表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/24

第10話 夢殿の眠れる神

 夢殿は、帝都エデンの中心にある。


 そう言えば、市民の誰もが頷くだろう。


 行政中枢。

 魔導炉制御施設。

 ヨムルンガルド結界の監視塔。

 女帝ヌルの聖域。

 帝都政府の心臓。

 そして、女帝信仰における最大の神殿。


 だが、そのどれもが正しく、同時に足りなかった。


 夢殿は、帝都の中心にあるのではない。


 帝都そのものが、夢殿から伸びている。


 ホウジュ区の裏通りも、カミハラ区の研究棟も、湾岸区の防潮魔導壁も、アツギ中枢区の白い塔も、魔導炉も、空中歩道も、地下に眠る旧鉄道跡も、女帝信仰の祭壇も、すべて夢殿へつながっている。


 帝都エデンという巨大な封印都市の、いちばん深い場所。


 そこに、眠れる神がいる。


 シグレたちがその場所へ向かったのは、セーフィエルが裁きの門の座標を特定した翌日の夜だった。


 ホウジュ区の雑貨店《時雨堂》は、またしても閉店していた。


 店の扉には、ハルナの手書きで《本日、店長が危険な場所へ行くため臨時休業です》と貼られている。


「ハルナちゃん」


 シグレはその貼り紙を見て、眠たげな顔のまま言った。


「これは、お客さんが見たら心配するんじゃないかなぁ」


「心配してほしいんです」


 ハルナは黒いマフラーをシグレの首に巻きつけながら、きっぱり言った。


「最近のテンチョは、危険な場所へ行く頻度が高すぎます。怪異の出る倉庫、封鎖研究棟、封鎖資料棟、旧月相観測塔、旧湾岸貨物駅跡。次は夢殿ですか」


「観光名所みたいに並べると、ちょっと楽しそうだねぇ」


「全然楽しくありません」


「夢殿って、市民見学ツアーもあるらしいよ」


「テンチョが行くのは絶対それじゃないです」


「鋭い」


「鋭くなくてもわかります!」


 ハルナは、シグレのコートの内側へ護符を入れた。


 いつもの《早く帰れ》ではない。


 今日の護符には、《テンチョはテンチョ》と書かれていた。


 シグレはそれを見て、少しだけ目を細める。


「これ、効く?」


「効きます」


「何に?」


「夢殿とか、女帝様とか、ノインさんとか、シオンさんとか、そういうすごそうなもの全部にです」


「大ざっぱだねぇ」


「大ざっぱでも効きます」


「最強?」


「最強です」


 ハルナの声は強かった。


 けれど、指先は少し震えていた。


 シグレはその指先を見て、軽い冗談を飲み込んだ。


「ハルナちゃん」


「はい」


「ただいまの予約」


「受け付けました」


「キャンセル不可?」


「不可です」


「厳しい」


「絶対です」


 シグレは頷いた。


「じゃあ、帰ってくる」


 ハルナはようやく、少しだけ笑った。


「はい。行ってらっしゃい、テンチョ」


 夢殿へ向かう方法は、正面からではなかった。


 正面から入れば、白い大階段、女帝信仰会の参拝区画、行政受付、結界認証門、ワルキューレ監視塔、夢殿広報局、そして市民向けの神殿見学コースがある。


 もちろん、シグレたちの目的は見学ではない。


 シオンの封印記録。

 ヌル本体の所在。

 セーフィエルが裁きの門を開く前に、夢殿側が何を知り、何を隠しているのかを確認すること。


 そのためには、夢殿の奥へ行く必要があった。


 シンが用意した侵入経路は、夢殿地下の旧軍事搬入口だった。


 厚木基地跡地。


 トキオ聖戦後、ヌルたちが制圧し、その上に夢殿とヴァルハラ宮殿を築いた場所。地上は白い神殿のように整備されているが、地下には旧基地の骨格がまだ残っている。軍用通路、格納庫跡、通信管制室、燃料搬入口。それらは現在、魔導炉補助設備や夢殿外郭メンテナンス路として使われていた。


