夜明け前の静寂、囁く風
館に夜の深さが染み渡る中、広間の燭台の炎は柔らかく揺れていた。暖炉の赤い残光とシャンデリアの琥珀色が交錯し、壁や天井に影を描き出す。館の奥からは、微かに時計の音が響き、時間の流れが静かに意識される。
リリアーナは自室の窓際に立ち、外の闇を見つめていた。庭園の影が風で揺れ、葉の擦れる音が微かに耳に届く。微かに聞こえる虫の声、暖炉の残火の匂い、そして深夜の澄んだ空気――すべてが館の静けさを彩る。
「……今日も、穏やかだった。」
リリアーナの小さな呟きは、夜の静寂に溶けていく。
「お嬢様、まだお目覚めでは?」
背後からレアの声。犬面の表情は変わらぬまま、瞳だけが微かに光を帯びて、室内を巡る空気を読む。
「レア……少し、疲れていない?」
「わたくしはお嬢様のために在ります。疲れなどございません。」
「……ほんとうに?」
リリアーナは微笑むが、瞳の奥に小さな不安がちらりと揺れた。
その瞬間、窓の外、庭園の端に黒い影が一瞬揺れる。ノアの影。まだ手は出さない。しかし、日常の裏に潜む微かな緊張が、空気をわずかに締めつける。
「レア、明日も一緒に散歩してくれる?」
「もちろんでございます、お嬢様。」
リリアーナは微笑みながら、そっとレアの肩に手を置く。
「……どうしたの?」
「なんでもありません。」
そのやり取りは短く、しかし確かに二人の間に温かさと信頼を刻むものだった。犬面の守護者の瞳は、微かな警戒を残しつつも、完全な安堵を湛える。
外の風が窓をかすかに揺らし、庭の葉が静かにざわめく。館内の家族たちはすでに就寝の時間を迎え、アルフォンスは巡回を終え、エリスとカトリーヌも静かに自室へと戻る。
暖炉の残火が赤く揺れ、シャンデリアの光は徐々に消えゆく。館は深い夜に包まれ、優雅で滑らかな時間が最後の一瞬まで続く。
リリアーナは布団に入り、瞳を閉じた。
「おやすみなさい、レア。」
「おやすみなさいませ、お嬢様。」
犬面の守護者はそっと窓際に立ち、夜の館を守る影となった。
外の庭園で黒い影が消え、微かな不穏はまだどこかに漂う。しかし、館内の温かさと優雅さは揺るがず、今日という日の静けさを最後まで守っていたのだった。




