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黒薔薇の牙 ―忠義を纏うメイド―  作者: 櫻木サヱ
霧に潜む影

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夕暮れの散歩、館の影と風

西の空に傾いた太陽が、古い館の外壁を金と朱に染めていた。

昼のやわらかい光とは違い、夕刻のそれはどこか艶やかで、少し寂しげだった。光は長く伸びた影を作り、庭園の花々をまるで別世界のように見せていた。


リリアーナはゆるやかに歩みを進める。手には小さな日傘。風は昼よりも冷たく、秋の気配をほんのりと運んでくる。

背後にはレアが控え、穏やかに距離を取ってついていた。犬の顔に差し込む夕日が、毛並みを赤銅色に照らす。どこか神聖な、そして異形の美しさ。


「レア、見て。あの花、朝よりも色が深くなってるわ。」

リリアーナが指さす先、薔薇の群れは陽を受けて燃えるような紅に輝いている。


「光の加減でございます。ですが、お嬢様がご覧になるその色は、きっと今がいちばん美しいのでしょう。」

レアの声は低く、どこか詩のように響く。


彼女の言葉に、リリアーナは微笑み、花の方へと足を向けた。風がスカートを揺らし、草の香りが混じった土の匂いが鼻をくすぐる。


庭の端には、アルフォンスが立っていた。相変わらず背筋はまっすぐで、日暮れ時でも乱れない。

「お嬢様、風が冷えてまいりました。そろそろお戻りを。」

「ええ。でも、もう少しだけ。」

アルフォンスは小さく息をつき、穏やかな笑みを浮かべる。

「まったく、父上に似ておられる。ヘンリー様も夕暮れの散歩が日課でしたな。」


その名を聞いた瞬間、リリアーナはわずかに目を細めた。

「……父さま、今日も遅くまでお仕事なの?」

「ええ。ご領地の報告書をおまとめで。」

イザベラ夫人の柔らかな声が背後から届く。夫人は白いショールを羽織り、優雅な立ち姿のまま娘に微笑んだ。


「あなたは心配しなくていいのよ。お父様は強くて、正しい方だから。」

「うん、わかってるわ。……でも、少し寂しいの。」

イザベラは娘の肩にそっと手を添え、風に吹かれる髪を直した。

「寂しさも、貴族の義務です。けれど、それを埋めてくれる人たちがいるでしょう?」


リリアーナは小さく頷き、視線を巡らせた。

ルイーザは温室の入口で小花を摘み、エリスはティーセットを持って屋外のテーブルを整えている。カトリーヌは散歩道の石畳を軽く掃きながら、遠くから穏やかに微笑んだ。


そして、その中心に――レアがいた。

いつもと変わらぬ距離。けれど、確かな信頼の線で結ばれた場所。


「レア。」

「はい、お嬢様。」

「……あなたは、疲れないの?」

レアは少しだけ首を傾げた。

「わたくしはお嬢様をお守りするために在ります。疲れも、苦しみも、光栄のうちです。」

「そんなの……まるで、機械みたい。」

「機械には心がございません。」

「じゃあ、レアには心があるの?」


風が少し強くなり、レアの黒いドレスの裾が翻った。

彼女は少しの沈黙のあと、犬面のままに静かに答えた。

「あるとすれば――それは、お嬢様のために動くものです。」


その瞬間、遠くで鐘が鳴った。日暮れを告げる音が、庭園の空気を少しだけ冷たくする。

リリアーナは日傘を閉じ、レアを見上げた。

「ねえ、今日の夕食、一緒にどう? 皆で。」

「わたくしなどがご一緒してよろしいのですか?」

「もちろんよ。だって……家族みたいだもの。」


レアの瞳がわずかに光を宿した。犬の顔は変わらぬままだが、風の中で漂う空気が一瞬、柔らかくなった。


館へ戻る途中、リリアーナはふと振り返る。

遠くの樹影、その奥に一瞬、黒い影が揺れたような気がした。

しかし彼女は気づかない。レアだけが、その気配を確かに感じ取っていた。


夕陽が完全に沈む前、館の扉が静かに閉まる。

金色から群青へと変わる空の下、今日という日がゆっくりと終わりを迎えた。

紅茶の香り、家族の声、食卓の温かさ――すべてが穏やかで、優雅で、そして儚い。


その背後で、影がほんのわずかに動く。

ノアの執事服の裾が風に揺れ、夕闇の中へと溶けていった。


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