【近づく戦乱】
<登場人物等>
〇ニグライン・レイテッド……太陽系近衛艦隊および太陽系近郊宙域統括軍総司令官
〇ファル・ラリマール・凰……太陽系近衛艦隊総隊長
[近衛艦隊8大将官]
〇ユーレック・カルセドニー中将……特殊能力部隊隊長
〇クルス・ベリル中将……諜報治安部隊隊長
〇デン・ドリテック少将……陸上戦闘部隊隊長
〇リーシア・テラローザ少将……後方支援部隊隊長
〇ラン・マーシュローズ准将……第一宙空艇部隊『バリュウス』隊長
〇アウィン・バーント准将……第二宙空艇部隊『クサントゥス』隊長
〇螢・クラーレット准将……IT支援部隊隊長
〇オーランド・スマルト准将……メカニカル・サポート部隊隊長
〇クラック(オウムフィッシュ)……近衛艦隊司令官室長
〇ジュレイス・リトゥプス……太陽系近郊宙域統括軍長官
〇ランディ・リューデス少佐……陸上戦闘部隊・第一中隊隊長
〇ロカ・リトゥプス中尉……凰の新しい副官。ジュレイス・リトゥプスの孫
〇セネシオ大将……太陽系近郊宙域統括軍副長官
〇虹・グリーゼ……凰の元副官
〇アサギ……元第一宙空艇部隊のパイロット
〇ネリネ・エルーシャ・クラスト……元カフェ・セラフィーナのウェイトレス。Dr.クラストの末裔
〇ツカイ……薬や洗脳によって思考を支配された者
〇モグリ……本人が知らぬ内にツカイにされた者
〇オーナー……ツカイを使役する者
〇アキレウス……宙空艇部隊の戦闘艇
〇キーロン……陸上戦闘部隊の重装甲機
〇ファルコンズ・アイ……凰専用の戦闘艇
※DL:ディビジョン・リーダー
◇
翌朝。リーシアは、近衛艦隊・地球本部前に着くと、何となく空を見上げた。今朝は、薄曇りの隙間からETSの光が差し込んでいて、風もリーシアの長い髪をさらりと撫でるように心地よく吹いている。気候も調整され、災害も起きなくなった現在の地球は、とても過ごしやすい。それなのに、何故か気持ちに靄がかかるような、そんな朝だった。
「テラローザ少将、司令がお呼びだ」
艦橋に着いて早々、凰がリーシアに声をかける。階級付きで呼ばれた事で、重要な話であるのは明白だ。リーシアは昨日の統括軍の件だろうかと思いもしたが、それだけではないと感じた。
「はい。司令官室に行けばよろしいでしょうか?」
「ああ、俺も一緒に行く。リトゥプス中尉、マーシュローズ准将と一緒に艦橋を頼む」
凰は副官のロカに艦橋での任務の調整を頼み、ランには総隊長代理を任せる。
「りょ、了解しました!」
凰から階級付きで呼ばれ慣れていないロカは、一瞬身震いをする。それでもすぐに姿勢を正し、気を引き締めた。
「お任せください」
ランは有事の際の恒例として慣れているため、いつも通り代理を務める準備をする。準備と言っても、ランも自分の副官に今日の予定の調整を任せるだけであるが。
凰とリーシアを見送ったロカは、専用キーロンJr.の横に立ち、口を真一文字に結んで任務遂行を行う。艦隊全体の業務が滞りなく進んでいるかをチェックしつつ、総隊長席に座るランに時々視線を向ける。レストランで助けて貰った後も、何かと気にかけてくれるランに、ロカは気を許し始めていた。実力もあり、人柄もよく、面倒見もいい。女性にしては短すぎる髪も、彼女にはよく似合っている。誰に好かれても当然と言えるランと自分は、まるで対照的だと思いながら。そして幾度めかに視線を向けたとき、ロカの様子を気にかけたランと目が合ってしまった。ロカは慌てて空間投影タブレットに目を落とす。しかし、その甲斐もなく、ランは立ち上がってロカの元へ歩いて来た。
「今からそんなに気を張ってると、戦争が始まったらもたないぞ」
