第二章
健磐は文机を前に、頬杖を付いていた。肘置きに行儀悪く肘を立てていて、右手に握られた筆の尻で文机をテンポよく叩いている。
「集中してくださいませ、兄さま」
唐衣姿の美しい女がその背中に声を掛けた。目尻に入れた朱色が目を引く。
「都比咩……」
阿蘇神社の二の神、都比咩。健磐の妹であり長女でもある。
都比咩は文机の隅に湯のみを置いた。
「神事に間に合いませんわよ?」
春の神迎祭に必要なものは、なにも赤酒だけではない。招待状など細々とした書類が必要だが、健磐の筆は遅々として進んでいなかった。
「……分かっとる! じゃが赤酒の様子が気になるんじゃ!」
「赤酒……だけですか?」
二人の間に沈黙が落ちる。
「何が言いたい?」
健磐の目が俄かに鋭くなった。
都比咩はそれを気にするようでもなく、澄まして続ける。
「あの少女のことですよ」
都比咩は部机を挟んで健磐の正面に静かに座った。
「ご自分の立場をお分かりですか? 傷付くのはあの少女の方ですよ?」
健磐は何も答えない。黙ったまま、一番歳の近い妹の顔をじっと見つめ返している。
やがて大きく息を吐いた。
「分かっとるけん。都比咩が心配するようなことはなーんもなか」
そう言ってすっと立ち上がった。
「ちょっと見回り行ってくる」
「兄様……! 話はまだ……」
都比咩が声を荒げるも、健磐はすでに龍に変化して空の彼方へと飛んでいってしまっていた。
都比咩の背後で衣擦れの音がした。都比咩が振り返ると、襖の脇から比咩御子が顔を覗かせていた。
「姉さま……」
心配そうに揺れるその瞳に、都比咩はふっと顔を綻ばせた。
「心配、掛けさせてしまいましたね」
「健磐兄さまは、どうなってしまうんでしょう……?」
二人は空を仰いだ。龍の姿はもう見えない。どこまでも青い空が、ただ広がっていた。
*
健磐は人神である。神武天皇を祖父に持ち、彼の命で熊本を訪れた。健磐縁の地名も多々ある。
健磐が阿蘇の外輪山を切り開いたことで、県内でも大きい川、白川が流れることになったのだが、それはまた別の話である。
健磐龍命。その名が示すとおり、龍としての一面も持つ。阿蘇山に掛かる雲海に、健磐の姿が混じっているかもしれない。それほど美しい白龍だ。もっとも、健磐は人の姿でいる方を好んでいるから、龍の姿で人前に現れることは滅多にないのだが。
「健磐兄さまは、何をお考えなんでしょうか」
健磐が出て行った阿蘇神社で、比咩御子と都比咩は年始の準備に追われていた。
都比咩は手を止め、妹の方を見る。
「あんな小娘の元に足繁く通って……。曲がりなりにもこの神社の主祭神ですのに」
比咩御子は口を尖らせて言う。
阿蘇神社は十二の神を奉る神社だ。全国でも珍しい横参道のこの神社には、男神七神、女神五神が奉られている。神武天皇の血を引く十二の兄弟神であるが、長兄である健磐の力は絶大であった。阿蘇地域一帯を治めるのが健磐なのだ。
「だから藤崎宮の者たちになめられるんですわ」
熊本市内にある藤崎八幡宮は、県内でも大きな神社だ。初秋に行われる例大祭は、県下最大の祭りでもある。
「比咩御子、滅多なことを言うものではありませんよ。人々の信仰心が薄らいでいるこのご時勢、我々は協力してゆかねば」
姉に注意されて、比咩御子はぷうっと頬を膨らませた。
「分かっておりますわ! だからこそ、神迎祭が行われるんでしょう? でも、健磐兄さまが一人の人間に入れ込んでいると知られたら……」
神たる者、人々には平等でなければならない。創世記より続いてきた掟だ。誰か一人に入れ込めば、世界のバランスが崩れる。
