第10話 夢殿の眠れる神
夢殿は、帝都エデンの中心にある。
そう言えば、市民の誰もが頷くだろう。
行政中枢。
魔導炉制御施設。
ヨムルンガルド結界の監視塔。
女帝ヌルの聖域。
帝都政府の心臓。
そして、女帝信仰における最大の神殿。
だが、そのどれもが正しく、同時に足りなかった。
夢殿は、帝都の中心にあるのではない。
帝都そのものが、夢殿から伸びている。
ホウジュ区の裏通りも、カミハラ区の研究棟も、湾岸区の防潮魔導壁も、アツギ中枢区の白い塔も、魔導炉も、空中歩道も、地下に眠る旧鉄道跡も、女帝信仰の祭壇も、すべて夢殿へつながっている。
帝都エデンという巨大な封印都市の、いちばん深い場所。
そこに、眠れる神がいる。
シグレたちがその場所へ向かったのは、セーフィエルが裁きの門の座標を特定した翌日の夜だった。
ホウジュ区の雑貨店《時雨堂》は、またしても閉店していた。
店の扉には、ハルナの手書きで《本日、店長が危険な場所へ行くため臨時休業です》と貼られている。
「ハルナちゃん」
シグレはその貼り紙を見て、眠たげな顔のまま言った。
「これは、お客さんが見たら心配するんじゃないかなぁ」
「心配してほしいんです」
ハルナは黒いマフラーをシグレの首に巻きつけながら、きっぱり言った。
「最近のテンチョは、危険な場所へ行く頻度が高すぎます。怪異の出る倉庫、封鎖研究棟、封鎖資料棟、旧月相観測塔、旧湾岸貨物駅跡。次は夢殿ですか」
「観光名所みたいに並べると、ちょっと楽しそうだねぇ」
「全然楽しくありません」
「夢殿って、市民見学ツアーもあるらしいよ」
「テンチョが行くのは絶対それじゃないです」
「鋭い」
「鋭くなくてもわかります!」
ハルナは、シグレのコートの内側へ護符を入れた。
いつもの《早く帰れ》ではない。
今日の護符には、《テンチョはテンチョ》と書かれていた。
シグレはそれを見て、少しだけ目を細める。
「これ、効く?」
「効きます」
「何に?」
「夢殿とか、女帝様とか、ノインさんとか、シオンさんとか、そういうすごそうなもの全部にです」
「大ざっぱだねぇ」
「大ざっぱでも効きます」
「最強?」
「最強です」
ハルナの声は強かった。
けれど、指先は少し震えていた。
シグレはその指先を見て、軽い冗談を飲み込んだ。
「ハルナちゃん」
「はい」
「ただいまの予約」
「受け付けました」
「キャンセル不可?」
「不可です」
「厳しい」
「絶対です」
シグレは頷いた。
「じゃあ、帰ってくる」
ハルナはようやく、少しだけ笑った。
「はい。行ってらっしゃい、テンチョ」
夢殿へ向かう方法は、正面からではなかった。
正面から入れば、白い大階段、女帝信仰会の参拝区画、行政受付、結界認証門、ワルキューレ監視塔、夢殿広報局、そして市民向けの神殿見学コースがある。
もちろん、シグレたちの目的は見学ではない。
シオンの封印記録。
ヌル本体の所在。
セーフィエルが裁きの門を開く前に、夢殿側が何を知り、何を隠しているのかを確認すること。
そのためには、夢殿の奥へ行く必要があった。
シンが用意した侵入経路は、夢殿地下の旧軍事搬入口だった。
厚木基地跡地。
トキオ聖戦後、ヌルたちが制圧し、その上に夢殿とヴァルハラ宮殿を築いた場所。地上は白い神殿のように整備されているが、地下には旧基地の骨格がまだ残っている。軍用通路、格納庫跡、通信管制室、燃料搬入口。それらは現在、魔導炉補助設備や夢殿外郭メンテナンス路として使われていた。
夜のアツギ中枢区は、帝都のどの区よりも静かだった。
ビルは少ない。
代わりに、白い塔が多い。
