7・傀儡の王
「王妃陛下、今日もまた、『亡霊』による被害があったようです。税を取り立てに行った兵士が同僚にそう申しておりました」
「そう。その兵士はどうしたの?」
「無論その場で斬り捨てました。亡霊の名を口にするのは重罪ですから」
王妃の私室で密やかに語るのは、王妃の懐刀と言われるエルンスト将軍。エリアナと同じ頃にこの国の王宮に姿を見せ始め、何の位も持たなかった者が実力で、騎士を束ねる将軍の座に上り詰めた。齢四十過ぎ、働き盛りの力の全てを彼は何故か、王妃個人への忠誠にあてている。
「アデリアめ。あの死に損ない、いつまでも目障りな」
王妃は忌々しそうに言う。王妃とエルンストの間では、アデリアの真実はあけすけに語られる。無論エルンストは、王妃が幼いアデリア姫にした事を全て知っており、その上でこの魔女の言うがままに、冷酷無慈悲な事もやってのけるのだ。普段は穏やかで部下への当たりも良く、王妃の命令に背かない範囲内では、騎士の鑑と呼ばれるような人物だが、王妃の命とあらば赤子を殺すことも厭わない、とも囁かれている。それでも、このような立派な人物が剣を捧げているのだから、王妃も本当は国の為を思って数々の一見酷い命令を出すのだろう、という声も根強い、王妃にとってはなくてはならぬ部下でもあった。
「某がまみえたならば、あの小娘、一刀両断にしてみせますものを、なかなかに神出鬼没で」
「あれは実体のようでいて本体は別にあるのだから、あれを斬ったところで暫くすればまた甦る。離宮の中にいる真の肉体を滅せねばならぬのだ。だが悔しいことに、あの結界は、わらわの魔術でもどうしようもない。あの、六人の姫が手を組みおったからな」
王妃の物騒な言葉にもエルンストは眉ひとつ動かさず、
「あの女たちの子どもだけでなく、あの女たちも殺していれば、王妃陛下の仕事もとっくに終わっていたものを」
と、更に残酷なことを言う。
「それはならぬ、と解っておろうに。あの女達は、それぞれの世界の要なのだから」
「それは解っていますが……このままでは埒があきません。王妃陛下もこの城に十二年も留まられて、さぞ御退屈でいらっしゃりましょう」
「まぁ、エイディリアがおるからな……」
一人娘の名を口にする時、王妃の声音はやや優しいものになる。エルンストは長年この魔女に仕えているが、こんな雰囲気のあるじを見るのは初めての事で、その都度僅かに不安が胸をよぎる。
「エイディリア様の存在が『上』に知れればどうなるか。せめてエイディリア様には、ご結婚なさってもお子が授からぬように、薬湯をお飲ませしなければ……」
「解っておるわっ!!」
エリアナはかっとなって手にしていたグラスを将軍の頭に向かって投げつける。ぱぁんと音がしてグラスが割れ、将軍の頭から、血と赤ワインが混じり合って滴る。だが将軍は微動もせずに直立していた。この話をすればエリアナが激昂するのは判っていた。しかし、時折口にしておかねば、彼女はいつか己の役割を忘れ、ただの母親に成り果ててしまうのではないか……まさか万が一にもそんな事はないと信じているが、もしそうなったらと思うと怖ろしい。もしも、そうなったら……。
この時、恐る恐るといった風の侍従の声が扉の外から聞こえた。
「し、失礼いたします」
「何じゃ! 大事な話し中ゆえ、誰も近寄るなと言うたであろう!」
分厚い扉の内側で小声で話した内容がまさか外の者に聞こえる筈はないが、エリアナは激怒して柳眉をつり上げた。侍従の声は震え声に変わり、
「も、申し訳ございません! 国王陛下が王妃陛下にご面会を希望されておられまして……」
「なに……?」
こんな時間に国王の訪いがあるのは珍しい事だった。そもそも、エリアナは今や完全に王の心を操っている。こちらが望まないのに王が会いに来るという事はない筈だった。だが、来てしまったものを断る事は流石に出来ない。面会、という事ならば本来は王が王妃を呼びつけてもいいのだから。
