黙ってあんたは守られてなさい
最後の病花と対峙しているヴィラを砦の屋根から見下ろす。矢をつがえても届かない程に遠い。今回は屋根の下テラスにチェイザリーが立っている。よくぞカジャの居場所を嗅ぎ付けてきたものだ。いや、今更、ようやくか。特に咎めるでもなくチェイザリーは病花の方角へ顔を向けていた。
病花を飲み下すヴィラは遠くから見ていれば何をしているのか分からない。何を考えているのかも。
「ケイアルティス・ザグアイナは、一体何をしたんですか?」
ここにはチェイザリーしかいない。風が強くカジャの髪をぐしゃぐしゃに巻き上げてかき混ぜていく。
もう旅は終わりに近い。早い旅だった。強行軍をしいたわけでもないが聞かされていた予定よりも早い。もしかしたらヴィラが子供を作る気になるよう落ち着いた時間を取るつもりなのかもしれない。旅の間では体力も失われるばかりだろう。よりよい子供が欲しいと考えている国ならばそれくらい計画していそうなものだ。
ヴィラが望む言葉を与えたザグアイナ。他の騎士と何も変わらず国の未来のために残酷な仕打ちに目を瞑っていた英雄。100年たった今にも受け継ぐ不名誉な罪を残したという騎士。ちぐはぐなその残像はどれもまるで繋がらない違う男の話のようだ。
パンドラの業から逃げないというヴィラ。そう言いながら苦痛に顔を歪めるヴィラ。
「彼はパンドラの騎士の使命をまっとうした後、ルグワイツ様が眠りにつく日」
チェイザリーは伝える気があるのかと問いたくなるような風にさらわれることを気に留めない普段の声で喋る。
「神殿を強襲しました」
これはきっと記録にない、本当の物語り。
「一族の静止を振り切り、パンドラのありかたを否定する直訴を出したザグアイナは反逆の意により謹慎を受け、それをはねつけて剣を振るった。騎士にあるまじき、あまりにも愚かな狂人の如く」
「ヴィラが眠りにつく直前にザグアイナさんに会ったと話していたのは?市井に流通している本にはまるで模範的なパンドラの騎士として語り継がれている。その話の騎士とは随分とかけ離れた行動よね」
微かにカジャを見上げてチェイザリーは小さく自嘲した。その口元はすぐに手で隠される。
「貴方をルグワイツ様の眠る神殿に侵入させまいと多くの騎士が守りました。だというのに貴方はあまりにも強く、ルグワイツ様の元まで辿り着いてしまった。それでも致命傷は避けられなかったんですね。連れ去る力はもう無いと判断した貴方はルグワイツ様に想いを告げなかった。だから最後の別れを邪魔せず見守る事になったんです。何よりパンドラの前でルグワイツ様に信頼をいただくべき騎士の失態を知らせるわけにもいかなかったから。そうして貴方が侵入者であるという事実を伏せ、いもしない敵を討ち取り神殿を守り傷ついたのだと偽りが作られた。ルグワイツ様だけではなく、公の真実として」
苦い顔でチェイザリーが顔をそむける。そういう顔でいつもカジャを見ていた。旅の間、何度も言葉を飲み込んで。
「ケイアルティス・ザグアイナは世間から抹消するには働きも大きかった。神聖なパンドラの騎士が、こんな愚かなことをしたなどという事を残してはならなかった」
「それに、パンドラの騎士に今後ザグアイナさんのようなヴィラを解放しようという考えを持つ者が現れないとも限らない。だから、いっそ信仰を高めるための物語りに書き換えて残すことにした。事務的なパンドラの物語りとは別に、誰もが憧れて目指し、これぞ正義と言われる物語りに」
カジャが代わりに推測の話を紡いだ。裏に隠された真実を、巧みに歪ませたであろうものを。