 夜のアツギ中枢区は、帝都のどの区よりも静かだった。


 ビルは少ない。


 代わりに、白い塔が多い。


 夢殿を中心に、行政塔、結界観測塔、女帝信仰の礼拝堂、ワルキューレ宿舎、魔導炉制御棟が円を描くように並んでいる。街路樹の根元には白い光が流れ、空中には小さな監視魔導眼が浮かんでいた。


 神聖で、清潔で、息苦しい。


 ホウジュ区の雑多な光とは違う。


 ここでは、街そのものが姿勢を正しているようだった。


 シグレは地下搬入口の影から、夢殿の塔を見上げた。


「観光で来たかったなぁ」


 マナが隣で短杖を握る。


「観光で来ても、たぶん同じ感想になるわよ」


「どんな?」


「息苦しい」


「マナは鋭いねぇ」


「今日は褒めても慎重にはならないわよ」


「慎重になってほしいなぁ」


 アリスは二人の後ろに立っていた。


 淡い灰色の外套を羽織り、胸元に手を当てている。そこには、前回から時折浮かぶようになった蛇の円環――ヨムルンガルド結界と同型の未登録回路の紋様がある。


 今夜、その紋様は静かに光っていた。


「アリスちゃん、大丈夫?」


 シグレが聞く。


「大丈夫、という状態を定義中です」


「怖い?」


「はい」


「夢殿が?」


「はい。私の内部未登録回路が、夢殿の認証層に反応しています。歓迎されているようにも、検査されているようにも感じます」


「嫌な歓迎だねぇ」


「はい。嫌な歓迎です」


 マナがすぐにアリスの肩に手を置いた。


「無理だと思ったら言う」


「はい」


「怖いままでいい」


「はい」


「でも勝手に前に出ない」


「条件付きで了解します」


「条件をつけない!」


「マナ様が危険になった場合、条件は破棄されます」


「成長の方向が私に似てきた……」


 マナは頭を抱えた。


 シグレは少し笑ったが、その笑いは長く続かなかった。


 ムラサメが震えている。


 夢殿へ近づくほど、胸の奥の残響が強くなる。


 ノイン。

 シオン。

 裁きの門。

 タルタロス。

 闇の子。


 そして、女帝ヌル。


 全部がここへ集まっている。


 地下搬入口の扉は、古い軍用鋼材でできていた。


 その上から夢殿の白い封印符が貼られている。シンが遠隔で認証を偽装するはずだったが、扉はシグレたちが近づく前に、音もなく開いた。


 マナが足を止める。


「開いた」


「開いたねぇ」


「シンがやった?」


 通信端末から、シンの声が聞こえた。


『僕じゃない。むしろ、こっちはまだ認証を噛ませる前だった』


 マナの顔が険しくなる。


「罠?」


『夢殿で勝手に扉が開いた時点で、罠じゃなかったとしても罠だよ』


「便利な結論ね」


『逃げるなら今』


 シグレは開いた扉の奥を見た。


 地下通路。


 白い光。


 奥へ伸びる床。


 そして、遠くから聞こえる低い鼓動。


 都市の鼓動。


 夢殿の奥で、何かが眠っている音。


「行くよ」


 シグレは言った。


「帰るなら、今じゃない」


 地下通路へ入る。


 最初の区画は、まだ施設だった。


 旧基地のコンクリート壁を白い魔導材で補強した廊下。床には旧軍事番号と新しい夢殿管理コードが並んでいる。壁面には配管が走り、その中を青白い液体光が流れていた。魔導炉から送られるエネルギーだ。


