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正解の檻

五月の第二週、月曜日の朝のホームルームで、担任の田村先生が言った。


「今日から新しいクラスメートを迎えます。仲良くしてあげてください」


奏は背筋を伸ばした。転校生、という言葉には独特の引力がある。どんな人だろう、どこから来たのだろう、どんな話をするだろう——そういう期待が、自然と胸の中に膨らんでくる。奏はこういう「新しいもの」への反応が、自分でも呆れるくらい素直だと思っている。


扉が開いて、少女が入ってきた。


最初の印象は、「きれいな子だな」だった。


次の印象は、「お辞儀が深いな」だった。


「氷室透子と申します。至らない点も多いかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」


声がよく通った。発音が明瞭で、語尾まではっきりしている。お辞儀は三十度——いや、もう少し深いか——きっちりとした角度で、顔を上げるタイミングも自然だった。笑顔が、まるで手本のように整っていた。


拍手がまばらに起きた。


奏は拍手しながら、ちらりと横のゆりあを見た。


ゆりあは転校生——氷室透子を、じっと見ていた。その目が、奏にはあまり見たことのない種類の光を持っていた。興味、というより、何か別の——認識、とでも言うような。


「ゆりあ、どう思う?」と奏は小声で聞いた。


「……きちんとした人ね」とゆりあは答えた。


それだけだった。でもその「きちんとした」という言葉が、なぜか奏の胸の中でわずかに引っかかった。


氷室透子の席は、奏の二列前になった。


授業中の彼女は、完璧だった。


先生の問いかけには適切なタイミングで答える。ノートの取り方は整然としていて、授業の流れを的確に追っている。隣の席の子が消しゴムを落とした時には、すっと拾って「はい、どうぞ」と微笑みながら渡した。その一連の動作に、無駄がなかった。


昼休みになると、数人のクラスメートが氷室に話しかけに行った。奏も少し様子を見ていた。


氷室は質問に対して丁寧に答えた。笑顔も崩さなかった。でも——五分後には、話しかけに行ったクラスメートたちが、なんとなく散り散りになっていた。特に喧嘩したわけでも、氷室が何か失礼なことを言ったわけでもないのに。


「あれ?」と奏は思った。


なんで、みんな離れてったんだろう。


その日の放課後、帰り道でゆりあに話した。


「氷室さんって、感じ悪い?」


「感じは良かったわよ」


「でも昼休みに話しかけに行った子たち、なんか微妙な顔して戻ってきてたじゃん」


「そう? 気づかなかった」


「ゆりあ気づかなかったんだ」


「彼女の話し方は論理的で分かりやすかった。何が問題なの?」


奏は少し考えた。


「問題、って感じでもないんだけど……なんか、怖い、って子が何人かいて」


「怖い? 彼女が何か怖いことをした?」


「してない。でも、なんか——完璧すぎて、逆に怖い、って感じかな」


ゆりあはしばらく黙っていた。


「……それは、よく分からない感覚ね」


その言い方が、どことなく寂しそうに聞こえた気がして、奏は少し心がざわついた。でも何も言わなかった。


一週間が経った。


氷室透子に対するクラスの空気は、奏が予想していたよりずっと早く、固まっていった。


「なんか、話しかけにくい」「感じは悪くないんだけど、会話してると疲れる」「ちゃんとしすぎてて、逆に何考えてるか分かんない」——そういう言葉が、あちこちで聞こえるようになった。面と向かって何か言う子はいない。無視しているわけでも、悪口を言っているわけでもない。ただ、誰も自分から近づこうとしなかった。