「そなたは下がりや、エルンスト」
「は……」
割れたグラスを拾おうと屈みかけたが、
「よい、後で片付けさせる。そなたの顔は今は見ていとうない! さっさと出てお行き!」
とぴしゃりと言いつけられてしまった。
エルンストと入れ替わりに室に入ろうとした王は、頭から赤い液体を滴らせている将軍を少し不思議そうに見たが、すぐに興味を失った様子で声もかけない。将軍は一礼して出て行った。
「まぁ、どうなさいましたの? 御用がおありなら、すぐに伺いましたのに」
エリアナは夫に優しく声をかけ、その手をとった。魔法で虜にしてあるとは言え、彼女の権力は王があってこそのものであるので、エリアナは王に対していつも礼儀正しく心優しい女のように振る舞った。王はぼんやりとした目で妻を見つめた。
エイリス王はまだ四十代だったが、長年魔法をかけられていたせいか、痩せて窶れた姿で、老人のように見えた。王妃の方は魔法で若さを保っているので、並ぶと、夫婦と言うより親子のようだった。
「エリアナ……?」
消え入りそうな声で王は妃を呼ぶ。エリアナは自身の魔法に絶対の自信を持っていたが、王が自発的に訪れてきた事には微かな不安を覚えた。
「なんですの?」
「余の娘……余の娘は、結婚するのか?」
盛大な誕生祝いのパーティの席で、正式に婚約を発表したのはほんの数日前だというのに、王はそれを忘れてしまったのだろうか? 長年の術の副作用がここまでに及んでいるとはエリアナは気付いていなかった。結婚式を表向きは取り仕切って貰わねばならないというのにこれでは困る。少し術を緩めねばならないだろうか。
「そうですわ。盛大な式を……誕生祝いの数倍も贅を尽くした式を挙げてやらねば」
その為には、もっともっと国民から税を搾り取らねばならない。
「余の娘……アデリアが?」
ぼんやりと王は呟いた。王妃は驚きのあまり一瞬声を失ったが、すぐに暗示の力を強めながら、
「何を仰っているのです。陛下の娘はエイディリア、たった一人のご自分の娘の名をお間違えになるとは、ご冗談がお上手ですこと!」
「……エイディリア? いや、アデリアという娘がいた筈だ。結婚するなら、姉の方が先であろう」
「アデリアは十二年も前に死にましたのよ。この国の王女はエイディリアだけです」
自分の魔法の力が弱まっている? エリアナはようやくそう認めざるを得なかった。十二年も同じところに留まったのは初めてだから……時間がかかり過ぎているから?
だがそこに、救いの手が差し伸べられた。
「お母さま? あら、お父さまもいらっしゃったの、お珍しいわ」
両親が揃っていると聞いて、取り次ぎも待たずに室に入ってきたのはエイディリアだった。娘の姿を目にした途端、王の目から、微かに浮かんでいた光が消えた。代わりに、たどたどしいが自発的に発せられた言葉ではなく、腹話術師の操り人形のように棒読み口調で、
「おおエイディリア、愛しの娘よ、どうかしたのかね?」
と笑みを浮かべて話しかけた。エイディリアにとっては、これが常の父の姿、何の違和感も覚えず、
「お父さまもお許し下さいますわね、エイディリアのお願いを?」
と媚びを含んだ笑顔を向ける。
「勿論だとも、新しいドレスかね、宝石かね?」
「違います。もう誕生日にたくさん頂きましたもの」
「お願いとはなんなの、エイディリア?」
欲しいものは呟くだけで手に入るこの娘が、わざわざ部屋までおねだりに来る事は大変珍しかった。
「お母さま。わたくし、ルーファス王子様にこの国を案内して差し上げたいのよ。ちゃんと護衛をつけていくから、いいでしょう?」
