第一章
昔むかし 大むかし
日本中の神さまが
草千里ヶ浜に集まって
笑って踊ったこともある
(合唱曲「阿蘇」より)
バスは曲がりくねった山道を進んでいく。
「はーい皆さん、もうすぐ着くんでもう一回確認しとくけど、阿蘇神社で集団参拝が終わって、溝口先生が合図したらスタートだけんね。くれぐれも他の参拝者の迷惑にならんように!」
座席の方々から「はーい」と声が上がる。
「ていうかやる気出んよね」
移りゆく景色を見ていた雪湖は、隣に座る朋花の声に振り返った。
「え、そう?」
「だぁーって四十キロも歩くんだよ!? わざわざバスで阿蘇まで来てから学校に帰るなんて、意味分かんなすぎ」
朋花はぼすっとシートにもたれ掛かる。後ろから上がった抗議の声に、ごめんごめんと軽く謝っている。
「あぁ、そっちね」
朋花がちらりと雪湖を見た。雪湖はまた窓の外に視線を戻している。その表情はどこか楽しそうだ。
「参拝は、楽しみかな」
カーブを抜けたバスは、速度を上げた。
阿蘇神社に到着して、全校生徒での集団参拝が終わる。学年主任の溝口先生が、生徒たちの前に立った。
「みんな準備はいいかー? じゃあスタート!」
阿蘇神社より、雪湖たちが通う兎谷高校まで約四十キロ。これから鍛錬遠足が始まる。
季節は十月。夏の暑さもようやく薄らいで、熊本の短い秋がやってきた。
兎谷高校の年中行事の一つとして、毎年行われる鍛錬遠足。その名のとおり、現代っ子の足では長すぎる距離をひたすら歩く行事だ。生徒たちの不平不満が出まくりな行事だが、伝統だという理由でなくならない。
「そういえば雪湖は何を祈ったの?」
隣を歩く朋花がふいに聞いてきた。
「そりゃあ何ってもちろん」
雪湖はにっと笑って拳を握った。
「うちの酒蔵が繁盛しますように!」
突然の大声に、周りの生徒たちの注目を浴びている。思いがけず目立ってしまって、雪湖は小さくなった。朋花が呆れた目を向ける。
「あぁ、雪湖はそうだったね……」
「当然。いつか私も立派な杜氏になるんだから!」
雪湖の家は明治から続く老舗の酒蔵である。焼酎人気が高まるこのご時勢、作っているのは赤酒だけではないが、肥後の赤酒といえば瑞原酒造。県内外に名を響かせる酒蔵だ。
雪湖は瑞原家の一人娘。幼い頃から酒蔵を遊び場に育ち、杜氏を目指すことは当たり前のことだった。
「でもおじいさん許してくれてないんでしょ?」
朋花の言葉に雪湖は肩を落とした。
「そうなんだよね……」
現在の瑞原酒造の杜氏は雪湖の祖父だ。祖父は雪湖が酒蔵に入るとことを良しとしていなかった。
「……まぁがんばれ」
「ありがとう……。神様がお願い聞いてくれるといいんだけど……」
二人は話しながら山道を進んでいく。
『酒蔵……』
ぽつりと呟かれた声に、気付かないまま。
*
鍛錬遠足を終えて家に帰ってきた雪湖は、居間の畳の上に突っ伏していた。ショートパンツの部屋着に着替え、四肢を投げ出している。
四十キロなど、普通に生活していたら歩く距離ではない。足の感覚が変になっている。
これは数日はマメで苦しめられるな、と思いながら雪湖は寝返りを打った。短い黒髪が畳に広がる。
「あ、じいちゃんただいま」
ちょうど台所を通りかかった祖父と目が合った。転がる雪湖を見て、祖父はふんと鼻を鳴らす。
「遠足ごときでそんなに疲れとっと? それじゃ杜氏は到底無理たい」
それを聞いた雪湖はがばっと起き上がる。
「まだまだ大丈夫ですー! 何か手伝うことある?」
四十キロ歩いてみろ、と言いたいところではあるが、ぐっと我慢した。また何を言われるか分からない。
祖父はまたふんと鼻を鳴らした。
「半人前に手伝ってもらうことなんかなか」
それだけを言うと、雪湖に背を向けて立ち去ってしまった。多分、蔵へ向かったのだろう。雪湖は何も言うことができず、目を伏せた。