夢殿を中心に、行政塔、結界観測塔、女帝信仰の礼拝堂、ワルキューレ宿舎、魔導炉制御棟が円を描くように並んでいる。街路樹の根元には白い光が流れ、空中には小さな監視魔導眼が浮かんでいた。
神聖で、清潔で、息苦しい。
ホウジュ区の雑多な光とは違う。
ここでは、街そのものが姿勢を正しているようだった。
シグレは地下搬入口の影から、夢殿の塔を見上げた。
「観光で来たかったなぁ」
マナが隣で短杖を握る。
「観光で来ても、たぶん同じ感想になるわよ」
「どんな?」
「息苦しい」
「マナは鋭いねぇ」
「今日は褒めても慎重にはならないわよ」
「慎重になってほしいなぁ」
アリスは二人の後ろに立っていた。
淡い灰色の外套を羽織り、胸元に手を当てている。そこには、前回から時折浮かぶようになった蛇の円環――ヨムルンガルド結界と同型の未登録回路の紋様がある。
今夜、その紋様は静かに光っていた。
「アリスちゃん、大丈夫?」
シグレが聞く。
「大丈夫、という状態を定義中です」
「怖い?」
「はい」
「夢殿が?」
「はい。私の内部未登録回路が、夢殿の認証層に反応しています。歓迎されているようにも、検査されているようにも感じます」
「嫌な歓迎だねぇ」
「はい。嫌な歓迎です」
マナがすぐにアリスの肩に手を置いた。
「無理だと思ったら言う」
「はい」
「怖いままでいい」
「はい」
「でも勝手に前に出ない」
「条件付きで了解します」
「条件をつけない!」
「マナ様が危険になった場合、条件は破棄されます」
「成長の方向が私に似てきた……」
マナは頭を抱えた。
シグレは少し笑ったが、その笑いは長く続かなかった。
ムラサメが震えている。
夢殿へ近づくほど、胸の奥の残響が強くなる。
ノイン。
シオン。
裁きの門。
タルタロス。
闇の子。
そして、女帝ヌル。
全部がここへ集まっている。
地下搬入口の扉は、古い軍用鋼材でできていた。
その上から夢殿の白い封印符が貼られている。シンが遠隔で認証を偽装するはずだったが、扉はシグレたちが近づく前に、音もなく開いた。
マナが足を止める。
「開いた」
「開いたねぇ」
「シンがやった?」
通信端末から、シンの声が聞こえた。
『僕じゃない。むしろ、こっちはまだ認証を噛ませる前だった』
マナの顔が険しくなる。
「罠?」
『夢殿で勝手に扉が開いた時点で、罠じゃなかったとしても罠だよ』
「便利な結論ね」
『逃げるなら今』
シグレは開いた扉の奥を見た。
地下通路。
白い光。
奥へ伸びる床。
そして、遠くから聞こえる低い鼓動。
都市の鼓動。
夢殿の奥で、何かが眠っている音。
「行くよ」
シグレは言った。
「帰るなら、今じゃない」
地下通路へ入る。
最初の区画は、まだ施設だった。
旧基地のコンクリート壁を白い魔導材で補強した廊下。床には旧軍事番号と新しい夢殿管理コードが並んでいる。壁面には配管が走り、その中を青白い液体光が流れていた。魔導炉から送られるエネルギーだ。
マナが端末をかざす。
「魔導炉出力線。都市電力用じゃないわ。結界制御用の高圧線」
「触ったら?」
「たぶん蒸発する」
「たぶん禁止って言われたけど、今のは許されそうだねぇ」
アリスが壁面を見つめる。
「この線は、夢殿中枢を経由して死都東京方面へ送られています。封印圧制御。タルタロス接続補正。裁きの門座標固定。複数の用途が混在しています」
「読めるの?」
「はい。読めてしまいます」
その言い方が、少し不安そうだった。
アリスの内部にある未知回路が、夢殿の言語を理解している。
それは便利で、同時に怖い。
マナはアリスの横顔を見た。
「あなたが悪いわけじゃない」