戦争が始まる──突如言われた言葉に、ロカは近衛艦隊は常に最前線にあるのだと思い出す。統括軍にいた頃は戦闘に関わる部署ではなかったため、もし戦争が始まれば、ロカにとって初めての出撃だ。虹・グリーゼのように、初陣でモグリとして覚醒するような事は自分にはないと、ロカは信じている。ロカには家族以外、自分をモグリに出来るほど親しい人物はいないからだ。家族にクラスト信仰者はいない。仮にいたとして、クラスト信仰者である事を隠す必要があるとすれば、それは──。
「ロカ?」
再びランに声をかけられ、ロカは無意味であろう心配を振り切る。
「失礼しました、大丈夫です。キーロンJr.の訓練も続けていますし、実戦に不安はありません」
ロカにしては雄弁に語る背景を読み取り、ランはロカの頭を撫でるように数回叩いた。
「心配するな、長官はバングルを着けていらっしゃる。私たちも、出撃時は着用だ」
ロカの胸中を的確に捉えたランは、前の戦争のようにはならないと力強く言う。虹やアサギの事がよぎり、微かに目元を険しくはしたが。ロカがモグリにされるとすれば、オーナーとなるのはジュレイス・リトゥプス以外にない。だが、自由を奪う選択肢の中、ニグラインが妥協して開発したバングルが、モグリやツカイに暴走をさせない歯止めとなっている。モグリに関しては、覚醒しても犯罪行為を犯さなければ、処罰される事もない。
「ありがとうございます……」
全て見通されていたロカは、俯いて礼を言った。祖父がモグリだったら──ましてや隠れクラスト信仰者であったとしたらと、考えずにはいられなかった。誰よりも尊敬し、誰よりも信頼しているはずなのに。
「大切な相手だから、心配するのだろう? 何も悪いことじゃないさ」
ランの優しい笑顔に、ロカの胸と目頭は熱くなった。それを堪え、ロカは上を向く。
「はい!」
「よし!」
迷いを抱きながらも任務遂行に意を決したロカの肩を抱いて、ランは朗らかに笑った。
「あら、あら~? ロカちゃん、ランちゃんに惚れちゃダメよ~?」
そこへ、螢がいたずらな笑顔で近づいて来て、ロカに囁く。まるでユーレックから移った様なその笑顔に、ロカは頬を僅かに紅潮させて首を横に振った。
「螢、ロカをからかうな。……まったく、ユーレックが二人いるみたいだ」
「えっ? 嘘! やだ!!」
ランに指摘され、螢は慌てて自分の顔を隠す。恋人に対して『やだ』と言うのもどうかと思うが、そう言わせてしまうのがユーレック・カルセドニーという男なのだから仕方がない。
「……ロカちゃんとキーロンJr.の演習をしようと思ったんだけど、総隊長いないのか」
表情筋を手で整えた螢は、残念だと肩をすくめて用件を伝えた。
「ああ、総隊長はリーシアと一緒に司令のところへ行ったからな。暫く戻って来ないだろう」
「リーシアちゃんと?」
ランの言葉に、螢は折角整えた顔をしかめる。その表情はもうふざけてなどおらず、8大将官の風格が表れていた。凰とリーシアが一緒にニグラインに呼ばれるなど、通常の任務ではあり得ない。わかってはいたが、1年も経っていないのに、また大きな戦争が始まるのだと、実感する。
前回、螢は最終的にユーレックやリーシアに助けられた。あの状況で戦い抜いた螢を弱いとは誰も言わないが、ニグラインに専用キーロンJr.を与えられ、自分が如何に重要な役割を背負っているのかも再認識したのだ。今回の作戦でも、螢は地球に残るだろう。白号と伴に出撃するマイスター・コンピュータの代わりを、螢のキーロンに内蔵されたコンピュータが担うのだ。エネルギーはETSから直接供給されるため、本部のエネルギー電導を止めても動く事が出来る。そして、戦える武器を持つからには、最後まで戦わなくてはならない。自分自身で。
「ここは私が見ているから、二人で訓練に行って来てもいいぞ」
螢の様子に、ランはロカが持ち場を離れる事に許可を出す。これから訪れる戦乱のために出来る事をするのが、軍人の務めである。
