『シロワンミ氏の体質、僕の体質』 管理人側視点
シロワンミ氏も僕と同じように、腹式呼吸七回で脳裏に映像が浮かんでくる体質。
彼の最初のセリフを、そんなふうに解釈したのは、僕とベッキーだけではなかったようだ。
「やっぱり、そうだったのね」ガウチがちいさくつぶやくと、カモシンはテーブルの下で、ガッツポーズの仕草を見せた。
しかし、話が進むにつれて、それは僕たち四人の早とちりだったことが明らかになった。
彼の場合、浮かんでくるのは映像ではなかった。音声だった。
それを聞いたとたん、僕は持っていたグラスを落としそうになった。
というのも、気持ちをスパッと切り替えた矢先だったからだ。
シロワンミ氏と僕は同じ種類の人間。彼は僕の記憶の謎を解くカギを持っている。彼の役目は、僕の記憶を元の状態に戻すこと。そのために、今僕の前に姿を現した。
そんなふうに考えていたときだったから、愕然となるのは、当たり前。肌を覆っていた鳥肌も瞬時に消え失せた。
しかし、バーシュウレインの反応は、僕とは真逆だった。
「耳の内側から聞こえてくるんです、人の声が……」
周囲を気にしながらシロワンミ氏がそういった瞬間、三人はテーブルに身を乗り出した。
「その声は、若い女性ですよね?」
ベッキーの声の大きさに驚いたのか、シロワンミ氏はたじろいだ様子を見せたあと「いえ」と小さく首を横に振った。
「いまのところ、男の声だけです」
ベッキーが何を期待して、女性の声といったのか、僕にもわかった。『目を押せ』に決まっている。
しかしいまの一言で、その可能性を断ち切られてしまった。それにカモシンが聞いたのは、天井付近からの声。彼の場合、自分の耳の奥から。根本的な違いがある。
さすがのベッキーも、ショックを受けている。あとのセリフが浮かんでこないくらいの衝撃を受けたのだろうなと思ったが、それも、僕の早とちりだった。
彼女は僕が気づかない糸口を、しっかり捕まえていた。
「いまのところ、とおっしゃったようですが、声が聞こえてくるようになったのは、どのくらい前からですか?」
もし、この質問のないままシロワンミ氏と別れていたら、後の展開は、違うものになっていたと思う。
「わたしが免許を返納しようと決意した日です。よく覚えています」
シロワンミ氏はそこで言葉を切ると、自嘲気味の笑みを浮かべて付け加えた。
「二年と、ちょっと前です」
ふたたび僕の背筋を鳥肌が走った。その日は、僕が彼のタクシーに乗ったあの日。直感的にそう思った。
「二年と、ちょっと前ですね」
ベッキーが、おうむ返しにしたのは、ここからあとの質問は、ちぎれ雲さんご自身でお願いしますね、という意味。それはわかった。しかし冷静さを失っていた僕には、何をどう訊けばいいのか見当もつかなかった。
すべてベッキーさんにお任せします。
という代わりに、僕はぬるくなったコーラをひと口すすって、椅子にもたれかかった。
「その日のことを、詳しく教えて頂けますか?」
僕の無言の声を聞きとったベッキーの要望に、シロワンミ氏は考えるような顔になった。そしてしばらくしてから、僕たちひとりひとりの目を見ながらいった。
「大の大人が、人前で話すようなものではありませんが、よろしいでしょうか」
それまで黙っていたカモシンが、落ち着いた声で答えた。
「我々が伺ったのは、その話を聞かせていただくためです」
期待してはいなかった。
しかし、シロワンミ氏の話のほとんどが、僕たちとのつながりを証明するものだったことに驚いた。
「その日までのわたしは、記憶には絶対の自信がありました。一週間前の何時に、どこを走っていたのかと訊かれても、すぐに答えることができるほどでした。でもその日の売上清算の途中で、午後十一時を過ぎたあたりからの記憶が抜け落ちていることに気づいたのです」
彼は言葉だけでなく、科学的な裏付けでそれを証明してみせた。
「これを見てください」
