30.AC ミッキーマウスの足指は毛むくじゃら
1年も放置してました・・・・・
それなのに、本当に大した話じゃないです。 ただの日常でした。
今日は普通病棟に出勤で、なんだかんだと言いながらも忙しい。
まぁ忙しい理由の殆どはコールライトを押しまくる患者さんがいるせいなんだけど、こればっかりは文句を言うわけにもいかないから仕方ないと諦めるしかない。
ピピピー ピピピー ピピピー
愚痴る間も無くまたポケットに突っ込んでるビーパーが鳴った。
ビーパーっていうのは日本でいうところのポケベルみたいなもので、患者さんの部屋にいる時は他の患者さんの呼び出しが見えないから、ナース・ステーションにいる受付の人がこれで教えてくれるんだよね。
あたしはポケットからビーパーを取り出してメッセージを見ると・・あぁ、やっぱりだ。
がっくりと肩を落として、ビーパーをポケットに閉まった。
14号室のミセス・シンドラーは、とにかく呼び出してくるんだよね。
大抵は、テレビを点けて、消して。明かりを点けて、消して。テレビのボリュームをあげて、下げて。エアコンを点けて、強くして、弱くして。と正直自分でしろよ、と言いたくなることばっかり。
確かに怪我をしてて1人で歩くのは大変かもしれないけど、そのためにコールライトがあるんじゃん。
コールライトには複数のボタンが付いていて、それを使えばテレビを点けられるし、それでボリュームをコントロールできるし、部屋のライトもコントロールできるのに。
思わず小さくハァ、とため息を吐いてから、とりあえず今していたベッドシーツ交換を済ませた。
それからミセス・シンドラーのところに向かう。
コンコン
ノックをしてからドアを開けて中に入る。
「どうしましたか?」
「テレビのチャンネルを替えて欲しいんだけど」
「何をみますか?」
「もうすぐお昼だから、いつも見ているソープオペラが見たいの」
そう言いつつ番組名を教えてくれるが、私にはさっぱりだ。
「すみません。私はテレビを見ないので判らないんです。どこのステーションか教えてもらえますか?」
「はぁ? テレビ見ないの?」
どことなくバカにしたような口調。
だから来たくなかったんだよなあ。
「テレビには興味がないんです。本を読むほうが好きなので」
「興味がないって、つまんない人ね」
あ〜、はいはい。
こういう決めつけもアメリカ人からはよくあるので、こっちも慣れたもんだ。
とりあえずビジネススマイルで無視してから、サイドテーブルの上に乗っている入院患者に渡すファイルをとって、その中にある説明書を取り出した。
そこにはこの病院のケーブルテレビで見られる番組表があるんだよね。
そのことももちろんなんども説明しているけど、自分では調べようとしないんだよ、この人。
「チャンネル16ですね。替えますか?」
「もちろんよ。そのために来たんでしょ?」
「判りました」
あたしはそれ以上何も言わないで、黙ってチャンネルを替える。
ああ、なんか今日は長い1日になりそうな気がする。
なんとラッキーな事に、ドクターがやってきて、ミセス・シンドラーは退院できるという事になった。
ラッキー!
ナース・ステーションでその話を聞いてガッツポーズを取っていると、チャージ・ナースのジェーンが笑う。
「ジェーン」
「ごめん。だってチカ、すっごく嬉しそうだから」
「だって嬉しいもん。もうね〜、5分10分ごとに呼び出しをくらうんだよ? 他の患者さんの世話をして行くのが遅くなるとネチネチ言われるしさ。悪いけど、彼女より世話を必要としている人の世話ができなかったから、すっごく嬉しい」
キッパリと言い切る私に、受付のメーガンがプッと吹き出した。
「まあ、そういう事だから私も早めに退院手続きを済ませるから」
「ありがと、ジェーン、愛してるっっ」
う〜ん、ついノリで愛してるなんて言ってしまった。
なんかアメリカ人って簡単にLOVEっていう言葉を使うから、ついあたしもそれに慣れてしまった。
こういうのもアメリカナイズっていうんだろうか?