「ありがとう、ランちゃん。ロカちゃん、行こ!」
「あ、はい!」
ロカはランに一礼をしてから、直ぐさま走り出した螢を追いかけて行った。
◇
司令官室では、白銀にそびえ立つマイスター・コンピュータが、凰と共に二度目のニグラインの秘密についての話を静かに聞いている。クラックも大人しく凰の肩に停まって黙っていた。初めて聞かされたリーシアだけが、心穏やかではない。
〝Eternal The Sun〟を完成させるために犠牲となった幾多の胎児たち。少年を人柱として永遠のものとなったETS。予備として五臓から作られた五人のニグライン・レイテッドの悲哀。そして、人類を憎悪しても仕方のない運命を課せられたというのに、千年以上もの間、太陽系の平和のためだけに尽くしている、太陽と人間の心を持つ、目の前にいるニグライン・レイテッド──。
普段冷静なリーシアの鼓動が大きく波立つ。ただ、頭の中は靄が晴れたように澄んだ。ニグラインの正体を知った事で、今までニグラインに感じていた違和感が全て解消されたのだ。途方もない話ではあったが、凰と同様に至極納得した。戦争の終盤に、赤針へ、ニグライン、凰、ユーレックが三人だけで向かった理由も。
「──では、今度の戦争にも、司令の臓器が噛んでいるかも知れないということでしょうか?」
リーシアは過去に関しての質問はせず、これから起こる戦争への疑問を投げかけた。相手がセラフィスだけであるなら、今わざわざリーシアにニグラインの正体を明かす必要もないだろう。
「多分、なんだよね。いつもなら、近くに来れば感じるはずなんだけど……」
ニグラインは、セラフィスの勢力だけでは、太陽系に手が出せるわけはないと思っている。だが、前の戦争のときのように、関与している臓器の苦しさは感じられない。それでも、残りの臓器が手を貸しているのだと、感覚だけが告げている。
「それにしても、こんな重要な話をいつからご存じだったのですか? 総隊長」
リーシアは凰に顔だけ向けると、深い溜め息を吐きながら問いかけた。内容が内容だけに、8大将官や統括軍にも秘密にしておかなければならないのはわかる。しかし、凰とユーレックがそれを知った経緯は、ニグラインの口からは語られなかった。
「赤針に行く直前だ。ユーレックは、赤針で俺の脳裏から読み取った」
「そうですか……」
リーシアは凰たちも最初から知っていたのではなく、極限に至るまで知らなかったと聞いて、微かに芽生えたしがらみが拭い取られた。それなら、自分が今まで知らされなくても仕方がないと。
それにしても、ニグラインは千年以上に及ぶ長い長い時を、太陽系の命運を背負って過ごして来たとは──。どれだけの苦しみと悲しみがあっただろうかと、リーシアの胸は痛みを覚える。
「レイテッド司令」
「うん?」
リーシアは厳しい表情でニグラインに歩み寄ると、両の手でニグラインを抱きしめた。
「お一人で苦しかったでしょうに……もっと早く打ち明けてくださっていれば」
ニグラインが近衛艦隊に着任してからまだ一年も経っていないが、見た目と違い、子どもではないとわかった今も、この小さな身体でずっと一人で悩み、苦しんでいたのかと思うと不憫でならない。自分が聞いたところで何か出来るかと問われれば、役に立つ事は難しいが、こうして抱きしめる事は出来る。
「リ、リーシアちゃん! 今の方が苦しいよ!?」
リーシアの豊満な胸に抱きしめられているニグラインが、何とか顔を背けながら身体を離そうとしたが、リーシアは強い想いを込めて更に強く抱きしめた。リーシアの部隊の隊員たちが見ていたら、ニグラインに少なからず不平を抱いたかもしれない。
「……テラローザ少将」
リーシアの抱擁から逃れられないニグラインを助けるべく、凰はひとつ咳払いをしてリーシアを窘める。凰の声に我に返ったリーシアは、抱きしめる手を緩めてニグラインを解放した。
