第22話 裁きの門が閉じる
裁きの門が、閉じ始めた。
最初に変わったのは、音だった。
タルタロス最深部に満ちていた死者の声が、少しずつ遠ざかっていく。硫酸の海が泡立つ音も、溶岩の山が崩れる音も、凍土の亀裂が走る音も、すべてが深い井戸の底へ沈むように薄れていった。
代わりに、現世の音が戻ってくる。
遠くで鳴る警報。
帝都警察の避難誘導。
湾岸区の防潮魔導壁が低く唸る音。
夢殿の戦闘管制回線。
そして、ホウジュ区のどこかで鳴っている、壊れかけた店の呼び鈴のような、かすかな音。
からん。
シグレは、その音を聞いた気がした。
幻聴かもしれない。
タルタロスの底で、時雨堂の呼び鈴が聞こえるはずがない。
けれど、聞こえた。
帰る場所の音だった。
邪柩の周囲に舞っていた白い光は、だいぶ薄れている。
シオンの魂が眠りへ移った後も、そこには花びらのような光が残っていた。タルタロスには存在しないはずの静かな光。痛みが終わったことを知らせる、ほんのわずかな温度。
その光も、裁きの門の閉鎖に合わせて、少しずつ深層へ沈んでいく。
邪柩はもう、先ほどまでのように暴れていない。
黒い柩の表面には、新しい封印式が編まれていた。白と黒だけではない。ヨムルンガルド結界の蛇紋、ヌルの外枠光、セーフィエルの血の赤、アリスの記録光、シグレのムラサメの青白い残響が、ぎこちなく、しかし確かに絡み合っている。
完璧ではない。
安定しているとも言い切れない。
だが、シオン一人にすべてを刺し通していた旧い構造では、もうなかった。
シグレはムラサメを支えに立っていた。
膝が笑っている。腕は痺れ、指先の感覚は薄い。目を閉じたら、そのまま倒れてしまいそうだった。
だが、まだ倒れられない。
アリスは、マナの腕の中で眠っている。
胸元の円環は、薄い傷跡のように残っていた。魔導核の光は弱いが、消えていない。マナはアリスを抱えたまま、絶対に落とすものかという顔で立っている。
その顔には涙の跡があった。
けれど、目には怒りが戻っていた。
たぶん、アリスが目を覚ましたら、ものすごく長い説教をするのだろう。
それは、良いことのように思えた。
セーフィエルは、まだ動かない。
シオンの消えた場所を見ていた。
白い花びらのような光が沈んでいく、その中心を。
彼女は膝をついたまま、手を伸ばしている。
もう、そこには誰もいない。
邪柩の中心に、シオンの姿はない。
鎖もない。
黒い杭もない。
白い装束の少女もいない。
ただ、光の余韻だけがある。
セーフィエルは、その光から目を離せなかった。
裁きの門の外縁が、軋む。
タルタロスの空とも呼べない黒い天井に、白い亀裂が入っている。あれが現世へ戻る道だ。夢殿の外枠光と、ヨムルンガルド結界の蛇紋が重なり、門を閉じるための逆流を作っている。
門は、シグレたちを押し戻そうとしていた。
タルタロスは、もう彼らをここに留める必要がない。
同時に、長居を許す場所でもない。
足元の黒い鎖の橋が、端から崩れ始める。
硫酸の海が下で泡立つ。
遠くから、闇の子の声が微かに響く。
『まだ』
『ここに』
『いる』
声は遠い。
だが、消えてはいない。
シグレは、セーフィエルへ歩み寄った。
一歩目で膝が崩れそうになり、ムラサメを地面へ突く。
マナが振り返った。
「シグレ、歩けるの?」
「歩けるよぉ」
「その声は歩けない人の声よ」
「じゃあ、気合で歩く」
「気合でどうにかするの、あなたたち全員やめなさいよ……!」
マナは叫びながら、アリスを抱える腕を直す。
自分も限界のはずなのに、アリスを抱いたまま一歩も膝をつかない。
その方がよほど気合でどうにかしているように見えたが、シグレは言わなかった。今それを言えば、本気で怒られる。
セーフィエルのそばに着く。
彼女は気づいていないようだった。
目は開いている。
だが、視線はここにない。
彼女はまだ、あの白い花の庭にいるのかもしれない。
娘に触れられなかった場所。
娘の声だけが届いた場所。
娘から、おやすみと言われた場所。
「セーフィエル」
シグレは呼んだ。
返事はない。
「門が閉じるよ」
セーフィエルの指先が、微かに動く。
だが、彼女は立ち上がらない。
「……」
シグレは息を吐いた。
こういう時、何を言えばいいのか、まったくわからない。
シオンは眠った。
救われたのだと思う。
少なくとも、痛みは終わった。
けれど、それはセーフィエルにとって、娘を失うことでもあった。