「はい」
「怖くても、あなたはアリス」
「はい」
「よし」
「よし、ですか」
「よし」
通路の先に、第一認証門があった。
白い円環の門。
中央には女帝ヌルの紋章。
本来なら、夢殿職員、ワルキューレ、結界技師、行政官のみが通れる門だ。
だが、門はシグレのムラサメに反応した。
青白い光が走る。
次に、アリスの胸元の円環が応答する。
門の認証表示が揺れた。
《ワルキューレ系統反応》
《旧第九位座標残響》
《セーフィエル系列補助端末反応》
《認証矛盾》
《上位判断待機》
「待って」
マナが顔をしかめる。
「今、シグレとアリスで認証が通りかけた?」
「嫌な通り方だねぇ」
アリスが静かに言う。
「私とシグレは、夢殿の封印制御において、例外的な参照対象として認識されています」
「例外的って?」
「通常の入館者ではなく、封印構造の一部、または不具合として」
「ますます嫌だなぁ」
シグレは門を見上げる。
「不具合扱いは慣れてるけど、封印構造の一部扱いは初めてだね」
その瞬間、門が開いた。
奥へ進む。
第二層は、行政施設だった。
広いホール。
壁面に並ぶ巨大な端末。
夢殿職員が働いていた痕跡。
帝都各区の監視図。
魔導炉出力表。
市民向け広報予定。
女帝信仰会の祭礼日程。
ワルキューレ出動記録。
都市治安指数。
死都東京観測ログ。
だが、人はいなかった。
端末だけが動いている。
無人の行政室。
それなのに、都市は機能している。
マナが低く言う。
「職員を避難させた?」
シンの声が通信から返る。
『表向き、夢殿中層は結界調整のため一時閉鎖。職員は外郭へ移動済み。君たちが入れるように空けられてる』
「誰が?」
『聞きたい?』
「聞きたくないけど聞く」
『ヌルだと思う』
沈黙。
シグレは肩をすくめた。
「潜入っていうより、招待だねぇ」
「招待状がなかったわ」
マナが言う。
「ワルキューレの襲撃よりは親切かな」
「親切な罠って最悪よ」
行政室の奥には、夢殿の都市制御中枢があった。
巨大な円形の部屋。
中央に浮かぶ帝都エデンの立体図。
ホウジュ区、カミハラ区、アツギ中枢区、湾岸区、外縁結界、死都東京。
都市の全景が、蛇の円環に巻かれている。
ヨムルンガルド結界。
その線の一部が赤く脈打っていた。
裁きの門座標。
D∴C∴の儀式で一瞬だけ浮上し、セーフィエルが掴んだ地点。
マナが息を呑む。
「もうここにも出てる」
「夢殿が知らないわけないよねぇ」
シグレは立体図を見た。
裁きの門の座標は、死都東京の中心ではない。
正確には、死都東京の中心へ至るために現世側へ投影される門の位置だった。旧東京と帝都の境界、結界の重なり、タルタロスの圧力、シオンの楔、セーフィエルの血筋、シグレの残響。それらが一致する一点。
そこへ、月光の細い線が伸びていた。
セーフィエルの術式。
すでに準備が始まっている。
アリスの胸元が強く光る。
「裁きの門座標に、外部召喚準備反応。セーフィエル系列。進行率、七十二パーセント」
「七十二!?」
マナが叫ぶ。
「早すぎる!」
「セーフィエルは、ずっと準備していたのだろう」
知らない声がした。
シグレたちが振り向く。
部屋の入口に、ズィーベンが立っていた。
ワルキューレ第七位。
長い髪。静かな目。白と青の戦乙女装束。
派手な武装はない。だが、彼女の周囲には幾重もの防御結界が薄く重なっている。女帝ヌルのそばに立つ者の気配だった。
マナが短杖を構える。
シグレもムラサメの柄に触れる。
アリスは胸元を押さえたまま、ズィーベンを見ている。
ズィーベンは、攻撃しなかった。