「罪が消えることはありません」
チェイザリーは苦悩を滲ませる。
「表向きには見えずとも、我が一族は反逆を疑われ、けして重用されることはない。目をつけられ、あらゆることを管理され、打ち捨てられた貴族は落ちぶれていくだけ。足掻くことも許されない、この不名誉な罪から」
「……パンドラの騎士の任命がよく回ってきましたね。これ、栄誉職でもあるんでしょう?」
「表の歴史上では英雄の一族です。周りの推薦が高まれば、いかに中枢とはいえ不自然に却下はできません。それだけです」
ザグアイナ、彼が次の機会を望んだ本当の理由は。
「貴女は、償い、己の始末をつけなくてはならない。そうでなければ、なんのために今、再び姿を現したというのか」
助けられなかった後悔の、辞世の句。
ヴィラが眠りについたすぐ後、ケイアルティス・ザグアイナは背中から切り捨てられて処刑されていた。享年27歳。ヴィラが記憶する最後の姿は、等しく彼の人生最後の場面だった。
「私はザグアイナさんじゃないって言ってるでしょう」
ザグアイナだからヴィラとの約束を守ったわけではない。最初は約束という言葉に意地が引っかかっただけ。そしてカジャが今ここに存在するのは、ただ1人の少年を開放したいと願って逝った不器用な武人の無念が呼び寄せた縁だけ。
城に向かって馬車が走っていた。予定にあった全ての災いを収束させ今世紀の神話を作り終えた神は、城に戻れば何百年もの因習通りに封じられる。再び開花する災いの時まで。
馬車の中で他愛の無い話をするヴィラ。最初の頃はむしろカジャの方がたくさん話題を提供していたように思う。
ヴィラはとめどなく話し続ける。何が流行しているみたいだ、今時はこうなんだね、さっきの町でこんなトラブルがあったらしい、これが美味しかった。
もうすぐ別れの時が来る。
ヴィラのお喋りに頷きながら、どうしてこの少年は笑っていられるのかと思う。泣きもしない。すがりもしない。
「それで新作の服だからって持ってきたのが500年前に流行っていたデザインと同じだったもんだから」
言え。
「これと同じような物を持っていたなあと口にしてしまって」
助けてと、ただ一言でもいい。
「それは誰の作品だ!?って問い詰められて、これは不味いと思ったからはぐらかそうとするんだけど」
それだけで全て賭けても構わないと思えるぐらい、命を刹那に変えてもいいと思えるぐらいに、言葉を待っている。黙って耐える子供の笑っている顔ほど見ていて不愉快なものはない。
口を動かしているヴィラの顔がいぶかしげに歪んでカジャを覗き込む。
「昨日は夜更かしでもしたの?生返事ばかりだと寂しいんですけれど?」
「あんたさあ」
馬車の外に見えるカジャがよく知る景色に目をやる。
「私ん家には来てなかったわよね。今日は宿じゃなくて私ん家に泊まってきなさいよ。パンだけじゃなくて、今日は手料理作ってあげるから」
「それは魅力的な誘いだけど」
ヴィラは向かい側に座る壮年の騎士達に目をやる。軽く目を瞑って旅の間始終重苦しく座り続ける男達。果たして気疲れしたりしないのだろうか?
マルテアンが頷いた。
「家の外周に見張りを立たせましょう」
口を閉じて目をパチクリさせたヴィラは、しかし、期待されている内容に気づいて苦笑を浮かべる。カジャも素知らぬ顔で享受しているので「楽しみだね」とだけ答えた。
ヴィラはカジャに助けてとは言わない。
ならば命を懸けて反逆者となったザグアイナには、その言葉を放ったのだろうか?