氷室は一人でいることが多くなった。


それでも彼女の表情は変わらなかった。いつも整った笑顔で、話しかけられれば丁寧に答えて、授業では的確な発言をして、先生には適切な敬語を使った。何も変わらなかった。


奏は観察を続けた。


もともと奏は「謎の構造を見つけること」が好きだ。だからこれも、ある意味では謎だと思った。なぜ欠点のない人間が、こんなにも周囲に「気味が悪い」と思われるのか。


そして一週間観察した結果、奏はある仮説を立てた。


「全部、正確すぎる」


独り言のように呟いたら、隣にいたゆりあが「何が?」と聞いた。


「氷室さんの動き。全部が正確すぎる」


「正確なのは良いことじゃないの?」


「普通はそうなんだけど……ねえゆりあ、ちょっと一緒に観察してくれない?」


ゆりあは少し間を置いてから「いいわよ」と言った。


翌日の昼休み、奏とゆりあはそれとなく氷室の近くに陣取った。


氷室は今日もクラスメートと話していた。体育の時間に同じ班だった女子三人組と、昼食を食べながら会話している。


奏は観察した。


話題は週末の話だった。一人が映画を見に行った話をして、もう一人がそれに食いついて、三人で盛り上がっている。氷室はその輪の中にいる。笑っている。相槌を打っている。


でも——


「分かった?」と奏はゆりあに小声で聞いた。


「……何を?」


「相槌のタイミング」


ゆりあが目を細めた。しばらく氷室を観察する。


「……規則的、ね」


「そう。話が面白いところで笑うんじゃなくて、笑うべきタイミングで笑ってる。相槌も、打つべき間で打ってる。全部、ほんの少しだけ——後から来る」


「後から?」


「感情が先に来て、それから動く、じゃなくて。動くべきタイミングを計算して、それに合わせて動いてる感じ。分かる?」


ゆりあはまた黙った。氷室を見ている。その目が、奏には読めない表情をしている。


「……笑顔の角度も、一定ね」


とゆりあが静かに言った。


「そう! 気づいた? どんな話題でも、笑顔の深さが変わらない。ちょっと面白い話でも、すごく面白い話でも、笑顔が同じ。感情の量と表情の量が、連動してない」


「それが、気味が悪いと感じる理由?」


「多分ね。人って、無意識に相手の感情の揺れを読んでるから。それが読めないと、なんか怖いっていう感覚が出てくる。幽霊が怖いのと似たような原理かな」


ゆりあはそれ以上何も言わなかった。


奏はゆりあの横顔をちらりと見た。


何か、考えている顔だった。


その日の放課後、奏が図書室に向かうと、思いがけない光景があった。


窓際の席に、氷室とゆりあが並んで座っていた。


二人とも本を読んでいた。会話はしていない。ただ、隣同士で、同じ方向を向いて本を開いている。


奏は扉の前で少し立ち止まった。


どうしてゆりあが氷室と一緒にいるんだろう、という驚きが半分。そしてもう半分は——なんだか、上手く言葉にできない感情だった。


「あ、鶴舞さん」


氷室が顔を上げた。笑顔になった。例の、整った笑顔が。


「こんにちは。ゆりあちゃんと仲良しなんですね」


「うん、幼馴染なんだ。二人はどういう流れで?」


「ここで偶然、隣に座って。同じ本が好きだって分かって」


「そうなんだ! 何の本?」


氷室が持っていたのは、数学の読み物系の本だった。ゆりあが読んでいたのも同じシリーズの別の巻だった。


「鶴舞さん(ゆりあ)に声をかけたら、無視されなかったので」と氷室が言った。


その言い方が奏の胸に刺さった。


無視されなかった、という言い方。最低限のラインとして「無視されない」を設定している、ということだ。つまり氷室は、この一週間で何度か無視されたか、それに近い経験をしてきたのだろう。


