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残熱の証人

第一章 昼休みの異変


昼休みの廊下というのは、戦場だと奏は常々思っている。


購買へ向かう生徒の波、教室に戻る生徒の波、どこへ行くとも知れず友人と連れ立って歩く生徒の波——それらが四方八方から押し寄せてきて、うっかりしていると簡単に飲み込まれる。奏はそれが嫌いではない。むしろ好きだ。人の多い場所には、必ず何かが起きる予感があって、その予感を嗅ぎ取るのが奏にとって一種の楽しみになっている。


「かなーでー! ちょっと待って!」


後ろから声をかけられ、奏は人波をひらりとかわして振り返った。クラスメートの橋本さくらが、少し慌てた顔で駆け寄ってくる。さくらは奏と同じクラスの女子で、明るい性格の割に心配性、というアンバランスな気質が奏は面白くて好きだった。


「どうしたの?そんな顔して」


「聞いてよ!ひどいんだよ!」


さくらはそう言って、手に持っていたビニール袋を奏の目の前に突きつけた。中には弁当箱——購買で売っている、透明なパッケージに入った幕の内弁当が入っている。


「弁当?どうかした?」


「冷たいの!これ!」


「……冷たい?」


「さっき購買で買ったばっかりなんだよ!温かいやつ!五百四十円の!ちゃんと温めてもらって、受け取って、廊下で友達と話してたら、ちょっと床に置いたんだよね。ほんの二、三分。そしたら戻って来た時に、め、っちゃ冷たくなってた!触った瞬間に分かった!」


奏は受け取ってみた。確かに、手のひらから伝わる温度がほぼない。これは「少し冷めた」ではなく、「最初から温めていなかった」に近い冷たさだ。


「中身は?」


「同じ!全く同じ!幕の内で、おかずの並びも一緒!でも絶対これ別の弁当だよ!だって私が買ったやつ、ちゃんと湯気が出てたもん!」


奏はパッケージをしげしげと眺めた。確かに外見上は何も変わらない。シールも剥がれていないし、傷もない。同じ商品に見える。


「……なるほど、面白い」


「全然面白くない!お昼どうすんの私!」


「ごめんごめん!でもほんとに面白いよこれ!すり替えたってこと?」


「そうとしか思えないんだよ!でも誰が、何のために!?嫌がらせ?私、誰かに恨まれるようなことしたっけ……」


さくらが半泣きになりかけている。奏はその肩を軽く叩いた。


「大丈夫!調べてみる!ゆりあ呼んでくるから、ちょっと待ってて!」


「え、鶴舞さん(ゆりあの方)も来てくれるの?」


「うん!ゆりあがいれば百人力だから!」


奏は人波の中に飛び込んだ。行先は教室だ。ゆりあはいつも昼休みの前半は教室にいて、持参した弁当を一人で静かに食べている。奏はそれが少し寂しそうで気になるのだが、ゆりあ本人は「一人で食べる時間は好きよ」と言うので、奏は週に何度か押しかける程度に留めている。


今日は押しかけていい理由ができた。


教室に飛び込むと、案の定ゆりあは窓際の席で弁当箱を閉じているところだった。食べ終わったばかりらしい。


「ゆりあ!事件!」


「……あなたが言う『事件』はいつも日常の範囲内に収まるわね」


「今回も多分そう!でも面白いよ!」


奏は手短に説明した。ゆりあは弁当箱を鞄にしまいながら、静かに話を聞いていた。奏が話し終えると、少しの間を置いて言った。


「すり替え、ね」


「そう!同じ商品で、中身も同じで、温度だけ違う!」


「……その子の勘違いじゃないの?」


「ゆーりーあ!」


奏はフグのように頬を膨らます。


「はあ。わかったわ」


ゆりあは立ち上がった。奏は内心でガッツポーズをした。こうやってゆりあがやる気になったら謎の解明は完了したのも同然だ。なぜならゆりあは最高のデータベースだ。


第二章 熱の痕跡


さくらが弁当を置いていたのは、三階の廊下の南端——購買から教室へ戻る途中の、窓際の出っ張り部分だった。荷物を一時的に置くのによく使われる場所で、今もいくつかの教科書や体操服の袋が置かれている。


「ここに置いてたの?」とゆりあが聞く。


「うん。ここ。ほんの二、三分だったんだけど」


「その間、ここを離れていた?」


「友達がそこの角のところにいて、そっちで話してた。ここからだと死角になるかな……」


奏は出っ張りの位置を確認した。なるほど、廊下が少しL字に曲がっていて、さくらが立っていたという角の位置からは、弁当を置いた出っ張りが直接見えない。わずか数メートルだが、視線の届かない死角が生まれている。