「剣を抜く必要はない」
「それ、こっちの台詞じゃない?」
マナが言う。
「あなたたちが通路を開けたの?」
「陛下のご意向だ」
「ヌルの?」
シグレが聞く。
ズィーベンの視線がシグレへ向く。
「そうだ。シグレ。ノインの残響を宿す者。陛下は、あなたと話すことを望まれている」
「話す?」
「そうだ」
「アインは斬りかかってきたけど」
「アインは剣だ。私は扉だ」
「フィーアは?」
「声だ」
「ワルキューレ、役割分担がわかりやすいねぇ」
ズィーベンは微動だにしない。
「軽口を叩けるなら、まだ飲まれてはいないようだ」
「何に?」
「ノインの残響に」
シグレの胸が痛む。
ズィーベンは、その反応も見ていた。
「この先は、夢殿最深部。眠りの座。陛下本体が安置されている」
マナが目を見開く。
「本当に、ヌル本体がここに?」
「そうだ」
「それを私たちに見せるの?」
「見せるのではない。あなたたちは、すでに見なければならない位置まで来ている」
ズィーベンは歩き出した。
「ついてこい」
シグレはマナを見る。
マナは短杖を下ろさないまま頷いた。
「行くしかないわね」
「観光ツアー、奥深いねぇ」
「シグレ、黙って歩いて」
「はい」
第三層へ入ると、夢殿は施設ではなくなった。
壁が消えたわけではない。
床も、天井もある。
だが、素材が変わっていく。
白い魔導材は、いつの間にか骨のような光を帯びた結晶へ変わっていた。壁の中には血管のように金色の線が走り、床の下には水ではなく、思念の流れのようなものが揺れている。
通路の両側には、女帝信仰の聖画が並んでいた。
女帝ヌルが死都東京の黒霧を払う絵。
魔導炉に光を与える絵。
避難民へ手を差し伸べる絵。
ワルキューレたちを従える絵。
闘神義体で基地を制圧する絵は、描かれていない。
シオンも描かれていない。
闇の子も描かれていない。
救済だけが描かれている。
犠牲は描かれていない。
マナが小さく言う。
「きれいね」
「うん」
シグレは答える。
「きれいに、隠してる」
ズィーベンは振り返らずに言った。
「帝都の民が、すべての真実に耐えられるとは限らない」
「またそれ?」
マナの声が鋭くなる。
「フィーアと同じことを言うのね」
「フィーアは市民を恐怖から守る。私は陛下を危険から守る。言葉は似ても、立場は違う」
「隠された人は?」
シグレが聞く。
ズィーベンが足を止めた。
「シオンのことか」
「うん」
「彼女は、忘れられるべきではなかった」
その答えは、予想外だった。
シグレもマナも黙る。
ズィーベンは、わずかに横顔だけを見せる。
「だが、記録に残せば、セーフィエルが必ず取り戻しに来る。信徒が知れば、女帝信仰は揺らぐ。人間政府が知れば、帝都の正当性を攻撃する。D∴C∴が知れば、闇の子信仰に利用する。だから消した」
「正しいと思ってる?」
「必要だったと思っている」
「違いは?」
「罪の自覚が残るかどうかだ」
ズィーベンは再び歩き出した。
その背中に、シグレは言葉を失った。
夢殿の奥へ進むほど、音が消えていく。
最初は足音が聞こえた。
次に、呼吸音だけになった。
やがて、自分の心臓の音さえ遠くなった。
代わりに、別の鼓動が聞こえる。
ゆっくりとした、巨大な眠りの鼓動。
夢殿の鼓動。
ヌル本体の鼓動。
最後の扉は、扉ではなかった。
巨大な花の蕾のような構造物。
白い花弁が幾重にも重なり、その隙間から金色の光が漏れている。花弁の根元には無数の魔導管が接続され、夢殿全体、ヴァルハラ宮殿、魔導炉、ヨムルンガルド結界、死都東京観測層へ伸びていた。
ズィーベンが膝をつく。
「陛下。お連れしました」