「あっ、チカ、備品管理システムがまたおかしくなっちゃってるんだけど直せる?」
「ん?」
「バーコード・スキャナーがダウンしてるんだって」
バーコード・スキャナーと言われて、備品室にあるアレを思い出した。
うちの病院では患者が必要とするものはこちらで手配する事になっている。もちろん無料というわけではない。例えば石鹸とか櫛とか、そういったものは退院する時に入院費用と一緒に請求するのだ。
入院費用には入院中に使うシーツなどのリネン全般からパジャマ代わりのガウンも含まれているから、ある意味本当に体1つで入院できるんだよね。
ま、その分という訳じゃないけど、こっちの医療費は高いんだから、それくらいは当たり前だと思ってる。
「誰かまた余計な事したんじゃないの?」
「多分ね〜、で、私やジェーンも直そうとしたんだけど直せなかった」
「なんで? ミッキー・マウス・ハズ・ヘアリー・トゥ、でしょ?」
「うん、そう。そこまでは私やジェーンでもできたけど、そこから先ができなかった」
メーガンは苦笑を浮かべて肩をすくめた。
「ん〜、判った。多分できると思うから」
「よろしく」
『ほーい』
日本語でほーいと返事を返してから、あたしは備品室に向かった。
ミッキー・マウス・ハズ・ヘアリー・トゥ。
一体なんの呪文だ? って思うよね。
あたしは初めて聞いた時、思わずハァ?って声を出して言っちゃったんだっけ。
バーコード・スキャナーは時々誰かが間違えてオフにしちゃうんだ。それで起動させる時のパスワードがミッキー・マウス・ハズ・ヘアリー・トゥなのだ。
と言っても頭文字なんだけどね。
つまり、M・M・H・H・Tと打ち込めばいい。
だけどそれだけだと覚えにくいから、という事で、いつのまにかミッキー・マウス・ハズ・ヘアリー・トゥになったのだ、との事。
でも、日本人のあたしとしては、初めて聞いた時に『ミッキーマウスの足指は毛むくじゃら』と声に出して和訳して頭にハテナマークをつけたものだった。
いや〜、すごい当て言葉だよねぇ。
不思議そうな顔をしていたあたしの事を笑う周囲に、アメリカ人はおかしい! とキッパリ言い切ったのも懐かしい話だよ、ほんと。
まぁ、とりあえずあたしは備品室に入って、バーコード・スキャナーを手に取る。
すると、やっぱりパスワードを入れるところで断念したままになっていた。
仕方ないなぁ、とぽちぽちと打ち込み始める。
これがまた難しい。キーがすっごく小さいんだよ。素手でしようとすると3つくらいまとめて押してしまうくらい?
なので付属のペンを使ってポチポチと打ち込む。
『ん〜っと、ミッキー・マウス・ハズ・ヘアリー・トゥ』
ブツブツと呪文を唱えながら打ち込んで、それから幾つかの項目を押していくと、ほらできた。
なんでこれができないんだろう?
なんて言ったら怒られるから黙ってるけどさ。
「できたよ〜」
「ありがとう、チカ」
メーガンが嬉しそうに礼を言ってくる。
「よくやったね、チカ」
「うん、頑張った。だからジェーンも退院手続き書類、頑張ってね」
少しでも早く帰ってほしいよ、ミセス・シンドラー。
ピピピー ピピピー ピピピー
そう思った途端に鳴るビーパー。
ジロリ、とメーガンを見ると、済まなさそうな顔でミセス・シンドラーの病室の方向を指差した。
「また?」
「そう、また」
「あ〜、今度は何かな〜。テレビかな〜。ライトかな〜。それともドアを開けて、かな〜」
どっちにしても大したようじゃない事は確かだと思う。
「賭ける?」
「ジェーン。ここ、一応病院だから」
「そう言えばそうね」
メーガンに窘められたジェーンをあたしは判って言ったくせに、とじとりとした視線を向ける。
「ま、賭けてたら私が負けてたと思うしね」
「多分ね」
お互いの顔を見合わせてから、プッと吹き出す。
でもまぁ仕方ない。
あたしは諦めて、ミセス・シンドラーの部屋に向かったのだった。
読んでくださって、ありがとうございました。