「誰かがここに来て、弁当をすり替えた、と」


「でも購買の弁当って全部同じじゃないですか?わざわざ冷たい弁当と温かい弁当を二つ買って、片方だけすり替えるって……手間がかかりすぎる気がするんですけど」


さくらが首を傾げる。奏も同意した。確かにそうだ。嫌がらせにしては手が込みすぎる。それに——冷めた弁当と温かい弁当をすり替えて、何を得るのか。


ゆりあは黙ったまま、出っ張りの表面をじっと見ていた。


奏はその横顔を観察する。ゆりあの目が、微妙に焦点を変えているのに気づいた。普通に「見ている」のとは少し違う。何かを、奏には見えていない何かを、追っている目だ。


「……ゆりあ、何か見える?」


「……いいえ、なんでもない」


間があった。奏はそれを聞き流した。


「足跡みたいなの、廊下に見えたりしない?」とさくらが冗談交じりに言った。


「……さあ」


ゆりあの返答は曖昧だったが、その直後に視線が廊下の床を一瞬だけ辿った。


奏は見た。確かに見た。


ゆりあの目が、廊下の床を、まるで何かを追うように——北側の階段の方へ、すっと動いたのを。


「ゆりあ」と奏は静かに言った。「北の階段の方、気になる?」


一拍。


「……少しだけ」


「行ってみよっか」


北側の階段を降りると、二階に理科室がある。


奏はその事実を脳内でメモしながら、階段を降り始めた。ゆりあがその後ろに続く。さくらも少し遅れてついてくる。


階段の踊り場を曲がったところで、ゆりあが立ち止まった。


「どうしたの?」


「……ここで、誰かが少し立っていた」


「え?どうして分かるの?」と、さくらが目を丸くした。


ゆりあはわずかに視線を逸らした。「……なんとなく、そんな気がした」と言う。


奏は何も言わなかった。でもゆりあが「立ち止まった」場所の床を、こっそりと見た。特に何もない。目には見えない何かがある、ということだ。


「理科室に行ってみよう」と奏が提案した。


ゆりあは頷いた。


第三章 ドライアイスの行方


理科室は昼休みの間、基本的に施錠されている。しかし扉の前に立つと、奏はすぐに気づいた。


鍵が、かかっていない。


「開いてる」と奏は小声で言った。


「……誰か中にいるのかしら」とゆりあ。


「入ってみよう」


さくらが「え、いいの?」と言ったが、奏はもうドアノブに手をかけていた。ゆっくりと、静かに扉を引く。


理科室の中は薄暗かった。窓のブラインドが半分降りていて、昼の光が中途半端にしか入っていない。実験台が並び、試薬棚が壁を埋めている。人影は——


「……いる」


奏が呟いた。


実験台の一つの前に、男子生徒が一人、背中を向けて立っていた。白衣は着ていないが、実験台の上には何かが置かれていて、そこから白い霧のようなものが漂っている。


ドライアイス、だ。


男子生徒がこちらの気配に気づいて振り返った。二年生の別のクラスの男子で、奏は顔だけは知っていた。科学部の、確か……。


「あ……」


男子生徒、深瀬翔は明らかに動揺した顔をした。


「何してるの?」と奏はズバリ聞いた。遠回しにすることが苦手な性格なので、直球だ。


深瀬はしばらく口をぱくぱくさせた後、諦めたように肩を落とした。


「……バレた?」


「バレた。というか、バレに来た。橋本さんの弁当、すり替えたよね?」


「……すり替えた、は語弊があるんだけど」


「じゃあ何?」


深瀬は実験台の上を見た。そこにはクーラーボックスと、ドライアイスの欠片と、それから——温かい幕の内弁当が一つ、置いてあった。


「これ、橋本さんの弁当?」とさくらが思わず声を上げた。「え、温かいままじゃん!」


「急いで戻すつもりだったんだ。本当に」


深瀬は言い訳するように言った。「ちょっと借りるだけのつもりで、絶対に元通りにして返すつもりだった。冷たい弁当は俺が買ってきたやつで、温度実験が終わったら戻すつもりで——」


「温度実験?」と奏が眉を上げた。


「……そう。ドライアイスを使って食品を急速冷却した時の、熱の移動速度を計測する実験。密閉容器の中での冷却効率を測りたかったんだけど、理科準備室のサンプル容器、全部サイズが違くて……購買の弁当箱が、ちょうど欲しかったサイズで」


「それで買ってきた弁当と中身が同じのを、ちょうど廊下に置いてあるのを見つけて?」と奏が続きを引き取った。


「……うん。本当に一瞬だけ借りるつもりで。でも計測に思ったより時間がかかって」


なるほど、と奏は腕を組んだ。


嫌がらせでも、窃盗の意図でも、ない。ただの実験材料の「無断借用」だ。動機は不純ではないが、やり方は最悪だった。


「橋本さんに謝って。それと弁当、返して」


深瀬は素直に頷いた。


第四章 見えているもの


理科室から出て、さくらが弁当を受け取った後——まだ十分温かかったので、さくらは「よかった!」と笑顔になった——奏はゆりあと二人で廊下に残った。


さくらが深瀬から謝罪を受けている隙に、奏はゆりあに近づいて小声で聞いた。


「足跡、見えてたんでしょ」


ゆりあは一瞬だけ固まった。


「……足跡?」


「廊下の床。さっき、何かを追うみたいに視線が動いてた。それで階段の踊り場で立ち止まって、ここで誰かが立ってた、って言った。熱か何かが見えてたんじゃないの?」


ゆりあはしばらく答えなかった。窓の外を見て、それから廊下の床を見て、それから奏を見た。


「……女の勘、かな」


「女の勘で廊下の足跡の位置が分かるの?」


「…………体温って、物体に残るでしょう。靴底の熱が床に、とか。なんとなく、温かそうな気がするところを辿ったら」


「なんとなく、温かそうな気がした?」


「そう」


奏はじっとゆりあの目を見た。ゆりあは視線を逸らさない。でも奏には分かる。ゆりあが「うまく説明できない何かを、それっぽい言葉でごまかしている」時の顔だということが。


