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第五章‐共同体の胎動‐アメリカ編


  アメリカ・コロラド州・強化施設「ザ・ヴォルト」

 コロラドの薄い空気の中、アメリカ代表チームの合宿は限界を極めていた。

 乾いた高地の空気が肺に刺さり、呼吸は浅く、速くなる。

「……まただ」

 マッケンジーの声が響く。ストップウォッチは止まっていない。

 引き継ぎの瞬間、ジャックスがわずかに早く跳び出した。

チェイスの指先が触れる、その瞬間。

水面が、一瞬だけ不自然に歪む。

 ……バシャン。

わずかに遅れて響く入水音。

本来なら一つに繋がるはずの水の流れが、そこで確かに途切れていた。

 見た目はスムーズだ。だが、前の泳者の勢いは、そこで死んでいる。

「ジャックス、今のはお前のエゴだ」

「……合わせてるつもりだ。ミスはしてない!」

「頭ではな。だが、お前の肉体が叫んでいる。

“自分が一番速く水を掴まなければならない”とな」

ジャックスは唇を噛む。

水を掻く感覚が、わずかにズレている。タイミングは合っているはずなのに、リズムだけが噛み合わない。

自分を信じ、自分の速さを極めることで生きてきた。

 その成功体験こそが、今や自分を縛る見えない鎖だった。

自分を捨て、他人のスピードに身を委ねる。

それは、強者であり続けた彼にとって死よりも恐ろしい、「無防備」になるということだった。


ハードな練習を終えた宿舎。

静まり返ったリビングには、冷蔵庫の低い駆動音だけが、やけに大きく響いていた。

ジャックスは一人、日本戦の映像を見返していた。

リモコンの巻き戻し音が、何度も同じ場面を繰り返す。

「……まだ、やってんのか」

声をかけたのは、第一泳者のレオ・カプランだった。

彼はテーブルに大きなピザの箱を置き、隣にどっさり腰を下ろす。

箱を開けた瞬間、わずかに立ち上る油の匂いと熱気。

それだけで、張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。

「コーチには内緒だぞ。身体が脂を求めて死にそうだったんだ」

「……一切れだけだ」

ジャックスがぎこちなく手を伸ばす。

奥から、平泳ぎのザイン・パーカーとバタフライのチェイス・マクドナルドも、疲労に沈んだ顔で現れた。

「なんだよ、エースも不摂生するんだな」

チェイスがニヤリと笑い、ピザに群がる。ジャックスは今までこんな空気は知らなかった。

「お前のさっきの引き継ぎ、怖かったぜ、ジャックス」

レオがコーラを飲み干しながら言った。

「背中から“俺が主役だ、邪魔するな”ってオーラ出てた。思わず指先が震えたぜ」

「……そんなにか」

自嘲気味の声に、ザインが頷く。

「ああ。でもな、お前が必死に“待ってた”のも分かった。

 不器用すぎて笑っちまったけどな」

静かな笑いが起きる。

 その笑いは、どこかぎこちなくて……それでも確かに温かかった。

 チェイスがふざけて、日本のリレーの真似をしてレオに飛びつく。

ザインが実家の牧場の話を始める。

 レオが昨夜、プレッシャーで眠れなかったことをこぼす。

人の声。笑い声。食べる音。

それらが、少しずつ、空間を満たしていく。

「なんだ、お前らも案外……普通なんだな」

ジャックスの口から、自然と笑みがこぼれた。ぎこちない笑顔だった。それでも笑い方を忘れていたジャックスにとっては、孤独という鳥籠から出た瞬間だった。

今まで「ただ速いだけの三人」だった存在に、

名前と、人生と、弱さが宿る。

「ジャックス。俺たちは、お前の駒じゃない」

レオが、真っ直ぐに言った。

「俺達はお前を最高速で打ち出すための、“発射台”だ。

だから安心して、身を預けろよ」

その夜、ジャックスは久しぶりに深く眠った。