「あ。すみません……つい」
「いいよいいよ。心配してくれてありがとう」
あまりの事に感情を抑えられなかったとはいえ、司令官を抱きしめるなど、本来ならば懲罰の対象になってもおかしくない。しかし、ニグラインはその程度の事で懲罰を与えるほど、心は狭くなかった。むしろ、自分のために心を痛めて、なおかつ癒やしてくれようとしたリーシアに感謝する。
「それよりも、リーシアちゃんの意見を聞きたいんだ。ネリネ・エルーシャ・クラストについて」
セラフィスとクラスト過激派の殲滅をしてしまえばいいのだろうが、それはニグラインの意志に反するため選択肢には入らない。Dr.クラストの子孫がネリネしかいないのなら、彼女の代で血が途絶えれば、クラスト派もETSを奪還する気がなくなる可能性もある。しかし、それは夢見事で、血は薄くともDr.クラストのDNAさえ受け継いでいれば、クラスト派に担ぎ上げられるだろう。クラストだけではなく、ETSを完成させた科学者のうち、残り二人の子孫まで出て来たら、太陽系は渾沌としてしまう。
そうさせないために、ニグラインは系民の支持を保てる政策を行ってきたのだが、大義名分を掲げてテロ行為を行われては、迎撃するしか対応が出来ない。
「それでしたら──……」
リーシアは直ぐさま答えようとして、口をつぐんだ。まるで言いたくないかのように。
「聞かせて?」
おねだりするようにニグラインの藍碧い瞳に見つめられて、リーシアは仕方なく閉じた口を重く開いた。
「……ネリネに全てを話した上、彼女に求婚なさればいいかと思います」
リーシアの言葉に、ニグラインと凰は目を見開く。驚いたなんて表現では足りない。男性陣では考えが及ばなかった第三の方法。
確かに、ニグラインがETSそのものだと知れば、ネリネはETSの所有は不可能であると理解するだろう。しかし、全ての者にそれを伝えるわけにはいかないのだから、ネリネだけが納得しても戦争は回避できない。だが、ニグラインとネリネが婚姻関係を結べば、必然とETSはネリネのものにもなる。Dr.クラストとETSを完成させた生物学者の子孫が、共に太陽系を統べるのであればクラスト派も納得するかもしれない。
「や、やだなぁ。ぼくは結婚なんか──」
「わかっております」
リーシアの提案に、ニグラインはそれは困ると焦りを含めた笑みで言うと、即座にリーシアは自分の考えを否定する言葉を述べた。
「クラストの子孫を作らないのであれば、一時しのぎの政策でしかありませんものね」
ヒトとは違う時間を生きるニグラインに、自身の子孫を残す気はない。或いは、必要がないとも言える。それに対し、クラスト側はクラストの血筋を重んじるのであるから、ネリネが子を産まなかった時点でまた振り出しに戻るであろう。僅か10年や20年の平和のために行うには、リスクが大きい提案であった。
「冗談というわけではなかったのですが、セラフィスは血を流しすぎました。一般の系民にセラフィスのことは公表していないとは言え、それを知る兵士たちが納得しないでしょう」
クラスト派との和解──。実現すれば、セラフィスによって幾度も起こされてきた内乱はなくなるだろう。しかし、その内乱によって、どれ程の血が流されたかを考えると、平和を尊重する太陽系民が許すはずがない。大切な人たちを殺めた相手を代表者にするなど、認められるわけないではないか。
リーシア自身もそうである。政策として発言はしたが、多くの部下を惨殺された怒りは消える事はない。〝ニグラインの結婚〟について、私的感情がないとも言えないが。
「ネリネのことも、戦争が起こることも諦めてください。諜報活動、総力をあげて行っていますから」
一人でも犠牲が出る度に心を痛めるニグラインに、リーシアは少しでも被害が少なくなるよう、ますます任務に力を入れると宣言する。
