strange world
「…と、こんなもんか。」
鏡の前に立った伊織は真新しい服に身を包んでいた。
近くの店に入った伊織は手頃な下着や服を探して手に取ると、律儀にも試着室に入って着替えを済ませた。
誰が見ている訳でもないが、やっぱり気持ちが落ち着かないのだ。
店にあった靴を履き、ついでに鞄も手に入れておく。
売り場を見てみれば、伊織が今着ているのと同じ位の薄手の長袖か半袖が大半で所謂夏物だ。
(一応、替えを持っていこうか。)
これから夏に向かうとすれば薄手が良いだろうと言うことで、伊織は物色しながら適当なものを鞄に詰め込んだ。
「まぁ、このゴーストタウン化がどれだけ続いてるかにもよるけど…」
数ヶ月続いてるならこの配慮はあんまり意味がない気がする。夏になる所か秋冬に向かう事になるのだから。
因みに今は少しだけ肌寒い。外は少し薄暗く初めは夕方かとも思ったが、先程より空も白み明るくなっているし、どうやら夜が開けてから2時間ほどしか時間が経っていないようだ。
時計を探したが、店にはないようだった。そしてふとある事に気付いた。
「…あれ、なんて読むんだろう…」
店内のポスターや、値段表示の文字が伊織には読めず首をかしげた。
街の雰囲気はいかにも日本の都会って感じだったのだが、もしかして外国なのだろうか?
この近代的な街は片田舎に住んでいた伊織のイメージの都会そのものだが、使われているのは日本語じゃない。向かいの店の内装にある文字も、日本語ではなかった。
勿論英語でもない。余り良く知らないが、中国語やハングルでも無さそうだ。
見た事もない形の文字。まぁどことなく日本語に似てなくもないが伊織には全く読めない。
(文字が読めないのはまだ分かるけど…この数字っぽいのもよく分からないんだよね…)
値札を見て大体数字があるだろう場所にそれらしき羅列が見られたが、これも他の言語のようによく分からない。
数字位は大概の国で共通してると思うのだが…。
またも奇妙な疑問が増えて伊織は眉間に皺を寄せながら溜め息を吐いた。
服を詰め込んだ鞄を携え外に出た伊織は改めて通りを見渡した。よく観察すれば、気付かなかっただけで見慣れぬ文字はそこら中に溢れていた。それでも住み慣れた自分の国とそう相違点は見られず、不思議と異国に来たような不安は感じない。
「誰かに会えても…もしかして言葉が通じなかったりするのかな?」
だとしたらかなり嫌だ。授業でやった英会話だってまともに出来なかったのに未知の国の人とどう触れ合えば良いんだ?
俺ってばシャイなのに…いやそうでもないか。
因みにこの後、異国の人どころかもっと凄いモノと触れ合う事になるのだが、勿論伊織は知る由もない。
下らない事を考えながら一瞬朝方だから人がいないのかもなんて期待にも似た事を思ったが却って虚しくなった。いくら朝方と言っても7時位にはなってるだろうしいない別けないだろ。
「…そろそろ食べ物探すか…」
そう。現実逃避している場合ではないのだ。現に、服を手に入れた途端安堵したからか先程から腹の虫が煩い程に鳴り響いていて仕方ない。
コンビニでも近くにあれば良いんだけど…。
歩き出した伊織は街並みを眺めながら食料が置いてありそうな場所を探した。
暫く歩くと広い交差点に出た。勿論人はいない。なのに、信号だけ規則正しく点灯している様は何だか寂しい。横断歩道を渡り、伊織は何となく左に折れる。
道路脇の建物から前の歩道に目をやり、伊織はぎょっとした。さっと何か影が横切った気がしたのだ。
伊織はつられるように咄嗟に走り出した。
今しがた影が入り込んだ様に見えた右手の路地裏に飛び込む。
「…なんだ、猫か…」
そこには一匹の黒猫がいるだけだった。大きなゴミ箱の上に座ってこちらを見てみゃあ、と鳴いた。
近くに寄ると首輪が付いていた。赤い革に金色の鈴がついていて、耳の後ろを掻く度ちりりと音を立てていた。飼い猫だったのだろう。よく人に馴れている。伊織に自ら数歩歩み寄ってきた。