 マナが端末をかざす。


「魔導炉出力線。都市電力用じゃないわ。結界制御用の高圧線」


「触ったら?」


「たぶん蒸発する」


「たぶん禁止って言われたけど、今のは許されそうだねぇ」


 アリスが壁面を見つめる。


「この線は、夢殿中枢を経由して死都東京方面へ送られています。封印圧制御。タルタロス接続補正。裁きの門座標固定。複数の用途が混在しています」


「読めるの?」


「はい。読めてしまいます」


 その言い方が、少し不安そうだった。


 アリスの内部にある未知回路が、夢殿の言語を理解している。


 それは便利で、同時に怖い。


 マナはアリスの横顔を見た。


「あなたが悪いわけじゃない」


「はい」


「怖くても、あなたはアリス」


「はい」


「よし」


「よし、ですか」


「よし」


 通路の先に、第一認証門があった。


 白い円環の門。


 中央には女帝ヌルの紋章。


 本来なら、夢殿職員、ワルキューレ、結界技師、行政官のみが通れる門だ。


 だが、門はシグレのムラサメに反応した。


 青白い光が走る。


 次に、アリスの胸元の円環が応答する。


 門の認証表示が揺れた。


《ワルキューレ系統反応》

《旧第九位座標残響》

《セーフィエル系列補助端末反応》

《認証矛盾》

《上位判断待機》


「待って」


 マナが顔をしかめる。


「今、シグレとアリスで認証が通りかけた?」


「嫌な通り方だねぇ」


 アリスが静かに言う。


「私とシグレは、夢殿の封印制御において、例外的な参照対象として認識されています」


「例外的って?」


「通常の入館者ではなく、封印構造の一部、または不具合として」


「ますます嫌だなぁ」


 シグレは門を見上げる。


「不具合扱いは慣れてるけど、封印構造の一部扱いは初めてだね」


 その瞬間、門が開いた。


 奥へ進む。


 第二層は、行政施設だった。


 広いホール。


 壁面に並ぶ巨大な端末。


 夢殿職員が働いていた痕跡。


 帝都各区の監視図。

 魔導炉出力表。

 市民向け広報予定。

 女帝信仰会の祭礼日程。

 ワルキューレ出動記録。

 都市治安指数。

 死都東京観測ログ。


 だが、人はいなかった。


 端末だけが動いている。


 無人の行政室。


 それなのに、都市は機能している。


 マナが低く言う。


「職員を避難させた?」


 シンの声が通信から返る。


『表向き、夢殿中層は結界調整のため一時閉鎖。職員は外郭へ移動済み。君たちが入れるように空けられてる』


「誰が?」


『聞きたい?』


「聞きたくないけど聞く」


『ヌルだと思う』


 沈黙。


 シグレは肩をすくめた。


「潜入っていうより、招待だねぇ」


「招待状がなかったわ」


 マナが言う。


「ワルキューレの襲撃よりは親切かな」


「親切な罠って最悪よ」


 行政室の奥には、夢殿の都市制御中枢があった。


 巨大な円形の部屋。


 中央に浮かぶ帝都エデンの立体図。


 ホウジュ区、カミハラ区、アツギ中枢区、湾岸区、外縁結界、死都東京。


 都市の全景が、蛇の円環に巻かれている。


 ヨムルンガルド結界。


 その線の一部が赤く脈打っていた。


 裁きの門座標。


 D∴C∴の儀式で一瞬だけ浮上し、セーフィエルが掴んだ地点。


 マナが息を呑む。


「もうここにも出てる」


「夢殿が知らないわけないよねぇ」


 シグレは立体図を見た。


 裁きの門の座標は、死都東京の中心ではない。


 正確には、死都東京の中心へ至るために現世側へ投影される門の位置だった。旧東京と帝都の境界、結界の重なり、タルタロスの圧力、シオンの楔、セーフィエルの血筋、シグレの残響。それらが一致する一点。


