第20話 アリスの機能停止
シオンの光が、タルタロスの底に舞っていた。
白い花びらのような光。
それは、燃え尽きた灰ではなかった。砕けた魂の破片でもなかった。長い長い痛みから解放されたものが、ようやく眠りへ向かう時に残す、静かな余韻だった。
邪柩に巻きついていた鎖は、もう以前の形ではない。
白い鎖はほどけ、細い光の糸となり、ヨムルンガルド結界へ、魔導炉へ、夢殿へ、ヌル本体の眠りの座へ、シグレのムラサメへ、そしてアリスの記録回路へ分かれていった。
闇の子の声も、少しだけ遠くなっている。
完全に消えたわけではない。
『ここに……いる』
『まだ……いる』
『ヌル……』
『シオン……』
『聞こえる……』
その声は、まだタルタロスの奥にあった。
だが、帝都全域へ黒い光となって溢れようとする勢いは薄れていた。
暴風のようだった思念は、深い井戸の底から響く声へ変わりつつある。
閉じ込める。
だが、なかったことにはしない。
その新しい封印構造が、少しずつ形を取り始めていた。
シグレは、ムラサメを握ったまま膝をついた。
「……っ、は」
呼吸がうまくできない。
身体中が重い。骨の内側にタルタロスの砂を詰め込まれたようだった。ノインの残響は静かになったが、シオンの痛みの記憶はまだ胸の奥で熱を持っている。
それでも、先ほどまでとは違う。
引きずり込まれるような痛みではない。
自分を上書きしようとする痛みでもない。
誰かがそこにいたことを知ってしまった痛みだった。
シグレは、シオンが消えた場所を見る。
白い光が一枚、彼の頬に触れた気がした。
「……おやすみ」
小さく呟く。
返事はない。
けれど、それでよかった。
眠る者に、返事を求めるものではない。
少し離れた場所で、セーフィエルが崩れ落ちていた。
彼女は両手を胸に抱き、ただ泣いていた。魔女の仮面も、反逆者の意地も、設計者としての冷たい知性も、今は何も残っていない。娘を眠らせた母親だけが、タルタロスの底で声もなく泣いている。
マナはアリスを抱えていた。
最初、マナはシオンの光を見ていた。
泣きそうな顔で、しかし唇を噛んで、セーフィエルを見て、シグレを見て、そしてようやく胸の中のアリスへ視線を落とした。
その瞬間、マナの顔色が変わった。
「アリス?」
アリスの身体が、軽すぎた。
機械人形である彼女は、人間の少女よりもわずかに重い。内部骨格、魔導核、記録回路、補助駆動系。抱えれば、そこには確かに人工の重みがある。
だが今、マナの腕の中のアリスは、まるで中身の熱が抜けた人形のようだった。
胸元の円環は消えていない。
むしろ、封印再構成前よりもはっきり残っている。
ただし、もう光の紋章ではなかった。
肌の上に薄く刻まれた傷跡のように、円環が残っている。蛇が自分の尾を噛む形。ヨムルンガルド結界の符号。シオン存在記録の保持印。闇の子深層観測の識別痕。
薄く、青白く、痛々しい。
アリスの瞳は開いていた。
だが、焦点が合っていない。
「アリス」
マナの声が震える。
返事がない。
「アリス、返事して」
アリスの唇が、少しだけ動いた。
だが、音は出なかった。
マナは短杖を放り出し、両手でアリスの頬を包んだ。
「アリス! 返事して!」
タルタロスの底で、その声だけがやけに人間らしく響いた。
シグレが顔を上げる。
「アリスちゃん……?」
セーフィエルも、涙に濡れた顔を上げた。
アリスの胸元の円環が、微かに点滅する。
一度。
二度。
不規則に。
まるで、遠い場所から途切れかけた信号を返しているようだった。
「アリス!」
マナがさらに強く呼ぶ。
その声に応えるように、アリスの瞳の奥で、薄い光が戻った。
けれど、戻り方がおかしい。
普段のアリスの光は静かで、安定していた。無垢で、礼儀正しく、少し不器用な少女の光だった。