「そうだね。頼りにしてるよ」
ニグラインはそう言うと、モニターに映るETSに藍碧い瞳を向け、悲しげに微笑んだ。あれがある限り争いは続く。あれがなければ生物は生きられない。自分が生きていなければ、太陽系の生物は──。ニグラインは生まれ出でてから、それだけを考えて来た。太陽系で生まれた、全ての生きとし生けるものに慈愛を持って。だから、そこに刃を立てる者を放置するわけにはいかないのだ。
「……ラリマール」
そして、ふいに空間に緊張感が走る。ニグラインの碧藍の瞳がゆっくりと凰に向けられ、凰は姿勢を正した。リーシアもニグラインの変貌に息を飲む。
「またファルコンズ・アイで出撃て貰うことになる。心しておいてくれ」
「は!」
凰の青虎目石さながらの瞳は熱く揺らめき、指揮官から、また戦士に戻る。そしてリーシアは、太陽系の真実を知った今、これまでと比較にならないほど、自身の立場に重きを置く。前の戦争から、凰とユーレックがそうであったように。
あと幾日平和でいられるのか──。三人はそれぞれ同じ思いでETSを見つめ、少しでも長く平和でいられるようにと祈る。
◇
「エウロパの住民を火星に移住させる」
居住区ではないエウロパの地下施設では、顔を見せない若い男が、毎度の事ながら予告もなしにネリネ・エルーシャ・クラストを呼び出し、空間モニター越しにそう告げた。今は戦略を練るのに忙しいネリネだが、この男の呼び出しを断るわけにはいかず、他の者を待たせてでも優先させる。嫌味に近い苦言を聞かされる事もあるが、それ以上にこの男の力が彼女たちには必要であるためだ。そうでなければ、王にならんとする自分を呼び出すなど、不敬罪に等しい。
「何故そんなことをしなくてはならないのかしら?」
ネリネはどのような会話をしていても、この男と話すと苛立ちを覚えるが、可憐な容姿を歪めず、決して表に出さない。それでも男の方はネリネの心中を察しており、こちらも表には出さずに、ほくそ笑むのであった。
「キミたちが正義を語って起こしてきた戦争で、どれだけの犠牲者が出てると思ってるの? 今のままでは、例えL /s機関に取って代わったとしても、系民は〝新たな王〟なんて受け入れないって、前も言ったと思うけど?」
せめてエウロパが戦火に包まれる前に3000万人の民間人を避難させれば、多少は心象も良くなるだろう。それでも焼け石に水程度のものである。彼らは、その何倍も命を奪ってきた。現在のところ、セラフィスが起こした暴動である事は、近衛艦隊の隊員たちと統括軍の一部の者しか知らないが、暴徒が王になるなどと言われて黙っているはずがない。それを僅かでも鎮めるための策略であった。
この男が時折見せる慈悲に、今更何を言ってるのだとネリネは思う。そもそも、この男の組織が現れなければ、クラスト家は今もマンデルリで貧乏な平民でいただろう──太陽系民の血を一滴も流さずに。
「わかったわ。どうせ、反対してもやるのでしょう?」
「当然。だから、今回は宣戦布告をしてね」
何事も起こっていないのに、突然避難しろと言われても行動する者はいないから。と、男は付け加えた。宣戦布告は、避難誘導だけのためではない。同一意志を持つクラスト派への号令でもある。民間人だけではなく、太陽系近衛艦隊や太陽系近郊宙域統括軍に籍を置くクラスト信仰者には、この上なく重要だ。水面下で行われている流通情報などより、余程価値がある。とうとう〝王〟が立ち上がったと。クラストのためにETSを守って来た兵士たちは、本当の主のために戦う機を得るのだ。
「あなたに言われるまでもないわ」