 そこへ、月光の細い線が伸びていた。


 セーフィエルの術式。


 すでに準備が始まっている。


 アリスの胸元が強く光る。


「裁きの門座標に、外部召喚準備反応。セーフィエル系列。進行率、七十二パーセント」


「七十二!?」


 マナが叫ぶ。


「早すぎる!」


「セーフィエルは、ずっと準備していたのだろう」


 知らない声がした。


 シグレたちが振り向く。


 部屋の入口に、ズィーベンが立っていた。


 ワルキューレ第七位。


 長い髪。静かな目。白と青の戦乙女装束。

 派手な武装はない。だが、彼女の周囲には幾重もの防御結界が薄く重なっている。女帝ヌルのそばに立つ者の気配だった。


 マナが短杖を構える。


 シグレもムラサメの柄に触れる。


 アリスは胸元を押さえたまま、ズィーベンを見ている。


 ズィーベンは、攻撃しなかった。


「剣を抜く必要はない」


「それ、こっちの台詞じゃない?」


 マナが言う。


「あなたたちが通路を開けたの?」


「陛下のご意向だ」


「ヌルの?」


 シグレが聞く。


 ズィーベンの視線がシグレへ向く。


「そうだ。シグレ。ノインの残響を宿す者。陛下は、あなたと話すことを望まれている」


「話す?」


「そうだ」


「アインは斬りかかってきたけど」


「アインは剣だ。私は扉だ」


「フィーアは?」


「声だ」


「ワルキューレ、役割分担がわかりやすいねぇ」


 ズィーベンは微動だにしない。


「軽口を叩けるなら、まだ飲まれてはいないようだ」


「何に?」


「ノインの残響に」


 シグレの胸が痛む。


 ズィーベンは、その反応も見ていた。


「この先は、夢殿最深部。眠りの座。陛下本体が安置されている」


 マナが目を見開く。


「本当に、ヌル本体がここに?」


「そうだ」


「それを私たちに見せるの?」


「見せるのではない。あなたたちは、すでに見なければならない位置まで来ている」


 ズィーベンは歩き出した。


「ついてこい」


 シグレはマナを見る。


 マナは短杖を下ろさないまま頷いた。


「行くしかないわね」


「観光ツアー、奥深いねぇ」


「シグレ、黙って歩いて」


「はい」


 第三層へ入ると、夢殿は施設ではなくなった。


 壁が消えたわけではない。


 床も、天井もある。


 だが、素材が変わっていく。


 白い魔導材は、いつの間にか骨のような光を帯びた結晶へ変わっていた。壁の中には血管のように金色の線が走り、床の下には水ではなく、思念の流れのようなものが揺れている。


 通路の両側には、女帝信仰の聖画が並んでいた。


 女帝ヌルが死都東京の黒霧を払う絵。

 魔導炉に光を与える絵。

 避難民へ手を差し伸べる絵。

 ワルキューレたちを従える絵。

 闘神義体で基地を制圧する絵は、描かれていない。

 シオンも描かれていない。

 闇の子も描かれていない。


 救済だけが描かれている。


 犠牲は描かれていない。


 マナが小さく言う。


「きれいね」


「うん」


 シグレは答える。


「きれいに、隠してる」


 ズィーベンは振り返らずに言った。


「帝都の民が、すべての真実に耐えられるとは限らない」


「またそれ?」


 マナの声が鋭くなる。


「フィーアと同じことを言うのね」


「フィーアは市民を恐怖から守る。私は陛下を危険から守る。言葉は似ても、立場は違う」


「隠された人は?」


 シグレが聞く。


 ズィーベンが足を止めた。


「シオンのことか」


「うん」


「彼女は、忘れられるべきではなかった」


 その答えは、予想外だった。


 シグレもマナも黙る。


 ズィーベンは、わずかに横顔だけを見せる。


「だが、記録に残せば、セーフィエルが必ず取り戻しに来る。信徒が知れば、女帝信仰は揺らぐ。人間政府が知れば、帝都の正当性を攻撃する。D∴C∴が知れば、闇の子信仰に利用する。だから消した」


「正しいと思ってる?」


「必要だったと思っている」


「違いは?」


「罪の自覚が残るかどうかだ」


 ズィーベンは再び歩き出した。


 その背中に、シグレは言葉を失った。


 夢殿の奥へ進むほど、音が消えていく。


 最初は足音が聞こえた。


 次に、呼吸音だけになった。


 やがて、自分の心臓の音さえ遠くなった。


 代わりに、別の鼓動が聞こえる。


 ゆっくりとした、巨大な眠りの鼓動。


 夢殿の鼓動。


 ヌル本体の鼓動。


 最後の扉は、扉ではなかった。


 巨大な花の蕾のような構造物。


 白い花弁が幾重にも重なり、その隙間から金色の光が漏れている。花弁の根元には無数の魔導管が接続され、夢殿全体、ヴァルハラ宮殿、魔導炉、ヨムルンガルド結界、死都東京観測層へ伸びていた。


