった。愛があった。


 ヒカリは隣で眠っている。小さな胸が規則正しく上下し、時折、寝言のように声を漏らす。


俺はその寝顔を見つめながら思う。


守るべき未来が、ここにある。


それぞれが選ぶ道は違っても、繋がっている。


俺は、歩き出す。


この手で、確かな明日を掴むために。




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