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それ以来ランドが実験というものに呼ばれることもなく、その経過というものを聞かされることもなかった。
しかし、あれ以来魔獣が差し向けられるということはないようだった。何か成果が得られたのか、それとも無駄だと判断されたのか。そして、それがあの時はどういう仕掛けがあったのだろうという疑問に拍車が掛かった。ランドでさえそうなのだから、実験推奨派はもっと焦れているのだろう。
ランドはあの実験以来ワカバにもラルーにも、ランネルにも会っていない。しかし、ランドは昨日ガントには会った。結婚をするらしい。今日は自宅でささやかなお祝いをすると言っていた。勤務時間はとっくに過ぎていて、ここでしなければならないこともすっかり見当たらなくなった時だった。
「おめでとうございます」
ありきたりな祝辞に対し、ガントは恥ずかしそうにして、伝えた。
「もし時間があれば、少しだけ覗きに来てほしい。君には紹介したいんだ。大したもてなしも出来ないだろうけど」
「ありがとうございます。じゃあ、お邪魔じゃなければ、帰りに覗かせていただきますね」
社交辞令ではなく、心からそう思って、ガントの肩をとんと叩いて彼とすれ違った。しかし、ランドは今それを少しだけ後悔していた。
外に出ると少し肌寒く、日も暮れていて、夜警の始まる時間になっていた。ランネルが戻ってから、この城壁周りの警備は強化され、パルシラが辞めてからずっと穴が開いていた警備兵も早急に補充された。彼らは常に城壁を回り、保安に努めている。ちょうど向こうから新しい警備兵が一人で歩いてきていた。
「こんばんは」
と会釈をしたランドに彼は少しだけ頭を下げ、そのまま通り過ぎて行ってしまった。まだ少年とも言えそうな彼に会うのは、これで二度目だった。彼は無愛想で、話しかけてもランドとは何の会話も交わそうとはしなかったが、別に悪い気はしなかった。ただ、彼自身の存在がぼやけて見えるのだ。
ガントの家はゴルザムのシーガル通りにあって、ランドのアパートのあるピジョン通りから、研究所経由で歩けば小一時間、乗り合いバスなら少し遠回りして二十分のところにある。リディアスの地形の悪いところは、すべてがリディアス城中心に集まる八本の大通りが八角形の筋で結ばれている点にある。通りと番地さえ覚えればすぐにどの辺りかというのが分かる利点はあるのだが、わざわざ遠回りしないといけない場所が多い。地図はまるで蜘蛛の巣のようだ。蜘蛛の巣の真ん中には家紋の蛇が、その周りには好物の卵を産む鳥たちがいる。ゴルザムへやってきて初めて地図を見た時はとても不思議な図だった。
ランドは停留所までにある小さな花屋で適当な花束を見繕ってもらい、玄関先に飾るための黄色い花を選んだ。リディアスでは、祝儀をあげる家の玄関先に祝い客が花を飾ってから敷居をまたぐのが慣例になっていて、客が多ければ多いほど華やかな玄関になり、その主人の人徳を表すとされている。首都ゴルザムではそれほどうるさくないが、ランドの田舎では、それが人生を左右するくらい重要な儀式とされていて、必死に人を掻き集めていた。
シーガル通りに着く頃には、大きく東に上り始めていた月が小さく空高くに浮かんでいた。ランドは帰りの乗り合いバスの時刻を確かめてからガントの家へと向かった。ガントの家は大通りから少し町中へ入ってすぐに左へ折れると視界に入ってきた。真っ暗な道に暖かい明かりを灯した家がそうだ。
狭い玄関口には小さな花が彩り豊かにたくさん飾ってあり、ランドもその中に黄色を添えて飾った。中からはグラスの重なる音や歓談の声が混じり、そのめでたさを物語っていた。
家の中にランドの知った顔は全くなかった。麦酒を運ぶ年配の女性はランドを見つけると、にこやかに近づいてきてその酒を勧めた。ぽっちゃりとした頬が光っていて、それだけで気分が賑わう。