花が開いた。
そこに、眠りの座があった。
巨大な生命維持装置。
封印制御装置。
思念送信装置。
そのすべてを兼ねた、白と金の棺。
棺ではない。
玉座でもない。
ゆりかごでもある。
処刑台でもある。
その中心に、少女が眠っていた。
女帝ヌルの本体。
シグレは、息を忘れた。
市民が見る女帝義体よりも、ずっと静かだった。
小柄な少女の姿をしている。白い肌。閉じた瞳。長い髪。薄い衣。人間ならば眠っているだけに見えただろう。
だが、その身体から無数の光の糸が伸びている。
額から夢殿へ。
胸から魔導炉へ。
指先からワルキューレの指令系統へ。
背中からヨムルンガルド結界へ。
足元から死都東京の封印層へ。
そして、もっと深い場所――タルタロスへ。
ヌルは眠っていた。
死んでいない。
だが、生きているとも言い切れない。
世界を支配しながら、世界に縛られている。
マナが小さく呟いた。
「これが……本体」
アリスは言葉を発しなかった。
彼女の胸元の円環が、眠りの座に反応して明滅している。
シグレは、なぜかシオンを思い出した。
タルタロスの鎖につながれた少女。
目の前のヌル本体は、鎖には見えない。
光に包まれている。
花の中に眠っている。
だが、動けないという意味では同じだった。
「ヌルも」
シグレの声がかすれる。
「眠ってるんだ」
その時、部屋の奥に別の光が生まれた。
女帝義体だった。
ヴァルハラ宮殿にいるはずの統治用義体。
白と金のドレスをまとった小柄な少女が、光の中から歩いてくる。実体ではない。思念投射。だが、その存在感は本体の眠りを揺らすほど強い。
ヌル義体は、退屈そうに笑った。
「そうだよ、人の子」
シグレは振り向く。
マナが短杖を構える。
ズィーベンが静かに頭を下げる。
ヌル義体は、そのすべてを見て、軽く手を振った。
「いいよ、ズィーベン。今は昔話をする時間だから」
「承知しました」
ズィーベンは下がるが、警戒は解かない。
ヌルはシグレを見た。
「来たね、シグレ。ノインの残響を連れて」
「招待された気もするけどねぇ」
「招待したよ。潜入気分を味わわせてあげたんだから、感謝してほしいな」
「趣味が悪い」
「神はだいたい趣味が悪いものだよ」
マナが一歩前に出る。
「あなたが、ヌル」
「そう。市民が祈る女帝ヌル。魔導炉を動かす光の子。人間の軍隊を黙らせた闘神。夢殿で眠る怠け者」
「怠け者って」
シグレが思わず言う。
ヌルは笑った。
「だって、眠ったまま帝都を動かしてるんだよ。怠惰の極みでしょ?」
「ボクと気が合いそうで嫌だなぁ」
「アタシはこたつには入らないけどね」
「入ればよさがわかるよ」
「帝都の女帝がこたつから神託を出すのは、威厳に問題がある」
「少し見たい」
マナが低く言う。
「シグレ。相手、女帝」
「うん。忘れかけた」
「忘れないで」
ヌルは楽しそうに目を細めた。
「人の子って、ほんと面白いね。夢殿の最深部で、アタシの本体を前にして、こたつの話をする」
「緊張をごまかしてるんだよぉ」
「知ってる」
その一言で、シグレの軽口は止まった。
ヌルは見透かしている。
眠たげな顔の奥にある恐怖も、胸の痛みも、ノインの残響も、シオンの顔も。
すべて見えている。
シグレは本体の眠りの座を見る。
「どうして、眠ってるの」
ヌルの笑みが少しだけ薄くなった。
「いい質問だね」
「答えてくれる?」
「そのために呼んだ」
ヌル義体は、眠る本体のそばへ歩く。
本体は目を開けない。
義体だけが話す。
「アタシは完全には目覚められない。闇の子がタルタロスで眠っているから」
マナが息を呑む。
