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「春」
それは冬眠から目覚めた一部の動物が、温かい時期に子育てをするため、繁殖活動をする季節である。
春が来る――それは時折人間にも当てはめられ、彼氏や彼女ができることにも例えられた。
そんな春を長く待つ女が、ここにいる。
瓶底眼鏡の奥で黒光りする漆黒の瞳、鼻はつんと高く、唇はいつも一文字に結ばれている。髪は全く染めた気配がない黒髪で、重そうな重量のそれは後ろできゅっと結ばれていた。
地味な外見。真面目で堅そうだという印象しか与えない。
だから、誰も彼女がそんな願いを持っていることなど想像することもなく……。
彼女は、ただ一途に、誰に気付かれることもなく彼氏という存在に焦がれていた。
そうして流れる月日。
彼女はいつの間にか二十三歳になっていた。
一年前に真面目さが功を奏して就職活動で勝ち残り、大きな企業ではないが安定した会社に就職した。
それから一年、若さ溢れる新人女子社員として過ごしたが春の兆しはなく――週末だというのに、畳の上に横になり、いつものようにお気に入りの少女漫画をパラパラと読んでいた。
その漫画は、地味な少女がある日、学校一人気の生徒会長と廊下でぶつかり、彼女の眼鏡が壊れたことから始まる王道ラブストーリーであった。
二十三歳という年齢、そんな漫画を読んでいる場合ではないのだが、彼女は愛読していた。
彼女――黄沢鮎美は、いつもならさらりと流す場面で、ふと目を止めた。その場面は、眼鏡を落とした瑠璃に見惚れる生徒会長が描かれたページ。
満開の花が描かれ、まさに春が来た!というような華やかなコマがそのページの大半を占めていた。
彼女くらいの年齢、いや、すでにこのような話は現代の中学生であれば鼻で笑う話かもしれない。しかし鮎美はそれを真に受けた。
手に持った漫画を丁寧に机の上に伏せると、財布と保険証を持って家を飛び出す。
足取りは軽く、向かう先は眼鏡屋だった。
眼鏡をはずしたら、春が来る!
彼女はそう信じ、あるアイテムを購入した。
§ § §
「なんで入らないのよ!」
翌朝、鮎美は苛立った様子で、通算六回目だろうか……。左人差し指と親指で瞼を抉じ開け、右手の人差指にのせた小さなプラスチックの破片を眼球に差し込もうとしていた。
昨日、眼鏡屋で購入した際に店員と何度か練習し、付け方はわかっていたはずだった。しかし、一人でつけるとなると勝手が違うようで、小さな破片は何度も洗面台の中に滑り落ちていた。その度に透明な破片を失いかけるのだが、彼女は焦りながらも探し出し奮闘する。
そういう格闘を経て、やっと鮎美の両目に魔法のアイテムが宿る。
鏡の中に映る変身した自分……。
同僚達が眩しく自分を見る様子を想像し、彼女はにまりと笑った。
「おはよう。鮎太」
先ほどまでの苛立ちは嘘のように消え、いい気分で階段を降りる。すると制服を来て、道着を入れた黒い袋を担ぐ弟の姿を見かけた。弟は小学六年生で剣道部所属。十一歳も年が離れており、姉からするとまだ幼いような感覚が拭えない。しかし姉の思いとは裏腹に少年は部長にも選ばれ、朝連も毎日欠かさず通うしっかり者と校内では評判のようだった。
「あ、おはよう。ねーちゃん。あれ、眼鏡なしだ」
玄関に向かおうとしていた鮎太はふと足を止める。
ど近眼の鮎美は寝る時以外はいつも眼鏡をかけている。眼鏡歴は十年を超え、弟にとって眼鏡姿の姉が普通だった。
意外そうな鮎太に姉は少し満足感を覚える。
「なんか変な感じ」
が、その後に続いた素直な弟の台詞で、額に八の字を寄せた。
「あ。眉毛。ねーちゃん。眉毛があったんだ。いつも眼鏡でわかんなかったよ」
身もふたもない言葉を更にかけられ、驚きは怒りに変わる。
「この、」
大人気ないとしか思えないが、姉は怒りに任せ拳を振り上げる。
しかし、玄関がガラリと開き、怒りの目標は逃げだした。
「順児、助かった。ねーちゃんに殺されるところだった」
玄関に逃げ込み、弟は幼馴染の背中に隠れる。
鮎美は追いかけたが、身長が自分よりも二十センチメートル程も高い順児にじっと睨まれて怯む。
大木田順児、小学六年生。少年に違いないのだが、彼は幼馴染の姉をとっくに追い越し百八十センチメートルの身長を誇るまで成長していた。似合わない半ズボンの制服は、サイズがないので特注したという話だった。
鮎美が順児を見下ろしていたのは、何年前までだろうか。確かに小学校低学年の頃までは幼馴染の少年より目線が高かったような気がしていた。しかし、いつ頃からか、少年は彼女を見下ろすようになっていた。
そんなことを思い出していると、長身の少年は苛立った顔を彼女に見せる。
(何?)
