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『名刺をめぐるカロンとの会話』 管理人側視点

 それからあとも、カロンは幾度となく「いいな、いいな、その表情」と嬉しそうな声で言った。

 その時、僕がどのような表情をしていたのかわからないが、カロンから見た僕の様子を、漢字二文字で表せばたぶん「没頭」だろう。

 僕は昔から消極的な考えしか持たない。そんな僕にとって、何かに没頭するということは初めてだった。

 初めての経験は、本人に様々な変化をもたらす。影響を与える。そんな話を聞いたことがある。

 そのせいなのかどうか分からないが、パソコン画面をじっと見つめているうちに、次第に体の調子が変化し始めた。

 汗は出なかったが、体温が一度か二度上昇したような気がしてきたのだ。

 僕は熱に弱い。体温が三十七度八分を超えると、熱にうなされて幻を見るようになる虚弱体質の僕にとって、それは極めて危険な状況であったはずだが、そのときは違った。 体がふわふわ浮いているような。自分の体であって、自分の体でないような。といった感じはこれまで通りだったが、なぜかそれが、とても心地よかった。幸せな感じがした。

 没頭の効果は、それだけではなかった。

 何も意識していないのにも関わらず。体が勝手に動くのだ。といっても、その時僕がやっていたのは、実際に体を張っての力仕事ではない。指先でカーソルを動かし、パソコン画面に並んだアイコンのどれかをクリックするだけの、手作業とも呼べないもの。 でも、僕にはそれがとても不思議な光景に見えた。

 画面上の文字の色やサイズや形が変化するのは、ソフトではなく、僕の指先と画面上の文字を直接繋いでいる見えない糸のおかげ。僕の指の動きによって、文字は姿を変える。でも、その僕の指を動かしているのは、僕以外の人間。そんな錯覚を覚えるほどの指の動きだった。

「あ、これだ。これでいい」

 納得する名刺が出来たのと、指の動きが極端に重くなったのは、ほぼ同時だった。

 時計をみると、作業開始から五分と経っていなかった。

 最終的な文字のフォントとカラーは次のようになった。

『聴き屋』が、勘亭流で青。『ちぎれ雲』が、POP文字で縁取り付きの黄色。僕の名前は、明朝体で緑。住所と電話番号がゴシック体で黒。もちろん横書きの名刺。

 僕はそれをWi-Fi接続のプリンターに送り、A4サイズのコピー用紙の真ん中に印刷したものをカロンの前に置いた。

「どう?」

 しばらくしてからカロンが僕を見た。

「感じたことを、そのまま言ってもいい?」

「もちろんだよ。君の感想を聞きたいから、わざわざ印刷してみたんだ」

 カロンは少し遠慮がちな声で言った。

「これを、このまま相手に渡すの? どうやって保管すればいいの?」

 僕はかねがね、カロンに似合わない言葉は、ビジネス、営業、会社組織といったような種類の言葉だろうと思っていたが、それは当たっていたようだ。

「良い質問だね」と言って少し微笑んだ。「実際には専用の紙を使うんだ」と言ったところで実際に見せた方が早いと思った。

「ちょっと待ってて」僕はパソコンデスクの上に置いてあるレターケースの引き出しを開けて、買い置きしておいたものをもって来た。

「この用紙一枚で名刺が十枚できるんだ。ほら、ここにミシン目が入っているだろう。印刷がすんだら、ここを折り曲げると、きれいに切り離すことができる。昔はこの方式の名刺は信用できないという相手もいたようだけど。今では市民権を得ているらしいんだ」

「あら、便利な世の中になったのね」

 カロンは年寄りが言いそうなセリフを口にすると、再び名刺に視線を落とした。

「ほんとだね、パソコン関係の商品開発のスピードは、ほんとに早いよね」

 そんなことを言いながら自分の椅子に腰掛けた僕は、ノートパソコンのモニター越しにカロンを眺めながら訊いた。

「他にはない?」

「ある」カロンは即座に言った。「色のバランスが悪い」

 その言葉を聞いたとき、カロンが本気で名刺と向き合っていることが分かった。彼女が何を言いたいのか分かっていたが、わざと知らない振りをした。

「具体的に教えて欲しいんだけど」

「どこかに、赤い色が欲しい」

 思っていた通りの指摘だった。僕としては『聴き屋』の『き』を赤にした方が良いかもしれないという気持ちがあったのだ。

「もしその中の文字を変えるとしたら、どれを赤にする?」

「しない。別の文字を加えて、それを赤にする」

 今度の返事も早かったが、僕が予想していたセリフではなかった。加えるの意味が分からなかった僕の口から思わず「はあ?」という声が漏れた。

「加えるって、何を加えるつもり?」

「料金」

 今度は、カロンが何を言おうとしているのか分かった。

「なるほどね。それも良いかもしれないね」と言ってから、自分の意見を言った。「料金やその他の条件については、別の形式を考えているんだ。チラシという形でね」

「あら、そうなの」それからカロンは、考えるような目をして天井を見上げた。「ということは、そのチラシも、この名刺と一緒に保管しておく必要があるってことよね」

 その一言が、僕の脳のどこかを引っ掻いた。

「ありがとう」椅子から立ち上がった僕は、腰を直角に折って感謝の意を表した。「君のおかげで、経費がずいぶん節約できそうだ」

「私なにか言ったかしら?」

 ぽかんとするカロンを視界の隅で捉えながら、僕はパソコン画面の名刺の住所と電話番号の上のスペースに【料金・一時間・3000円】と書き加えた後、それをカラーパレットで赤に変え「よしっ!」と気合いを入れてから、そのデーターを、もう一度プリンターに送った。


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