決してこの男の言うなりなどではないと、ネリネは口調を強めて言う。ETSを手に入れてしまえば、どうせお互いに用済みだ。次の敵になるかもしれない者と馴れ合う気もない。だが、もう少しだ。太陽系を我が手に握るのは。今度は失敗しない。ネリネはETSを背に輝く己の姿を想像し、恍惚と笑む。その笑みを、顔を見せない男は無に近い表情で、ただ眺める。クラスト一家に手を貸したのは己であるとは言え、何もしなければ普通の少女として、マンデルリに残して来た母と楽しく暮らしていたかもしれないのだ。差し出した手を取ったのはネリネの父であり、ネリネは自分の意思で母を置いてまで付いて来たのだから罪悪感など持たないが、クラストの血に縛られている彼女を哀れに思う。
「縛られているのは、僕も同じか……」
男はネリネには聞こえない声で呟いた。何にも縛られていなければ、自由に楽しく生きられる。それがわかっていても、自分を縛るものに抗う事は出来ず、こうしているのだ。そして、その生き方を変える気はなかった。
「何か言いました?」
「いや、何も? 3000万人の避難だから、10日はかかるよ。宣言はいつにする?」
「ならば、明日。10日のうちに艦隊を動かせるんでしょうね?」
ネリネも二週間以内には行動を起こすつもりだった。近衛艦隊も統括軍も、表立ってではないがクラスト派の者たちの洗い出しをしている。重要な人物を拘束されでもしたら、戦局が不利になってしまう。事はなるべく早く進めた方がいいのだ。そして、今なら統括軍の長官も火星にいる。人質にしたいところだが、卑怯と言われるのは今後を考えると出来ない。しかし、正々堂々と戦って消してしまうのは構わないだろう。そうすれば統括軍の士気は落ち、優勢を取れるはずだ。
「りょーかい! 頑張ってね」
わざとらしく応援のつもりで手を振る男が忌々しい。ネリネは奥歯を軽く噛みしめる。今回は近衛艦隊や統括軍長官・副長官の身辺にはツカイやモグリの対策を取られてしまっており、実質この男の用意した艦隊と、統括軍内の敬虔なクラスト信仰者の者たちの働きにかかっているのだ。しかも、統括軍から寝返ってくる艦艇がどれだけあるのかは、多く推測しても近衛艦隊には及ばないだろう。艦隊員も全員がクラスト派というわけではないから、統率力も低い。逆に、男の用意した艦隊は、全て男の組織が遠隔で操舵するのだから、屈辱的であるが〝頼る〟と言う言葉以外使えない。結局は顔を見せない男の艦隊がメイン艦隊となるのは明らかだ。
「失礼するわ」
男の応援に応える事はせず、ネリネは空間モニターを切った。指揮権はネリネにあるとは言え、あんな男に頼らねばならない今の状況が悔しくてならない。太陽系近郊宙域統括軍も、太陽系近衛艦隊も、本来であれば自分の手にあって然るべきなのに──。ネリネは、ETSを手中に収め、太陽系を我がものにする意志を改めて強く固めた。
太陽系には、Dr.クラストを尊敬する者は数多く存在する。だが、神聖視して信仰するまでの者は、太陽系全土で見れば少数派だ。しかし、信仰してない者でも、平和を維持するために尽力しているL /s機関に不満を持たないまでも、関係者が顔すら見せない事に何も思わないわけではない。そこに、Dr.クラストの子孫が現れ、太陽系を統べると言い出せば、心が揺らぐ者も大勢いるに違いないだろう。セラフィスについては、5年前と前の戦争において、テロリスト同様の横暴な行為を行い、多大なる犠牲者を出した者たちだとは公表されなかった。過激派ではないクラスト信仰者への迫害を避けるため、ニグラインが近衛艦隊内で箝口令を敷いたのだ。それ故、何も知らないクラスト信仰者は、ただL /s機関の代わりに太陽系を守ってくれると信じるやも知れない。
そういう者たちが、統括軍にも少なからず志願して就いている。〝Dr.クラストのETS〟を守りたいと。彼らがネリネ・エルーシャ・クラストの宣戦布告を聞くまで、もう15時間を切っていた──。