久方ぶりのボロ家はまず掃除する必要があった。ハタキをヴィラに持たせた時点でワイエルンが真っ青になって取り上げる。箒を持たせれば苦虫を噛み潰した顔でチェイザリーが取り上げる。雑巾を投げれば名前が分からない騎士に叩き落される。
「一晩寝る場所を軽く掃除させるくらいなんでもないでしょうが!」
「パンドラに恐れ多いことを平気で強要するんじゃない!!」
ワイエルンですら掃除道具なんて扱ったこともないだろう貴族のボンボンだ。その中で、ああだこうだと騒がしく言い合いをする横から「これってどうやって使うのかな?どれが一番面白いの?」とヴィラが手を出したものだから、あれよあれよと騎士がそろって民家の掃除をすることになっていた。
窓から夕日が差し込む中、静かに埃を舞わせていただけの部屋が賑やかに片付けられていく。
やっと綺麗になって落ち着くと「外にいるがルグワイツ様に妙な物だけは食べさせるなよ」とワイエルンに言い含められながら扉は閉じられて2人きりとなった。
調理場に立ったカジャは町で手に入れてきた食材で、手早く颯爽とテーブルに料理を並べていった。旅の最中に出された料理の中から抜きん出て質素かつ地味な料理の数々をヴィラは物珍しそうに覗き込む。テーブルにおよそ代表的な家庭料理を並べ終えると、カジャは外にいる騎士が外で食べやすい軽食まで作り外へ配りに出た。
貴族連中ときたら微妙な物を見る目ではあったが、交代までの間は何も口にできないのと「パンドラが口にするものを毒見しないのか?」という大義名分を押し付けられたこともあって渋々口にした。それを見届けてからカジャは室内に戻り、ヴィラの待つ席につく。
まるで普通の家庭の姉弟のような食卓だった。
「これは美味しい」
「あ、好き嫌いせずに食べなさいよ。それを避けるんじゃない!苦いけど栄養があるんだから」
「この苦味は失敗しただけでしょ?」
「んなこと言う奴は食わさんぞ」
単なる1日の終わりを締めくくるだけのような晩餐。
食事を終えると食器をテーブルに置いたままカジャは立ち上がった。
「なんだか新鮮な気分だね。こんな食事、したことあったかなあ」
後ろに穏やかなヴィラの声を聞きながらカジャは扉を薄く開いた。夜の田舎町は真っ暗で、明かりはほとんどなく視界は果てしなく暗い。何があるのかもよくわからない隙間にズルリと人が座り込んでいて地面に倒れるのがヴィラにも見えた。
カジャは何も言わずにすぐ取って返し、広げていなかった荷物をつかんでヴィラの腕をつかんだ。
「来なさい」
「……カジャ」
軽い抵抗を無視してカジャは扉を広げ、地面に転がる意識のないワイエルンをまたいでヴィラを暗闇の中に引きずり出した。
家の周囲で見張っているはずの騎士の誰も現れない。
「まさかカジャ」
「あんたを誘拐するわ。食料買うついでに馬車を雇ってある。そこから川舟に乗れば一晩でかなり距離をとれる。港から船に逃げ込めば簡単に足取りなんかつかめない。城から一番近い港だからかなりでかいし路線も多いわ。勝負に出るならココが一番煙に巻けるはずよ」
「なんてことを。薬を盛ったんだね」
手を振りほどこうとするヴィラの手首を握り直し家から少し距離を置いてカジャは駆け足になっていく。
「加減はよく分からないけど、ちょっと間違っても死ぬことはないらしいわ」
狭い町の端はすぐだ。粗末なホロ馬車にクタビれた男がのんびりと手綱を握って座っていた。カジャを見て小さな灯りを掲げ静かに挨拶をしている。
まだ馬車の男が会話を聞き取れない位置で一度立ち止まったカジャは戸惑っているヴィラをようやく振り返って強く見据える。
「あんたは私の弟として生きていけばいい。神話の中に生きて人間を捨てるなんて許さない。そうよ、私が許さない。助けてと言うまでなんてもう待ったりしない」
「すぐに引き返そう。性質の悪い冗談ですむ内に。僕は望んでいないよ。こんなこと望んでないっ」
「そうよ。これは私とザグアイナのエゴなんだから」
「……何か思い出したの?」
言うべきか?