その理由を尋ねようとしたところ、順児は声もかけずに玄関を出ていった。
「え、待てよ。順児」
盾を失った弟は、スニーカーを引っかけると慌てて幼馴染を追う。
「なんなの、一体」
取り残された彼女は苛立ちまぎれに呟く。
年の離れた弟の感想、その幼馴染の反応。
それは予想外で、鮎美の素晴らしい朝はぶち壊された。しかし、そのようなことでめげる女ではなかった。
少女漫画のシチュエーションを夢見て、ショルダーバッグを肩にかける。
きっと、春がくる。
鮎美はそう信じて、一歩踏み出した。
§ § §
「おはようございます」
会社に到着したのはいつもより少し遅い。それでも遅刻ではなかった。時間ギリギリに出社する者が多い部署。社内には同僚の山本の姿しかなかった。
山本は鮎美と同じ二十三歳。サラサラな黒髪に、細面の顔、綺麗に手入れされた眉毛に、眼力たっぷりの瞳。彼は世にいうイケメンだった。
そのイケメンは彼女に挨拶を返すと、おやっというような表情を見せた。そして、鮎美に近づいてきた。
(え、これってもしかして)
山本から積極的に話しかけられたことはない。彼女は胸を躍らせ、彼がすぐ傍に来るまで待つ。
イケメンの同僚は鮎美の傍に経つと、腰を少しかがめ、耳元で囁いた。
「黄沢さん、後ろのファスナーが開いてるよ。まだ誰も来てないからよかったね」
「え!」
彼女は慌てて腰の辺りを手で探る。するとフォックは留まっているのが手触りで確認できたが、その下のファスナーは開けっ放しのようだった。細身ではない鮎美だ。ファスナーは開いているのが丸わかりの状態で開いているはずだった。とっさに部屋の壁に背を向け、ファスナーを上げる。
そうして元の席に戻ると、山本はすでに遠くの自分の席に戻っていた。用は済んだとばかり、椅子に座りキーボードをたたき始めている。
その無関心さに鮎美は羞恥を感じなくてすんだが、眼鏡をかけていないことなどにまったく気がつく様子はなく、彼女の気持ちはすっかり沈んでしまった。
それから、眼鏡をとったことに触れるものがいたが、誰かが電撃告白してくることはなく、いつもと変わらぬ時間が流れた。
眼鏡をとって変身、今日からモテ子になれる。そして春が来るのだと思い込んでいた鮎美だが、終業時間が近づく時刻になり、現実を知った。
眼鏡をとって、見惚れてもらえるのは一部の女子だけ。しかも元からモテ子なのだ。
自分がもてないのは眼鏡のせいじゃなかった、その事実が彼女を打ちのめし、今日は大酒食らってやると決めて、帰る準備を始める。するとふと一人の女子が近づいてきた。それは合コン大好きな先輩、立花李絵子だった。
「飲み会ですか?」
「そうなのよ。頭数が足りないの。参加してくれない?」
頭数、飲み会といいつつ、合コンだとわかる。
入社してから一年経つが、合コンに誘われたのは初めてだった。
鮎美が迷っていると、李絵子は優しく笑う。
「今までそういうの興味ないって思ってたけど、今日眼鏡とった黄沢さん見たら、どうかなって思って」
華やかな彼女の言葉で、鮎美の気持ちが固まる。そして人生で初めての合コンに参加することになった。




