『さあ、行くぞ!』 管理人側視点
生まれて初めて切った啖呵だったが、気持ちがよかった。
渇いた喉に、冷たいコーラを流し込んだような気分。スカッと爽やかコカコーラ。思わず口ずさむところだった。
だがその直後に、あ、やっちまった、と後悔した。
声と数字が守護霊からのメッセージだったとすると、最強の味方にケンカをふっかけたことになる。
守護霊がついているとすれば、性格は僕とよく似ているはず。となると、こんなふうに思っているにちがいない。
お前がそう言うんだったら、今後一切、手助けはしない。でもな、人生は長いんだぞ。数え切れないほどの苦難が待ち構えているかもしれないんだぞ。それでもいいんだな。
口が滑ってしまいました。無意識のうちにでたんです……
そんなふうに謝れば赦してもらえるかもしれない。でも僕は、口から出たものをすぐに訂正するほど、ヤワな人間じゃない。
深呼吸をしてから天井を見上げた。
「誓います。自分の人生は自分で決めます。どうぞご心配なく」
びっくりするほど落ち付き払った声に、僕自身が驚いた。
守護霊は僕を見直す。出過ぎたことをしたと、守護霊は自分を恥じる。そんな思いが湧いてくるほどの説得力を持った声だった。
しかし、いつまでたっても反応らしきものはなかった。
自分の人生を自分で決める。それは、守護霊のプライドを粉々にするほどのものなのだろうか。それとも、先ほどの現象は、僕の守護霊とは何の関わりもなかったのだろうか。
そんなことを考えていたとき、自分が何をしようとしている途中だったのかを思い出した。
今日中に、聴き屋ちぎれ雲の名刺を、チカチカマンションに投入。
しかし先ほどまでの、やる気満々。張り詰めた気分。そのどれもがすっかり消え失せていた。
「ったくもう、あんたのせいで、せっかくの門出の時を……」
だれもいない天井に向かってつぶやきながら、壁時計に目をやると、九時十五分。
日付が変わるまで、あと、二時間と四十五分。
頭の中で計算した瞬間、なぜか邪魔されたことに対する怒りが、むくむくとわき上がってきた。
「どこの誰か知らないけど」気づいた時、天井を睨みつけていた。「あんたと勝負してやろうじゃないか!」
見えない相手に宣戦布告した僕は、返事も待たずにウエストポーチを外すと、着替えに取りかかった。
ジャージの上下を選んだのは、チカチカマンションに、少しでも早く着くため。
この服装だったら、どんなに速く走っても、パトロール中の警官に呼び止められることはないだろう。
235953。
あの数字は、今夜の二十三時五十九分五十三秒を示しているはず。秒の位まで指定したところをみると、絶対的な自信をもっているらしい。
だとしたら、それに敬意を表す必要がある。ということで、僕が決めたルールは、こうだ。
相手が勝利する条件は、ただひとつ。その時刻ぴったしに僕が名刺を投入した場合のみ。
ジョギング程度の速さで行けば、十時前後には目的を果たしている計算になる。余った時間は、二時間ちょっと。これを余裕と言わずに何と言う。
勝敗は決まったようなものだが、情けは無用。
むかしのウインブルドン大会で、試合中に転倒した相手選手に、緩い球を返したという美談がある。
僕はそんな大らかな心の持ち主ではないが、汚い手を使うつもりはない。自分に与えられた条件の中で、正々堂々と戦うだけのこと。
一秒でも早くスタートして、目的を遂行する。これは、恥ずべき行為ではない。
勝利を確信した僕は、素早く携帯のアラームを午前零時にセットしてから、部屋の明かりを消した。
「さあ、行くぞ!」
気合いを入れ直して、ドアを開けたのは、九時三十分をちょっと過ぎた頃。
ひやりとした空気に思わず、武者震い。
空を見上げると、四角く切り取られた頭の上で、いくつかの星が瞬いていた。
チカチカマンションまで行ったことはないが、道のりは知っている。殆ど一本道。路地を三本抜けて、片側二車線の幹線道路にでる。それを道なりに進めば、左手に見えてくる。
僕は運動が苦手。ジョギングは初めて。でも息が切れることもなく順調に足は動いた。
いちにぃ、いちにぃ、いちにぃ、いちにぃ、
心の中で号令をかけながら、歩道をリズミカルに走る僕の頬を、心地よい夜風が撫でて通りすぎる。
息が苦しくなったら、歩けばいい。どんなに遅くなったとしても、一時間以内に名刺投入は終わる。午前零時のアラームを聞くのは自分の部屋。帰りにコーラを買おう。コーラを飲んで、自分の勝利を祝おう。
名刺が入ったウエストポーチを忘れてきたことに気づいたのは、そんなことを考えていたときだった。