「兄様も、そこは弁えていらっしゃるはずですよ。伊達にこの地を二千年も治めておりませんもの」
都比咩はそう言うが、比咩御子の顔は優れないままだ。
それを見て、都比咩は口の端を上げる。
「それとも、比咩御子は兄様離れができていないだけですか?」
「そっ、そんなことないですわ! 確かにわたくしは兄さまを尊敬してはおりますが、もう一人前の女子です!」
慌ててそう言う比咩御子に、都比咩はころころと笑った。
「さあ、新年の準備をしますわよ。それこそ間に合わなかったら、阿蘇神社の面目が丸つぶれです」
「はーい」
比咩御子は素直に返事をして、年始の準備に取り掛かった。
*
「長男ってのはさー、好き勝手できんモンたい?」
本殿に寝そべって、健磐は言う。それを烏帽子を被った袍姿の男が引きつった顔で見下ろしていた。
「貴様……どの面下げてそんな言葉を……」
健磐はがばっと起き上がった。
「固いこと言うなよー、ほむちゃん」
「その呼び方をやめろ!」
ほむちゃんと呼ばれた男、誉田別はくわっと険しい顔をして怒鳴った。
阿蘇神社を出た健磐は、藤崎八幡宮に来ていた。ことあるごとに愚痴を言いに来る健磐に、藤崎八幡宮の主祭神、誉田別は頭を抱えていた。
「貴様がちゃんと仕事をすりゃあいい話だ。ここに来る暇があったら働け」
「つれなーい、ほむちゃーん」
懲りずに変なあだ名で呼ぶ健磐を、誉田別は無視して筆を取る。
健磐はその背後から肩にのしかかった。
「……何だ。聞き流してやるからさっさと言え」
誉田別は振り返らずに言う。健磐は一瞬面食らった。この男とは長い付き合いだが、何も言わずとも察してくれる。厳しく当たってくるが、根は優しい男なのだ。
「……気持ちを変える術とか、なかかなぁ」
その声には、さっきまでのふざけた様子はなかった。それきり黙りこむ健磐に、誉田別は小さくため息をつく。
「そんなものがあったら人の世はもっと簡単にまとまっているだろう。それを円滑に回すのが我らではないか」
声は厳しいものだが、その顔には呆れとも労りともつかぬものが浮かんでいる。
ことあるごとに駆け込んでくる神ではあるが、気を許していないわけではないのだ。
健磐は目をぱちくりさせて、そんな誉田別を見つめる。そしてにっと笑った。
「……そうだな! やっぱぬしゃあ頼りになる男ばい!」
健磐はすくっと立ち上がって、高らかに言い放った。
誉田別はまた小さく息をついた。
「貴様は能天気にしておればよいのだ」
「なんだとー?」
「はいはい。……そんなことより神迎祭の準備は進んでおるのか?」
「じゅんちょーじゅんちょー。あとは赤酒の出来次第だな」
あっけらかんと笑ってみせる健磐を、誉田別は座ったまま見上げていた。
「……あんまり思い詰めるなよ?」
「んー?」
健磐はそれには曖昧な返事をして、本殿を出て行った。
*
冬休みといえども雪湖の通う兎谷高校では、一年生も講習がある。その年内最後の授業を終え、教室の中は浮き足立っていた。
「雪湖ー。雪湖も一緒に初詣行くよね?」
ノートをリュックに入れていた雪湖に、朋花が声を掛けた。
クラスの中の良いグループで、初詣に行く話は出ていた。学校で会えるのは今日が最後なので、朋花は確認にきたのだ。
「あー、三宮神社だよね?」
学校から一番近くにある神社は三宮神社だ。この辺りでは一番大きな神社ではあるが、それが雪湖を悩ませていた。
脳裏に『酒ー!』と叫ぶ神様の顔が浮かぶ。
「うん。八時に兎谷公園に集合ね!」
とりあえず頷く雪湖を見て朋花は去っていく。
雪湖は困った顔を浮かべた。
『へー、ふーん? 儂を差し置いて? 三宮に行くとぉ?』