今の光は、深すぎた。
その奥に、膨大な記録が積み重なっている。
シオンの名。
ノインの欠番。
セーフィエルの涙。
ヌルの承認。
夢殿の隠蔽。
タルタロス封印履歴。
闇の子の声。
帝都全域の結界負荷。
ヨムルンガルドの新構造。
シグレの宣言。
それらが、アリスの通常人格領域のすぐそばまで押し寄せていた。
マナには、魔導士としてそれがわかった。
わかってしまった。
アリスは、封印の部品にはならなかった。
人柱にもならなかった。
楔として眠ることも拒んだ。
けれど、記録者として開いた回路は、あまりにも大きなものを受け取ってしまった。
少女型機械人形の小さな人格領域に、帝都エデンの罪が流れ込んでいる。
「いや……」
マナの声が、掠れた。
「駄目。そんなの駄目。アリス、戻って。戻ってきなさい。あなた、約束したでしょ」
アリスの目が、ほんの少しだけ動く。
マナを見ようとしている。
でも、焦点が遅れる。
声も遅れる。
「マナ……様……」
マナの表情が歪んだ。
「そう、私。マナ。わかる? わかるわよね? アリス、返事して」
「記録……保持……しました……」
その声は、いつものアリスの声だった。
けれど、遠い。
深い水の底から、薄い通信線を通じて届いているような声だった。
「シオン……存在記録……保持……ノイン……封印履歴……保存……闇の子……深層観測対象……固定……ヨムルンガルド……都市分散型……」
「そんなことより、あなたは!」
マナが叫んだ。
アリスの頬に涙が落ちる。
「記録なんて後でいい! シオンのことも、封印のことも、闇の子のことも、全部後でいい! あなたは? アリスはどこにいるの!?」
アリスの唇が止まる。
胸元の円環が、弱く光る。
青白い傷跡のような紋様が、一瞬だけ白くなる。
「私は……」
マナが息を止める。
シグレも、セーフィエルも、聞いていた。
門の外から届くヌルの光も、ほんの少しだけ揺れた。
アリスは、長い長い処理時間を挟んで、言った。
「私は……アリス……です……」
マナは、アリスを抱きしめた。
強く。
強すぎるほどに。
「そうよ」
声が震えていた。
「そう。あなたはアリス。アリスよ。誰かの代わりじゃない。封印の部品じゃない。記録装置だけでもない。あなたはアリス。私の」
そこまで言って、マナは言葉に詰まった。
保護対象。
相棒。
妹のような子。
友達。
家族。
どの言葉も合っているようで、足りない。
マナは、泣きながら笑った。
「私の、大事なアリスよ」
アリスの瞳が、わずかに細められる。
微笑もうとしたのかもしれない。
だが、その表情は最後まで形にならなかった。
彼女の身体から、力が抜けていく。
マナが慌てて支える。
「アリス? アリス!」
「通常……人格領域……保護のため……機能……低下……処理へ……移行……」
「移行しないで!」
「記録核……保持優先……魔導核……低出力……維持……」
「勝手に決めないで!」
「マナ様……」
「何!?」
「怒って……いますか……」
「怒ってるわよ!」
マナは涙でぐしゃぐしゃになりながら叫んだ。
「当たり前でしょ! 怒ってる! すごく怒ってる! あなたが自分で選んだことだってわかってる。わかってるけど、怒ってる! 怖かった! 今も怖い! あなたが戻ってこなかったら、私はどうすればいいのよ!」
アリスは、少しだけ瞬きした。
処理が遅れている。
それでも、彼女は言葉を探していた。
「申し訳……ありません……」
「謝らないで!」
「はい……」
「でも、戻ってきたら説教するから!」
「説教……記録……しました……」
「記録しなくていいの!」
シグレは、二人を見ながら立ち上がろうとした。