ザグアイナは、黙っていて欲しいだろう。生真面目なくせに使命をやりとげる直前になってエゴに負けた男なのだから。この少年の自由を夢見たことを最後に告白せずに別れた騎士の想いを考えれば。
だが言うべきだったのだ。
独りではないことを思い知らせてやるべきだったのだ。
口を開こうとして、カジャはハッとヴィラの後ろを見る。暗い影に男が立っている。ガッチリとした体格の暗い目を。剣の柄に手をかける男の顔は見えなくとも分かる。
「本当は最初から全て覚えていたのでしょう?」
ヴィラも気づいて振り返り、後ずさる。
「記憶を呼び戻すきっかけになる魔法でも残してあったといったところですか?貴方は狂っていたけれど、とてもそうは思えないくらい冷静沈着で、堅実で、文武に優れていたそうですものね」
「最初から信用してませんってか」
まだチェイザリーとの距離はある。
「貴方が呪詛を残したりするから、国の中枢では100年、ずっと貴女が生まれてくる時を戦々恐々と見張り続けてきました。平民の、女性に生まれ、記憶があるようにも見受けられない。だから刺激することもないと、処分は先送りにされてきました」
『現国王陛下がとても腕の良い術師を呼び寄せてくださってね。こんなにすぐ見つけたという報告を受けるなんて、君に会うまでは今の術師はイカサマかとても優秀なのだなぁって半信半疑だったんだ』
ヴィラが願うよりも前から、とっくにザグアイナの生まれ変わりは見定められていたわけだ。なんならカジャがこの世に生まれ出でた頃には危険人物としてナイフを突きつける用意がなされていたと。
チェイザリーの剣が引き抜かれたことで会話の内容が把握できずに疑問符を浮かべていた雇われ御者が「な!?なんだ!」と声をあげた。同じく戸惑いながら必死に会話を読み解こうとしていたヴィラも動いた。
一方的につかんでいたヴィラの腕が振り払われ、逆にカジャの腕が強く握り締められた。ヴィラがチェイザリーとは逆の馬車に跳んでカジャを引きずり上げる。
「強盗だ!早く逃げて!!」
言われずとも振り上げた鞭が馬を打ち飛び乗ったと同時に馬車が走り出した。走ってきたチェイザリーの手が馬車の縁に指先を触れさせる。その側に膝をついてカジャは手で打ち払った。
距離が離れていく。激しい憎悪が間近でカジャに向けられた。口の動きは何故かよく見えた。
『コロシテヤル』
走るのを急に止め、別の方へ走っていく。間違いなく報告に向かったか馬を取りに行ったのだろう。予定よりもかなり急がなくてはならなくなった。川の舟は馬より早いが、舟を出してくれる船頭は朝に起きる。叩き起こして金を相場の何倍も渡して。
肩をつかまれる。
振り返れば顔を歪めたヴィラがしゃがんでいた。いつもよりも強い語気が微かに震えながら押し出される。
「説明、して」
どれほど急いでいたとしてもそれぐらいの時間はあるだろう。昔話をすり合わせ、表には語られなかった物語をバラしてしまうぐらいの時間は。
まだ暗い中、不機嫌ながら舟を用意してくれる船頭を見下ろしながら渡し板の側でヴィラは腕を組んで黙っていた。カジャが語ったものに何を感じて、何に怒っているのだろうか。それとも不安にかられているのだろうか。少なくともその怒りはカジャにも向いているだろう。ザグアイナにも。
舟の準備が済んだと手招きする船頭。
「君だけ逃げてくれないか」
ヴィラの声は平坦で抑揚も無い。感情を読ませないような意図を感じる。
「もはや僕が帰るだけでは君は許されないだろう。港から他の国へ逃げれば追う手立ても少ない。他国ならリスクを負ってまで君を捕まえようとはしないはずだ」
「あんたも行くのよ」
「パンドラなんていなくとも問題がない国も確かにあるんだろうけれど」
「この国だってヴィラがいなければいないで、どうすればいいか考えるわよ」
「それまではきっと戦争も起きるだろうね。100年前各国が終戦宣言を出した理由は僕の恩恵を受けたいという泣き寝入りによるものだった。僕がいなければ考えるだろうね。そしておそらくパンドラの代わりを求めて無差別に実験は繰り返される。急激な変化を受け入れるまで相当な混沌に堕ちる」