 ズィーベンが膝をつく。


「陛下。お連れしました」


 花が開いた。


 そこに、眠りの座があった。


 巨大な生命維持装置。

 封印制御装置。

 思念送信装置。

 そのすべてを兼ねた、白と金の棺。


 棺ではない。


 玉座でもない。


 ゆりかごでもある。


 処刑台でもある。


 その中心に、少女が眠っていた。


 女帝ヌルの本体。


 シグレは、息を忘れた。


 市民が見る女帝義体よりも、ずっと静かだった。


 小柄な少女の姿をしている。白い肌。閉じた瞳。長い髪。薄い衣。人間ならば眠っているだけに見えただろう。


 だが、その身体から無数の光の糸が伸びている。


 額から夢殿へ。

 胸から魔導炉へ。

 指先からワルキューレの指令系統へ。

 背中からヨムルンガルド結界へ。

 足元から死都東京の封印層へ。

 そして、もっと深い場所――タルタロスへ。


 ヌルは眠っていた。


 死んでいない。


 だが、生きているとも言い切れない。


 世界を支配しながら、世界に縛られている。


 マナが小さく呟いた。


「これが……本体」


 アリスは言葉を発しなかった。


 彼女の胸元の円環が、眠りの座に反応して明滅している。


 シグレは、なぜかシオンを思い出した。


 タルタロスの鎖につながれた少女。


 目の前のヌル本体は、鎖には見えない。


 光に包まれている。


 花の中に眠っている。


 だが、動けないという意味では同じだった。


「ヌルも」


 シグレの声がかすれる。


「眠ってるんだ」


 その時、部屋の奥に別の光が生まれた。


 女帝義体だった。


 ヴァルハラ宮殿にいるはずの統治用義体。


 白と金のドレスをまとった小柄な少女が、光の中から歩いてくる。実体ではない。思念投射。だが、その存在感は本体の眠りを揺らすほど強い。


 ヌル義体は、退屈そうに笑った。


「そうだよ、人の子」


 シグレは振り向く。


 マナが短杖を構える。


 ズィーベンが静かに頭を下げる。


 ヌル義体は、そのすべてを見て、軽く手を振った。


「いいよ、ズィーベン。今は昔話をする時間だから」


「承知しました」


 ズィーベンは下がるが、警戒は解かない。


 ヌルはシグレを見た。


「来たね、シグレ。ノインの残響を連れて」


「招待された気もするけどねぇ」


「招待したよ。潜入気分を味わわせてあげたんだから、感謝してほしいな」


「趣味が悪い」


「神はだいたい趣味が悪いものだよ」


 マナが一歩前に出る。


「あなたが、ヌル」


「そう。市民が祈る女帝ヌル。魔導炉を動かす光の子。人間の軍隊を黙らせた闘神。夢殿で眠る怠け者」


「怠け者って」


 シグレが思わず言う。


 ヌルは笑った。


「だって、眠ったまま帝都を動かしてるんだよ。怠惰の極みでしょ?」


「ボクと気が合いそうで嫌だなぁ」


「アタシはこたつには入らないけどね」


「入ればよさがわかるよ」


「帝都の女帝がこたつから神託を出すのは、威厳に問題がある」


「少し見たい」


 マナが低く言う。


「シグレ。相手、女帝」


「うん。忘れかけた」


「忘れないで」


 ヌルは楽しそうに目を細めた。


「人の子って、ほんと面白いね。夢殿の最深部で、アタシの本体を前にして、こたつの話をする」


「緊張をごまかしてるんだよぉ」


「知ってる」


 その一言で、シグレの軽口は止まった。


 ヌルは見透かしている。


 眠たげな顔の奥にある恐怖も、胸の痛みも、ノインの残響も、シオンの顔も。


 すべて見えている。


 シグレは本体の眠りの座を見る。


「どうして、眠ってるの」


 ヌルの笑みが少しだけ薄くなった。


「いい質問だね」


「答えてくれる?」


「そのために呼んだ」


 ヌル義体は、眠る本体のそばへ歩く。


 本体は目を開けない。


 義体だけが話す。


「アタシは完全には目覚められない。闇の子がタルタロスで眠っているから」


 マナが息を呑む。


「闇の子と、あなたは」


「半身だよ」


 ヌルはあっさり言った。


「双子、と言う人の子もいる。間違いではないけれど、正確でもない。もともと一つだったものが、光と闇に分かれた。アタシは形を作る。秩序を編む。都市を築く。名前を与える。保存する。支配する」