だが、身体が言うことを聞かなかった。片膝をついたまま、ムラサメを杖のようにして、どうにか倒れずにいる。
「アリスちゃん」
アリスの目が、わずかにシグレへ向く。
遅れている。
けれど、届いている。
「シグレ……」
「うん」
「シグレは……シグレ……です……」
シグレは、喉の奥が詰まった。
「うん。アリスちゃんも、アリスだよ」
「はい……記録……済み……」
その言い方が、あまりにもアリスらしくて、シグレは笑いそうになった。
けれど、笑えなかった。
セーフィエルが、ゆっくりと近づいた。
マナが反射的にアリスを抱える腕に力を込める。
「触らないで」
セーフィエルは、足を止めた。
その顔は、先ほどまでシオンを眠らせた母親の顔のままだった。涙は乾いていない。けれど、そこに別の痛みが加わっている。
アリスを作った者としての痛み。
アリスを、何かのために作った者の痛み。
そして、アリスが自分の設計を超えて、自分自身として選んだことへの痛み。
「触れないわ」
セーフィエルは言った。
「今のあの子に触れる資格は、私にはない」
マナは、何も言わない。
セーフィエルは、アリスを見つめる。
「アリス」
アリスの瞳が、わずかに動く。
「セーフィ……エル……」
「あなたは、失敗作じゃない」
セーフィエルの声が震えた。
「誰かの再現でも、代用品でも、私の未練の器でもない」
マナが息を呑む。
セーフィエルは、続けた。
「あなたは、私が作ったものよりも、ずっと遠くへ行った」
アリスの円環が、微かに光る。
「評価……記録……」
「記録しなくていいわ」
セーフィエルは、涙を拭わずに笑った。
「いえ、あなたは記録するのよね」
「はい……」
「なら、記録して。セーフィエルは、アリスをアリスとして認識した」
アリスの唇が、少しだけ動く。
「記録……しました……」
その言葉の後、アリスの目の光がまた弱くなった。
マナが叫ぶ。
「アリス!」
胸元の円環が、最後に一度だけ大きく光った。
そこに刻まれた蛇の紋様が、肌の奥へ沈んでいく。
消えるのではない。
薄い傷跡のように残る。
触れれば痛むかもしれない。
ふとした時に光るかもしれない。
帝都の封印が揺らげば、また熱を持つかもしれない。
でも、それはアリスが誰かの楔になった証ではない。
彼女が自分の意思で記録者になった証だった。
「アリス、寝ないで」
マナが言う。
「まだ駄目。ここで寝ちゃ駄目。あなた、約束したでしょ。戻ってくるって」
アリスの瞼がゆっくり下がる。
マナが必死に頬を叩こうとして、できなかった。
壊れそうで、触れられなかった。
「約束したでしょ……戻ってくるって……」
声が、泣き声になった。
アリスの唇が、最後に微かに動いた。
「約束……記録済み……」
それは、かろうじて聞こえる声だった。
けれど、確かにアリスの声だった。
「マナ様……」
「いる。ここにいる」
「戻り……ます……」
「絶対よ」
「はい……」
アリスの目が閉じた。
マナの呼吸が止まる。
次の瞬間、アリスの魔導核が、胸の奥でかすかに光った。
弱い。
とても弱い。
けれど、消えていない。
完全停止ではない。
低出力状態。
人格領域保護。
記録核保持。
機能低下。
彼女は眠っている。
あるいは、深い深い処理の底へ潜っている。
マナは、アリスを抱きしめたまま、膝をついた。
「馬鹿……」
声が震える。
「本当に、馬鹿。私に似なくていいところばっかり似て……」
シグレが、小さく言った。
「マナちゃん」
「何」
「アリスちゃん、戻るって言ったよ」
「言った」
「じゃあ、怒る準備して待ってよう」
マナは、シグレを睨んだ。
涙でぐしゃぐしゃの顔だった。
「あなたも怒る対象だからね」
「ボクも?」
