序章
リュートの軽やかな音と共に、吟遊詩人の歌声が明るく響いている。
多くの吟遊詩人がそうであるように、その歌もこの国の歴史や世上を伝えるものだ。
『この王国は何度も名が変わる。トルクメニア、ルドベキア……そして今は、ラングフォード皇国の支配下──ラングフォード皇国領旧トルクメニア。名もなき大地に名がつく、支配者が名をつける』
そんな歌声を遠く聞きながら、アンネリーゼは店を開く準備をしている。
秋の日差しが長い銀の髪を神秘的に輝かせる。
髪も、そしてふっくらとした唇も美しさを感じさせるものだ。
しかし、黒いヴェールで目元は隠れている。
黒いドレスやレースの手袋は、アンネリーゼの華奢な手首、細い指先、白いデコルテをより映えさせていた。
繊細な指先が、大きな布鞄から取り出した薬の小瓶を並べていく。
小瓶に入ったものは、咳止めのシロップ。壺に入った丸薬は腹痛止め。壺の軟膏は傷薬。解熱剤や、鎮痛剤もある。
これらはすべてアンネリーゼが作ったものだ。
市場にある備えつけの木製のテーブルは日に焼けていて、ところどころニスが剥げて生身の木肌を晒している。
凸凹とした表面をなだらかにするため、アンネリーゼはテーブルに分厚い布をかけている。
深い赤色のベロア生地の布の端には金の飾りとりがされており、服装も相まって、より『魔女』のようにアンネリーゼをみせていた。
『森の魔女』と、人々はアンネリーゼを呼んでいる。
「頭痛薬をもらえますか? 秋になると頭が痛くなってしまって」
店の準備が終わると、頭に白い布を被った婦人がアンネリーゼの元にやってくる。
街の人々がその婦人に続いてアンネリーゼの店の前に列をつくった。
吟遊詩人が歌っていたとおり、『ラングフォード皇国領旧トルクメニア』の端にある、辺境の小さな街である。
広大なセゾンリーブス大森林の傍にある街なので、そのままセゾンリーブスの街と呼ばれている。
市場には、アンネリーゼの他にも商売をする者たちがそれぞれ商品を広げている。
野菜や、川魚、獣肉や織物など。小さな街だが、生活に必要な全ての物を購入できる市場はいつでも賑やかだ。
人の集まる場所なので、吟遊詩人や音楽家もやってくる。皆、日銭を稼ぐために働いている。
「こちら、頭痛薬です。五百デリアいただきます」
「ありがとうございます、森の魔女さん」
「季節の変わり目は、体調を崩しやすいです。お気をつけて」
アンネリーゼは頭痛薬を婦人に渡し、硬貨を受け取った。
ラングフォード皇国の支配下におかれてから流通している銅製の硬貨には、かの国の象徴である鷹の絵が描かれている。
「魔女さん、薬壺をもらえるかい?」
「はい。七百デリアです」
「咳止めのシロップが欲しいわ。子供の咳がとまらなくて」
「六百デリアです。体を冷やさないように、気をつけて」
アンネリーゼの店には絶えず人が訪れる。
人々は遠慮がちに、やや畏れているような瞳でアンネリーゼを『魔女さん』と呼ぶ。
中には気安く話しかけてくるものもいるが、それはごく少数だ。
アンネリーゼは彼らと個人的な話をしたことはない。病気と治療の話をして、それで終わり。ただそれだけの関係である。
『不気味な魔女だが、薬の効き目は確かだ』
『ワーグナー家の魔女の薬だからな、よく効くのだろう』
『顔を隠しているのは、きっと見せられないぐらい醜いからよ』
と、アンネリーゼの元から離れると、彼らは陰口を言い合う。その声が風に乗って届くと、ふとした瞬間心にぽっかり穴が開いたような気持ちになる。
それでも深く傷ついたりはしない。アンネリーゼはここに薬を売りにきているだけだ。親しい者をつくりに来ているわけではない。いつもそう、自分に言い聞かせている。
昼を待たずに薬は全て売り切れて、アンネリーゼの手元には新しい小瓶や壺、そして生活用品を購入するための硬貨が残った。
「いつもの、瓶と壺をいただけますか?」
寡黙で不愛想な廃品回収屋から、使用し終わった薬用の瓶と壺を安価で回収して、それを鞄につめる。