「…人かと思ってちょっと期待したんだけどな…」
人懐っこい猫の喉を掻き撫でてやりながらそうぼやいたが、やっと生き物に遭遇できた伊織は嬉しくて顔が綻んだ。
その背後で不意にカサッと物音がする。
「何だまだ猫が…」
振り向いた伊織は言葉を失った。
今まで穏やかに身を任せていた猫まで驚いて変な威嚇をしながら目にも留まらぬ早さですっ飛ぶように逃げていく。
『ククククル…』
突然、目の前の“それ”は奇妙な音を発しながら伊織に襲い掛かってきた。
「〜っっっぅえぎゃぁあああ〜っ!!!?」
伊織は黒猫の二の前になって絶叫した。
…
「っえぅ、はぁっ、はぁ…」
伊織は情けない叫び声を上げた後、頭を真っ白にしながら例の物体を蹴り飛ばし全速力で逃げ出した。
交差点まで引き返しそのまま突っ切り手頃なビルに飛び込むとへたり込んだ。
壁に背を付きぜえぜえと荒い呼吸を繰り返す。
「なん…っだよ、アレ、…っ、反…則だろ…」
伊織は先程のブツを思い出して毒づいた。
このシリアスな状況の中、伊織の前に現れたのはゾンビでも、何かのウィルスによって凶暴化した人間でもなく、はたまたモンスターでもなかった。
いや、或いはモンスターと言えるのかも知れないがアレはもっとしっくりくる呼び名がある。そう、あれは…
「…スライム、だよな、アレ。またはアメーバ…。」
今日日どんなホラーでスライムなんかが出てくるんだよ。
でもすげぇ怖かった。大型犬並の物量で目っぽいのあったし。リアルに現れると滅茶苦茶怖ぇ…。
スライムなんかどんなRPGでもヘボの中のヘボだと思ってたけど目の前にすればアホみたいに怖い。そしてキモい。
(ゾンビならお約束なのになまじ変なの《スライム》に出てこられたら諦めもつかねーよ。思わず蹴りつけちゃったし…)
そう言えばアレはスライムと言うにはちょっと硬かった気がする。
「なんかこう…弾力があるというか密度が高いと言うか…ゴムみたいな…グミっぽかった。表面も水っぽくなかったし。」
蹴った瞬間のあのばいーんとした感触はちょっと気持ち良かっ…いや何考えてんだ自分。ていうか一体何なんだアレ?現実にスライムがいるってどういう事だよ。新手の生物兵器か?確かに精神的ダメージはかなり大きいが…眠ってる間に随分世界は様変わりしたものだ。
とにかく、もう二度とあんなのに出会いたくは…
ぼたぼたっ
「っ!?」
ここはどうやらホテルらしい。そんなどうでも良い事に今更気付きながら、伊織はバシバシ嫌な予感を感じていた。
(…まさか、な…)
背後で聞こえた物音に若干、いやかなりビビりながら伊織はぎこちない動きでカクカクと後ろを振り向いた。
『みぴょ〜』
「っいぎゃああああ〜っっっ!!」
嫌な勘ほどよく当たるものだ。
振り向けば予想通り例のスライムだ。勿論先程のものとは違うものだろう。
薄暗いロビーの受け付け辺りから、それはそれは自己主張の激しい蛍光色のカラフルなスライムがべちゃべちゃと正体不明な液体を撒き散らしながらこちらに向かって来るのが見えた。
あんまり気色悪いので伊織は軽く目眩を覚えたが、当然倒れている暇はない。
直ぐ様鞄を掴むと脱兎の如く開きっぱなしの自動ドアから外へ逃げた。
『みょ〜』
『かぷかぷ〜』
「うわっ!何で追っかけてくるんだよ…っ」
妙に間の抜けた音―鳴き声だろうか?―を立てながら奴らは物凄い勢いで後ろを追いかけてきた。
蛍光色のピンクや黄色や緑や水色、兎に角ハデなスライムは互いにぶつかると時折混じりあって何とも言えないカラーリングになったがまた元通りに別れる点、あくまでも色別に単体で形成されているらしい。
『にゅー』
「っ!うわっ」
上から鳴き声が降ってきて、伊織は考えるより先に横へ転がった。
上から降ってきたのは毒々しい真っ赤に濁ったスライムだ。伊織から狙いを外した赤いスライムはビチャリと水っぽい音を立てながら平面に伸びたが直ぐ様なだらかな小山型に戻ってこちらを振り向いた。
「っ!」
すぐに逃げようと思ったが、振り向けば既に伊織の退路は絶たれていた。