小さい頃は、酒樽を見て目をきらきらさせる雪湖に祖父も嬉しそうな顔をしていた。だけどいつの頃からだろう。雪湖がひとつ仕事を覚える度に、祖父の表情は渋いものになっていった。
じいちゃんは私に家を継がせたくないのかな……。
『ふーん、酒蔵ってのも複雑なんじゃな』
突如背後から聞こえた声に、雪湖は飛び上がった。振り返るとそこには、和服姿の男の人がいた。長い髪を高い位置で一つに結い、うぐいす色の狩衣を身に纏っている。いつの間に現れたのか。
「なっ、えっ……だっ誰……!?」
不法侵入の男に雪湖は慌てた。祖父も出ていってしまったし、両親も店の方だ。
大声を出そうとしたところで、男は口を開いた。
『我が名は健磐龍命。阿蘇神社の主祭神にして一の神。瑞原雪湖、そなたに頼みがあって参った』
そう言って男はふわりと宙に舞った。思いもよらない光景に、雪湖は腰を抜かす。
口をぱくぱくさせる雪湖に、健磐龍命は薄く笑みを浮かべて続けた。
『そなたに酒を造ってもらいたい。とびきり上等の、熊本の赤酒を』
*
神様だというのは本当らしい。
『いやー、ここん酒もなかなかうまかなー。いろいろ供物の酒を飲んできたばってん、雪湖の家のは上等な部類に入っぞ。儂が見込んだだけあるばい!』
夕食の席。健磐龍命と名乗った神様は、雪湖の隣に座して神棚に上げられた清酒を煽っていた。上機嫌でお猪口を傾ける姿には、先程までの威厳はない。
雪湖は目を泳がせながらきんぴらごぼうを口に運ぶ。
「雪湖どうかしたの?」
母が心配そうに聞いてきた。雪湖はちらりと隣に視線を向ける。相変わらず健磐龍命が酒をがばがば飲んでいるが、母は不思議そうに首を傾げるだけだ。
「いや……何でもない……」
どうやら雪湖以外には健磐龍命が見えていないらしい。雪湖は箸を進めた。
夕食の片付けを終えて、雪湖は自室に戻った。パタンとドアを閉める。
『いやー飲んだ飲んだ。酒蔵とはいいものだな!』
当然のように健磐龍命も付いてくる。
「どっ……どういうつもりなんですか!」
ドアを背にして立つ雪湖に、健磐龍命は振り返った。
『どういうって何が?』
「ほんとに神様……? 幽霊じゃなく……?」
あぁ、と健磐龍命はふわりと宙に舞う。
『如何にも。そなた、神社で商売繁盛を祈ったであろう? その願い、叶えてやろう。儂の条件を飲めばな』
「条件……?」
訝しげに問う雪湖に、健磐龍命はにやりとした笑みを浮かべた。
『春……野焼きの火が広まる頃、四百年振りにこの地で神迎祭が執り行われる。儂はその席で振る舞う神酒を探しておった』
健磐龍命は浮いたまま、雪湖の前まで移動してきた。
『八百万の神々に振る舞う酒じゃ。生半なものは出せん。雪湖、そなたが赤酒を造れ。とびきり上等の一品をな』
「無理です」
即答する雪湖に健磐龍命はずっこけた。浮いたままで器用だな、と雪湖は冷静に考えていた。
『なぜじゃ!? この儂が直々にお願いしておるのだぞ!? そなた神をなんだと思っとる!』
憤る健磐龍命に、雪湖はいつもの調子を取り戻していた。
「私は確かにこの瑞原酒造の娘ですけど、酒造りに関することは全部杜氏のじいちゃんが決めてるんです。私に決定権はありません。それに……」
酒蔵に入ることを良しとされていない。今日もきつく言われて、雪湖には返す言葉もなかった。
それを見て健磐龍命はふむ、と首を傾ける。
『じゃが神迎祭には神酒が必要じゃ。生娘の造る酒は格別……』
「きっ……!?」
雪湖の顔が赤くなる。それを見て健磐龍命はまたにやりと笑った。
『成人前の女子であろう?』
この人絶対分かって言った、と雪湖は顔を背けた。
「ともかく! 他を当たってください。私には無理です」
『そなた、杜氏になりたいのであろう?』