「闇の子は?」


 アリスが静かに聞いた。


「形にならないものを抱えている。怒り、痛み、未完成、喪失、忘れられた声。光が都市を作るなら、闇は都市からこぼれるものを全部持っていく」


 ヌルは、少しだけ退屈そうに見えた。


 けれど、その声の奥には、わずかな嫌悪と、さらにわずかな寂しさがあった。


「アタシはあれを憎んでいる。同時に、あれはアタシだ。殺せない。切り捨てられない。でも解き放てば、世界が壊れる」


「だから、封じた」


 シグレが言う。


「そう」


「シオンを使って?」


 部屋の空気が止まった。


 ズィーベンの視線がわずかに動く。


 マナが息を詰める。


 アリスの胸元の円環が震える。


 ヌルは、シグレを見た。


 笑わなかった。


「そうだよ」


 認めた。


 あまりにも静かに。


「シオンを楔にした。ワルキューレ第九位ノイン。セーフィエルの娘。封印適性が高く、剣が強く、責任感があり、あの時、あの場所にいた」


 シグレの胸が痛む。


「人柱にしたんだね」


「そうだよ」


「どうして」


「世界を壊さないため」


 ヌルの声は揺れなかった。


「死都東京だけの話ではなかった。裁きの門の向こうにはタルタロスがある。タルタロスの奥には闇の子がいる。あれが完全に現世へ接続すれば、帝都だけでは済まない。リンボ全体が揺らぐ。人間の都市も、国も、歴史も、夢も、名前も、全部が黒い海に落ちる」


「だから、一人を犠牲にした」


「そう」


「それでいいと思ったの」


「よくはない」


 ヌルは即答した。


 その答えもまた、予想外だった。


「よくはないよ。シオンを楔にしたことは、綺麗な話じゃない。聖なる犠牲でもない。帝都信仰会の聖画に描けるような救済でもない。必要だった。だからやった。ただ、それだけ」


 マナが怒りを抑えきれずに言う。


「必要なら、何をしてもいいの?」


「いいわけがない」


 ヌルはマナを見た。


「でも、何もしなければもっと多くが壊れた。人の子は、よく正しさを秤にかけたがるね。ひとりと全員。少数と多数。母と都市。命と世界。まるで、重い方を選べば罪が軽くなるみたいに」


 マナは言葉を失った。


 ヌルは続ける。


「軽くならないよ」


 その声には、神の傲慢ではなく、長く封印を維持してきた者の疲労があった。


「アタシの秤は、いつだって血で汚れている。シオンを楔にした。セーフィエルから娘を奪った。ワルキューレから第九位を消した。帝都の民には光だけを見せた。死都東京の声を結界の向こうへ押し込めた。闇の子を眠らせた。そして、その闇の眠りに引かれて、アタシもここで眠っている」


 シグレは、眠りの座の本体を見た。


 光の糸に縛られた少女。


 ヌルは支配者だ。


 神だ。


 帝都エデンの女帝だ。


 だが、自由ではない。


 彼女もまた、封印の一部だった。


「ヌルを倒せば、全部解決するわけじゃない」


 シグレは呟いた。


 ヌルが笑った。


「ようやく、そこに気づいた?」


「気づきたくなかったなぁ」


「アタシを倒せば、帝都の支配者は消える。人の子は喜ぶかもね。だけど夢殿の制御は落ち、魔導炉は乱れ、ヨムルンガルド結界は解ける。死都東京は溢れ、裁きの門は開き、タルタロスは現世に触れる。闇の子も、アタシも、無事では済まない」