「闇の子と、あなたは」
「半身だよ」
ヌルはあっさり言った。
「双子、と言う人の子もいる。間違いではないけれど、正確でもない。もともと一つだったものが、光と闇に分かれた。アタシは形を作る。秩序を編む。都市を築く。名前を与える。保存する。支配する」
「闇の子は?」
アリスが静かに聞いた。
「形にならないものを抱えている。怒り、痛み、未完成、喪失、忘れられた声。光が都市を作るなら、闇は都市からこぼれるものを全部持っていく」
ヌルは、少しだけ退屈そうに見えた。
けれど、その声の奥には、わずかな嫌悪と、さらにわずかな寂しさがあった。
「アタシはあれを憎んでいる。同時に、あれはアタシだ。殺せない。切り捨てられない。でも解き放てば、世界が壊れる」
「だから、封じた」
シグレが言う。
「そう」
「シオンを使って?」
部屋の空気が止まった。
ズィーベンの視線がわずかに動く。
マナが息を詰める。
アリスの胸元の円環が震える。
ヌルは、シグレを見た。
笑わなかった。
「そうだよ」
認めた。
あまりにも静かに。
「シオンを楔にした。ワルキューレ第九位ノイン。セーフィエルの娘。封印適性が高く、剣が強く、責任感があり、あの時、あの場所にいた」
シグレの胸が痛む。
「人柱にしたんだね」
「そうだよ」
「どうして」
「世界を壊さないため」
ヌルの声は揺れなかった。
「死都東京だけの話ではなかった。裁きの門の向こうにはタルタロスがある。タルタロスの奥には闇の子がいる。あれが完全に現世へ接続すれば、帝都だけでは済まない。リンボ全体が揺らぐ。人間の都市も、国も、歴史も、夢も、名前も、全部が黒い海に落ちる」
「だから、一人を犠牲にした」
「そう」
「それでいいと思ったの」
「よくはない」
ヌルは即答した。
その答えもまた、予想外だった。
「よくはないよ。シオンを楔にしたことは、綺麗な話じゃない。聖なる犠牲でもない。帝都信仰会の聖画に描けるような救済でもない。必要だった。だからやった。ただ、それだけ」
マナが怒りを抑えきれずに言う。
「必要なら、何をしてもいいの?」
「いいわけがない」
ヌルはマナを見た。
「でも、何もしなければもっと多くが壊れた。人の子は、よく正しさを秤にかけたがるね。ひとりと全員。少数と多数。母と都市。命と世界。まるで、重い方を選べば罪が軽くなるみたいに」
マナは言葉を失った。
ヌルは続ける。
「軽くならないよ」
その声には、神の傲慢ではなく、長く封印を維持してきた者の疲労があった。
「アタシの秤は、いつだって血で汚れている。シオンを楔にした。セーフィエルから娘を奪った。ワルキューレから第九位を消した。帝都の民には光だけを見せた。死都東京の声を結界の向こうへ押し込めた。闇の子を眠らせた。そして、その闇の眠りに引かれて、アタシもここで眠っている」
シグレは、眠りの座の本体を見た。
光の糸に縛られた少女。
ヌルは支配者だ。
神だ。
帝都エデンの女帝だ。
だが、自由ではない。
彼女もまた、封印の一部だった。
「ヌルを倒せば、全部解決するわけじゃない」
シグレは呟いた。
ヌルが笑った。
「ようやく、そこに気づいた?」
「気づきたくなかったなぁ」
「アタシを倒せば、帝都の支配者は消える。人の子は喜ぶかもね。だけど夢殿の制御は落ち、魔導炉は乱れ、ヨムルンガルド結界は解ける。死都東京は溢れ、裁きの門は開き、タルタロスは現世に触れる。闇の子も、アタシも、無事では済まない」
「じゃあ、セーフィエルを止めれば?」
「シオンはそのまま」
その答えが、いちばん痛かった。
シグレは拳を握る。
「どっちも最悪じゃない」
