−完結記念− 楊炎のなやみごと
楊炎が稜花の元へ婿入りしてからしばらく。
彼は人には言えない大きな悩みを抱えていた。
普段から無口な彼のことを心配した李公季は、夕餉の席に彼を招いたのだった。
※本編の完結記念となります。
「銅鑼の音、十二ツ」の少し後のお話です。
こつりと、陶器の器が置かれる音がした。
はっとして、楊炎は顔を上げる。
二人で食事をしているのに、会話が途切れていることに気がつく。わざわざ李公季自らが招いてくれたというのに、先ほどから楊炎は無言で酒を嗜むだけだった。
それも仕方が無いと言えば仕方が無い。楊炎は今、胸の中に一人では解決できない問題を抱えている。しかしそれをどうして良いのかも分からず、もやもやとしたまま日々を過ごしていた。
結果、見るに見かねたらしい李公季に、こうして招かれるわけになったのだが。
季節は春。稜花を娶ってから――いや、彼女の元へ婿入りしてからまだ日は浅い。しかし、こうも早くにこのような問題に直面する日が来るとは思っていなかった。
さて、どこから切り出したものかと言葉に迷う。が、ぐずぐずと悩みを抱え込んでいることなど、目の前の元主にはお見通しだったらしい。
「で、どうしたのだ?」
そう問いかけられるものの、なかなか本題を言葉に出来ずに、ため息だけが漏れる。それを見て、成る程、と李公季は半ばからかうように口の端を上げた。
「何だ。夜の方か」
「いえ、それは別に」
問題ない、と即答したところで、李公季が何とも言えない顔になる。
「自分でふっておいてなんだが、妹のこう言った話は聞きたくないものだな」
「本当に。聞かれる身にもなって頂きたい」
「煩い。なんだ心配してやったのに」
「面白がっているだけではないですか」
くつくつ、と笑いながら楊炎は手酌する。そしてふと視線を上げると、李公季が何やら珍しいものでも見るような顔をしていた。
何だろうか、と冷静に自分の振る舞いを振り返っていると、李公季は実に満足そうに笑みを浮かべる。
「お前は変わったな――まさか、友ではなく家族になるとは思わなかったが――稜花に預けて、良かったのだろう」
「私を拾い育てて下さったこと、感謝しております」
酒に口をつけながら、微笑を浮かべる。
本当にこのような日が来るとは、想像だに出来ないでいた。
自分に新しい生き方を与えてくれたかつての主。その大恩故、彼と並ぶ未来など思い描くことすら失礼に感じていたのに。
未だに李公季に対する尊敬の念は変わらないし、どう接して良いものか悩むこともある。が、彼が気にすることなく楊炎に親愛の情を向けてくれるため、自ずと対応も柔らかなものへとなっていった。
ともに卓を取り囲み、談笑する。穏やかな未来を与えてくれたのは、彼が楊炎を救ってくれたからだ。
「ただの偶然だ。表では言えない仕事までさせた。恨んでも良いのだぞ」
「まさか。だからこそ、あの方を護る力を身につけられたと。今ではそう思っています」
「そうだな。まさかそのまま稜花の婿になるとは思わなかったが」
あの稜花がなあ……と、彼はしみじみと溢した。
当時の己の立場を考えると、明らかに出過ぎたことをしてしまった。しかし、李家の皆は誰も咎めることもなく、楊炎を受け入れてくれている。
それもこれも、稜花が自分を導いてくれたおかげだ。
あの小さな肩にどれだけ支えられたか。当時は護っているつもりしかなかったのに、後になって気がついた。
「しかし――だとしたら、一体何だ? 西方への派兵のことか? まだ昭国のことで懸念でもあるのか?」
いや、彼の国の話ならば其方は真っ先に報告するか、と、李公季はぶつぶつ呟いている。なにやらことが大きくなってしまっていて、楊炎はいや、と首を横に振った。
「そうではなくて、ですね――」
「だとしたら何だ。いい加減、まだるっこしいぞ」
「……」
楊炎は口を閉ざした。李公季の機嫌が下降気味なのがよくわかる。
只でさえ、酒が入ると管を巻き始める類の相手だ。いつまでも話題を引っ張ってはいけないことくらいわかっている。
覚悟を決めなくてはならない。
楊炎は手酌で酒を煽った後、決意したように口を開いた。
「もう直ぐ、昭国からの使者が参られるでしょう?」
「ああ、そうだな。かの国とはまだまだ調整が続くだろうな」
「彼らを送り返した後、稜花と私は西方に派遣されます」
「昭国との国境で睨みをきかせるなら、其方らが適任だろうな」
「だから、昭国の使者が来る前に、一日休暇を頂いたのです」
「ああ、うん」
それがどうしたと言わんばかりに、李公季は眉を寄せる。楊炎の話の趣旨が全くわからないらしい。
どうして悟ってくれないのだ、と、楊炎は心の中で李公季を責め立てた。いや、仕方ないことは重々承知だ。言葉足らずな己にも、責任の一端はあると認めてもいい。