夢の中にいたのは、孤独な独走者ではない。

三人の呼吸に守られながら、最後の100mへ飛び出す、自分だった。


 ワールド・アクアグランプリ出発前日。

―「ザ・ヴォルト」でのメドレーリレー最後調整―


「Take your marks.」

電子音。

第一泳者・レオがバネのように鋭くへ跳ねた。

バサロキックが、プールの底まで響く重低音を響かせる。

かつての彼は「自分だけのライン」を泳いでいた。だが今は違う。次に控えるザインへ、1ミリでも速い流れを渡そうとする執念のストローク。

「……速い。だが、まだ硬いな」

マッケンジーが呟く。

 ――ラスト5メートル。

二番手のザインが構える

レオの指先がタッチ板を叩くと同時に、ザインが水に突き刺さった。

しかし、レオの残した激しい引き波が、わずかにザインのフォームを揺らした。

「引き継ぎ」のズレ。個々の能力が限界を超えているがゆえに、そのわずかな摩擦がロスを生む。

三番手、チェイス。

水面を叩きつけるバタフライの両翼が、飛沫を黄金色に染め上げる。

ザインの作った推進力を殺さず、さらに加速させる。心拍数はすでに限界値。ただジャックスへと続く道だけを見据えている。

そして――ラスト5メートル。

アンカー・ジャックスが構える!

(来い……もっと熱いものを寄越せ!)

アンカー、ジャックスが弾丸のように飛び出した。

ジャックスは、チェイスが切り拓いた水の乱気流を全身で受け止めた。

本来なら泳ぎにくい。制御不能なほど荒れ狂う水。

だが、彼はそれをねじ伏せない。むしろその荒波に身を任せ、仲間の「執念」をガソリンにして、自身のエンジンをレッドゾーンまで回した。

――ラスト25メートル。

(ここからだ!)

ジャックスはさらに加速する!

だが。

どれだけ伸ばしても、どれだけ水を切り裂いても。

何かが足りない。

タッチ。

「……終わったぞ」

 タイムは悪くない。むしろ、世界トップレベルだ。しかし、マッケンジーが求める「一つの生命体」には、あと一歩届かない。

 彼が設計したのは、徹底的な「同期シンクロ」だ。呼吸のタイミング、入水角度の共有。彼らは「相手を見てから跳ぶ」という脳の伝達プロセスを捨て、神経系を四人分繋ぎ合わせることで、リアクションタイムを限界値まで削ぎ落とそうとしていた。

「まだ、完全に一つではないな」

その指摘に、ジャックスは不敵に笑った。

「……ああ。完成なんて、このプールでするもんじゃないだろ」

マッケンジーが、わずかに目を見開いた。

「コーチが言ったんだ。“完成した選手は変われない”ってな。

だったら俺たちは、あえて未完成のまま行く」

水の音が、静かに響く。

「足りない最後の一欠片は、実戦の熱狂と、日本のプレッシャーの中でしか見つからない」

ジャックスの瞳には、もう孤独なプライドはない。

そこにあるのは、仲間を背負う覚悟だった。

「俺たちの完成は、レースの中だ。

そこでアンタが見たこともない怪物を創ってやるよ」


翌日のデンバー国際空港へ向かうバスの中。

四人は同じリズムの音楽を聴き、同じ窓の外を見ていた。

かつて「速い四人の生物」だった彼らは、

今や一つの意志を持つ「群れ」へと変貌していた。

ジャックスは、自分の掌を見つめる。

この手は、もはや自分のためだけに水を掻くのではない。

仲間の熱を受け取り、

そしてアンカーとして、誰よりも眩しくチームを輝かせるためのものだ。

「行こう」

短く、しかし確かな声。

「俺たちの“構造”が、世界を飲み込むところを見せてやる」

アメリカ代表、再生。

極東のライバルが待つ舞台

ワールド・アクア・グランプリ、シンガポールへ。

四つの意志は、一つの軌道を描き、空へと放たれた。

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