【特別外伝】過去の追憶(前編)
「こんのっっつクソババァ!!」
「だぁれがクソババァだって糞ガキいいいい!!」
ある昼下がり。五金財閥の広大な庭で、赤髪を一つに結んだ女性と黒髪の少年が取っ組み合いの喧嘩をしていた。
庭の花壇の間を通り抜ける風が一瞬止み、まるで二人の激しいやり取りを静観しているようだった。
周囲には使用人たちが遠巻きに見守っているが、見慣れた光景なのか、淡々と与えられている仕事を行っていた。
「アンタは本当に口が悪いったらありゃしないね! 一体誰に似たんだか!!」
女性は拳を握りしめ、顔を真っ赤にして叫ぶ。彼女の赤髪が風に揺れ、その怒りをさらに強調しているようだった。
「うるせぇババァ! 卑怯な手ぇ使いやがって!! 俺は五金当主になんざならねぇっつってんだろ!!」
黒髪の少年が、負けじと声を荒げて応戦する。陽光に照らされた彼の髪の一部がちらりと光り、その中に隠された金の糸が一瞬輝いた。
「あ゛あ゛ん!? ナマ言ってんじゃないよ!! これは財閥の総意! アンタに拒否権はないんだよ!!」
女性の声はさらに強まるが、少年は負けじと反抗の表情を浮かべる。
「うるせぇ! 俺は俺のやりたいようにやる! 誰の指図も受けねぇ!!」
少年は女性を拒絶するように押し、後ろへと数歩後ずさった。
「あっ、ちょっ! コラ! 何処に行くんだい!!」
女性が叫び、手を伸ばそうとするが少年は素早くその手を避けて身を翻す。彼の足元の芝生が僅かに土を巻き上げた。
「それこそ俺の勝手だろうが!!」
少年はそのまま振り返らずに走り去る。女性はその背中を見つめながら肩を震わせ、ここ一番の怒声を発した。
「こんんっっっの! コガネぇぇぇぇ! 戻ってきなぁあああ!」
彼女の怒りの叫びが庭に響き渡る。黒髪に金メッシュの少年──五金コガネは振り返らずに赤髪の女性──五金アカガネの怒鳴り声を背に受けながら、舌を出してからかうように笑い、庭の奥へと走り去った。
彼の足音が次第に遠ざかると庭に再び静けさが戻り、残された者たちはやれやれとため息をつきながら作業に専念した。
「あ゛ー。クソだりぃ……」
五金財閥の広い庭を歩くコガネは、頭を掻きながら不満げにぼやいた。
彼の歩調は重く、まるでその一歩一歩が彼の内にある不満を地面に刻みつけるかのようだった。
そんなコガネに背後から静かに近づく影。コガネはその影の存在に気づいていたのか、振り返ることなく声を投げかける。
「……何しに来たんだよ、田中」
「コガネ坊っちゃま」
背後からの穏やかな声。影の正体は燕尾服を着た男性──田中だった。田中は紳士的な態度を崩すことなく、コガネのやや後方を歩く。
「……ついて来んじゃねぇよ」
コガネは顔をしかめ、強い口調で言い放つ。彼にとって田中の存在は父親の影のように感じられ、逃れられない圧力の象徴だった。
「違います。坊っちゃまの歩いている方向に、私も用があるのでございます」
田中はコガネの態度をものともせず、穏やかに答える。
「……お前の用件はなんなんだよ」
コガネはため息をつきながら言ったが、その声色には苛立ちが滲んでいた。田中の返答がすぐに返ってくる。
「坊っちゃまの向かう場所に、私も用があるのですよ」
「やっぱついて来てるだけじゃねぇか!!」
コガネは声を荒げるが、田中はその声を軽く受け流しながら、ふむ、と唇をわずかに上げた。
「結果的にはそうなってしまいますな」
田中は微笑みを浮かべ、まるでコガネの苛立ちを楽しんでいるかのように見える。その態度にコガネは怒りを募らせた。
「坊っちゃま。なぜそんなにご当主になられるのがお嫌なのですか?」
田中の問いかけは優しく、まるで子供に対する親のようだった。
「なんでもクソもねぇよ。俺は、親父みてぇにはなりたくねぇ……そんだけだ」
コガネはその言葉を吐き捨てるように言った。彼の目には、父親への嫌悪がはっきりと見て取れる。
「あんなクソ親父……」
彼の拳が強く握りしめられ、何かを堪えるようにして目を閉じた。
田中は少し目を細め、「坊っちゃま……」とコガネの表情をじっと見つめる。
「ですが、ご当主になられなければ、愛しのリンネお嬢様とのご結婚が──」
「ごふっ!!」
田中の言葉に突然、コガネは驚きで咳き込んだ。顔が真っ赤になり、言葉を失って口を開閉する。
「な、ななななな! なんでリンがここで出てくんだよ!」
コガネは田中を睨みつけながらも動揺が隠せない。
「私はなんでもお見通しなのでございます」
田中は再び微笑みを浮かべ、その表情には余裕が感じられた。
「田中あああああああ!!」
コガネは怒鳴り声を上げて、田中に掴みかかる。しかし、田中はその場で涼しげな笑みを浮かべたまま、まるで風景の一部のように動じることなく立っていた。
コガネがさらに言い返そうとした瞬間、思いもよらぬ声が彼の背後から響いた。
「私がどうかしたの? コガネくん」
その声はコガネの思考を一瞬で停止させた。彼は背筋をピンと伸ばし、驚きのあまり飛び上がる。
振り向いた先には、青みがかった美しい銀髪の少女が立っていた。
「ぎゃああああああ!?」