不満たらたらな声である。
雪湖は苦々しげな顔をしながら箱を抱えた。その背後では健磐が宙に寝そべっている。
予想どおりの反応に、頭が痛い。雪湖は箱を片付けると、くるりと振り返った。
「だってしょうがないじゃん。ここからじゃ阿蘇神社は遠いんだよ」
健磐が不満の声を上げているのはこのことである。雪湖を悩ませていたことでもあった。
八景水谷町から阿蘇神社に行くには、電車を乗り継いで一時間以上掛かる。お年玉が期待できるとはいえ、高校生のおこづかいには痛手だった。
対して三宮神社は自転車で行ける。
『それでもこーんなに世話になってる儂のとこには、年始の挨拶に来んて言うとか』
健磐は雪湖が別の神社に初詣に行くことを拗ねていたのだ。雪湖も阿蘇神社に行くべきかなと思っていただけに、言い返すことができない。
「でもほとんどうちにいるじゃん」
赤酒造りを頼んでからこっち、健磐はほとんど毎日瑞原家に入り浸っている。雪湖の傍で酒を呑んではその酒を褒めちぎっていた。
呆れた視線を向ける雪湖に、健磐は喚いた。
『年末年始は参拝客が増えっから神社におらなんと! 儂がおらんくてこの酒蔵が潰れても知らんけんね!』
健磐は雪湖に背を向けて、本格的に拗ねてしまう。
これには雪湖も深くため息をついてしまった。ほんの二、三日不在なだけで、潰れたりするものか。
「三箇日の間には行くから」
それを聞いて健磐はばっと振り返る。雪湖は根負けしてしまったかのようで、何だか悔しい。
ぽかんとしていた健磐だったが、やがて満面の笑みを浮かべた。
「お、おこづかい少ないんだからね! ちゃんともてなしてよね!」
『もちろんだ!』
健磐はよほど嬉しかったのか、雪湖を抱き上げてくるくると回る。その顔には満面の笑みが浮かんでいる。
予想を遥かに超える喜びように、雪湖は面食らった。こんなに喜ぶのなら、普段からお参りしておけば良かった。
『それには及びません』
酒蔵に凜とした声が響いた。
雪湖と健磐が振り返ると、朱色の袿袴姿の女がそこにはいた。
『なんじゃ、都比咩も来たんか』
健磐は雪湖をそっと下ろす。
『雪湖は初めてじゃったな。儂のすぐ下の妹、都比咩じゃ』
都比咩は美しく笑みを浮かべる。初対面ではないが、都比咩は何も言わない。下手なことは言わない方がいいかな、と雪湖も黙っていた。
『雪湖殿は妾が迎えにあがります』
『なんじゃ、いいのか』
『ええ。雪湖殿、二日と三日どちらがよろしいですか・』
「あ……じゃあ二日で」
都比咩は頷くと、健磐に向き直った。
『健磐兄様は神社にお戻りください。国龍が探しておいででしたよ』
『そうだ、正月んことで話さなんことがあったったい。都比咩、先に戻っとるぞ』
健磐の姿がふわりと消えた。あとには雪湖と都比咩が残される。
都比咩は雪湖をじっと見つめた。
「あの……?」
『健磐兄様は言わないでしょうから、妾が言っておきます。……雪湖殿、兄様をお慕いしておられるなら、どうかお諦めくださいませ』
そう言って都比咩は目を伏せた。雪湖は言葉を失った
『神と人の恋路は禁忌……。古より定められてきたことです。もし禁忌を犯そうというのならば……。健磐兄様が、消えることになります』
告げられた言葉に、雪湖は頭が真っ白になった。まだはっきりとは自覚していなかった恋心。それを認める前に、釘を刺されてしまった。
「私……そんなんじゃないですから……。ただ私は、頼まれて赤酒を造ってるだけです……」
『その言葉、偽りはございませんね』
都比咩はまっすぐに雪湖を見つめていた。強い瞳に射抜かれ、雪湖は目を反らすことができない。儚げな美しさの中に、こんな強さがあるとは思わなかった。