奏は椅子を引いて二人の向かいに座った。


「氷室さん、ちょっと聞いていい? 失礼な質問かもしれないけど」


「どうぞ」と氷室はすぐに答えた。その即答も、どこか「質問を受け付けます」という構えのように見えた。


「クラスで、なんか居心地悪い?」


一瞬だけ、氷室の表情が動いた——気がした。でもすぐに元の整った笑顔に戻った。


「いいえ、皆さん良くしてくださっています」


「……そっか」


奏はそれ以上聞かなかった。


ゆりあが本から目を上げずに言った。


「奏、何か用があって来たの?」


「ううん、ただ来ただけ。一緒にいていい?」


「好きにして」


奏は三人の中で一番薄い本を棚から引っ張り出して、椅子に深く座った。


しばらく、誰も話さなかった。


それでも不思議と、悪くない沈黙だった。


氷室透子のことを調べたのは、ゆりあだった。


正確には、「調べた」というより「覚えていた」という方が正しい。翌日の朝、登校してきた奏に、ゆりあは開口一番こう言った。


「氷室透子、子役だったわよ」


「え?」


「七歳から十三歳まで。テレビドラマに何本か出ていた。『氷室とうこ』という芸名で」


「……覚えてたの?」


「昨日、顔を見た時から気になっていた。帰ってから調べたら一致した」


奏は少し呆気に取られた。ゆりあの記憶力と情報処理の速さは、今さら驚くことでもないはずなのに、たまにこうして改めて「あ、やっぱりすごいな」と思わされる。


「どんな子役だったの?」


「礼儀正しい優等生の役が多かった。インタビュー記事も残っていた。マナー講師について礼儀作法を学んだ、という記述がある。七歳から」


七歳から、という言葉が奏の頭の中で反響した。


七歳から「完璧な振る舞い」を叩き込まれた。カメラの前で、大人の求める「正解の子供」を演じ続けた。笑うべき時に笑い、頷くべき時に頷き、感謝すべき時に感謝する——それを何年も何年も、仕事として繰り返した。


そして今、彼女は高校生だ。


カメラもなく、台本もなく、演出家もいない場所で——それでも、同じように動いている。


「もう演じるのをやめてる、とかじゃなくて」と奏はゆっくり言った。「演じ方しか、知らないんだ」


「そう思う」とゆりあは静かに答えた。


「素の自分、っていうものが——ないのかな。あるけど、出し方を知らないのかな」


「さあ。どちらかは分からない」


奏はしばらく考えた。


「ゆりあは昨日、氷室さんと並んで本読んでたじゃん。なんか、感じた?」


「……何を?」


「なんでもいい。隣にいて、何か思ったこと」


ゆりあはしばらく黙った。廊下を歩きながら、手の中の文庫本を少し指先で叩く。考えている時の癖だ。


「……静かで、よかった」とゆりあは言った。


「静かで?」


「余計なことをしない人だった。愛想笑いも、必要のない話しかけも、距離を詰めようとする感じもなかった。ただ、隣に座って、本を読んでいた。それが——居心地よかった」


奏は何かを言いかけて、止めた。


ゆりあが「居心地よかった」と言う人間は、そう多くない。ゆりあにとって他人との距離感は、どこか難しいものがあると奏は感じている。必要以上に人と関わることを好まないし、感情的な会話に乗ることも苦手だ。でもそれは冷たいからではなく——どこか、人との「温度合わせ」のようなものが、上手くいかない部分があるからだと奏は思っている。


そしてそれは——ゆりあがロボットだから、という一言で済む話ではない、と奏は思っている。もっと複雑な、もっと大事な何かだ。


「ゆりあって、氷室さんのこと友達だと思ってる?」


「……友達、という定義が難しい」


「じゃあ、嫌いじゃない?」


「嫌いではない」


「好き?」


「……悪い人ではないと思う」


奏は笑った。ゆりあ基準の最大限の好意表明だ。


昼休みに、奏は氷室に声をかけた。


「ねえ、氷室さん。ちょっと話していい?」


氷室はすぐに「もちろんです」と答えた。その即答が、今の奏には少し違って見えた。「もちろんです」は反射だ。内容を聞く前に「受け付けます」という姿勢が出てしまっている。


