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『引き返し時点の、それぞれの様子』  混合視点

 あまりの情けなさに、自分をなじるしかなかった。

「何やってんだお前!」

 なにしろ手ぶらに気づいたのは、チカチカマンションの屋上部分が信号機の左手に見えはじめたあたりだった。

 急に立ち止まったからだろう。動悸が激しくなった。と同時に、体が重くなった。膝に手をついて支えなければ立っていられないほどだった。

 この時点で、僕にはいくつかの選択肢があった。

 出鼻を二度もくじかれた縁起の悪いチカチカマンションへの名刺投入をやめる。

 投入先は変えない。でも実行は、明日以降に変更。

 すぐに引き返して、今日中に名刺を投入する。

 いつもの僕だったら、二番目の先延ばし。しかし、何の迷いもなく続行を選んだ。

 即決の理由は、あの数字。235953。

 どう考えてみても、二十三時五十九分五十三秒を表しているようにしか思えない。

 つまり、あの数字は正体不明の相手からの挑戦状。

 その推測が正しかったかどうかを確かめるには、続行しかない。

 となると、萎えた気持ちを、奮い立たせる必要がある。

 で、そこで思いついたのが、責任転嫁。

 それは、僕の最も嫌いなやり方だが、今を逃すと、挑戦状をたたきつけてきた奴の正体は、一生分からずじまい。それに試合放棄と受け取られて、戦わずして僕の負けになる。

 冗談じゃない。卑怯な相手に、簡単に負けるわけにはいかない。

 この際、手段を選んでなんかいられない。身勝手は分かっていたが、思いつきを試すしかなかった。

「ウエストポーチを忘れたのは、おれのミスじゃない。あの数字を脳裏に映し出した奴が邪魔をした。だとしたら、返り討ちにしてやる」

 通行人に聞かれないような小さな声で宣言した後、四、五回屈伸運動をしてみると、なんと、スタート時より体が軽くなっているような感じ。責任転嫁の罪悪感も無し。気も心もリフレッシュ。

 よしよし、これなら大丈夫。取りに戻っても十分間にあう。

 気力が増したとたん、時刻が気になった。

 ところで、今何時?

 改めて周囲を見回すと、人通りの多い道路の両側には、色々な店舗が並んでいた。

 コンビニ、ケーキ屋、ドラッグストア、レンタルビデオ店、自転車屋、パチンコ店、惣菜屋、衣料品店、ガソリンスタンド。

 でもどこを探しても、時刻を表示している電光掲示板はなかった。

 通行人をつかまえて訊こうかと思ったが、やめた。そんなことより、ウエストポーチを取りに帰る方が先。

「待ってろよ、チカチカマンション」

 それだけ言って、僕はいま来た方向に向かって駆け出した。

 ガウチがバスタブに浸かったまま眠ることは、とても珍しい。

 よっぽど疲れていたみたいね、あなた。

 あくびをかみ殺しながら、自分にねぎらいの言葉をかけたガウチは、いつになく身体の芯がぽかぽかしていることに気づいた。

 先ほどのチクリ光線で温まった右肩の温もりが、血液の流れにのって全身に行き渡ったのだろうか。もしそうだとしたら、ベッキーとカモシンには、あのあとどんな変化が起きたのだろう。でも、それよりあのふたり、大丈夫だったのかしら。部屋を出て行くとき、足元がふらふらしていたみたいだったけど……

 ふたりを心配しながらベッドにはいったところで、ガウチは、太ももの内側に、熱いかたまりのようなものが貼りついていることに気がついた。

 しかし、痛みを伴った熱ではない。心地よい温もり。生薬を配合した温湿布を貼ったような感じだった。

 知らないうちにジェットバスのスイッチを入れたのだろうか。

 一瞬そう思ったが、それはあり得ないことだった。

 ジェット水流が当たるのは、肩、腰、足の裏の三点だけ。太ももの内側に当たるはずがない。

 宙返りのまねごとをしたとき擦り傷が出来たのかもしれない。その部分をマイクロバブルのきめ細やかな泡が癒やしてくれたとしたら納得がいく。

 その部分を確認してみたが、赤みを帯びたような箇所は、どこにも見当たらなかった。

 ま、こんなことはどうでもい。早く寝よう。明日一番にセキュリティ会社に電話した後、チクリ光線に関する情報の有無を、ネットで確認してみよう。

 部屋の明かりを消したちょうどその時、ガウチの太もものあたりにあった温もりの移動が始まった。

 ベッキーは我が目を疑ったのは、鏡の中の自分が消え、別の映像が現れたからだ。

 しかし、恐怖心はなかった。

 気がついたらベッドの中から天井を見上げている。

 瞬間移動したような状況は、珍しくもなんともなかった。酔っ払ったとき、よくこうなる。

 でも、今日に限って言えば、この状況を呑み込むことができなかった。

 今日は一滴も呑んでいない。完全なしらふ。

 なのに、どうして記憶が飛んだの? いつの間に着替えたの? いつの間にベッドに潜り込んだの?

 自問自答の末、たどり着いた答えにぞっとした。

 ひょっとして、これは、認知症の前兆?

 ベッキーは、ひとつ深呼吸をして、霞がかかったようになっている頭の中を整理した。

 鏡の前にいたのは、九時半前後。それは間違いない。あのあと、自分がどのような行動をとったのか思い出してみよう。きっと何かを思い出す。記憶が飛んだのではない。薄れただけ。今日のこれは、認知症とはまったく関係ない。

 太ももの内側にホッカイロを当てたような温かさを感じたのは、今の時刻を調べようとして、枕元の置き時計に手を伸ばそうとした時。その温もりの移動が始まったのは、それからしばらく経った頃だった。

  ★

 ベッドに横になり、部屋の明かりを消したカモシンは、首をひねった。

 太ももの辺りに、奇妙な熱が残っていることに気づいたからだ。

 マッサージチェアの説明書は暗記している。ヒーターの位置は、足の裏と、背中の二カ所だけ。

 購入以来、毎日欠かさず使っている。しかし、こんな場所に温もりを感じたことは一度もなかった。それに、その温かさはヒーターで温めたようなものではなかった。

 マシンの故障? それとも、私の血流が滞っているの?

 ネガティブな思いがわき始めた時、太ももの内側に貼りついていた熱いかたまりのようなものは、彼女の足先に向かって、ゆっくりとした動きで移動を開始した。

 気がついた時、カモシンの口からつぶやきが漏れていた。

「お願い、行かないで。私を捨てないで」

 言いながらカモシンは戸惑った。

 どうしてこんなとき、こんなセリフが出てくるの。こんなせりふ、今まで一度も言ったことは無かったのに。


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