「来てくださって本当にありがとうございます。ガントの母です。いつもあの子があなたの事を誇らしげに話してくれているから分かります。ランドさんでしょう? 本当に大きなメガネですね。とても分かりやすくて助かります。でも、もう、本当に、こんないい日がやってくるなんて思いもしなかったもんですから、大したおもてなしも出来ませんが、あら、嫌だ、あれ、うちの主人なんですよ。本当に上機嫌で困るわ。ごめんなさいね、ゆっくりと楽しんでいってくださいね。あら、やだわ、お酒駄目でしたね。すぐに代わりの物を用意しますわ」
ガントの母は頬を赤らめ、空いた手でそのぴかぴかの頬を抑えた。もちろんその視線の先には主人たる男が、今にも祝い客の中に酔いつぶれそうになっていた。
「かわいいお嫁さんですね。本当におめでとうございます」
部屋の奥の方でガントの傍に付き添っている大人しそうな女の人を見ながらランドは祝辞を述べた。ガントの母は満足そうに微笑み、ランドに会釈をすると、酒がないと喚いている髭もじゃの亭主の元へとそそくさと去って行ってしまった。それでも別段悪い気はしなかった。ガントは明るいグレーの上下に白いネクタイ、普段目のあたりに影を落としている前髪は綺麗に揃えて右へと流されていた。ほろ酔い加減の顔はいつもよりも血色が良く、にこやかに話をしている。その傍に花の冠を付け、白いワンピースに黄色いスカーフを肩にかけている花嫁がガントとその相手との話に静かに頷いていた。ガントはランドを見つけると、その話し相手に何かを説明してからランドに手を振った。ランドがガントの手の振りに気付いた合図として、軽く手をあげると、ガントは花嫁の手を引き、その場を離れ、必要以上にお辞儀をしながら道を開けてもらいランドに近寄ってきた。
「そんなに必死にならなくても、毎日顔を合わせているじゃないですか」
「いや、来てくれて嬉しいんだよ。彼女はハンナ」
ハンナと紹介された花嫁は、恥ずかしそうに微笑み「ハンナです」とお辞儀をした。
「おめでとうございます。ランド・マーク・フィールドです。いつもガントさんにはお世話になっております。彼は優秀な学者ですよ。ハンナさん彼のことをよろしくお願いしますね」
「はい」
その決意の込められた返事にランドは温かいものを感じた。ガントは照れ臭そうににこにこしながら、さっきとは逆方向から聞こえてきた「おーい」と言う声に振り向いた。
「ごめんね、ゆっくりしていって」
「えぇ」
ガントと花嫁は、またそそくさと歩いて行った。主役も大変だ。ランドは手の麦酒を持て余しながら、そろそろお暇しようと考えた。
外に出ると、寒さが急に襲ってきた。きっと家の中が暖かかったせいだろう。外は冷え込んでいて、腕を抱えると一震えがきた。「ランドさん、すみません」と呼ぶ声が聞こえてきた。振り返るとそこにはハンナがいた。小さく自信のない声は魔女のワカバに似ている。違いはどこにあるのだろう?とまじまじと彼女を見下ろしていると、彼女はさらに居心地悪そうに目を伏せた。
「すみません、きっとすぐにお帰りになるだろうって主人が…」
「そうですか。わざわざすみません」
ランドは少しだけ頭を下げて、彼女に詫びた。そこで、またハンナは恥ずかしそうにして、ランドに豚の置物を差し出した。
「来て頂いた方にお渡ししているんです。幸運のお守り、なんですが、なんか子供騙しみたいですみません」
「いいえ、嬉しいです」
ランドはそれを見て、ガントらしいと思った。そして、また身震いをしてしまった。本当に今夜は冷え込む。
「ハンナさん、早く戻ってください。主役が席を空けるとまずいですよ。ありがとうございました」
頷いたハンナは軽く礼をしてから、速足で帰っていく。どこに何の違いがあるのだろう。いや、その違いを探そうとしている時点で、ランドはワカバとハンナを区別しようとしているということに気が付いた。無意識にランドはワカバを魔女として認識している。ランドは偽善者だ。