急に真剣な目をして言われ、雪湖はぐっと押し黙った。
『神社での願い、儂には強く響いたぞ。本気なのであろう?』
商売繁盛と共に願ったもう一つの願い。祖父に認められて立派な跡継ぎになりたい。
阿蘇神社の主祭神である健磐龍命にはしっかりと聞こえていた。
「でも……」
祖父の顔が浮かぶ。
『諦めるのか?』
健磐龍命と視線が噛み合った。その瞳はさっきまでの笑いは消え去っていて、雪湖はどきりとした。
雪湖はまっすぐにその瞳を見つめ返した。
「諦め……ない」
健磐龍命は満足そうに、にっと笑う。
『その意気や良し。儂も協力するぞ』
かくして雪湖の赤酒造りが始まった。
*
酒蔵が忙しくなるのは十月に入った頃からである。稲刈りが終わり実りの時期が過ぎると、その米を使い酒造りが始まる。
「雪湖、桶持ってこい」
「はいっ」
熊本一の赤酒の酒蔵といえども家族経営の瑞原酒造である。仕込みの時期になると猫の手も借りたいほど忙しくなる。
『杜氏殿は、何も言わんのじゃな』
桶を置いたところで健磐龍命がぽつりと言った。作業着姿の雪湖は、その声に振り返る。
「そうも言ってられない状況ですからね。うちは家族だけでやってるから手はほしいですし」
ふーんと健磐龍命はすたすた歩く雪湖の後ろを付いていく。
「健磐、龍命様は……」
『あぁ、健磐でいいぞ。そうかしこまるな』
雪湖は一瞬逡巡する。神様相手に砕けた口調でもいいものだろうか。だがしかし、呑んでダベってばかりの神様にかしこまるのもどうなんだろう、と思い始めていたところだった。
「健磐はこんなところで油売ってていいの? 神社のお仕事は……」
『健磐兄さま!』
結局タメ口で話すことにした雪湖を、鋭い声が遮った。雪湖の視界の端に、赤い色が映る。
その赤は健磐に縋り付いた。
『外泊とはどういうことですの!? 都比咩姉さまお怒りですわよ!』
真っ赤な袿袴の少女は、つり目で勝気そうに見えるが美しいものだった。
『悪い悪い、比咩御子。じゃが大事な用だったのだぞ?』
纏わり付く比咩御子を健磐は優しく抱きとめる。比咩御子はちらりと雪湖を見やって、顔をしかめた。
『この女の童は誰ですの?』
『あぁ、次の神迎祭で神酒を造ってもらう雪湖じゃ』
『はぁ!? 神酒は毎年神主から献上してもらうでしょう!? こんな小娘に造ってもらう必要ございませんわ!』
『じゃが今年は違う。日本中から神々がこの地に集うのじゃぞ? 一等のもてなしをせねばならんじゃろう』
きっぱりと言われて比咩御子はぐっと押し黙る。
「あの……」
おずおずと雪湖が声を掛けた。健磐は、あぁと顔を上げる。
『雪湖、こやつは比咩御子。阿蘇神社の四の神で儂の妹じゃ』
「四の神?」
比咩御子は馬鹿にしたような目を雪湖に向けた。
『貴女そんなことも知らないんですの? 阿蘇神社に祀られているのは十二明神。男神七神、女神五神。その最たる健磐兄さまに向かって、少々図が高いんじゃありませんの?』
『まぁまぁ比咩御子。儂がいいと言っておるんじゃ。そんなに気にするな』
『気にしますわ! 貴方は由緒正しき血筋の御方なのに!』
すっと周囲の温度が下がった気がした。雪湖はぶるっと身震いする。
健磐が冷たい目をしていた。すっと手を上げて、比咩御子がひっと身を竦ませる。
ぷにっ
比咩御子は目をぱちくりとさせた。健磐の両手が比咩御子の頬を摘まんでいる。
『あ、あの……兄ひゃま……?』
『次はないぞ? 儂は雪湖がいいのじゃ』
にっと笑って健磐は言う。そこにさっきまでの冷たさはない。
抓られた頬を比咩御子は押さえた。じわりと瞳が潤んでくる。
『に、兄さまの馬鹿ー! 都比咩姉さまに言い付けてやるんだからー!』
そう叫ぶと、現れたときと同じように唐突に消えた。
「あ、あの……良かったの?」
