第二話 隣に立ちたいんだ
辺境の領地に戻って、ひと月が過ぎた頃。
館の門に、黒馬に乗った騎士が一人で現れた。
「ギデオン殿下!?どうしてこのような所に」
「建国祭の招待状を、直接渡しに来た」
殿下は馬を降り、一通の封筒を差し出した。
「私のパートナーとして、出てもらえないだろうか」
「……私で、よろしいのですか。婚約を破棄されたばかりの女ですが」
「君がいい」
迷いのない声。
「去年の奉納の儀から、ずっと考えていた。二人分の魔力を捧げて、真っ青な顔で、それでも背筋を伸ばして立っていた令嬢のことを」
殿下は少しだけ目を伏せた。
「一つ、ヴェルナーの言葉を訂正させてほしい。強い人間なら一人でも生きていける、などということはない。強い人間ほど、倒れる時は誰にも気づかれずに倒れる」
「殿下……」
「私は、君を守りたいわけじゃない。君はきっと、守られなくても立っていられる人だから」
殿下は真っ直ぐに、こちらを見た。
「ただ、隣に立ちたいんだ。君が倒れそうな時に、一番に気づける場所に」
一年分の我慢が、そんな言葉一つで、ほどけてしまいそうになる。
あの夜、ルーカス様に「一人でも生きていける」と言われたとき、私は悲しくなかったわけではない。泣かなかっただけだ。
婚約者として過ごした日々も、彼に向けてきた気持ちも、何もかもが無意味だったようで、胸が痛まなかったはずがない。
けれど、そんな私を見ていてくれた人がいた。
「……お受けいたします」
封筒を受け取った指先が少しだけ震え、そして温かくなるのを感じていた。
その年の奉納の儀、私は辺境の礼拝堂から魔力を捧げた。
王都の儀については、噂だけが聞こえてきた。
ミリエッタ様は今年も「儚いから」と祭壇の前で倒れ込み、今度は誰も代わりを務めなかったという。
奉納を記録していた神官は、後日改めて捧げるよう伝えたそうだ。けれどミリエッタ様は「体調が戻ったら」と言うばかりで、期日は一向に決まらなかった。
一人分の空白。
これまで、たった一人分の奉納が欠けたことで結界が破れた例はない。
神官たちも未奉納を問題視してはいたものの、まさかすぐに魔獣の侵入を招くとは考えていなかったらしい。
そして、建国祭の夜。
王城の大庭園は、魔石灯の光に満ちていた。噴水がきらめき、楽団が華やかな曲を奏でている。
ギデオン殿下の腕に手を添えて現れた私に、会場の視線が集まった。あちこちで囁き声が広がる。
「あれはグランツ家の」
「婚約を破棄された」
「なぜ殿下と」
少し離れた場所には、ルーカス様とミリエッタ様の姿があった。
ミリエッタ様は今夜も儚かった。ルーカス様に横抱きにされたまま、ぐったりと彼の胸に頭を預けている。
けれど、それとは裏腹に、ルーカス様の額には汗が浮かび、腕は小刻みに震えていた。一年間、あの調子で彼女を運び続けてきたのだろう。今夜もずっと抱きかかえたままらしい。
目が合うと、ルーカス様は気まずそうに視線を逸らした。
その時だった。
――ビシリ、と。
夜空に、ひびが走る音がした。
見上げると、王都を覆う結界の一角に、細い亀裂が入っていた。普段は目に見えない光の膜が、そこだけ薄く透けている。
奉納された魔力は、細い糸のように結界へ編み込まれる。一本欠けてもすぐには破れないはずの、その綻びを、外側から何かが押し広げようとしていた。
一人分の、空白。
「全員、下がれ!」
殿下の声と同時に、庭園の外壁が吹き飛ぶ。
土煙の向こうから現れたのは、巨大な猪型の魔獣だった。家ほどもある体躯に、燃えるような赤い目。牙の一本一本が、騎士の槍より長い。
悲鳴が上がり、令嬢たちが逃げ惑い、楽団の楽器が転がる。
「ミリエッタ!僕の後ろに!」
ルーカス様が、震える腕で彼女を抱えたまま叫んだ、その直後だった。
ミリエッタ様は、ルーカス様の胸を両足で蹴った。
「ぐえっ」
蹴られたルーカス様は、背後の噴水へ盛大な水飛沫をあげながら落ちていく。
一方のミリエッタ様は、空中でくるりと身を翻して着地すると、ためらいなくハイヒールを脱ぎ捨て、ドレスの裾を膝までたくし上げた。
そして、走った。
速かった。
信じられないほど速い。おそらく私は追いつけない。
逃げ惑う令嬢たちを追い抜き、警護の騎士たちを追い抜き、腰の高さの生垣を助走もなしに飛び越えて――庭園の端に立つ樫の巨木へ、まるで栗鼠のような身のこなしで駆け登っていった。
一番高い枝に到達するまで、瞬き三つ分もかからなかったかもしれない。
あまりの出来事に、庭園にいた誰もが動きを止めた。
魔獣さえ、一瞬呆気に取られたように見えた。
「……ブランシュ」
隣で、殿下が剣を抜いた。
「呆けている場合じゃないな」
「ええ。足止めはお任せください」
私は両手を前にかざした。
辺境育ちの娘が、最初に覚える魔法。家族を、領民を、背中にいる誰かを守るための――盾の魔法。
光の壁が立ち上がり、突進してきた魔獣の牙を正面から受け止めた。
重さに腕が軋み、足元の石畳がひび割れるほどの衝撃に、体が後ろへ押されそうになる。
それでも、膝はつかない。
「――今です、殿下!」
壁を解くのと同時に黒い影が跳ぶ。
殿下の剣が月光を弾き、魔獣の眉間を正確に貫く。巨体がゆっくりと傾き、地響きを立てて倒れた。
少しの間を置いて、庭園中から歓声が沸き起こった。
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