「……はい」
雪湖はしっかりと頷く。
それを見て、都比咩はにっこりと柔らかく笑った。
『脅しに来たつもりではございませんでしたが……。二日は朝から迎えにあがりますね』
さっきまでと違いすぎる空気に、雪湖は呆気に取られてしまう。
『あ、普段着で構いませんので』
そう言って都比咩はふわりと消える。
あとにはぽかんと口を開けた雪湖だけが残された。
「はい?」
*
迎えた一月二日。
早朝から瑞原家を訪れた都比咩に連れられて、雪湖は阿蘇神社に来ていた。
『やっぱり新年らしく赤でいきません?』
『それなら帯はこちらの西陣織ですわね』
『簪はこれがよろしいんではなくて?』
女三人姦しいとはよく言ったものだが、硬直した雪湖は完全に着せ替え人形と化していた。
都比咩に連れて行かれた先は、阿蘇神社の二の神殿だった。そこに待ち構えていたのは、二人の袿袴姿の女性だった。部屋の中は、色とりどりの着物で溢れ返っている。
「あ、明けましておめでとうございます」
ここにいるということは、二人とも都比咩と同じ神なのだろう。そう思って雪湖は頭を下げた。
『紹介いたします。妾の妹、若比咩と新比咩です』
神殿にいた二人はにっこりと微笑んだ。
『せっかくの席ですもの。雪湖殿も着飾りくださいませ』
都比咩はころころと笑ってそう言った。その言葉に雪湖は戸惑うばかりである。
確かに新年のめでたい席に、普段着でいいのかと疑問には思った。しかし都比咩本人がいいと言うのだからとその言葉どおりに来てみれば、これである。
「つ、都比咩様……! 私、こんな高そうなもの着れません!」
それに反応したのは二人の妹達だ。
『あら、わたくし達の秘蔵の着物が着れないと言うのですの?』
『雪湖殿のお召し物は、きっとこの着物なんか目じゃないんですわ』
そう言って二人はさめざめと泣く真似をする。雪湖はされるがままになるしかなかった。
「……都比咩様は、私のことを快く思ってなかったんじゃないんですか?」
帯を締められながら、雪湖は正面に立つ都比咩に尋ねていた。
都比咩は一瞬驚いた表情をしたあと、口角を上げた。
『雪湖殿は、歯に衣着せぬ物言いをするのですね』
言われてから雪湖は「お前は私のことが嫌いなのか」という意味と同じようなことを言ってしまったのだと気が付いた。
「すっすみません……!」
『良いのです。雪湖殿、妾は確かに兄様と雪湖殿の関係を案じております。ですが神社に参拝に来る者を蔑ろにしたいわけではないですよ』
都比咩の瞳にはやわらかな色が浮かんでいた。
『信仰心の薄れた昨今、小さな神社では運営が厳しいのが現状です。幸い、阿蘇神社は県内外の人々が多く訪れる神社ですからもっていますが、やはり一人でも多くの人が来るのは嬉しいものなのです』
都比咩の声には悲壮なものは混じってはいない。その表情も変わりない。
だけど雪湖には、この神社の行く末を案じているように思えた。
「私、も……信仰心が強い方じゃないですけど」
ぽつりと呟いた声に、三人の視線が集まった。
「春の神迎祭には、とびきり上等の赤酒をお出ししたいと思います」
半ば流されるように始めた神迎祭の御神酒作りだ。小さいときから家の手伝いはしているし、その延長線上の御神酒作りだと思っていた。
だけど都比咩の話を聞いて、それだけでは駄目なのだと感じた。
都比咩も若比咩も新比咩も、そんな雪湖を見て微笑んでいた。
『さぁ、できましたわよ』
『よくお似合いですわ』
新比咩が姿身の前まで雪湖の手を引く。
そこに映っていたのは、桜の西陣織が美しい赤の振袖を着た雪湖の姿だった。