『あぁ、よかよか。比咩御子はいつもあんな感じじゃからな。それに』
健磐はすっと雪湖に手を伸ばした。
『何度も言わせるな。儂は雪湖がいいと言っておるじゃろう』
健磐の長い指が雪湖の頬に触れる。そこに先程比咩御子にしたような悪戯っ気は含まれていない、優しいだけの手付きに、雪湖は頬が熱くなる。
「雪湖ー! まだかー?」
父の声が響いた。雪湖は慌てて身を離すと、踵を返した。
「はーい! 今行くー!」
去っていく雪湖の背を、健磐はおかしそうな目で見ていた。
*
赤酒は普通の清酒と違い、製造の過程において木灰を入れる。これによって短期間に茶褐色になることから、赤酒と呼ばれる。
雪湖は麹を加えた米の発酵を見ていた。
『これで仕込みは終いか?』
「わっ!」
突然後ろから聞こえた声に雪湖は飛び上がる。全然気配を感じなかった。
「健磐……どこから出てきたの……」
『ん? 言っておらんかったか? 儂は白川の流れるところ、その水域からならどこでも自在に移動ができる。瞬時にな』
雪湖が住まう八景水谷町は白川の流域、水の湧き出るところだった。熊本は豊富な地下水を誇る土地ではあるが、八景水谷の湧き水で造る瑞原酒造の酒は格別だった。
その水を誇り、『水の国』、阿蘇の火山を誇り、『火の国』。
相反する名を持つのがこの熊本だ。
「あぁそれで……。比咩御子様が突然現れたのもそういうことだったんだね」
瑞原家のすぐ裏を白川から流れる小さな水路が通っている。健磐も比咩御子もそこを通って来ていた。
健磐は目を瞬かせて雪湖を見下ろした。
『雪湖も行ってみたいか?』
「え?」
突如意味の分からない問い掛けを投げ掛ける健磐。戸惑う雪湖をひょいっと抱き抱えた。
「たっ健磐!?」
そしてふわりと宙に舞う。
『しっかり掴まっておれよ。飛ばすぞ!』
雪湖の頬に冷たい感触が触れた。これは水だ。しかし身を射すような冷たさではない。
水面がきらきらと光る。あまりの眩しさに雪湖はぎゅっと目を瞑った。
『雪湖、目を開けてみよ』
雪湖はそっと目を開けた。
「うっ……わぁ……」
そこはすでに空の上だった。赤や緑に染まる山、その空の上から熊本の町並みを見下ろしていた。
「ここは……阿蘇?」
『あぁ、草千里ヶ浜の上じゃ』
広大なカルデラに広がる阿蘇の町並みは、実りの秋を競っている。桃色や紅色のコスモス、風にさわさわと揺れるススキ、草を食む赤牛。その全てが秋の訪れを祝っているようだった。
「すごい……綺麗……」
『この地に日本中の神々が集うのじゃ。皆が雪湖の赤酒を楽しみにしておるぞ』
その言葉に雪湖ははっとした。
「あっお酒! 私戻らなきゃ! 発酵見ないと!」
慌てた雪湖は、健磐の肩口をばしばし叩く。
『いたた……。そう慌てるな、帰路も一瞬じゃ』
健磐は急下降すると、来たときのように光る水の中に飛び込んでいった。
*
酒造りは順調にいっていた。今年は異常気象と言われることもないし、安定した気候で発酵もうまくいっていた。
今年もいい酒が造れそうだ。
珍客が現れたのはそんなある日のことだった。
『そなたが瑞原雪湖か』
背後から突然声がするのは、もう驚かなくなっていた。しかし今日聞こえてきたのは、女の人の声だった。比咩御子とはまた違う、落ち着いた女の人の声。
振り向いた雪湖は固まってしまった。そこにいたのは、この世のものとは思えないほどの美しい人だったから。
『健磐兄様も、何を思ってこんな子どもに大役を任せたのか……』
朱色の袿袴を纏った彼女は、憂いを帯びた声色でそう言った。その声までもが凜としていて美しい。
健磐と似通った目元に、雪湖は閃いた。
「もしかして……都比咩、様……?」
彼女は美しく笑った。全ての人々を虜にしてしまいそうな笑みだ。雪湖の顔も自然と赤くなる。
