18
空にはすでに月が昇っていた。会食はとんずらしようかと思い巡らせたが、ミシェルがどうしようもなく落ち込む姿を思い浮かべてそれはやめることにした。城を出ると、あの衛兵が犬を連れて歩いて来るのが見えた。ランドは懐かしく思い、声をかけた。もちろん、それだけで足を止めるような者ではない。ミシェルもこれほどまでにはとは言わないが、このくらいの芯が必要なのだろう。
「その犬、どうしたんですか?」
衛兵は、歩いていた方向を変えてまで付いて来るランドを疎ましそうに睨み付け、無言を通した。どこの馬の骨とも知れない、と噂されるには程遠い、今までにいた傭兵なんかよりもずっと育ちがよさそうな横顔には、作り物のような冷たさがあった。
「よく懐いてますね。いつから一緒に城壁周りをしているんですか?」
ランドは茶色の中型雑種らしき犬を見下ろしながら、めげずに話し続けた。時々ランドを気にして振り返る犬すらも迷惑そうにランドを見上げているように感じられた。衛兵は歩調を早め、ランドもそれに合わせた。
「知ってますか? あなたが毎日回っているこの塀の中に、世界を恐怖に陥れる、あなたと同じくらいの年齢の魔女がいること」
おそらく、性格的にはミシェルとは対極にいるだろう。彼はつとと足を止めて、一瞬暗闇に落ちたような視線を、足元に落とした。
「いったい、何の用ですか? だいたいここに勤め、相当な役職にあるあなたが魔女について軽々しく話すということに問題があると思いますが?」
ランドを見据える深く青い瞳は、まるでスイッチが切れたように暗闇に変わり、とても真っ当な意見を述べた。覇気がなくやる気もないという噂とは大違いだ。何よりも、何が起ころうとも揺るがない方向性を持ち、どこか人の上に立つという威厳すら感じさせる。
「でも、あなたはまだ私の質問に一つも答えてくれてないでしょう?」
彼は面倒臭そうに、リードを持った片手を腰に置き、ランドを見据えた。
「答えればいいんですね」
彼の名前もその犬がつい最近この城壁周りで保護されたことも、彼がその犬を連れてきて、衛兵犬として躾けていることも知っていた。だから本当は訊く必要もない。しかし彼の口から出て来る言葉に興味があった。
「いや、申し訳ありません。実は全て知っているんですよね。別に邪魔をするつもりはなかったんですが、魔女について何かご存知かと思いましてね」
彼は驚く風もなく、つまらなそうにランドの顔を眺めたままだった。そのまま答えずに消えてしまうかと思えた彼がため息をついた。
「知っていますよ。だって詰所の奴らが毎日のように早く死ねばいい、極悪非道の手の付けられない魔女だと言っていますから」
彼は自分の意見は全く述べず、他者の情報に頼り、答える。そして、彼の持っている情報は彼の嘘をカバー出来る以上の量なのだろう。彼は嘘の塊として存在しながら、その嘘は嘘ではない事実で固められている。どこをつついても嘘で、どこを抉っても事実しか出てこない。だから、ミシェルに尋ねたものと同じ質問をした。どこにも正解がない質問だ。
「その魔女に何かお詫びの品を送りたいんですが、何がいいと思いますか?」
彼は一瞬ランドから目を逸らし、当たり前のようにしてランドを睨み返した。
「魔女に詫びるなんてこと自体、理解出来かねますが、副所長の方がずっとよくお分かりになるはずではありませんか?」
「でも分からないから困ってるんですよね。同じくらいの齢のあなたなら分かるかと」
ミシェルと違い、はっきりと彼は即答した。そして、たいがいの者が副長官と誤る中、彼が副所長と誤らずに言ったことがおかしかった。
「参考にだけ教えてください。もし、あなたが私と同じ場所にいたならどうしますか?」
彼は腰に手を当てたまま、もう答えないのではないかと思うくらい押し黙っていた。まるで横柄にも見える。
「そんなこと、出向いて頭を下げれば済むことでしょう。物なんて何でも構わない」
ランドは軽く笑いながら、やっぱりそうですようねぇ、ととぼけながら、突拍子もなく尋ねてみた。
「メイ・k・マイアードさん。本当の名前は何ですか?」
「メイ・k・マイアード。それ以外に名乗る名などありません。仕事中なので失礼させて頂きます」
口調は確実に失礼なのだが、彼は失礼に当らない礼をし、犬を連れて歩き始めた。ランドもそれ以上追いかけることはしなかった。
例えば、森に呑み込まれた弟は、今も生きているのだろうか? 年齢で言えば彼くらい。
ふとそんなことを思い、ランドはもう一度小さくなっていく彼の背中を見遣った。
結局、ミシェルも答えを持ってこず、ランドもワカバの元には行かなかった。ラルーからワカバの元へのお誘いを受けてからもう一週間だった。宿直明けで頭が朦朧としていた。あの日からずっと少しずつの寝不足だった。宿直室のベッドに座ってぼんやりしていると、マリアの声がした。声、というよりも金切り声に近い。
「早く開けなさい。あの男を起こして連れて行かなければならないんです、一刻も早く」
衛兵の声が弱々しく聞こえ、鍵の回る音がした。ランドはぼんやりしたままそれを活劇でも見るようにして眺めていた。扉が開かれ仁王立ちのマリアとランドにもマリアにも頭を下げながら、ランドに穏便にと目で訴えてくる衛兵がいた。
「相変わらずだらしのない方ですね」
「でも、宿直明けは休みでしょう?」
頭を掻きながら明らかに面倒くさそうに答えたのが、おそらくマリアの疳に触ったのだろう。マリアのハイヒールが折れんばかりに踏みつけられた。
「いいえ、まだ、宿直中の時間です。それを」
頭の方に血が上り過ぎたようで、そこでマリアの言葉が途切れた。
「それはすみません。あの、どんな御用ですか?」
「長官がお呼びです。すぐに支度をして長官室へいらしてください」
言葉が丁寧でも、こうもきりきり叫ばれては全く敬意なしとしか受け取れない。きっとマリアの機嫌はより悪くなるだろうと思いながらも、ランドは手をひらひらさせながら、面倒くさそうに笑った。
「わかりました。すぐに支度をして向かいます」
「礼儀を欠かない状態にして、いらしてください」
マリアが扉を力一杯に閉めた。分かりました、とランドはにこりと笑い、可哀そうな扉を労った。衛兵はその扉を気遣うようにして開け、ランドに一礼をして出て行った。
ランドはマリアに言われたように、きちんとした格好になるように顔を洗い始めた。そして、どうしてマリアがわざわざやってきたのかを思い出した。今日はミシェルの公休日だ。そのおかげでマリアが叫ばなければならなくなり、ランドが怒鳴られなければならなかった。そして、髭を剃りながらミシェルへの愚痴を考えていたが、思いつかなかった。その代わりにグジェルの魔女と講義していた内容を頭に蘇らせていた。
グジェルの魔女はリディアスの魔女とは違い大きく政治に関わっている。魔女と共に成長し、その加護のためグジェルはリディアスに飲み込まれずに存在出来ているとも言えるし、だからこそリディアスと共にいるともいえる。もちろん、今その魔女は存在しないが、国の存亡に魔女が関わっているという点で言えば、グジェルもディアトーラも同じだった。
完全に悪だとするのは、リディアスだけだった。それなのに、あの魔女が来てから魔女という札を付けられた者がいない。あれだけ熱心に魔女に極刑を下していたのに…。




