『腹式呼吸七回に再挑戦』 管理人側視点
国立天文台のホームページで確認しておいた日の出時刻から、十数分後。
路地の向こうから聞こえてきたかすかなモーター音に、思わず苦笑いしてしまった。
夜が明けたら、いつでもどうぞ。
昨夜の電話で、たしかにそういった。
でもあれは、話の流れ。街灯はまだ明々と灯ったまま。高層マンションに取り囲まれたこの地点から見上げる天頂には、星さえまたたいている。
しかし、いまさら、世の中には常識ってものがあるでしょうなんて、いえるわけがない。まさかと思いつつも、早起きして正解だった。
「おはようございます」
背中で聞こえた、辺りをはばかるような声。
掃除の手を止めた僕は、いま初めて気づいた振りをして、え? といって体をひねった。
「お言葉に、甘えさせていただきました」
それからベッキーは、決まり悪そうな顔を空に向けた。
「ちょっと、早すぎたみたいですね」
「ぜんぜんかまいません」
僕は、竹ぼうきを石塀に立てかけたあと、彼女の足元に控えているカートに視線を移した。
見た目は、ごく普通のカントリーカート。しかしこいつは、とんでもない優れもの。
目的地を入力するだけで、あとは道路交通法に従って自動走行。深さ三十センチ程度のどろんこ道。四十五度の坂道もオーケー。階段だって登る。いわば陸上のドローン。
ところで今日の荷物はなんだろう。定番のコーラは二ケース以上残っている。冷蔵庫の中身もほぼ満タン。
「いつも、すみませんね」
カートを眺めながら頭を掻くと、ベッキーは優しい笑顔を浮かべた。
「これから、各部屋の掃除ですよね?」
そう言われて気づいた。今朝の服装は、七分袖のTシャツとデニムのサロペット。後ろポケットに突っ込んであるのは、白いタオル。
何のためなのかわかった。でも、大げさすぎる。それに手伝いなんて必要ない。しかし僕は、それを口に出すほど愚かではない。
「運搬だけじゃなかったんですか?」
いつもより高い声でいうと、ベッキーは、ニッと笑って、袖をまくり上げた。
「はい、これで終わりです」
僕の部屋の向かいのドアを閉めたところでそう言うと、ベッキーは、うそでしょ、というような顔をした。
「え? もう?」
掃除にかかった時間は十五分程度。でも、僕ひとりならその半分。
名目上は掃除。実質的には、ままごと以下。
各部屋の換気扇をオンにし、水道栓を三十秒ほどひねる。それを繰り返すだけ。しかし、手を抜いているわけではない。最初からそういう契約なのだ。
「ええ」僕は落ちついた声でいった。「覚えていますか。三千万円を返します。受け取れませんで揉めたあの日、皆さんに手伝ってもらったときも、これだけだったはずですよ」
「でも、あれは……」
「皆さんに気を使ったわけではありません。空き部屋の空気を入れ換える。水道水が飲める状態を保つ。それが、管理人としての仕事なんです。でも、僕は本格的な掃除もします。気が向けば、庭の草取りも」
といったところで、僕は話を切り換えた。
「こんな時間に来られた理由は、なんですか?」
ベッキーは、ほんのすこしだけ間を置いた。
「あのあと、どうなったのか、教えて頂きたいのです」
「あのあと?」
思わず眉間にしわを寄せてしまった僕に、ベッキーは、自嘲気味な笑みを浮かべながら答えた。
「いくらちぎれ雲さんでも、あのあと、だけじゃわからないですよね」といって、しばらく僕を見つめていた彼女は、やがて真顔になった。
「腹式呼吸を、七回してもらったことを覚えていますか?」
あった。すっかり忘れていたが、確かにそんなことがあった。でもどうして、今になって?
考えられるのは、ひとつしかない。
「クレームがきたんですね。映像メーカーから」
「え?」
ベッキーの目が輝いたのを僕は、勘違いした。
「あのことは、誰にも話していません。情報が漏れたとしたら、バーシュウレイン以外のルートからだと思います」
「ということは……」
信じられないといった口調でつぶやいたベッキーは、睨むような目を僕に向けた。
「やっぱり、見えたんですね。ちぎれ雲さんには」
もしあの日おなじ質問をされたとしたら、やっぱり正直に答えていたと思う。
「ええ、あのときの映像は、今でもはっきり覚えています」
それから十分後。カート一台分の非常用食品を押し入れに仕舞い込んだ僕は、一度だけという条件で、その実験を引き受けることにした。
テーブルを挟んだ状態でベッキーと向き合った僕は、目を閉じると、すぐにいった。
「どうぞ」
「では、よろしく」
ベッキーは、カウントを開始した。
「イーチィ、ニーィ、サーン」
まるで何もわからない幼児に、数え方を教えるような間延びした声。
その声に合わせて腹式呼吸をしながら思った。
もし、この部屋で、映像が見えたとしたら、たった二年で、持ち運び可能なマルチ方式の映像機器が完成したことになる。技術の進歩はすさまじい。バッテリーを使えば、屋外での映像鑑賞がごく普通のことになる。
「ローク、ナーナ」
七、が聞こえたところで、わくわくしながら目を開けた。
しかし、見えたのは、驚いた顔のベッキーだけだった。
「どうかされたんですか?」
ベッキーの期待を裏切る結果になったが、それは僕のせいではない。
僕は、部屋の中をゆっくりと見回した。
「見えているのは、いつもの僕の部屋だけです。前回のような映像は見えていません」
がっかりするだろうなと思った。しかしなぜか、ベッキーの表情には輝きが戻っていた
「やり方を、間違っていますよ」
ベッキーは、喜びを押し隠すような弾んだ声で、さらに付けくわえた。
「目は、閉じたままです。カウントが終わったあとも、ずっとです」