いつの間にか伊織の周りにはそこら中、色とりどりのスライムで溢れかえっていたのだ。
マンホールの隙間からぬるぬると緑色の正統派なスライムが出てきていたり、ビルの窓をぬらぬらと伝い落ちてくる青い色のスライムがいたり…
皆何だか水っぽい。そして不穏な気配を纏っている。こう、何か、飢えたような気配と言うか…
嗚呼、何だか最初に遭遇したスライムが懐かしい。
あいつは無色透明で弾力もあったし蹴りごたえも良かった…。こいつらを蹴っ飛ばしたらきっと気色悪いぬるぬるが足にくっつくだろう。
すっかり囲まれてしまった伊織はぬらぬらと徐々に迫ってくるスライムに鳥肌を立てながら、退路を確保しようと手に持っていたバッグを投げつけた。
「うわ!嘘だろっ!?」
にゅるんと透明なピンクのスライムは自分の中にバッグを取り込むとそれをみるみる内に吸収してしまった。
透明なスライムの中でバッグが中身の衣類と一緒に消えてなくなる様を見て伊織は戦慄した。まさか街の人間は皆こいつらが…
『みー…ん』
伊織はどこか愛嬌を感じられる鳴き声が急に恐ろしくなった。
(コイツらつぶらな瞳で見やがって人喰いスライムかよ!冗談じゃないぞ…こんな奴らに喰われるなんて…)
「くっ…」
道路の真ん中で伊織はどんどん追い詰められていった。
逃げ道を探すが、当然ありはしない。
『みょ?』
「ひっ!」
ついに伊織はスライムの中でもド派手な蛍光ピンクで発光を繰り返すスライムとバッチリ目が合ってしまった。
やばい…来る…!
『にみょ〜!』
「ぎゃああああ!?」
目が合ったスライムは、嬉々として伊織に襲い掛かってきた。
終わった…俺、死んだ…
ぎゅっと目を瞑って踞る。
『クカカカカカカカッ!!』
「…っ!…………………?」
奇妙な音が間近で聞こえ、人生を諦めていた伊織はいつまでも訪れない衝撃に恐る恐る目を開けた。
「あ、お前…」
『きゅるるるる〜!』
目を開ければそこには、ピンクのスライムに立ちはだかるように全身を膨張させたスライムがいた。…なんかややこしいな。
その伊織を護るように変な動きを繰り返して威嚇しているスライムは、先程伊織が蹴り飛ばした例の無色透明なスライムだった。
他のスライムに比べなんとも言えない張りと弾力がある。丸い形に固めた硬めのゲルのようだ。
どうやらこの無色透明なスライムがリーダーらしい。高音でけたたましく威嚇らしい音を立てると他のスライム達はすごすごと後退り数匹はそのまま逃げていった。
「うわっ」
『きゅるる〜』
スライム達が引き下がったのを見届けた透明なスライムはまるで誉めてくれと言わんばかりに体の端っこをぱたぱたさせて伊織に寄ってきた。人懐っこい犬みたいだ。心なしかつぶらな瞳がきらきらしている。
「…助けてくれたのか?」
『きゅー』
訊ねると少し縦に伸びてこくこくと頷く。随分人間くさい仕草をするスライムだ。
こいつは無害なのだろうか?だが一応用心して伊織は傍にあった街路樹の枝を拾って突っついてみた。
ばいんばいんとかなりの弾力だ。枝は先程のバッグのように溶けたりはしなかった。
つつかれたスライムは心なしか擽ったそうだ。
「…ありがとう。助かったよ。」
『みゅーっ』
ぺちちちち
尻尾?を道路に叩きつけてとても嬉しそうだ。
何だか伊織もこの状況に大分馴れたのか可愛く見えてきた。随分ほだされたものである。
嬉しそうに無意味に伸び縮みするスライムを伊織は指先で突っついてみた。
『みゅ〜っ♪』
「うわぁっ」
ぷるぷるの無色透明なスライムは嬉しそうに伊織の足にすりよった。
ぞわわ〜っときつつも、一応命の恩人(?)でもあるので無下に出来ないのが恨めしい。
「わ、悪かったな、さっきは蹴っ飛ばしたりして」
『んみゅ〜』
意味を理解しているのかいないのか、するる〜っと足から肩まで這い上がったスライムに伊織は「調子にのんな」と目にも留まらぬ手刀を繰り出した。
これが、スライムと伊織が初めて遭遇し、触れあった日の一部始終である。