『兄様は一の神殿です。さぁ参りますよ』
「あっちょっと……!」
都比咩は雪湖の手を引いて歩き出した。
*
新年も二日目。この日も朝から境内には、参拝客で溢れ返っていた。三箇日を過ぎても賑わいを見せる阿蘇神社だ。三箇日の間はなおさらである。
この間ばかりは、健磐もしっかりと着飾って神殿にいる。
しかし頬杖をついて胡坐をかくその顔には、仏頂面が浮かんでいた。
『明日までは、ちゃんとしてくださいよ……』
後ろから声を掛けられて、健磐は首を仰け反らせた。
『なんじゃ国龍。どうせ見えんからいいじゃろ』
都比咩を挟んで健磐のすぐ下の弟、三の神・国龍だった。
格子の向こうでは、たくさんの人々が賽銭を投げ手を合わせていっている。よもやその先にいる神が、仮にも正月から億劫そうに神事に臨んでいるとは思いもしないだろう。
『気持ちの問題です』
国龍はため息をついて健磐の隣に座った。それに健磐ははっと笑って答えた。
『おうおう気持ちは問題たい。儂は今すぐこの場を離れたいと思っておる』
『兄上』
厳しい声が飛ぶ。今度は健磐が大きくため息を吐く番だった。
『……分かっておる。うつつは抜かしとらんつもりだ。愚痴くらい許せ』
健磐も分かってはいるのだ。
この兄は、突飛なことをしながらも誰よりも阿蘇神社のことを考えている。そうでなければ二千年もこの阿蘇地域一帯を治められまい。国龍は苦笑した。
『今日は雪湖殿が来られるんでしょう? それまで頑張りください』
途端、健磐の顔がまた険しくなった。
『何か問題でも?』
『都比咩のやつが、何か企んどるんじゃ』
健磐は苦々しげに呟いた。国龍が何のことかを問おうとしたとき、神殿の奥の戸が開いた。
『健磐兄さま……あっ国龍兄さまももういらしてたんですね』
桃色の袿袴姿をした小柄な少女が、そこにはいた。末の妹、十の神・彌比咩だ。
『彌比咩? どうしたんじゃ?』
『都比咩姉さまたちに言われて参りました。国龍兄さまの手伝いをするようにと』
健磐は国龍を見た。
『お勤めを変わると言っているのですよ』
『なんで……』
健磐が尋ねようとしたとき、戸を叩く音がした。
『健磐兄さま、入りますよ』
都比咩の声だった。
すらりと戸が開く。
目に入った赤に、健磐は言葉をなくした。
裾に桜の文様が織り込まれた赤の振袖を着込んだ雪湖は、いつもの作業着姿からは想像もつかないほど、見違えて見えた。翡翠の簪も雪湖の黒髪に映えており、目尻に入れられた朱も雪湖を大人びさせている。
「あ、明けましておめでとうございマス……」
雪湖も雪湖で、普段と違いすぎる姿に戸惑っていた。振袖など普段着る機会がない。都比咩たちから美しいと言われたが、何も言わずにただ凝視する健磐に、だんだん落ち着かなくなってくる。やっぱりおかしいのだろうかと不安になってきた。
そのとき都比咩が動いた。すっと健磐に近づくと、彼の脇腹に肘を入れた。健磐は思わずぐっとうめき声を上げる。
『黙ってないで何かお言いくださいませ』
都比咩は健磐に小さく耳打ちする。
我に返った健磐は、あちこちを視線を彷徨わせたあと、きっと視線を上げた。ずんずんと雪湖の近づき、その手を取る。
『東の間が空いてますわよ』
都比咩が澄まして言う。健磐はちらりと振り返った。
『……あとを頼む』
いってらっしゃいませ、と残された神々の声が重なった。
*
健磐は黙ったまま雪湖の手を引いていく。その雰囲気に雪湖は何も言うことができず、ただされるがままになっていた。
やがてひとつの広間に辿り着くと、ようやく健磐は手を離した。名残惜しさが雪湖の胸を襲う。