『如何にも。阿蘇神社が二の神、都比咩とは妾のことじゃ』
都比咩はふわりと宙に舞って、酒樽の傍へ降り立つ。そして酒樽を一撫でした。
『神事には毎年最高級の神酒が奉納される。娘、そなたが造る赤酒は、それを上回るものか?』
強い瞳を向けられた。雪湖は背筋が伸びる。
試されている、と思った。
都比咩や比咩御子の様子を見るからに、健磐は阿蘇神社の神々の中でも突飛なことをする性格らしい。気まぐれでこんな小さな酒蔵の酒を選んだのだと、どの神も思っているらしい。
都比咩は言外に言っている。八百万の神々を唸らせるものを造れるのか、と。
「うちの酒は、日本一です」
雪湖はそう口にしていた。ぐっと両手を握り込み、都比咩を見返す。
都比咩もまた、真剣な目で雪湖を見ていた。
ふっと吐息が漏れる。
『そなたの覚悟は分かった。比咩御子にもよく言って聞かせておこう。上等な赤酒を楽しみにしておるぞ』
そう言って都比咩はふわりと消えた。
雪湖はへたりと座り込んでしまった。自分でも気付かないうちに緊張してしまっていたらしい。
健磐がフランクだから忘れていたけれど、彼らは神なのだ。生半可な酒を献上するわけにはいかない。
未だ祖父は首を縦に振らない。
雪湖はきっと前を見据え、立ち上がった。
*
発酵が終われば木灰を加える段階になる。その前に年末商戦に入るこの時期、瑞原酒造は瓶詰め作業に追われる。お歳暮に選ばれることに嬉しい悲鳴だ。
瑞原酒造は県内一の赤酒の酒蔵と言えども、家族経営。一家総出で作業に当たっていた。
雪湖はふと顔を上げた。発酵の様子が気になったのだ。
幸い今、雪湖の手は空いていた。
「私ちょっと蔵の方を見てくるね」
声を掛けても祖父は黙っていた。何も言わないということは、行っていいということだろう。そう結論付けて、雪湖は蔵へ向かった。
相変わらず、仕事場では祖父は冷たい。もともと寡黙な人ではあるが、やはり雪湖が現場に入ることを快く思っていないのだ。
大昔には酒造りは女の仕事だったと聞く。ならば雪湖が蔵に入ることは、いけないことではないはずだ。事実、母は酒造りの主力として働いている。
自分の何がいけないのかと、ため息を零し雪湖は酒蔵へ入った。
発酵中の米にかけてある布をそっと外す。雪湖は眉をひそめた。何だか違和感があるような。
雪湖は温度計を差してみた。
「ちょっと上がってきてる……」
発酵で少々の温度上昇はあるが、上がりすぎるもの良くない。このまま温度が上がり続ければ、麹が駄目になってしまう。
『雪湖、どうしたん?』
いつの間にか背後に健磐が立っていた。
「健磐……。米の温度が上がりすぎてるの」
常であれば杜氏である祖父が混ぜて調整する。しかし今はみんな出払ってしまっている。
「とりあえずじいちゃんに言ってくる……!」
雪湖は祖父たちの元へと駆けた。
「おまえがやってみろ」
言われた言葉を一瞬理解できなかった。祖父は口をへの字に結んでる。
「えっと……」
「聞こえんかったか? 雪湖が麹の状態チェックをしろと言っとるったい」
俄かには信じ難かった。あの祖父が、自分に酒の命とも言われる麹を触らせようとするなんて。誰の手も空いていないことを差し引いても信じられない。
「でくっとか? できんとか?」
祖父はまっすぐに雪湖を見つめている。雪湖はごくりと唾を飲み込んだ。
「やる」
祖父が頷いたのを見届けると、雪湖は踵を返した。
『雪湖! どうじゃった?』
蔵には健磐がそわそわした様子で漂っていた。心配そうな視線を向けてくるが、雪湖はそれどころではない。
麹の上の布をどけた。白い麹が目の前に広がる。
一人でこれを触るのは初めてだ。いつも祖父か父が傍にいた。
心臓が早鐘を打っている。これがうまくいかなければ今年の酒は全て駄目になってしまう。
その時、肩に手が触れた。
