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倒れないでくれ! ただの医学生の俺、放課後だけ地獄です  作者: 東雲 明
最終章 闘病の日々

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第156話 闘病手記 4〜変わる物と、変わらない物

翌日、テオの運転する救急車で、俺は再びルミエールアカデミーへ帰還した。


――退学届を提出するために。


サイレンは鳴らしていない。ただの移動だ。緊急でも、救命でもない。ただ、自分の人生を整理しに行くだけの道のりだった。


車窓の外を流れていく景色は、いつもと変わらない。石畳の道、川沿いの並木、朝露に濡れた芝生。だが俺の胸の奥は、妙にざらついていた。何かが終わるとき、人はこんなにも静かなのかと、自分でも不思議になるほどだった。


孤児院を出る前、ヒカリがぐずった。


俺の服の裾を小さな手で掴み、離そうとしない。まだ言葉にならない声で、必死に何かを訴えている。


「ヒカリ、パパはすぐ帰ってくるから。おとなしく待っていようね」


できるだけ穏やかな声で言う。


「だーぅ!」


それは抗議だった。明らかに不満で、怒っていて、そして寂しそうな声。


俺の胸が一瞬、ぎゅっと締め付けられる。


行くな、と言っているのだろう。

行かないで、と。


鬼のような形相で睨みつけるその小さな顔が、どうしようもなく愛おしい。こんなにも必要としてくれる存在がいる。その事実だけで、俺はどれほど救われているのだろう。


だが、行かなければならない。


今回はエレナがヒカリを預かってくれることになった。エレナは静かにヒカリを抱き上げ、優しく背を撫でていた。ヒカリは俺を睨み続けたまま、やがて泣き声に変わる。


その声を背に受けながら、俺は孤児院の扉を閉めた。


胸の奥に、小さなひびが入る音がした。



二時間半後、救急車はルミエールアカデミーの正門前に到着した。


かつては朝の光を反射して輝いていた白亜の校舎は、今はあちこちに傷を負っている。暴徒の襲撃で砕けた窓、修復途中の壁、足場を組まれた塔。遠目にも、かつての威厳は失われていた。


風が吹き抜けるたび、どこかで金属の軋む音がする。


俺は車から降り、ゆっくりとその光景を見上げた。


六年間、ここで学び、働き、走り続けてきた。

笑った日も、泣いた日も、怒鳴られた日も、称えられた日も。


全部、この場所にある。


「行こう」


テオの短い声に、俺は小さく頷いた。


校内に入ると、覚悟していたような悪意の視線も、ヒソヒソ声もなかった。


静まり返っている。


掲示板に貼られていた糾弾の紙や扇動的な文章は、すべて剥がされていた。代わりに貼られているのは、いつもの学級新聞。どこかぎこちなく、無理やり日常を取り戻そうとするような紙面だった。