エイディリアの瞳は挑戦的に煌めいていた。十二年ぶりに城から出たいという願い、そう簡単に母が聞き入れてくれる筈がないと思っていた。果たしてエリアナの血相が変わり、
「いけません、ずっとお城で暮らしていたあなたにどんな案内が出来るというの。王子様が案内役が欲しいと仰るなら、エルンスト将軍に案内させます」
「地図で勉強したし、色んな人の話を聞いているから、案内くらい出来るわ。将軍がついてくるというならついてくればいいわ。でもわたくしは自分でこの国を案内したいの。だって、この国はわたくしがお父さまから受け継ぐ国。自分の国の案内くらい出来なくて、どうして次期女王が務まりましょう?」
「なんと言っても、危険です。何度も言っているでしょう、あなたを狙って……」
「何が危険なのかね?」
そこで王が口を挟んだ。エリアナは言葉に詰まる。アデリアの亡霊の事は一切夫には知らせていない。
「それはその……夜盗などの類いが、もしも……」
「夜盗などに怯えて国賓をもてなさぬとは何事か。まして王子はエイディリアの婿君になるお方であろう。エイディリアが、先頭に立って継ぐ国を案内したいという申し出は立派な心持ちであるし、認めぬ理由はどこにもない。逆に、それを怠れば、アーデルランドの次期女王は何と臆病者か、と諸国からの誹りを免れぬであろう?」
王の言い分は全く正論であるが、先程までの朦朧とした様子とも、魔術で傀儡にした様子とも異なり、まるで本来の姿を取り戻したような口調だった。己の支配から脱し、意向に逆らうような事はこの十二年なかった事であり、エリアナは益々不審と不安を募らせたが、愛娘の手前、それをあからさまにする訳にはいかなかった。
また、エイディリアは、姉の亡霊の件は当然父王も知っているであろうに、母は何故夜盗などと言うのか、と訝しんだが、父が味方してくれている流れに水を差したくないと思い、指摘しなかった。彼女は無論、先日のルーファス王子の言った事が全く信じられなかったので、自分自身でアーデルランドの豊かな部分を見せつけて、王子に非礼を詫びさせようという魂胆だった。それに、いよいよ成人と認められる十五になったので、もうこれ以上母から城に縛り付けられているのは真っ平、という思いもある。
「わ……わかりましたわ。いいでしょう、もしも不逞な輩が出れば、エルンスト将軍に成敗させればよい事」
エリアナは遂に認めざるを得なくなった。もしもアデリアがエイディリアを狙って来た場合、実体を殺す事は出来ずとも、ほぼ実体に近い姿で歩き回っている今、その場での足止めは出来る筈。あわよくば図に乗っている彼女の勢いを削いで、離宮の護りも弱まれば、一気に仕留められるかも知れない。そんな計算も働かせた。
「嬉しい! ありがとう、お母さま、お父さま!」
こんなにあっさり話が進むとは思っていなかったエイディリアは、成人の女性らしさも忘れて、父親の胸に飛びついた。痩せ細った王はその勢いに思わずよろめくが、嬉しそうに娘の頭を撫でた。
(一体何が起こっているというの……私の魔法が……)
夫と娘の姿をにこやかな表情を浮かべて眺めつつも、心中は焦りで満たされていた。
(私がいつまでも任務を全う出来ないから、力が弱まってきたのだろうか? そんな……。エイディリアが無事にルーファスと結婚したら、私はこの身体と引き替えにアデリアを抹殺する覚悟もあったのに。おのれアデリア、全てはあの娘のせい)
自分勝手な憤りに燃える王妃の姿を、窓の外、結界の外れから見つめるぼんやりとした人影があった。離宮を護る六つの人影のうちのひとつ。
『エイリス王、ほんの僅かにあなたに力を送ります。どうか、アデリアを、白雪姫の娘を思い出して。この世界を、王妃が施そうとしている封印から解き放つきっかけとなって下さい……』
人影はそう祈っていた。