向き合った健磐は、何も言わない。遠くで笛と琴の音が聞こえる。
「あ、あの……。改めまして、明けましておめでとうございます」
深々と頭を下げる雪湖に、健磐ははっと我に返った。
『あ、あぁ……よき一年となるよう』
反射で常套句を返してしまった。雪湖は一瞬きょとんとする。そしてぷっと吹き出した。
「そうしてると、ちゃんと神様に見えるね。格好もいつもと違うし」
健磐は自分の格好を見下ろした。今日は冠を被り、神事用の黒袍に白袴を身に着けている。普段の狩衣姿からすれば天地の差だろう。
健磐は視線を泳がせながら、口を開いた。
『ゆ、雪湖も……なんだ、その……』
ちらりちらりと雪湖を見る健磐の顔は、赤く染まってしまっている。
『……綺麗じゃぞ』
広間に沈黙が落ちる。雪湖の顔まで真っ赤になった。
「あ……えっと、あの……。ありがとう……」
手を握られれば胸が高鳴る。綺麗だと言われれば落ち着かなくなる。
雪湖はその感情に薄々気付きながらも、どこかひやりとする気持ちを感じていた。
*
一月も半ばになれば、新酒の時期である。瑞原酒造もこの時期限定の品を出し終えて、次の醸造の準備を進めていた。
『どうじゃ? 今年の出来栄えは』
正月の慌しさを終えた健磐も、瑞原酒造に入り浸っていた。
「うん、じいちゃんもお父さんも今年のはいい感じだって言ってたよ」
正月以来、普段どおりの雪湖である。健磐もあのときのような空気は出さない。
二人とも禁忌のことは分かっている。口には出さずとも。
時折ぎこちない雰囲気になるのも、薄々気付いていた。
「……飲む?」
そんな空気を打ち破ろうと発した言葉に、健磐の表情がぱあっと明るくなった。この神様は本当にお酒が好きだなぁ、と雪湖は酒蔵の娘らしく嬉しくなる。
『いいと!?』
「うん。一杯くらいならばれないだろうし」
祖父も父も味見はしている。雪湖は未成年だからできないけれど、一杯試飲させる分には問題なかった。
雪湖はガラスのコップに赤酒を注ぐ。渡す瞬間に触れた指先に、平常心を装った。
コップの中では、とろりとした赤酒が揺れていた。琥珀にも似た茶褐色のこの酒は、他の清酒と比べてもやや甘い。菓子のような甘みではなく、米から生まれる上品な甘さだ。馬刺しや辛子蓮根など、熊本のぴりっとした郷土料理によく合う。
健磐はコップをくるりと回して光にかざすと、眩しそうに目を細めた。そして香りを楽しむと、一口口に含んだ。それから一気に飲み干す。
『うん、いい酒じゃ』
その言葉に雪湖は胸を撫で下ろした。
「これからもっと深みが出ると思うよ。春には最高の赤酒を用意しなきゃね」
雪湖は屈託なく笑う。健磐も微笑み返すが、徐々にその表情は硬くなっていった。
『雪が解ける頃、か……』
雪解け。この地に雪が降ることは少ないが、健磐は桜の咲く季節に思いを馳せていた。
春になったら、もうここには来られない。雪湖との関係はそれまでの約束だ。続けることなどできない。
名残惜しいなどと思うのは、間違っている。
表情を曇らせる健磐に、雪湖は不安になる。
「どうしたの健磐。雪なんて滅多にここじゃ降らないよ?」
健磐ははっとした。思いのほか、考え込んでしまっていたようだ。
『いや、雪湖の名前を考えてたら急にそう思ったんじゃ。そういえば雪湖は冬生まれと?』
「あ、うん」
無理やり話題を変えられた気がしつつも、雪湖は頷いた。
「雪の湖で雪湖。読みにくいって友達にたまに言われる」
発音自体は普通だが、よく漢字を間違えられる。雪湖自身は気に入っているのだが。
『いや、綺麗な字面じゃな。父君も母君も悩み抜いて名付けたんじゃろうなぁ』
