元魔王、田舎暮らしを満喫す
――数か月後。
魔王城から遥か遠く離れた、山深い田舎の一角。
そこにはぽつんと一軒の家が建っており、その傍らで一人の男が、麦わら帽子を被り、鍬を手に黙々と土を耕していた。
「……よし、これぐらいでいいだろう」
この男こそ、かつて世界最強と呼ばれた元魔王、ロスト・モナーク。
今ではすっかり隠居の身となり、自給自足の生活を送っている。
彼が耕しているのは、野菜を育てるための畑だった。
「魔王様ー!」
小柄な影が一つ、ロストのもとに駆け寄ってくる。
体長およそ1メートル40センチ。二足歩行の蟻のような姿をした魔物――蟻人だ。
彼らは元々、魔王直属の精鋭部隊であり、ロストが赤ん坊の頃から仕えてきた忠実な従者。
もはや家族同然の存在である。
ロストが突然「魔王を辞める」と宣言したときも、彼らは一も二もなく「ついて行きます!」と決断し、今も共にこの山奥で暮らしている。
「向こうの畑、全部耕し終わりましたよー!」
「そうか。……ところで、“魔王様”はやめろ。もう俺は、魔王じゃない」
「分かりました。では改めて……ロスト様、耕し作業の方は順調ですか?」
「ああ。見てみろ、なかなかの出来だろ?」
蟻人たちは整然と耕された畑を見て、感嘆の声を上げる。
「おおっ! しっかり出来てますね!」
「すごいです、ロスト様! 前回は力加減が全然できてませんでしたけど……」
「鍬を振るたびに地面が抉れて、大穴が出来てましたもんね」
「危うくこの辺一帯がクレーターだらけになるところでしたよ……」
「ロスト様、昼食の準備が出来ておりますので、種蒔きは食後になさってください」
「分かった。そうだ、クロも呼ぶか。……クローッ!」
ロストの声に応えるように、空の彼方から巨大な影が滑空してきた。
全長5メートルはあろうかという漆黒の竜。ロストのペット、黒竜のクロである。
「グルルルゥ♪」
クロは嬉しそうにロストへ近づくと、その巨大な舌でロストの顔をぺろりと舐めた。
「こらクロ、くすぐったいって……!」
「グルゥ……」
ロストに軽くたしなめられ、クロはしょんぼりと落ち込む。
「そんなことで落ち込むな。……よし、昼飯にしよう。クロも来い」
「グルルゥ♪」
ロストたちは地面にシートを広げ、和やかに昼食を始めた。
本日のメニューは、蟻人たちの手作りサンドイッチである。
「うん、やっぱりお前たちの料理は絶品だな」
「ありがとうございます、ロスト様。こちら、お茶です」
「すまない……うん、美味い」
クロはというと、山で狩ってきた魔物“ビッグボア”の丸焼きを嬉しそうに頬張っていた。
「クロ、美味いか?」
「グルルルゥ♪」
満足そうな鳴き声を上げるクロに、ロストも目を細める。
数十分後。ロストはお茶を飲み終え、立ち上がった。
「……さて。午後の作業を始めるか」
耕し終えた畑に、ロストたちは種をまき始めた。
種は“魔キャベツ”、“魔ニンジン”、“魔ジャガイモ”といった、魔野菜だ。
魔野菜は見た目こそ普通の野菜に似ているが、内部には微量の魔力が蓄積されており、
そのおかげで味が濃く、栄養価も高い。人間界では貴族や王族しか口にできない高級食材である。
だが、ロストたちにとっては日常の味。
その価値に、誰一人気づいていない。
「よし、これで全部蒔き終わったな」
「そろそろ日が暮れますね。夕食の準備に取りかかります」
「いや、待て。今日は俺が夕食を作ろう」
「「「「「………えっ!?」」」」」
一瞬、沈黙。
続いて、蟻人たちは顔を見合わせて驚きの声を上げた。
「いつも美味い料理を作ってもらってばかりだからな。……たまには俺が振る舞いたい」
「あの……ロスト様? 確か料理のご経験は――」
「問題ない。レシピ本がある。手順通りにやれば大丈夫だ」
「な、なるほど……。でしたら、せめて傍で見守らせてください!」
「ああ、構わん。来い」
そうしてロストと蟻人たちは、家の厨房へと向かった。
「えーっと、最初は……魔キャベツを半分に切る、か」
レシピ本を読みながら、ロストは包丁を手に取り、なぜか剣士のように上段に構える。
「……あの、ロスト様? なぜ包丁を上段に構えているんですか?」
「ここに“力を入れて切ること”って書いてある。だったらこう構えるのが理に適っているだろう?」
「いやいやいや! 違いますよ! 力の入れ方って、そういう意味じゃ――」
「安心しろ。この程度のことで俺が怪我をすることは――」
「そっちじゃないですってばーっ!」
「覇ぁっ!!」
振り下ろされた包丁から、真空の斬撃が放たれた。
……次の瞬間、厨房は真っ二つに裂けていた。
調理器具も、テーブルも、調味料も、全てが無残に吹き飛ぶ。
当然、夕食どころの騒ぎではなくなった。
蟻人たちは徹夜で厨房の修理に追われ、
そして誰もが強く心に誓った――
「もう二度と、ロスト様に料理はさせてはいけない」と。