「そうだよ」
ヌルは軽く言った。
「世界は、たまにそういう形をしている」
アリスが一歩前に出た。
「質問があります」
「どうぞ、セーフィエルの小さな未練」
マナが即座に短杖を向ける。
「アリスにそういう言い方をしないで」
ヌルは少し目を細めた。
「いい保護者だね、魔導士マナ」
「褒められても嬉しくない」
「褒めてない。観察しただけ」
アリスは胸元に手を当てた。
「私は、封印システムの一部として設計されていますか」
ヌルはアリスを見た。
その視線には、先ほどまでとは別の冷たさがあった。
物を見る目ではない。
だが、人を見る目とも違う。
未知の機構を見る神の目。
「セーフィエルは、賢い」
ヌルは言った。
「そして、愚かだ。キミをただの人形として作ったのではない。シオンの代わりでもない。正確には、シオンを救い出した後、封印を完全崩壊させないための補助鍵として設計したのでしょう」
マナの顔色が変わる。
「アリスを、楔にするため?」
「違う」
ヌルは首を振った。
「楔ではなく、橋。タルタロスと現世、ノインの残響とセーフィエルの血筋、裁きの門とヨムルンガルド結界。その間に一時的な通路を作るための端末。うまく使えば、シオンを永遠の人柱から外すことができる」
「じゃあ、いいことじゃない」
マナが言う。
ヌルは笑った。
「うまく使えば、ね」
「失敗したら?」
「帝都が落ちる。タルタロスが漏れる。闇の子が目覚める。アリスも壊れる。シグレも、ノインの残響に引きずられる」
アリスは静かに聞いていた。
「私は、壊れる可能性が高いのですね」
「高い」
「セーフィエルは、それを知っていますか」
「知っている」
「それでも、使うのですね」
「母親は、時に世界より娘を選ぶ」
「マナ様は?」
アリスがマナを見る。
「マナ様は、私を選びますか」
マナは言葉に詰まった。
問いがあまりにもまっすぐだった。
彼女はアリスの肩を掴む。
「選ぶ」
声が震えていた。
「私はあなたを選ぶ。でも、あなたを道具にはしない。あなたが壊れる道なんて選ばせない。絶対に」
「絶対、ですか」
「絶対」
「記録しました」
アリスは頷いた。
「私も、マナ様が壊れる道は選びません」
「アリス」
「約束です」
マナは泣きそうな顔で、アリスを抱きしめた。
ヌルはそれを見て、退屈そうに、しかしどこか眩しそうに笑った。
「人の子と人形は、面白いね」
シグレはヌルを見る。
「シオンは」
「何?」
「シオンは、まだ助けられる?」
部屋の光が、わずかに揺れた。
ヌル義体の顔から、軽さが消える。
「助ける、という言葉の意味による」
「苦しみから解放する」
「可能性はある」
「人柱から外す」
「危険を伴う」
「普通に生きる」
「それは、もう無理だ」
シグレは目を伏せた。
わかっていた。
けれど、聞かずにはいられなかった。
ヌルは静かに言う。
「シオンは長く楔でありすぎた。肉体はない。魂は削れた。時間も、人間の形も、戻らない。セーフィエルが求めているのは、昔の娘をそのまま取り戻すことではない。少なくとも、彼女の一部はそれをわかっている」
「じゃあ、セーフィエルは何を」
「永遠の苦痛から救い出したい」
ヌルの声は、低かった。
「それだけなら、アタシも理解できる」
「なら、どうして」
「闇の子がいるから」
その名が出た瞬間、眠りの座の奥で黒い影が揺れた。
ヌル本体の指先が、ほんの少し動く。
アリスが息を呑む。
「タルタロス方向から思念波」
シグレの胸が痛む。
闇の子の声が、また聞こえる気がした。
――聞こえた。
――やっと、聞こえた。