彼が取り出したのは、スマホ。
「GPSとタコメーターの記録を照らし合わせた記録が、これです」
僕の目の前に差し出された画面にあったのは、道路地図を撮影した鮮明な画像。色違いの丸印が三つと、それを結ぶ緑の線が見えた。
「その日最後の乗客を乗せたのが、この地点です」
彼が指さしたのは、僕のアパート近くのバス停。赤い丸印。
「このあたりで、しばらく停車していたようです」
ドラッグストアの駐車場には、青い丸印。
「この地点で、数分の時間待ち」
チカチカマンション横の道路には、黄色の丸印。
「そして、乗客を降ろしたのは、元の交差点」
で最初の丸印に戻った。
それは間違いなく、あの日の僕の乗車記録だった。しかし、そこでひとつ疑問が湧いてきた。
交差点付近で乗り込み、用事を済ませた後、元の地点で降りる客は珍しくないだろう。でも、後部座席で気を失う乗客は、めったにいない。
シロワンミ氏は、元プロの運転手。青い丸印が、この道路沿いにあるドラッグストアだということに、気づかないはずがない。
ましてや、あの駐車場でのやりとり、エアサロンパス、ファブリーズ、缶コーヒーの、どれひとつ覚えていないなんて、おかしすぎる。
しかし目の前のシロワンミ氏に、不自然さは見られない。何者かが、あの日の記憶をどこかに隠したとしか、考えられない。
僕の横で息を殺して画面を睨んでいたベッキーが、静かに顔を上げた。
「失ったのは、この客を乗せたときの記憶だけですか?」
シロワンミ氏は、少し顔を曇らせた。
「それが、よくわからないんです……その日を境に、急激に記憶力が低下しはじめたものですから……早い話、いまのわたしには、元々の記憶がどうだったのかさえわからないんです」
そこで黙り込んでしまったシロワンミ氏に、ベッキーがぶつけたのは、僕だったら絶対に口にしない質問だった。
「精密検査は受けられたわけですね」
人によっては、バカにされたと受け取るセリフ。僕は思わず目をつぶった。でもシロワンミ氏は、よくぞ訊いてくださいましたというような目をベッキーに向けた。
「もちろんです。タクシーの運転手は、人様の命を預かる仕事でもあります。その翌日から、丸々一週間かけて、最先端の医療機器で検査してもらいました。聴力にわずかな衰えがある以外は、すべて異常なしの診断でした」
いい終えたシロワンミ氏が、かすかに笑ったので、僕たちもそれに付き合って、笑みを返した。
ベッキーのえらいところは、輪郭のはっきりしない部分に、柔らかな言葉の光を当てるところだ。
「そうなると、声が聞こえてきたのは、診察を受けたあとということになりますけど……」
「さすがですね」シロワンミ氏は敬服するような目になった。
「お察しの通り、耳鼻科はもちろん、脳神経外科の医師にも、そのことはいっていません。
最初の声が聞こえてきたのは、売上清算を終えて、運転免許証の返納時期を考えていたときでした」
あ、なるほどそうか。彼の体の中には、免許証を眺めていると、音声が聞こえてくるシステムが組み込まれているんだ。
僕が反射的に思ったことを、ベッキーは、さらりとした口調で本人に訊ねた。
「シロワンミさんは、自分の部屋で免許証を見ているときに、声が聞こえてくる体質なのではありませんか?」
と、シロワンミ氏は急に真顔になった。
「もしかすると、わたしの心の中が見えているんじゃないですか?」
「とんでもありません」ベッキーはクスッと笑った後、僕に顔を向けた。
「シロワンミさんのおっしゃることと、ちぎれ雲さんのおっしゃることが、ほとんど同じだからです」
話には流れがある。僕の体質を、僕自身の口でシロワンミ氏に伝えなければ、せっかくの雰囲気が違うものになる。そんなことは、僕にでもわかった。
「すみません」僕はベッキーの肩のむこうのガウチに声をかけた。
「その前に、コーラを二杯。氷抜きでお願いします」