取り戻すために生きてきた。
帝都を敵に回しても、夢殿を欺いても、アリスを作っても、裁きの門を開いても、彼女はずっと娘を取り戻すためだけに進んできた。
その果てに、娘を眠らせることを選んだ。
正しい。
たぶん、正しい。
でも、正しいからといって、すぐ立ち上がれるわけではない。
シグレは手を伸ばし、セーフィエルの腕を掴んだ。
その瞬間、セーフィエルが反応した。
「離して」
声は低く、鋭かった。
魔女の声だった。
だが、その奥で、母親が泣いている。
「シオンが」
「シオンは、もうそこにいない」
シグレは言った。
セーフィエルの肩が震えた。
空気が止まる。
マナが息を呑む。
シグレ自身も、言ってから胸が痛くなった。
だが、言わなければならなかった。
セーフィエルは、ゆっくりと振り向いた。
その目には、怒りがあった。
殺意に近いほどの怒り。
けれど、その奥で、すでに答えを知っている悲しみが崩れていた。
「……知っているわ」
声が、ひどく小さかった。
「知っている」
セーフィエルは、自分で繰り返した。
「そこに、もうあの子はいない。邪柩の楔から外れた。人柱ではなくなった。苦痛は終わった。魂は眠りへ移った。全部、わかっている」
彼女は、シオンの消えた場所を見た。
「でも」
そこで声が途切れる。
「でも、目を離したら、本当にいなくなる気がするの」
シグレは、何も言えなかった。
セーフィエルは笑おうとして、失敗した。
「馬鹿みたいでしょう。さっき自分で、あの子を眠らせる術式に切り替えたのに。私が、あの子を解放したのに。私が、おやすみって言ったのに」
彼女の頬に、また涙が流れる。
「まだ、帰りましょうって言いたい」
門が軋む。
足元の黒い鎖の橋が、さらに崩れる。
マナが叫ぶ。
「シグレ! 急いで! 橋が落ちる!」
「わかってる」
シグレはセーフィエルの腕を掴んだまま、少し強く引いた。
セーフィエルは動かない。
細い身体なのに、驚くほど重かった。
立つ意思を失った人間は、こんなにも重いのかとシグレは思った。
「帰ろう」
シグレは言った。
「君がここで眠ったら、シオンが怒る」
セーフィエルが、瞬きをした。
「……怒る?」
「うん」
「シオンが?」
「たぶん」
「どうして、あなたにわかるの」
「うーん」
シグレは少し考えた。
そして、いつもの調子で言った。
「ボクもよく怒られるから」
マナが遠くで怒鳴る。
「今ふざける場面じゃない!」
「割と本気なんだけどねぇ」
シグレはセーフィエルを見る。
「ハルナちゃんに怒られる時って、だいたいボクが勝手に死にかけた時なんだよね」
「……」
「シオンも、きっと怒るよ。母さん、せっかく来てくれたのに、そこで一緒に眠ってどうするの、って」
セーフィエルの顔が、くしゃりと歪んだ。
「本当に、あの子みたいなことを言うのね」
「ボクはシグレだよ」
すぐに返した。
弱い声ではなかった。
疲れている。
傷ついている。
今にも倒れそうだ。
それでも、その言葉だけはまっすぐだった。
「シオンじゃない。ノインでもない」
セーフィエルは、シグレを見た。
タルタロスの闇の中、青白いムラサメの光に照らされた彼の顔を。
そこに、娘はいない。
シオンの痛みを知っている。
ノインの残響を持っている。
同じ剣筋をなぞった。
同じ門に呼ばれた。
それでも、彼はシオンではない。
ホウジュ区の雑貨店《時雨堂》の店長、シグレ。
セーフィエルは、ゆっくりと息を吐いた。
「ええ」
涙で濡れた顔で、彼女は言った。
「知っているわ」
その一言で、彼女の腕から力が抜けた。
抵抗が消える。
シグレは、セーフィエルを引き上げようとした。
だが、今度はシグレ自身の足がふらつく。
「っ、と」
マナが即座に叫ぶ。
「もう! どっちが支えられてるのよ!」
「どっちだろうねぇ」
「冗談言ってないで立って!」
「立ってるつもり」
「つもりじゃ駄目!」
マナはアリスを抱えたまま、短杖を浮かせて補助術式を飛ばした。金色の帯がシグレとセーフィエルの腰を支える。
セーフィエルが、マナを見る。
「あなたも限界でしょう」
「限界でもやるの!」
「若いわね」
「そういう感想いらない!」
ほんのわずかに、セーフィエルが笑った。
疲れ切った、泣き腫らした顔のまま。
「シオンも、よくそうやって怒ったわ」
マナは一瞬黙り、それから眉を吊り上げた。
「私は私です」
シグレが思わず笑う。
「いいねぇ、それ」
