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ランドは剃刀を置き、マリアの嫌う眼鏡をかけ、白衣をまとった。鏡に映る自分の姿を見て、落ち着くことは落ち着いたが、マリアの言う礼儀を欠かない状態というのにはおそらく程遠い格好だろうと思えた。しかし、どうしても黒い眼鏡を外していく気にはなれなかった。
ただ、宿直室の扉を開けたところにマリアがいたことには本当に驚いた。驚きのせいで全く言葉が出てこず、笑うでもなく、叫ぶでもない中途半端な表情でマリアを見つめてしまった。マリアは汚いものでも見るようにして、気を取り直すために咳払いをした。
「どうしてその眼鏡が必要なんですか」
まるで津波のように静かで恐ろしい声だった。
「待っていてくれなくても一人で行けますよ」
「あなたが本当にすぐにやってくるのかの保証もないですし、私はあなたを長官の下へ連れて行かなければなりません」
「えぇ。そうですが、…」
「もうその格好でいいです。もう時間がないんです。こんなことのために時間外手当でも付けなければならなくなったうえに長官が遅刻なんかすれば、リディアスの汚点になります。行きますよ」
「手当なんて要求しませんよ」
ランドはやっとからから笑った。マリアは怪訝そうに、まるで犯罪者でも見るような視線でランドを見遣った後、沈黙を保ち、まっすぐ前しか見ずに歩き通した。
職員はまだ出勤しておらず、静かなものだった。朝のか弱い日射しが中庭を白く包んでいて、朝露を浴びる小鳥たちがチュンチュンと囀りあっていた。
「どうして、あんなにおしゃべりなのかしら」
マリアが煩わしそうにその小鳥を表現した。
「朝だから、でしょう?」
ランドの返事に対しての答えの代わりに、マリアは無視を通した。静かな廊下に二人分の足跡だけが朝の光に染み入っていくようだった。長官室の前でマリアが扉を叩き、「ランド副所長をお連れしました」と中にいる人物に伝えると、中から「どうぞ」というラルーの声が聞こえてきた。いつもの白衣を脱いだラルーが黒い旅行鞄を手にして、ランドににっこりと微笑みかけた。
「お呼び立てして、このような出で立ちで申し訳ありません」
このような、という程礼儀を欠いた格好でもないだろう。黒いパンツスーツはすらりと伸びた足によく似合っていた。そして、どちらかと言えばそれはランドが掛けるべき言葉に思えたが、それは黙っておいた。
「いいえ。出張ですか?」
「えぇ、お昼にはオリーブへ行かなければならなくなりまして。わたくしの留守はあなたがいれば大丈夫ですわよね」
「はぁ…いえ、粗相のないよう務めさせて頂きます」
「では、引き出しの鍵をお渡ししておきますね」
そう言えば定例の魔女に関する国際会議がこの月にあった。出席するのは長官と定例なら国王だ。しかし、今回はグラディール国王が出席することはない。国王になってから、体調が芳しくない。誰とも言わず、呪い説が浮上して噂になっている。呪いをかけるのは、もちろん、魔女。そして、この研究所の魔女と言えばラルー、もしくはワカバになるが、もっぱらラルー説が有力のようだった。全く、どうしてそんなワカバを魔女にしておきたがるのだろう。マリアの咳払いだけが背後で聞こえた。
「マリアさん、先に行って車の用意をしておいてください」
ラルーの声はいつもよりもさらに冷たく、その瞳は岩をも射抜くほどに鋭いものだった。マリアが少し慄き、頭を下げる。これは天地がひっくり返るほどの驚きだった。ラルーが今までにわけもなくそんな敵意を人間に見せたことなんてなかった。そもそもどうして出張前にランドが呼ばれたのだろう。長官不在の研究所なんて日常茶飯事のことだ。
「分かりました。準備が整い次第またお迎えに参ります」
「えぇ、お願いしますわ」
ラルーの表情からすべての攻撃的なものがなくなった。マリアが去っていく。
「ところでどのようなご用向きでしょうか?」
ランドは慎重に言葉を発した。
「用ってほどのことでもないのですけど、」
今度はまるで戦意喪失のようだ。戦意が認められないとその整った顔は本の中に描かれる女神のようだ。とはいえ、魔女というものも妖艶に描かれるものだから、ラルーのその容姿は魔女と位置付けて間違いない。そして、そのラルーが微笑んだ。
「どうされました?」
「失礼しました、いえ、別に」
まさか、見とれていたとは言えまい。ランドは一度咳払いをして弁解した。ラルーがゆっくりと何かを確かめるようにして歩き出し、つとと足を止めた。
「あなたはあの子が人間と違わないということを言っていましたわよね。食事もさせて、外へも連れ出そうとして」
「えぇ、まぁ…しかし、今は長官と一緒に食事をしていると聞いておりますし、外出自体は長官が禁じられました」
「今もその考えに変わりはありませんわね」
「えぇ…」
ランドは慎重に答えた。ラルーの表情は変わらない。
「だから、わたくしはあの子をここから逃がそうと思っていますの」
『えっ』と言いかけたランドを静止するようにラルーは静かに人差し指を唇の上に載せ、にっこりとした。扉がノックされる。マリアが扉の向こうにいる。
「支度が出来ました。馬車も用意させておりますので、すぐにいらしてください」
「すぐに参ります。では、失礼させていただきますわ」
ラルーは軽くお辞儀をした後、颯爽と扉を開けた。そこには深々とお辞儀をしてラルーを待つマリアの姿が見えた。残されたランドは眠気も覚めそうなくらいに意味が分からなかった。
呼ばれた理由は、マリアにあの言葉を聞かせるためだったのだろうか。ランネルがいない今、魔女が危険に晒されるという日々を消していくことが出来るのに、どうして今ラルーはワカバをここから逃がそうとするのだろう。ランネルが戻ってくるというのだろうか。いや、マリアの様子からもそんな様子は全く見られなかった。マリアはただイライラしているだけで、それはここにランネルが戻ってこないから、に結びつくのではないだろうか。まさか、マリアはランネルと繋がっていて、…。いや、それこそここにランドが呼ばれた理由が分からない。それこそほぼ四六時中共に過ごしている中での世間話で十分だろう。
例えばそれに真実味を持たせるためのダシとしてのランドなら、分からないでもないが、ワカバが逃げることをわざわざ知らせる理由が全く分からなかった。
ラルーの考えはランドには及ばないものだった。