「自分が人柱になってる方が平和で良いって?あんたどんだけ良い子ちゃんなの。反吐が出るわ。会ったこともない他人の幸せは他人に任せてりゃいいのよ!」
船頭が呆れた声をあげる。
「事故にあった母ちゃんが危篤で急いでるんだろ?人を叩き起こしといて待たせるんじゃねえよ」
カジャの背を押してヴィラは舟に向かって歩く。カジャの手はヴィラの腕をつかんでいる。舟にカジャが足を踏み入れ、次いでヴィラを引きこもうとするカジャと向き合った。
ヴィラは自由な手でカジャの反対の二の腕をつかむ。軽く引き寄せられた体に、傾いたカジャの顔にヴィラが己の顔を寄せて。
「僕はね」
火花が散ったかと思う勢いで額同士がガツンとぶつけられた。
「ったああああ!?」
カジャは額を押さえて座り込む。まさかの一撃に涙が浮かんで驚いてヴィラを見上げた。笑ってヴィラは舟を蹴った。渡し板から舟が離れてしまう。船頭は漕ぐでもなく疑問符を浮かべ、カジャは焦って手を伸ばす。
「僕はたくさんの知り合いが残してくれた子供達を見守りたいんだよ。守らなければならないと一度感じてしまったら、君なら分かるだろう?見捨てられない。それに、僕が一緒に逃亡なんてしたら他の国へ干渉するリスクを負ってでも追いかけてくるよ。そんな旅に君が縛られているのなんて見たくないんだ。カジャ・ケイアルティス・ザグアイナ、君は僕の代わりに自由に旅をして、自由に生きて、自由に笑っていて欲しい」
まだ暗い川岸、飛び込めばまだ、まだ、まだ手が届く。
「ありがとう」
幸せそうに笑う神様は
「信じられないくらい生真面目で、無茶苦茶で、誠実な、僕の騎士―――――」
助けなど求めていなかった。
旅が終わって城で過ごす期間に少しのゴタゴタがあった。ヴィラはカジャが残していったザグアイナの本を優しく撫でてページを開きペンを取った。コールドスリープに入るまでに許された期間、ヴィラは昔を思い出しながら記憶を書き込んでいた。
ザグアイナとの出会い、彼以外の騎士とのやりとり、カジャから伝え聞いた真実、目覚めた後の今回の旅、カジャとの出会い、賑やかな風景。知り合いの子孫を招いて挨拶したり、小さな子供がいれば抱かせてもらい、顔のよく似た血族を眺めたことも。そこにザグアイナはいない。けれど、言葉をかわした誰かの血を受け継いだ者達は毎回数を増やしていく。その名を告げても誰も会ったことが無い遠い血の繋がりだったとしても。
城では万が一に備えて子供をどうの、逃亡した危険人物の消息がつかめないがどうのと慌しい。それを隙間に書き込む頃には本の余白も足りなくなってきて、仕方なく紙を何枚も貼り付けてページを無理やり増やしていった。
今回はこの本と共に眠りにつくつもりだ。外気に晒し続ければ紙などすぐに風化して読めなくなってしまう。残しておきたい物をあまりヴィラは持たない。だから寄せ集めても少ししかない私物。
けれど己の頭にある記憶だけは全て残していける。
カジャのこれからを思えばあまり楽しかったで済ませられないのだが、それでも多くを貰った今回の旅はヴィラのこれからを強く優しい気持ちにさせるだろう。ザグアイナに関しては申し訳ない気持ちと切なさが胸を焼くが。
この感じを100年後カジャの生涯を知った時にまで与えられなくない。罪の追求を止めるよう命じる権力など持たないに等しいが、幸せであるように祝福するぐらいは許されるはずだ。なんと言ってもヴィラは神なのだから。
神官に導かれて神殿を今、登って行く。封印の間に辿り付けばそこには今期のパンドラの騎士が膝をついて並んでいた。入口の近く末席にいたワイエルンに目を向けてヴィラは一度立ち止まった。
「カジャはまだ無事かな」
おそらく全員に聞こえているだろうが構わない。逃げる意思がパンドラにあるかもしれないと危険視される可能性があったとしても、このままではグッスリと眠ることもできない。
ためらいながら床に視線をさ迷わせるワイエルンの代わりにハンチェスタが口を開いた。
「面目次第も無く、まるで消息はつかめておりません。あの者の思考回路はご存知の通り予想できない部分がありますので」
「それは良かった」