「じゃあ、セーフィエルを止めれば?」


「シオンはそのまま」


 その答えが、いちばん痛かった。


 シグレは拳を握る。


「どっちも最悪じゃない」


「そうだよ」


 ヌルは軽く言った。


「世界は、たまにそういう形をしている」


 アリスが一歩前に出た。


「質問があります」


「どうぞ、セーフィエルの小さな未練」


 マナが即座に短杖を向ける。


「アリスにそういう言い方をしないで」


 ヌルは少し目を細めた。


「いい保護者だね、魔導士マナ」


「褒められても嬉しくない」


「褒めてない。観察しただけ」


 アリスは胸元に手を当てた。


「私は、封印システムの一部として設計されていますか」


 ヌルはアリスを見た。


 その視線には、先ほどまでとは別の冷たさがあった。


 物を見る目ではない。


 だが、人を見る目とも違う。


 未知の機構を見る神の目。


「セーフィエルは、賢い」


 ヌルは言った。


「そして、愚かだ。キミをただの人形として作ったのではない。シオンの代わりでもない。正確には、シオンを救い出した後、封印を完全崩壊させないための補助鍵として設計したのでしょう」


 マナの顔色が変わる。


「アリスを、楔にするため?」


「違う」


 ヌルは首を振った。


「楔ではなく、橋。タルタロスと現世、ノインの残響とセーフィエルの血筋、裁きの門とヨムルンガルド結界。その間に一時的な通路を作るための端末。うまく使えば、シオンを永遠の人柱から外すことができる」


「じゃあ、いいことじゃない」


 マナが言う。


 ヌルは笑った。


「うまく使えば、ね」


「失敗したら?」


「帝都が落ちる。タルタロスが漏れる。闇の子が目覚める。アリスも壊れる。シグレも、ノインの残響に引きずられる」


 アリスは静かに聞いていた。


「私は、壊れる可能性が高いのですね」


「高い」


「セーフィエルは、それを知っていますか」


「知っている」


「それでも、使うのですね」


「母親は、時に世界より娘を選ぶ」


「マナ様は?」


 アリスがマナを見る。


「マナ様は、私を選びますか」


 マナは言葉に詰まった。


 問いがあまりにもまっすぐだった。


 彼女はアリスの肩を掴む。


「選ぶ」


 声が震えていた。


「私はあなたを選ぶ。でも、あなたを道具にはしない。あなたが壊れる道なんて選ばせない。絶対に」


「絶対、ですか」


「絶対」


「記録しました」


 アリスは頷いた。


「私も、マナ様が壊れる道は選びません」


「アリス」


「約束です」


 マナは泣きそうな顔で、アリスを抱きしめた。


 ヌルはそれを見て、退屈そうに、しかしどこか眩しそうに笑った。


「人の子と人形は、面白いね」


 シグレはヌルを見る。


「シオンは」


「何?」


「シオンは、まだ助けられる?」


 部屋の光が、わずかに揺れた。


 ヌル義体の顔から、軽さが消える。


「助ける、という言葉の意味による」


「苦しみから解放する」


「可能性はある」


「人柱から外す」


「危険を伴う」


「普通に生きる」


「それは、もう無理だ」


 シグレは目を伏せた。


 わかっていた。


 けれど、聞かずにはいられなかった。


 ヌルは静かに言う。


「シオンは長く楔でありすぎた。肉体はない。魂は削れた。時間も、人間の形も、戻らない。セーフィエルが求めているのは、昔の娘をそのまま取り戻すことではない。少なくとも、彼女の一部はそれをわかっている」