敷布と瓶でぱんぱんに膨らんだ重たい鞄を肩からさげて、アンネリーゼは塩やスパイスなどの調味料を購入し、帰路についた。
街でゆっくり過ごすことはない。薬を売ったら、アンネリーゼの目的はそれで終わりだ。
「ラングフォード皇帝ってどんな人?」
帰りがけに、吟遊詩人を子供たちが取り囲んでいる光景を目にした。
異国の布を身に纏いリュートを爪弾く吟遊詩人は、優しげに微笑みながら軽く肩を竦める。
「さぁ、どんな人なのだろうね。まだ二十歳過ぎの若さだという。三国連合を滅ぼして、ルドベキアをトルクメニアという名に戻してくれたのが、たった三年前。十代で三つの国と戦って勝った血の皇帝と呼ばれているよ」
「吟遊詩人さんもあったことがないの?」
好奇心に目を輝かせながら、別の子供が尋ねる。
「それはもちろん。皇帝がその辺を歩いているわけがないからね。血の皇帝なんて呼ばれているが、三年前に彼がトルクメニアからルドベキア兵を追い出してくれてこの地が皇国領になってから、ずいぶん暮らしやすくなったな。一度お目にかかりたいものだ。そうすればもっと、僕の歌にも迫力が出る」
ラングフォード皇帝──と、アンネリーゼは心の中で呟く。
トルクメニアに隣接している広大な土地を有するラングフォード皇国の、若き皇帝の名だ。
国土はトルクメニアの三倍以上あるらしい。そんな強大な皇国の皇帝は六年前にこの地を攻めた。三年の歳月をかけて当時この地を支配していたルドベキア三国連合の兵を全て追い出した。
「それって、皇帝陛下はいいひとってこと?」
「さぁ、どうだろう。歴史が好きな君たちに、歌ってあげようか。トルクメニア国王が三国連合によって討たれ、この地は三国連合に支配されてルドベキアに名が変わった。今からおおよそ十年前。それから僕らは最低な生活。でも血の皇帝がこの地を支配するようになり、少しはまともになっただろうか」
再び歌が、演奏に合わせて響く。
確かに、このところ人々の顔が明るい。以前はもっと暗い顔をしていた。服装も地味で、笑い声さえなかった。ルドベキア兵の支配とはひどいものだったと、俗世から切り離されたように生きているアンネリーゼでも知っている。
(血の皇帝なんて、おそろしい名だけれど。でも、とても若いのね。私とさほど変わらない)
アンネリーゼは十八歳。同じぐらいの年齢のころには、血の皇帝は三国連合と戦争を続け、その土地を手中におさめた。
同じ人間なのに、なんて壮絶な人生なのだろう。
想像することも難しい。吟遊詩人の詩に出てくる皇帝は、まるで神話の世界の登場人物のようにさえ思えるほどだ。
アンネリーゼはずっと、セゾンリーブスの森で暮らしている。戦争などとは縁遠い。
(国を支配している者が変わっても、私の生活は変わらない。静かで、穏やかで、毎日同じ)
そんなことを考えながら舗装された馬車道の端を歩き、街から出る。
アンネリーゼの家は、セゾンリーブス大森林の中にある。
街に来るのは作った薬がある程度溜まったら。一週間に一度か二度。薬を売るのは、生活費を稼ぐためだ。それ以外に、アンネリーゼにはできることがない。
街道から逸れて、草木の生い茂る道なき道を歩いていく。
可憐なコスモスが風に揺れ、野兎たちが跳ねている。小動物たちはこの季節、食料を探しため込むのに忙しい。
アンネリーゼは木々の合間を縫いながら苔むした地面を踏みしめる。森は強い土と木と様々な生命の香りに満ちている。
街を出てから半刻ほど経ち、疲れを感じたアンネリーゼは、ふと足を止めて空を見上げた
木漏れ日の眩しさに目を細める。青い風切り羽を持った黄色い小鳥たちが青空を飛んでいく。
アンネリーゼは、顔を覆う邪魔くさいヴェールをあげた。
青空をそのまま宝石にして瞳にはめこんだような、透き通った空色の瞳が露わになった。
ふぅ、と、息をつく。
街から森に戻ってきた安心感に、アンネリーゼは人前に出ていた緊張からようやく解かれて、そっと微笑んだ。