だが、おかげで、あの単語を声に出さねばならない事が確定してしまった。
ここで、もういいと、話を切り上げようものなら、自分が李公季に斬られかねないことなど楊炎にもわかっている。話を中断することは、出来そうにない。
「どうした。勿体ぶらずに早く言え」
「その……休暇に。稜花に強請られて、その……あ」
「あ?」
「あ……いびきを……する事になりまして」
「は?」
言った。
ついに言った。
喉に引っ掛けたまま口にしたくなかった単語を、ようやく言葉にできた。
喉元過ぎれば何とやら。大したことは無かったとも考えられるが、どうにも自分に合わない言葉には抵抗がある。世の人々のように、そのような浮かれた事柄とは無縁だったが故、口にするのが憚られただけだ。
「楊炎、お前、なんと言った?」
「何、とは」
「ちゃんと言え。聞こえるように」
「そんな……」
絶望的な気分になって、楊炎は口を開けたまま固まった。
先ほどようやく乗り越えた山を、また登らないといけないと言うのか。
責めるように李公季を見ると、彼は実に楽しげに、にやにやとした表情を隠そうともしない。だからこそ楊炎は確信した。この男、絶対聞こえていたはず。
だが、要求されてしまっては仕方がない。未だに李公季に頭が上がらないのは変わらないし、ここを乗り越えなければ話も進まない。
視線を逸らしながら、楊炎は再び、半ば自棄になってもう一度例の単語を述べる。
「逢引することになったのです――その、稜花と」
「……其方は。そのような事で恥ずかしがっていたのか」
「恥ずかしがってなど……!」
「公衆の面前で肩を寄せたり抱いたりと好き放題らしいではないか、其方は。なのに今更、逢引で」
「!? 何ですか、それは!」
「? 自覚がないのか、其方は……?」
お互いに信じられないと言った顔で、目を剥きあう。公衆の面前で抱いたり、肩を寄せたりだと、と、楊炎は言葉を飲み込んだ。
思い当たるのは、散雪川の戦場をはじめとした、軍に身を置いている時だ。
しかし、それは戦に身を置くものとしては当然の事。
愛する者が出陣する。何が起こるかわからない戦場で、彼女の命が奪われかねないと考えると、心配するのは当たり前ではないか。戦場に出る前に彼女に触れる事で、彼女を護る決意にも繋がる。
戦場に立つ妻を持つ者が他にいないから皆分からないだけだ。
同じ状況、同じく戦場に立つ妻を持てば、誰もが楊炎と同じことをするはず。とやかく言われる筋合いはない。
「――戦場は数に入らないでしょう」
「何をもってその結論に至れるのだ、其方は」
李公季が何と言おうと、それは問題ないと楊炎は思う。皆、経験した事がないからわからないだけ。そう結論づけたのち、話の本筋を元に戻した。
「戦場とこうした――穏やかに過ごす日々とは違うでしょう。今さら逢引など――何をして良いやらわからず」
「……言いたいことは山積しているが、まあいい。稜花は? 何と言っているのだ」
「いえ、ただ、その……日がなのんびりと街を歩きたいと」
「それくらい付き合ってやったら良いではないか」
「ですがその――稜花は、私と――」
「何だ?」
「その……」
そこまで告げたところで、限界に達した。いくら楊炎とはいえ、手を繋いで歩きたいと言われたなど、とてもではないが言葉にすることなど出来ない。
妙に頬が熱い気がするのは、きっと酒が回ってきたからだ。そうに違いない。
李公季は何やら色々悟ったようで、心からのため息をついていた。何だ、つまらん、と言葉にされてしまい実に不本意ではあるが、仕方がないではないかと思う。
楊炎の世界は、これまで、実に色どりのないものだった。白と黒の世界で、ただ、影でいることに甘んじていた。だこらこそ、今さら、当たり前の幸せを手に入れたところでどうしていいのか分からない。
稜花と一緒になった事はこの上ない幸運で、全て彼女のおかげだと思っている。たった一日の休暇を、彼女に満足して貰いたくなるのは当然のことだ。
しかし、当たり前の幸せを知らなかった楊炎には、その方法が分からない。だからこそ、恥を忍んで聞いていると言うのに。
「どうせ大した悩みでもないのだろう。稜花が望むなら、叶えてやれば良いではないか。ああ……武術にしか興味がないと思っていたが、あれもれっきとしたおなごだったか」
「しかし、ですね――」
「まったく、何を悩んでいるのかと思っていたのに。……まあ良い。で? 私はまだ聞いていないのだが。詳しく教えてもらおうか?」
「は?」
李公季がいそいそと身を乗り出してきたものだから、戸惑う。突然何かを要求されたのだが、何なのかまったくわからず、楊炎はただ、眉をひそめた。
「其方は祝いの席でもずっとはぐらかしてばかりだったではないか。稜花とはいつからだ? 別に今更咎めたりせぬから、正直に答えよ」