「当たり前でしょ! 全員よ! シオンも、セーフィエルも、ヌルも、あなたも、アリスも! 何でみんな、自分を削る方向へ進むのよ!」
「うーん」
シグレは、返す言葉を探して、見つからなかった。
「ついてないねぇ」
「それで済ませるな!」
マナの怒鳴り声が、タルタロスの底に響いた。
その声に、ほんの少しだけ現実味が戻る。
セーフィエルは、アリスを見ていた。
「……アリス零式」
彼女が、ほとんど声にならないほど小さく呟いた。
マナが反応する。
「何それ」
「深層機能の名称。私が、いずれ必要になるかもしれないと、封じていた領域」
「まだ何か仕込んでるの!?」
「仕込んだのは昔の私よ。今の私なら、もっと慎重に……いえ、言い訳ね」
セーフィエルは首を振った。
「アリスは、通常の状態では戻らないかもしれない」
マナの顔が凍る。
「どういう意味」
「記録核が開きすぎた。封印履歴とシオン存在記録、闇の子深層観測の一部まで保持している。元の人格領域をそのまま起動すれば、記録圧に押し潰される可能性がある」
「じゃあ、どうすればいいの」
「再構築が必要になる」
「再構築?」
「でも」
セーフィエルは、アリスの閉じた瞳を見た。
「それを決めるのは、私ではない」
マナは、アリスを抱く腕に力を込めた。
「当たり前よ」
「ええ」
「この子は、アリスよ。あなたの実験でも、封印の端末でもない」
「わかっているわ」
「わかってなかったら、ここで殴ってる」
「今は殴らないのね」
「アリスを抱えてるからよ」
セーフィエルは、少しだけ笑った。
疲れた、悲しい笑みだった。
「そう」
門の外から、ヌルの声が落ちてきた。
『アリス記録核、低出力で維持確認。完全停止ではない』
マナが顔を上げる。
「本当?」
『嘘をつく理由がないよ』
「女帝様は、理由がなくても嘘をつきそう」
『ひどい評価だね』
「今は信用しきれないの!」
『正しい』
ヌルの声は、珍しく怒らなかった。
『彼女は生きている。機械人形にその言葉を使うのが適切かどうかは、ゼクスなら議論するだろうけど』
マナが即座に言う。
「生きてる」
『そう。なら、そういうことにしておこう』
アリスの魔導核が、もう一度だけ微かに光った。
マナは、それを胸に抱きしめる。
「聞いた? アリス。女帝様まで認めたわよ。あなた、生きてるって」
返事はない。
けれど、光は消えない。
シグレは、ようやく立ち上がった。
身体は限界だった。
だが、まだ倒れるわけにはいかない。
シオンは眠った。
アリスは深い処理の底へ落ちた。
封印再構成は完了しつつある。
だが、裁きの門はまだ閉じていない。
闇の子はまだタルタロスの奥にいる。
帝都エデンはまだ夜の中にある。
それでも、ひとつだけ確かなことがあった。
アリスは消えていない。
誰かの犠牲として消費されたのではない。
彼女は自分で選び、記録し、約束を残して眠った。
それは、人柱とは違う。
楔とは違う。
次へ続く眠りだった。
マナは、アリスを抱きしめたまま、震える声で言った。
「戻ってきたら、まず説教。次に休息。次にご飯。次に検査。次にまた説教」
シグレが小さく笑う。
「説教多くない?」
「足りないくらいよ」
セーフィエルが静かに言う。
「その時は、私も呼びなさい」
マナが睨む。
「あなたも説教される側よ」
「でしょうね」
「長いわよ」
「長い説教は嫌いではないわ。相手が生きている証拠だから」
マナは、何も言えなくなった。
アリスの魔導核が、胸の奥で淡く光っている。
タルタロスの底に、静かな光がひとつ残った。
それは、シオンの眠りを記録し、闇の子の声を深層に留め、帝都エデンの罪を消さずに保持するための光。
そして、マナが待ち続けるための光だった。
アリスは眠っている。
だが、約束は記録済みだった。