『雪湖、落ち着け』
健磐だった。いつの間にか後ろに立っていて、雪湖の肩を支えるようにしている。
雪湖は健磐を見上げた。
『おぬしなら大丈夫。儂が付いとるけん』
雪湖は健磐をじっと見つめた。気が付くと心臓が落ち着いている。神様の力だろうか。
「健磐のしゃべり方は、何だかいいね」
古めかしい言葉と熊本弁が混じった独特の口調。最初は変だなと思った雪湖だったが、今はそれが安定剤になっている。さっきまであんなに緊張していたのに、今はできる気しかしない。
不思議な人だな……いや神様か、と雪湖は健磐の顔を見つめた。健磐はいつものように強い瞳で笑みを向けてくる。
「ありがとう。パワーもらった」
そう言って雪湖は麹に向き直った。そっと手を入れる。
麹はほんのりとぬくもりを持っている。こうして触れると、麹が生きていると実感する。
雪湖はゆっくりと麹を混ぜていった。
「これで……よし、と」
温度計は適温を示している。再び布を被せて終了だ。
『よくやった、雪湖』
振り返ると満面の笑みを浮かべた健磐がいた。その笑顔を見たら、雪湖はかくんと力が抜けてしまった。
『おっと!』
健磐がその腰を取る。
『なんじゃおぬしは。さっきまであんなに威勢のいい顔をしとったのに』
至近距離にいる健磐が。呆れた表情で雪湖を見ていた。
「だ、だって……一人でやるの、初めてだったんだもん」
雪湖の頬が徐々に赤くなっていく。これは緊張が解けたせいだ解けたせいだ、と胸の中で繰り返した。
「ていうか近い」
雪湖はぐいーっと健磐の頬を押して離そうとした。押されっぱなしになっている健磐は、パチパチと瞬きを繰り返した。こんな雪湖は珍しい。
『なんじゃ、恥ずかしいのか雪湖?』
赤面したところを拝もうと、健磐は雪湖の顔を覗きこんだ。
「…………」
しかし雪湖は仏頂面をするばかりであった。
*
発酵が終わって酒樽に水と麹を入れれば、赤酒の最大の特徴である木灰を入れる段階になる。木灰を入れることによって透明から褐色に変わるのだ。
『赤酒』と呼ばれている所以だった。
その日、健磐は酒樽をじっと食い入るように見つめていた。
「そんなに見ても中身は見えないわよ」
箱を抱えた雪湖が、呆れた顔で後ろを通り過ぎていった。頬杖を付いていた健磐がずるっとずっこける。
『分かっとる! そんなことは!』
雪湖は箱を置いて振り返る。そこには酒樽をいとおしげに見つめる健磐の姿があった。
『美しいじゃろう? 赤酒は』
木灰を入れることで美しく色付く赤酒。その色は、清酒や焼酎にはない深みがある。
雪湖も小さいときからその赤い液体が好きだった。
「味は好みが分かれるけどねー」
熊本の地酒と言えども、現在ではポピュラーではない。球磨地方の球磨焼酎に押され気味だ。
それでも赤酒は御神酒にも使われる伝統的な酒だ。
『なんじゃ、おぬしいける口か? 未成年なのに』
「お正月に飲んだことあるくらいだよ! 神様なら御神酒で奉納されたことくらいあるでしょ!?」
健磐はからからと愉快そうに笑った。そして酒樽にそっと触れる。
『おぬしには見えてこんか? この中で、染まりゆく赤が』
その感覚は、雪湖にも分かる。他の酒にはない深みのある赤。この酒蔵で生まれ育った雪湖だ。酒樽の中でどんな風に色付いていくのか、想像を膨らませてきた。
「健磐は、赤酒が好き?」
雪湖は健磐の隣に来て尋ねた。
『おう』
即答する健磐に、雪湖は口を開きかけた。
『あと焼酎も好きだな! 夏場のビールもたまらん!』
雪湖の口が閉じた。その眉間にだんだんとしわが寄ってくる。健磐はそんな雪湖に気付かず、酒のつまみについて嬉々として語っている。
「私っ、仕事があるから!」
雪湖は大声で言って、健磐に背を向けた。
健磐はぽかんと口を開けて、それを見送った。