「……李公季様」
「義兄上だろう?」
「公季、義兄上……」
こういった物言いは、本当に稜花そっくりだ。
調子に乗って関係性を強調してくることも、箍が外れると何でも聞き出そうと興味を示してくるところも。
けして取っつきやすい人間ではないと楊炎も自覚しているのに――まったくもって、不思議な兄妹である。
そう言えば、李公季との出会いについても、結局彼女に根掘り葉掘り聞かれたなと思い出す。
よって李公季もまた、何度はぐらかそうと、正直に話すまで何度も訊ねてくるであろう未来が見えてしまう。
「其方たちは当時の立場もあったから、公では話せぬだろう? その点、今は私ひとりだ。其方のことは誰よりも理解しているつもりだ。さあ、話せ、義弟よ!」
都合の良いことを言っているが、だんだんと彼の目が座っていくのがわかる。別に立場を理由に話さなかった訳ではないのだが、今宵は彼が満足せねば解放されそうにない。
楊炎もいい加減、腹を括った。
己を拾い、ともに置いてくれた、主であり、兄であり、親のような人だ。彼だけには、話しても良いのかもしれない。
とっぷりと夜が暮れていくのを感じつつ、楊炎は口を閉じた。さて、どこから話したものか、とひとしきり考える。
その表情の変化で、李公季も楊炎が話す気になったことを悟ったらしい。ふふん、と何やら自慢げに目を細めているところなど、気を許した相手にしか見せない表情だ。
悪くない、と楊炎は思う。
こうして、尊敬し、仕え続けてきたかつての主との関係性も、大きく変化した。けれども、それは歓迎すべきこと。
ふふ、と頬を緩めて、楊炎は語り始めた。
***
胃のあたりを押さえながら、楊炎は暗がりの中を歩いた。僅かな月の光が差し込むだけの回廊。李公季に付き合って根掘り葉掘り過去の記憶をほじくり返されているうちに、誰もが寝静まる時間になってしまった。
遅くなる可能性は、予め稜花に伝えてある。楊炎の部屋は別にもあるし、夜半、わざわざ彼女の部屋に向かうこともないのだが――気がつけば、彼女の元へと足が向かっている。
それは、先程まで稜花についての話をしていたから、致し方ないことだと思う。一目でも、妻の顔を見てから眠りにつきたい。
酒が回って火照った頬に、夜風が優しい。ふう、と、大きく呼吸した後、彼女の部屋の扉を開けた。
気配に敏い彼女のこと。起こさないように、最新の注意を払って忍び込む。こう言った時、闇稼業をしていた頃の経験が役立つ筈なのだが――彼女には無意味な事だったらしい。
「炎……?」
半分くらいは夢の中なのだろうか。とろりと眠りに溶けそうな声を出しながら、彼女は目を覚ましたようだった。
寝台の方から衣が擦れる音もして、ああ、起こしてしまったかと苦笑する。彼女のこの感覚は、もはや天性のものだ。
まっすぐに寝台の方へ向かい、その縁に腰掛ける。彼女がころりと寝返りをうつと、とろんとした赤の瞳と目が合う。瞬間、蕩けるような笑みを浮かべるものだから、どう反応してよいやら戸惑った。
うん……と、声にならない声をあげながら、彼女は手を伸ばす。細くて白い腕が、まるで楊炎を探すかのように動くものだから、堪らない。
勝気で奔放な戦姫。気丈な彼女が、自分を求めてくれる事実が胸を熱くする。彷徨う彼女の手を掴み、彼女の顔へと己のそれを寄せた。頬に口づけをひとつ落とすと、くすくす、と笑い声が聞こえてくる。どうやら本格的に目が覚めてきたらしい。
「相当呑んだでしょう?」
「さすがにわかるか」
「ええ、お酒の香り。兄上ったら、呑み始めると、長いから」
そうして彼女は、楊炎の手を引いた。寝台に引き込むように引っ張られるものだから、楊炎だって抗わない。酒気をたっぷり帯びている筈なのに、彼女は気にする事なく楊炎を抱きしめた。
「兄上といっぱい話せた?」
小首を傾げて、彼女は尋ねてくる。その瞳は慈しみで満ちており、彼女もまた、楊炎が何らかの悩みを抱えていたことに気がついていたのか、と理解した。
ちなみに、あれだけ話しておいて、本来の悩みごとの類は全くもって触れてはもらえなかった。つまらんと一蹴されて終わり。
この兄妹には振り回されっぱなしだと苦笑する。が、彼女はその笑みを、楊炎の悩みが解決したと理解したらしい。
「ふふ、良かったね。炎」
目を細める彼女は実に得意げだ。完全に勘違いをされているが、まあいいかと楊炎は思う。
ぎゅうと抱きしめられ、どうでも良くなってしまった。
こうしてこれから先、彼女に振り回される日々が続くのだろう。
それでいい、と、楊炎は思う。どうか、この命尽きるまで、彼女の隣に並んでいられたらと祈り、目を閉じる。
今宵も安らかな眠りにつけそうだ。彼女の側でなら、きっと。