コガネは驚きの余り、声を上げて後ずさりした。彼の心臓は鼓動を速め、頭の中で混乱が渦巻く。突然の彼女の登場に、コガネは予想外の状況に追い込まれた。
「り、リン! おまっ……いつから、つぅかなんでここに!?」
彼は声を震わせながら問いかける。コガネの目は彼女の姿をじっと見つめ、まるで信じられないものを見るようだった。
「いつからって、今だよ。おばさまに大事な話があるからって呼び出されたの」
リンネはコガネを真っ直ぐに見ながら、腰に手を当てて答える。青みがかった銀髪が風にそよいで、まるで幻想的な光景の一部のように見えた。そんな彼女の美しさに、コガネは思わず視線を逸らした。
彼の顔にはまだ赤みが残り、気まずそうな表情が浮かんでいる。
彼女の言う「大事な話」とは、自分との婚約の話だろう。
彼にとって、リンネと結婚すること自体は嫌ではない。むしろ、それは彼にとって望むべき未来であった。
しかし、父親の意向で無理やり進められる結婚話は、彼にとっては自分の意思を無視されたも同然。さらには、彼女の意思も考慮されていないように思え、それが彼の心を重くしていた。
けれど、財閥間における決定という事は、リンネは五金当主と結婚するのは確定事項だろう。つまり、コガネが当主になることを拒み本家筋に近い者が当主になってしまえば、リンネはコガネ以外の男と結婚する事になる。それだけは、彼にとっては許せない事だった。
「もしかして、またおばさまと喧嘩したの?」
「……俺は悪くねぇ」
彼の肩は少し落ち込み、目線は地面に向けられている。リンネの前では、普段の反抗的な態度もどこか影を潜めてしまう。
「……クソババアが、当主になれってうるせぇんだよ」
コガネは顔をしかめ、再び怒りを露わにする。
彼の心には、父親とアカガネへの反発心が燃え上がっている。だが、リンネの前であまり格好悪いところを見せたくないという気持ちもどこかにあった。
彼女に見られたくない弱さと、自分の意志を無視して財閥の利益を最優先に考える親への不満が混ざり合い、その複雑な感情が表情に現れる。
「もう、またそんな事言って……」
リンネはため息をつきながらも、コガネの顔をじっと見つめた。
「そんなにおじさまの事が嫌いなの?」
彼女の声は柔らかく、それでいて鋭い。リンネが自分の心の中を覗き込むような視線で見つめてくるたびに、彼は何もかもをさらけ出したくなる衝動に駆られた。
「嫌いに決まってんだろ……あんなクソ親父……でも、お前には関係ねぇ」
コガネは視線をそらしたまま答える。その言葉には隠しきれない嫌いという感情が溢れていたが、その裏にはリンネに対する配慮も垣間見えた。
父親の厳格さ、そして彼の期待に縛られてきた自分の人生。それを思い出すたびに、彼の胸には重い石が置かれたような感覚が広がった。
けれど、その重さの中でもリンネと一緒にいる時だけは、ほんの少しだけ息ができる気がした。
まるで、ここにいる限りは大丈夫だとでも言われているみたいに。彼の拳が無意識に強く握られる。
「関係なくないよ」
すると、リンネはコガネの強く握りしめられた拳をそっと両手で包み込んだ。
「み、未来の……旦那様のことだもん。……関係なくなんか、ない」
「!」
コガネは驚きながら顔を上げる。
知っていたのかと問いかけたいが、顔を真っ赤にしながらそっぽを向くリンネの表情に言葉が出ない。
「…………」
「…………」
心臓が飛び出しそうなほど高鳴る。色々と聞きたいのに、頭が真っ白になって何も言えない。
コガネが狼狽えながら、「う、あ……」と意味のない音を吐き出していると、リンネの方から「私は……」と口を開いた。
「コガネくんが……旦那様だったら嬉しいよ……コガネくんは、いや?」
「そんなわけねぇっ!!」
反射的にでる否定の言葉。でも、それ以上言葉が続かず、コガネは先ほどよりも小さな声で「そんなわけがねぇ……」と呟く。
そのまま、逃げるように視線を逸らしかけたが、今度は逃げなかった。ぎこちなく、けれど確かめるようにリンネの手を握り返す。
「お、俺も……結婚するならリンがいい。リン以外は、いやだ」
絶対に離さないと言わんばかりに。リンネと共に歩む未来を思い描きながら、その決意を口にする。
「お前を守るのは、俺がいい。リンの隣にいるのも……俺がいい。絶対に、絶対に幸せにする! っ、だから……一生、俺の側にいてくれ」
「コガネくん……」
「ほっほっほっ。丸く治ったようで何よりですな」
「!?!?!?!?」
微笑ましいコガネとリンネの姿に田中が口を挟むと、二人は田中の存在を忘れていたのか思い切り肩を揺らした。
「なっ!? ばっ! っ、田中!! てめぇ!!」
「二人の世界になるのは構いませんが、リンネ様はアカガネ様にご用件があったのでは?」
田中の言葉に、リンネはハッと口を押さえる。
「そ、そうだった。コガネくん! また後で!」
「え、あ。おう」
リンネが慌てながらその場を離れると、コガネは名残惜しそうにその背中を見つめた。その後ろ姿にはどこか哀愁が漂っている。
「……孫の顔が楽しみですな」
「田中ぁ!!」
そんなコガネにかけられる田中の軽口。その揶揄いの言葉に怒りを表しながらも、これから先にあるリンネとの未来に、何の疑いもなく頬を緩ませた。