「じゃあ、セーフィエルは何を」


「永遠の苦痛から救い出したい」


 ヌルの声は、低かった。


「それだけなら、アタシも理解できる」


「なら、どうして」


「闇の子がいるから」


 その名が出た瞬間、眠りの座の奥で黒い影が揺れた。


 ヌル本体の指先が、ほんの少し動く。


 アリスが息を呑む。


「タルタロス方向から思念波」


 シグレの胸が痛む。


 闇の子の声が、また聞こえる気がした。


 ――聞こえた。


 ――やっと、聞こえた。


 ヌル義体の目が鋭くなる。


「シグレ」


「なに」


「キミは、闇の子の声を聞いた」


「うん」


「返事をしたね」


「少し」


「人の子は、本当に懲りない」


「よく言われる」


「それが、封印にとってどれほど危険かわかっている?」


「わからない」


「正直だね」


「わからないことだらけだから」


 シグレは、ヌル本体を見る。


 それから、ヌル義体を見る。


「でも、君たちが全部わかっててこうなってるなら、わからないボクが動いた方が、まだ変わるかもしれない」


 ズィーベンがわずかに眉を動かした。


 マナがシグレを見る。


 アリスも見る。


 ヌルは、しばらく黙っていた。


 やがて、笑った。


「アタシにそれを言うんだ。面白いね」


 その笑みは、今まででいちばん神らしかった。


 傲慢で、冷酷で、少しだけ楽しそうだった。


「いいよ、シグレ。キミがどう動くか、見ていてあげる」


「止めないの?」


「止める時は止める。殺す時は殺す。でも今は、キミの中のノインの残響と、キミ自身の選択を見ている方が価値がある」


「物騒だなぁ」


「神様だからね」


「神様って、もっと優しくない?」


「信仰会の絵の中ではね」


 その時だった。


 眠りの座の周囲にある結界観測装置が、一斉に赤く染まった。


 低い警報音が鳴る。


 最初は眠りの座の中だけ。


 次に、夢殿最深部。


 さらに中層、外層、行政区画、結界制御室、女帝信仰の礼拝堂、夢殿全体へと広がっていく。


『警告』

『裁きの門座標、現世投影準備』

『外部召喚術式、進行率九十六パーセント』

『セーフィエル系列血統反応』

『ノイン残響座標、照合中』

『アリス補助鍵反応、微弱共鳴』

『ヨムルンガルド結界外層、臨界接近』


 マナが叫ぶ。


「セーフィエル!」


 アリスの胸元の円環が激しく光る。


「裁きの門召喚準備、完了間近です」


 シグレのムラサメが勝手に光刃を伸ばした。


 青白い刃が、眠りの座の光に照らされる。


 ヌル義体は、赤い警報の中で笑った。


 退屈そうではなかった。


 怒ってもいなかった。


 ただ、長いあいだ予見していた最悪が、ついに形になった者の顔だった。


「セーフィエル」


 彼女は、遠い月を見るように言った。


「本当に、キミは昔からそうだ。大事なもののためなら、世界の秩序なんて平気で壊す」


 ズィーベンが膝をつく。


「陛下、ご命令を」


「アインを待機から上げて。フィーアには市民統制。アハトは死都観測を最大。魔導炉は封印圧優先。闘神義体は――まだ起こさない」


「承知しました」


 マナが叫ぶ。


「まだ、って何よ!」


 ヌルはマナを見た。


「次で必要になるかもしれない、という意味だよ」


 シグレは、眠りの座の前に立った。


 夢殿全体の警報が鳴り響いている。


 帝都エデンの地下で、巨大な蛇が身じろぎしている。


 死都東京の中心で、見えない門が呼吸を始めている。


 タルタロスの底で、闇の子が耳を澄ませている。


 セーフィエルは、娘を迎えに来る。


 ヌルは、帝都を守ろうとしている。


 シオンは、まだ鎖につながれている。


 そしてシグレは、誰の代わりでもないまま、そのすべての中心に立っていた。


「行くよ」


 シグレは言った。


 マナが頷く。


「当然」


 アリスも頷く。


「同行します」


 ヌルは笑った。


「いいね。人の子らしい無謀さだ」


「褒めてる?」


「少し」


「珍しい」


「今だけだよ」


 夢殿の警報が、さらに強くなる。


 赤い光が、白い聖域を染めていく。


 眠りの座の中で、ヌル本体の瞼が、ほんのわずかに震えた。


 それは目覚めではない。


 だが、眠れる神が、夢の底で世界の崩れる音を聞いた瞬間だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