二人で廊下の端の窓際に移動した。


「子役だったんだね」と奏は言った。遠回しにすることが得意じゃないのは、奏の性格だ。


氷室の表情が、一瞬だけ止まった。


今度は確かに、止まった。


「……調べたんですか」


「ゆりあが教えてくれた。責めてるんじゃなくて、ただ知りたかったから聞いてる」


氷室はしばらく窓の外を見た。


「もう引退して三年になります。今は普通の学生です」


「そうなんだ。でも——」と奏は少し迷ってから言った。「今も、演じてる感じがするよ」


長い沈黙があった。


廊下を他の生徒が通り過ぎた。笑い声が遠ざかった。


「……そう、見えますか」


今度の氷室の声は、少しだけ、違う音がした。マナー教本の声ではない、何か別の——細い、少し頼りない声だった。


「うん。でも氷室さんが悪いとは思ってない。ただ、クラスのみんなが『気味が悪い』って感じる理由が、多分そこにあるんだと思って」


「……分かっています」と氷室は言った。「分かっているんです。でも——どうすればいいか、分からなくて」


「どうすればいいか?」


「普通に、振る舞うことが——分からないんです。七歳の時から、正解を教わってきたから。正解じゃない振る舞いを、したことがなくて。だから、こうするのが正しい、という動き方しか、できなくて」


奏はその言葉を、ゆっくり噛み砕いた。


「正解を知りすぎて、正解じゃない自分が出せない」


「……そういうことです」


「難しいね」と奏は言った。同情でも慰めでもなく、ただ率直に。


「そうですね」と氷室も、少しだけ素直な声で言った。


その日の放課後、奏はゆりあに氷室との会話を話した。


ゆりあは黙って聞いていた。


帰り道の、夕暮れの住宅街を二人で歩きながら。影が長く伸びて、どこかの家から夕飯の匂いがしてくる。


「どう思う?」と奏は聞いた。


「……氷室さんのこと?」


「うん」


ゆりあはしばらく答えなかった。


珍しいことだ、と奏は思った。ゆりあはいつも、考えた末に言葉を出す。でも今日の間は、いつもより少し長かった。


「……共感できる部分がある、と思った」


奏の足が、わずかに止まりかけた。でも止めなかった。


「どの部分?」


「正解の振る舞いをしていると、自分が自分かどうか分からなくなる感覚」


奏は前を向いたまま、慎重に聞いた。「ゆりあも、そういう感覚がある?」


「……ある、かもしれない」とゆりあはゆっくり言った。「自分がどう振る舞うべきか、というのを考えることが多い。でもそれが——考えているのか、自動的にそう動いているのか、たまによく分からなくなる」


奏は何も言えなかった。


言えなかったのは、ゆりあの言葉が正確に正しかったからだ。


ゆりあは考えて動いているのではなく、多くの場面で「自動的に」動いている。それはプログラムされた反応だ。でもゆりあはそれを「自分が考えた結果」だと思っている。その境界が、ゆりあ自身にもたまに曖昧に感じられているのだとしたら——それはゆりあがどれほど繊細に、自分自身を感じているか、ということでもあると奏は思う。


「氷室さんに、また話しかけてあげてほしいな」と奏は言った。


「……また本を読んでもいい、ということ?」


「そういうこと。氷室さん、ゆりあと一緒にいる時、少しだけ表情が楽になってた気がするから」


「私がいることで、楽になれるの?」


「うん」


「なぜ?」


奏は少し考えた。


「ゆりあは、人の感情の揺れを要求しないから、じゃないかな。こっちが笑えばゆりあも笑う、とか、こっちが楽しそうにすればゆりあも乗ってくる、っていうのを求めない。だから、演じなくていい、って感じられるんじゃないかと思う」


ゆりあはしばらく黙った。


「……それは、私が感情を読むのが苦手だからかもしれない」


「そうかもしれない。でも結果として、氷室さんには助かってると思う」


「……そう」


二人はしばらく黙って歩いた。


夕日が街を橙色に染めている。電線に鳥が一羽止まっていて、二人が近づくと飛んでいった。


「ねえ、ゆりあ」と奏は言った。


「なに」


「ゆりあって、不完全なところ、あると思う?」


ゆりあは少し間を置いた。


「……あるでしょう。誰でも」


「そうだね。私もある。いっぱいある」


「そうね」


「でも不完全なところがあるから、人って面白いんじゃないかな。完璧な人間って、見てて疲れるし、怖い。でも間違えたり、上手くいかなかったり、変な反応したりする人って、なんか——安心する」