「あなたのせいで、みんな自己定義が強くなってるんじゃない?」
「それは、いいことだと思うよ」
「状況による!」
門の閉鎖が加速する。
白い亀裂が狭まっていく。
タルタロスの闇が、背後から押し寄せる。黒い鎖の橋が崩れ、硫酸の海が高く波打った。邪柩は深層へ沈み始め、その表面の新しい封印式だけが最後まで光っている。
闇の子の声が、さらに遠くなる。
『シグレ』
今度の声は、はっきりしていた。
ノイズは少ない。
不思議なほど静かだった。
シグレは足を止めかけた。
マナが即座に察知する。
「止まらない!」
「いや、今」
「聞こえたからって止まらない!」
闇の子は、もう一度呼んだ。
『シグレ』
その声には、怒りだけではなく、戸惑いがあった。
痛みだけではなく、確かめるような響きがあった。
『また、聞こえる?』
シグレは、裁きの門の光へ向かいながら、背後を見た。
邪柩は深い闇へ沈んでいく。
そこに闇の子がいる。
完全には解放されず、完全には消されず、深層観測対象として固定された存在。
帝都の表側には届かない。
だが、誰にも聞こえないノイズでもない。
シグレは、少しだけ笑った。
「たぶんね」
マナが即座に叫んだ。
「そこで返事しない!」
「いや、だって」
「だってじゃない! 何で毎回、危ない存在に返事するのよ! 闇の子よ!? タルタロスの深層存在よ!? 女帝様の半身よ!? 軽く『たぶんね』じゃない!」
「でも、無視したらかわいそうかなって」
「優しさの出しどころを考えなさい!」
セーフィエルが、呆れたようにシグレを見た。
「本当に、危なっかしい子」
「よく言われる」
「生きて帰ったら、あなたにも説教が必要ね」
「マナちゃんの説教で足りない?」
「母親の説教は別腹よ」
「母親じゃないでしょ」
セーフィエルは、少しだけ目を細めた。
「そうね」
その声は、もうシグレをシオンと重ねていなかった。
痛みはある。
残響もある。
けれど、彼女はシグレをシグレとして見ていた。
「でも、年長者として説教する権利くらいあるでしょう」
「それは、ありそう」
「では予約しておくわ」
「説教の予約、嫌だなぁ」
門の光が迫る。
現世へ押し戻される力が強くなる。
マナがアリスを抱きしめる。
アリスの魔導核は、胸の奥で微かに光っている。
「アリス、揺れるわよ。絶対、落とさないから」
返事はない。
けれど、魔導核の光が一度だけ瞬いた。
マナは唇を噛んで、それを返事として受け取った。
シグレはセーフィエルの腕を掴み直す。
セーフィエルは、最後にもう一度だけ振り返った。
シオンのいた場所。
邪柩の沈んだ深層。
白い花びらの光は、もうほとんど見えない。
でも、完全に消えたわけではない。
どこか深い場所で、穏やかに眠っている。
「シオン」
セーフィエルは、小さく呟いた。
声は届かないかもしれない。
それでも、言った。
「母さん、帰るわ」
返事はない。
だが、タルタロスの闇の底で、白い光が一度だけ微かに瞬いたように見えた。
セーフィエルは、それ以上振り返らなかった。
「行きましょう」
今度は、彼女の方から言った。
シグレは頷く。
「うん」
マナが叫ぶ。
「やっと!? 遅い!」
「ごめん」
「謝る気力があるなら走って!」
「走るのはちょっと」
「走れ!」
金色の補助術式が三人と一体を包む。
裁きの門の光が、彼らを呑み込んだ。
背後で、タルタロスの深層が閉じていく。
闇の子の声が、最後にもう一度だけ届いた。
『シグレ』
今度は、呼ぶだけだった。
問いではない。
命令でもない。
ただ、名前を確認する声。
シグレは、返事をしようとして、マナにものすごい目で睨まれた。
「……」
「……」
「……心の中で返事するのも駄目?」
「顔に出すな!」
「難しいなぁ」
セーフィエルが、かすかに笑った。
次の瞬間、裁きの門が閉じた。
音は、遅れて来た。
世界の奥で巨大な扉が閉まるような、低く重い音。
タルタロスの硫酸の海も、溶岩の山も、凍土も、死者の声も、邪柩の鼓動も、すべてが分厚い壁の向こうへ遠ざかる。
白い光が弾ける。
黒い闇が沈む。
ヨムルンガルド結界の蛇紋が、最後に門の縁を縫い合わせる。
裁きの門は、閉じた。
完全ではない。
永遠でもない。
そこには新しい封印構造と、新しい観測記録と、消されなかった名前が残っている。
だが、今夜、門は閉じた。
シグレたちは、現世へ押し戻された。
遠く、帝都エデンの夜明け前の空が、白く滲み始めていた。