学級新聞によると、暴徒の襲撃によって校舎の一部が使用不能となり、多くの講義はオンラインで行われているらしい。


俺はその文章を一瞥しただけで、視線を外した。


今は、どうでもいい。


俺たち三人は足早に校長室へ向かった。


廊下で何人かの生徒や職員とすれ違う。彼らは一瞬目を見開き、そして困惑と、申し訳なさそうな表情を浮かべ、軽く頭を下げていく。


その視線を浴びた瞬間、あの日の光景が蘇る。


怒号。石の飛ぶ音。割れるガラス。

押し寄せる群衆。

そして、恐怖。


胸がざわつく。

呼吸が浅くなる。

背中に冷たい汗が流れる。


足が一瞬、止まりそうになる。


「……大丈夫?」


エマの声が、すぐ隣から届いた。


俺は小さく息を吐き、無理やり笑みを作る。


「大丈夫だ」


嘘ではない。完全な真実でもない。


校長室の前に立つと、鼓動が早まった。

ドアノブがやけに冷たく見える。


呼吸を整えようとするが、うまくいかない。喉が乾き、視界がわずかに狭くなる。


その様子を察したのか、エマが一歩前に出て、力強くドアをノックした。


「失礼します」


室内に入ると、校長はこちらをちらりと見た。だが、すぐに視線を戻す。何事もなかったかのように。


その態度に、俺の中でじわりと怒りが湧いた。


以前なら、飲み込んでいた感情だ。

だが最近、俺は感情を表に出す練習をしている。


怒るべきときに怒る。

悲しいときに悲しむ。

我慢しすぎない。


今、俺は怒っている。


エマが素早く俺を背後に庇い、三人分の退学届を机に叩きつけた。


ガラス戸が震えるほどの音が室内に響く。


退学届

――一身上の都合により、退学させていただきます。


淡々とした一文。


誰も責めない。

誰のせいにもしない。


それが、俺たちの選択だった。


校長は何も言わなかった。ただ、書類に目を落とし、無表情のまま頷いた。


それだけだった。


六年間の重みが、たったそれだけの反応で終わる。


「さ、行きましょ」


エマの声は震えていた。怒りか、悲しみか、両方か。


俺たちは校長室を後にした。ドアが閉まる音が、やけに大きく響く。



孤児院へ戻る前に、俺は獅子寮の自室へ立ち寄った。


扉を開けると、見慣れた空間が広がる。


机、椅子、本棚、窓際の小さな観葉植物。

何度も夜を越したベッド。


部屋の空気は、どこか冷たく、よそよそしい。


俺は無言で荷物をまとめ始めた。ゴミを片付け、私物を箱に詰める。シーツを外し、ベッドを整える。


何度もここで倒れそうになった。

何度もここで踏みとどまった。


ふと、壁に貼られた賞状が目に入る。


六年生 ハヤト・キサラギ殿


貴殿は六年間、たゆまぬ努力を続け、学年首席を維持したことを認め、ここに称する


ルミエールアカデミー 校長、講師一同


それは、俺がここにいた証。


努力の証。

誇りの証。

同時に、呪いのような証。


「首席でいなければならない」

「期待に応え続けなければならない」


その紙切れは、ずっと俺を縛っていた。


俺はゆっくりと手を伸ばし、画鋲を外す。


小さな穴が壁に残る。


それを見つめながら、胸の奥が静かにほどけていくのを感じた。



校舎を出る途中、俺が診ていた患者の一人が俺を見つけて叫んだ。


「あれ、キサラギ先生じゃない?」


別の声が重なる。


「でも、制服じゃないし……」

「先生、辞めないで!」


縋るような叫び。


足が止まりそうになる。


助けたい。

治したい。

その気持ちは、嘘じゃない。


だが今、俺が最優先すべきは、自分の体だ。


倒れないために。

生き続けるために。


俺は振り返らなかった。


「先生!」


悲鳴にも似た声が背中に突き刺さる。


それでも、歩き続けた。



アカデミーの下を流れる川の前に立つ。


水面は陽光を反射し、きらきらと揺れている。暴動の傷跡など、ここにはない。川はただ、流れている。


変わらずに。


俺の手には、さきほど剥がした賞状が握られている。


「何をする気?」


エマが不安そうに問う。


「これは、俺を縛る物だ。これがあるからいけないんだ」


自分でも驚くほど、声は穏やかだった。


誇りだったはずのもの。

だが、それに囚われすぎた。


俺は二人に小さく微笑む。


そして、指を離した。


賞状は風に乗り、ふわりと浮き上がる。

一度大きく舞い上がり、太陽の光を受けて白く光る。


やがて、ゆっくりと遠ざかっていく。


紙切れは、ただの紙に戻った。


「いい顔してるね。今までで一番すっきりしてるわ」


エマが涙を滲ませながら微笑む。


「じゃ、帰ろうぜ。俺たちの新しい家へ!」


テオがパンと手を叩く。


俺はもう一度、校舎を振り返る。


あの場所で得たものは消えない。

努力も、知識も、出会いも。


失ったのは、肩書きだけだ。


川は流れ続ける。

時間も流れ続ける。


変わる物がある。

変わらない物もある。


俺は歩き出す。


肩が、驚くほど軽い。


こうして俺たちは、ルミエールアカデミーを後にした。


新しい未来が来ることを信じて。

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