どことなく沈んでいる健磐に、雪湖はそれ以上声を掛けることができなかった。
雪湖は居間のこたつに入り、机の上に突っ伏していた。
「ねぇお母さん」
「ん? なあに?」
母は帳簿を付けている。母のように瑞原酒造の力になれるまで、あと何年くらい掛かるだろうかとふと脳裏に浮かんだ。
「なんで私に『雪湖』って付けたと?」
健磐に名前のことを聞かれて、ふと気になったことを口にした。名付けにしては珍しい漢字だ。何か由来があるのだろうか。
母は顔を上げた。
「あんたが生まれた日ね、珍しく雪が降った日だった……。小さな雪湖を腕に抱いて、ふと窓の外を見たら江津湖にちらちら雪が舞ってたの。それを見ておじいちゃんが『こん子は雪湖だ。雪の湖と書いて雪湖だ』って言ったのよ。誰も反対しなかったわ」
「じいちゃんが……」
祖父が名付け親だったとは初耳だった。いつも厳しく接してくる祖父が、最初の贈り物をしてくれていたとは思わなかった。名前は親から貰う最初の愛情だという。
「おじいちゃんはあんたに厳しくしとるけど、本当はあんたのことが好きとよ? それに杜氏としての腕も見込んどる。……だけど酒造りは厳しい世界だからねぇ。女の子に務めさせていいのか、迷っとるんよ」
ただ厳しくされているのかと思っていた。女が酒蔵に入るのが気に食わないのかと。
込み上げてくる思いに、視界が滲みそうになる。
「でも雪湖は本当にうちを継ぎたい? 無意識に義務感に思ってない?」
「私、は……大学で経営とかを勉強して、うちに活かせたらいいなって思ってるけど……」
母は微笑んでいる。
「継いでもらえたら嬉しいけど、大学で他の道を見つけたらそっちに行ってもいいけんね。おじさんのところの息子さんもいるんだし」
考えなかったわけではない。学校の友達はいろんな夢を描いている。「今どき家を継がなくてもいいんじゃないの?」と聞かれたこともある。
それでも、雪湖の夢は変わらなかった。
「じいちゃんは、蔵?」
母が頷くと、雪湖は立ち上がって蔵へ向かった。
ひんやりとした酒蔵で、祖父は酒樽を見ていた。入って来た雪湖に気付いたはずだが、その背中は振り返らない。
「じいちゃん!」
駆け寄って祖父を呼ぶ雪湖だが、それでも祖父は正面を向いたままだ。雪湖は構わず続けた。
「私、じいちゃんが何と言おうと杜氏になるよ。大学に行って、いろんな世界を知るかもしれない……。だけどきっと、それでも日本酒に関わっていたい……。だって私は、この酒蔵が好きだから!」
蔵に沈黙が落ちる。祖父は何も言わない。
これでも駄目だったか、と雪湖が諦めかけたそのときだった。
「寒い、蔵だ」
ぽつりと声が落ちた。祖父は雪湖の方を見ないまま、言葉を紡ぐ。
「酒は寒い時期に仕込まんといかん。朝、それこそ身も凍るような時間から仕事は始まる。今どきの若いモンに勤まる仕事じゃなか。体力だって相当いる。おしゃれなんてできんぞ」
何を今さら、と雪湖は思う。家に帰ったら、いつも作業着姿だ。麹を仕込むときには全身真っ白にもなる。
だけどそれは、雪湖にとっては誇りだ。どんなファンデより、どんなチークより、最高の化粧になる。
「でもじいちゃんも思ってるんでしょ?」
そこでようやく祖父は振り返った。雪湖はにっと笑う。
「この格好でこの場所に立つことは、何より最高のことでしょ?」
そのときの祖父の表情は、雪湖の初めて見るものだった。
やがてそんな自分に気付いたのか、苦々しげな表情になった。
「……好きにしろ」
それだけ言うと、祖父は雪湖の傍を通り過ぎ出て行ってしまった。
雪湖が満面の笑みを浮かべたのは、言うまでもない。