ヌル義体の目が鋭くなる。
「シグレ」
「なに」
「キミは、闇の子の声を聞いた」
「うん」
「返事をしたね」
「少し」
「人の子は、本当に懲りない」
「よく言われる」
「それが、封印にとってどれほど危険かわかっている?」
「わからない」
「正直だね」
「わからないことだらけだから」
シグレは、ヌル本体を見る。
それから、ヌル義体を見る。
「でも、君たちが全部わかっててこうなってるなら、わからないボクが動いた方が、まだ変わるかもしれない」
ズィーベンがわずかに眉を動かした。
マナがシグレを見る。
アリスも見る。
ヌルは、しばらく黙っていた。
やがて、笑った。
「アタシにそれを言うんだ。面白いね」
その笑みは、今まででいちばん神らしかった。
傲慢で、冷酷で、少しだけ楽しそうだった。
「いいよ、シグレ。キミがどう動くか、見ていてあげる」
「止めないの?」
「止める時は止める。殺す時は殺す。でも今は、キミの中のノインの残響と、キミ自身の選択を見ている方が価値がある」
「物騒だなぁ」
「神様だからね」
「神様って、もっと優しくない?」
「信仰会の絵の中ではね」
その時だった。
眠りの座の周囲にある結界観測装置が、一斉に赤く染まった。
低い警報音が鳴る。
最初は眠りの座の中だけ。
次に、夢殿最深部。
さらに中層、外層、行政区画、結界制御室、女帝信仰の礼拝堂、夢殿全体へと広がっていく。
『警告』
『裁きの門座標、現世投影準備』
『外部召喚術式、進行率九十六パーセント』
『セーフィエル系列血統反応』
『ノイン残響座標、照合中』
『アリス補助鍵反応、微弱共鳴』
『ヨムルンガルド結界外層、臨界接近』
マナが叫ぶ。
「セーフィエル!」
アリスの胸元の円環が激しく光る。
「裁きの門召喚準備、完了間近です」
シグレのムラサメが勝手に光刃を伸ばした。
青白い刃が、眠りの座の光に照らされる。
ヌル義体は、赤い警報の中で笑った。
退屈そうではなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、長いあいだ予見していた最悪が、ついに形になった者の顔だった。
「セーフィエル」
彼女は、遠い月を見るように言った。
「本当に、キミは昔からそうだ。大事なもののためなら、世界の秩序なんて平気で壊す」
ズィーベンが膝をつく。
「陛下、ご命令を」
「アインを待機から上げて。フィーアには市民統制。アハトは死都観測を最大。魔導炉は封印圧優先。闘神義体は――まだ起こさない」
「承知しました」
マナが叫ぶ。
「まだ、って何よ!」
ヌルはマナを見た。
「次で必要になるかもしれない、という意味だよ」
シグレは、眠りの座の前に立った。
夢殿全体の警報が鳴り響いている。
帝都エデンの地下で、巨大な蛇が身じろぎしている。
死都東京の中心で、見えない門が呼吸を始めている。
タルタロスの底で、闇の子が耳を澄ませている。
セーフィエルは、娘を迎えに来る。
ヌルは、帝都を守ろうとしている。
シオンは、まだ鎖につながれている。
そしてシグレは、誰の代わりでもないまま、そのすべての中心に立っていた。
「行くよ」
シグレは言った。
マナが頷く。
「当然」
アリスも頷く。
「同行します」
ヌルは笑った。
「いいね。人の子らしい無謀さだ」
「褒めてる?」
「少し」
「珍しい」
「今だけだよ」
夢殿の警報が、さらに強くなる。
赤い光が、白い聖域を染めていく。
眠りの座の中で、ヌル本体の瞼が、ほんのわずかに震えた。
それは目覚めではない。
だが、眠れる神が、夢の底で世界の崩れる音を聞いた瞬間だった。