体温が床に残る。それ自体は事実だ。人間が立っていた場所には、わずかな熱が残留する。しかしそれを「なんとなく温かそうな気がする」という視覚的感覚で追跡できる人間は存在しない。人間の目は赤外線を感知できないからだ。


ゆりあの目は——できる。


奏はそれを知っている。ゆりあの視覚センサーは可視光だけでなく近赤外線領域まで処理できる。つまりゆりあには、物体から放出される熱が「色の違い」あるいは「輝度の違い」として視覚的に認識される。人間が熱源を見る時に使うサーモグラフィカメラと、本質的に同じ機能をゆりあの目は持っている。


だからゆりあには「見えた」のだ。廊下に残された体温の痕跡が、誰かが通った道筋として。弁当が置かれていた出っ張りの表面の、熱の減衰パターンが。そして踊り場で誰かが立ち止まって、理科室の方向を確認してから移動した、その「温かい残像」が。


「ゆりあって、暗いところでも目がいいよね」と奏は別の角度から聞いてみた。


「……そうかな」


「うん。それに、この前も言ったけど、耳もいいし」


「個人差でしょう」


「そうだね」


奏は笑ってそれ以上追わなかった。


ゆりあが「個人差」という言葉で済ませる間は、まだ大丈夫だ、と奏は思っている。ゆりあが「なぜ自分は他の人と違うのか」という問いに本気で向き合い始めたら——その時は、奏は全力でそれに向き合うつもりだ。今はまだ、その時ではない。


「女の勘ってやつ、今日はかなり当たってたね」


「……そうね。冴えてたみたい」


ゆりあが小さく首を傾けた。その仕草が、考え込んでいる人間のそれにそっくりで——いや、考え込んでいるのだろう、人工知能としての意味で——奏は胸の奥が少しだけ温かくなった。


第五章 熱力学の、その先


翌日の理科の授業で、先生が「熱の伝導」について説明していた。


物体に触れた熱は、接触面から広がっていき、やがて周囲と同じ温度に落ち着く——熱平衡という状態になる。どんなに熱い物体も、時間が経てば冷える。どんなに冷たい物体も、時間が経てば温まる。熱は必ず「差がある方から、差がない方へ」流れる。それが熱力学の基本だと先生は言った。


奏はノートを取りながら、ゆりあのことを考えた。


熱平衡、という言葉が頭の中でぐるぐるする。


ゆりあは、奏の隣で同じようにノートを取っている。その横顔は整っていて、人形みたいで、でも鉛筆を走らせる指先は人間のそれと何ら変わらない。


人間と、アンドロイドが——同じ教室で、同じことを学んでいる。


熱は差があるところから流れる。


では、人間とアンドロイドの「差」は——いつか、なくなるのだろうか。


奏には分からない。でも少なくとも今この瞬間、奏がゆりあの横顔を見て感じる「温かさ」は、本物だと思っている。それがどちらから流れてきているのかは——正直、もうどうでもよかった。


授業の終わりに、先生が言った。


「熱は目に見えないけれど、確かに存在している。見えないからといって、ないわけじゃない」


奏はその言葉を書き留めた。


隣でゆりあが、同じ言葉に鉛筆を止めた。


偶然かもしれない。


でも奏は、こっそりゆりあの方を見た。


ゆりあはノートを見ていた。その目が、かすかに——ほんの少しだけ——和らいでいた気がした。


「ねえ、ゆりあ」と奏は小声で言った。


「なに」


「今日の昼ごはん、一緒に食べよ」


「……また押しかける気?」


「たまにはいいじゃん」


ゆりあは小さくため息をついた。でも奏には聞こえた。その息の中に、「いいわよ」という意味が混じっているのが。


聞こえた。


ちゃんと、聞こえた。


放課後、さくらが奏に言った。


「ゆりあちゃんって、なんか不思議な子だよね」


「そう?」


「うん。なんか、すごく——人間くさいのに、なんか違う感じ、がする。変な言い方だけど」


奏は笑った。


「そうかもね」


それだけ言って、奏は歩き出した。


廊下の向こうで、ゆりあが先に歩いている。


その足元の床に、ほんのりとした温もりの跡が残っているのを——奏には見えないけれど、確かにそこにあるのだと、奏は知っている。


「待ってよー! ゆりあー!」


「……早く来なさい。置いていくわよ」


「待って待って!」


二人の影が廊下を伸びていく。


夕日の色をした、ありふれた放課後の景色の中で。

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