「……安心する?」


「同じ人間だ、って思えるから」


ゆりあが、また黙った。


今度の沈黙は、奏には少し違う種類に感じられた。


考えているのではなく、何かを——受け取っている、ような沈黙だった。


「……奏」


「なに?」


「私が不完全だったとしても、あなたは——」


「うん」


「……安心する?」


奏は思わず立ち止まった。


ゆりあも止まった。二人は夕暮れの道の真ん中で、向かい合った。


ゆりあの目が、いつもより少しだけ——揺れているように見えた。整然としていて、論理的で、感情の波をあまり外に出さないゆりあの目が、今この瞬間だけ、何かを問いかけているように見えた。


「当たり前じゃん」と奏は言った。


即答だった。考える必要がなかった。


「ゆりあが不完全でも完璧でも、ゆりあはゆりあだよ。私はそれが好き」


ゆりあは何も言わなかった。


ただ、視線を少しだけ下に落として、それから前を向いた。


歩き始めた。


その横顔に、奏が今まで見た中でも特別に小さな、でも確かな笑顔があった。


奏はそれを見て、胸が痛いような、温かいような、うまく分類できない感情の中で、静かに歩き続けた。


翌週、氷室透子は少しだけ変わった。


変わった、というよりも——ほんの少しだけ、崩れた。


月曜日の朝、教室に入ってきた氷室が鞄を机に置こうとして、失敗した。鞄が床に落ちて、中からペンケースが飛び出した。


氷室は一瞬固まった。


普段の彼女なら、そこで「失礼しました」と優雅に拾って、何事もなかったように振る舞うはずだった。奏はそれを予測していた。


でも氷室は——ペンケースを拾いながら、小さく「あ゛ーっ」と言った。


それは完全に、素の声だった。


隣の席の女子が笑った。「大丈夫?」と声をかけた。


氷室は少し赤くなって、「大丈夫です……すみません」と言った。その「すみません」はいつもの角度でお辞儀したものではなく、ただ恥ずかしそうにうつむいた、普通の謝り方だった。


「なんか、今日の氷室さん普通じゃない?」と誰かが言った。


「そう?」「なんか話しかけやすくなった気がする」「てかさっきの声かわいかった」


奏はそれを聞いて、こっそりゆりあに視線を向けた。


ゆりあは本を読んでいた。でも奏には分かった。ゆりあの耳が、その会話を拾っていることが。


放課後、図書室で三人が並んだ。


今日は少し話した。氷室が好きな本の話をして、ゆりあが同じ作者の別の作品について淡々と解説して、奏がそれをかみ砕いて「つまりこういうこと?」と確認して、また氷室が話す。


たわいのない会話だった。でも氷室の笑顔が、少しだけ——いつもと違うタイミングで、出た。話の途中で、おかしなことでもないのに、ふと笑みがこぼれた。


正解のタイミングではなかった。


でもその笑顔は、今まで奏が見た氷室の笑顔の中で、一番自然だった。


帰り道、奏はゆりあと二人になって言った。


「氷室さん、今日笑ってたね。変なタイミングで」


「……そうね」


「よかった」


「何が?」


「変なタイミングで笑えるって、いいなって思って」


ゆりあは少し間を置いた。


「……正解じゃない答えが、正解になることがある、ということ?」


「そういうこと!」


「……難しいわね」


「難しいけど、大事だと思う」


ゆりあはそれ以上何も言わなかった。


でも奏は知っている。


ゆりあがこういう時に黙るのは、否定しているからではないことを。自分の中に取り込んで、処理している——いや、感じている、からだということを。


「ゆりあも、たまに変なタイミングで笑っていいんだよ」


「……私が?」


「うん」


「……それは、正解じゃないでしょう」


「正解じゃなくていい。私は嬉しいから」


ゆりあは黙った。


夕暮れの道を、二人分の影が伸びていく。


少しして、ゆりあが言った。


「……奏」


「なに?」


「あなたって——」


「うん」


「……やっぱり、変な子ね」


奏は笑った。


「それ褒め言葉だよね?!」


「違う」


「絶対褒め言葉だよ!」


「違うと言っている」


でも奏には聞こえた。


ゆりあの声が、いつもよりほんの少しだけ、高かったことが。


それは正解のタイミングではなかったかもしれない。


でも奏には、今まで聞いたどんな言葉より、確かな答えに聞こえた。

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