第一話 私って、儚いから
「私って、儚いから……」
ミリエッタ・ローズ男爵令嬢がそう呟いて睫毛を伏せると、周囲の殿方は一斉に動き出す。
椅子を引く者。扇で風を送る者。彼女の小さな手から教本を取り上げる者。
その輪の中心に、私の婚約者であるルーカス・ヴェルナー侯爵令息がいるのも、もう見慣れた光景だった。
「ブランシュ」
ルーカス様が、私を呼ぶ。
ここは王都の大聖堂。年に一度、成人した貴族令嬢たちが祭壇に魔力を捧げる「奉納の儀」の最中だ。
この国は、令嬢たちの魔力で編まれた「祈りの結界」に守られている。
一人ひとりの奉納は決して多くはないけれど、その魔力を細い糸のように編み合わせることで、結界は魔獣を退けてきた。
一人分が欠けても、すぐに結界が破れるわけではない。ただし、その部分はほかより脆くなる。
だからこそ、全員が欠かさず捧げることを務めとしているのだ。
「ミリエッタが、もう立っていられないそうなんだ。君、彼女の分も奉納してあげてくれないか」
「……お一人分の奉納は、それなりに負担がかかりますが」
「君は丈夫だろう?辺境育ちなんだから」
悪気のない笑顔。それが一番堪えた。
「ごめんなさい、ブランシュ様。私って儚いから……」
ミリエッタ様が、ルーカス様の腕に寄りかかったまま、申し訳なさそうに微笑む。
二人を横目に、私は黙って祭壇の前に立つと、自分の分と、彼女の分、合わせて二人分の魔力を水晶へ流し込んだ。
視界の端が白く霞み、指先が冷えていく。それでも膝はつかなかった。グランツ辺境伯家の娘は、人前で膝をつかない。
儀式を終えて回廊に出ると、壁にもたれる間もなく、目の前に銀の杯が差し出された。
「飲むといい。蜂蜜水だ」
顔を上げると、黒い騎士服の男性が立っていた。
王弟にして王国騎士団長、ギデオン殿下。
「で、殿下。ありがとうございます、ですが私は平気で――」
「平気な人間は、そんな顔色をしていない」
真っ直ぐにそう言われて、言葉に詰まった。
「二人分を捧げたのを見ていた。あれは騎士でも堪える量だ。……無理をするな」
それだけ言って、殿下は去っていった。
杯の蜂蜜水は少しぬるくて、とても甘く、体の隅々まで染み込むようだった。
それからの一年、ミリエッタ様はずっと儚かった。
ダンスの稽古は「目眩がするから」と見学。刺繍の課題は「指が弱いから」と免除。慈善院への訪問は「人混みに当てられるから」と欠席。
そのたびに、ルーカス様が彼女を抱きかかえて医務室へ運んでいく。
ある昼下がり、学園の奥庭でのこと。
薬草園の手入れをしていると、生垣の向こうから聞こえる声に手を止めた。
「んー、やっぱり街の焼き菓子は最高ね!」
覗いてみると、医務室で休んでいるはずのミリエッタ様が、ベンチで林檎のタルトを頬張っていた。
ホールで。三台目を。
食堂では「スープを一匙しか喉を通らないの」と言っていた人が。
……見なかったことにしよう。
言ったところで、誰が信じるだろう。「嫉妬して嘘をついている」となじられるのが落ちだ。
それに、私が何か言うまでもない気がした。
儚さというのは、いつか必ず、試される日が来るものだから。
そして、ある夜会でのこと。
ルーカス様は大広間の中央に立ち、集まった貴族たちの前で、私に向かって告げた。
「ブランシュ・グランツ。君との婚約を、解消させてほしい」
ざわめきが波のように広がる。ルーカス様の隣には、当然のようにミリエッタ様が寄り添っていた。
「ミリエッタは儚いんだ。僕が傍で守ってやらなければ、生きていけない。でも君は違う。君は強いから、一人でも生きていけるだろう?」
一人でも生きていける。
それは褒め言葉の形をした、ただの「要らない」だった。
「ごめんなさいね、ブランシュ様」
ミリエッタ様が、潤んだ瞳で私を見上げる。
「私って儚いから、誰かに守ってもらわないと駄目なの。あなたみたいに強くなれたら、よかったんだけど」
広間のあちこちから、同情の溜め息が漏れた。もちろん、彼女に向けての。
私は、ゆっくりと礼をした。
「承知いたしました。婚約の解消、お受けいたします」
ルーカス様が、拍子抜けしたように瞬きをする。
泣いて縋るとでも思っていたのだろうか。
「ああ、それから」
顔を上げ、私はミリエッタ様に微笑みかけた。
「次の奉納の儀は、どうぞご自分でなさってくださいね。私はもうヴェルナー家の婚約者ではありませんから、代わりを務める理由がございませんので」
ミリエッタ様の笑顔が、ほんの一瞬だけ固まった。
「え、ええ……もちろんよ」
それを見届けて、私は広間を後にした。
背中に刺さる視線は、思っていたよりずっと軽かった。
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