騎士の間を通って祭壇を登り定位置につく。見下ろしたパンドラの騎士達。彼らもこれで見納めとなる。
神官が祭壇の周りを囲んで呪文を唱えていく。何人もが大掛かりで時間をかけて準備する術。後は発動を促すだけなのだ。足元が温度のない水晶に変わっていく。見た目には寒々しい氷に包まれるように。こうなれば何があっても止まることはない。
本を抱きしめるとじんわりと熱を持っているように錯覚した。
「僕の旅を支え守護してくれた偉大なパンドラの騎士達に大いなる祝福と感謝を。そしてここにはいない僕の愛すべき付き人へも。どうか、僕の眠るこの100年を平和に保って欲しい」
神殿の扉が勢いよくパンと開かれた。
逆光で一瞬見えない人の姿が、颯爽と騎士の間を駆け抜ける。反応できた騎士はハンチェスタ1人。剣を引き抜いて前に躍り出たが、その剣は細い体からは想像もつかない剣戟で跳ね上げられ横をすり抜けた。
階段を駆け上がった顔に驚きで目を見開いたヴィラは唖然とする。
剣を片手にぶらさげ、もう片方の手を無造作に伸ばしたカジャはヴィラに巻き込まれて固まっていく足元に無造作に踏み込んだ。本が宙に落ちた姿で固まった。
「カジャ!?どうして」
「ルグワイツ様、伝言を預かっております」
水晶の勢いは速度を増して一気にカジャごと腰まで絡まった。術が激しさを増して祭壇の下までしか近づけなくなった騎士も驚愕の顔で乱入者を凝視する。ただ1人、ワイエルンだけが密かに苦い顔で手に汗を握り表情を消そうと試みていた。このトラブルを『事前に知っていた』と気取られるあらゆる表情を。
カジャは彼女が持つどの顔でもなくヴィラが昔よく知っていた男の表情で言った。
「国がパンドラに頼る姿を単に見守るというのなら、カジャが変わっていくように働きかける役目を担いましょう。独りが平気だとうそぶくのなら黙って付き合いましょう。それが俺が出せなかった彼女の答えです」
「ザグ、アイナ……」
信じられない想いで呟くヴィラに彼女はゆっくりと瞬きをして笑いかける。
「ガキが強がってたって痛いだけなのよ。黙ってあんたは守られてなさい。守ってやるわよ。ヴィラの国で」
唖然として、それからヴィラは泣きそうなそれでいて噴出しそうな笑顔になり、2人の全身が青い透明な水晶で覆われた。
残った波動が開いたままの扉にかけて風を流しながら神殿は静まり返った。
コールドスリープに入った水晶の中の人影は2つ。1000年にも連なる歴史の中で、かつてありえたことのない、終幕。
100年経たねば2人がどうなったかを知る術はない。
はたまた、律を破って大仰な術を解けばコールドスリープは解けるのだろうが、再び術の準備にかける時間は比例してパンドラの寿命を進める。
この時代を生きている人間が100年を今から生きることはできない。
だから今語れる真実は1つ。
カジャはワイエルンと接触して説得した。ワイエルンが職務をまっとうしようと自首を呼びかけるのに対してカジャは逆に強く情に訴え続けた。苦悩しながらもワイエルンは妥協した。けしてヴィラを連れて逃亡を図らないこと。それを誓ったカジャを信じる根拠はなかったが彼女が不義理を厭うことを知っている。
彼女がワイエルンに求めた協力は2つ。
襲撃を邪魔しないこと。これは誰かに情報を洩らすことも含まれる。
もう1つはケイアルティス・ザグアイナの記憶を呼び起こす手助けをすること。この世界には魔法がある。カジャは信じていないと言った魔法。存在しないと断言した前世。だがヴィラが本当に1000年の時を超えたというのならば魔法は存在するのだ。魔法があるのならば前世の記憶を呼び起こす魔法だってあったっていいだろう。
そうは言っても魔法とて万能ではない。前世の記憶を取り戻すなど荒唐無稽、夢物語のまやかしだとワイエルンは言い切ったが、ワイエルンはパンドラが城で歓待を受けている間中その魔法を使うことができるという術師を金に任せて探すはめになった。
ここまでが現在の人間が知りえる情報の限界。
本当に100年前の騎士が少年の元へ辿り着いたのか、それとも彼女が作った奇跡の大立ち回りが為しえたものだったのかはそれこそ100年後に少年にしか語られない、物語り。