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花の鳥籠  作者: 白基支子
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透明な依頼 弐

 事件のあった家を一歩出れば、空気は一入(ひとしお)新鮮に感じられ、肺一杯に吸い込めば気管も澄み渡る様だった。

 辺りは相変わらず警官達の雑踏で騒がしいが、俺達は人集りの合間を縫って非常線の外に出、自分達の車に戻った。

「最近は、警察に頼らないで、探偵を呼ぶ金持ちも増えたよな」

 運転席の扉をバタンと閉じつつ俺が言う。と、お千代も助手席に収まりつつ応えた。

「まぁね。警察は、兎角、秘密主義だから、信用しない人も多い。其の点、自ら探偵を雇えば、捜査の進捗も逐一報告させられるし、安心出来るんだろう。お陰で探偵の需要も伸びる。有り難いね。秘密万歳だ」

「そうだな。で、これからどうする?」

 俺が訊く。と、お千代は腕時計……細い革バンドの時計……をチラと見やり、

「昼時だから昼食(ランチ)にしよう」

「そんな時間か」

 俺は空を仰いだ。突き抜ける様な青、昇った太陽も黄味掛かっている。

「お千代は此処ら辺で良い店知ってるか?」

 ポケットから車のキーを取り出しつつ又訊けば、

「ふむ。私は此の付近に詳しい訳ではないけど、都合良く、此処に紹介がある」

 と、お千代はファイルを開いた。先程椿山に渡されたファイルである。お千代は其の中の一人、とある男の顔写真を指差していた。

 俺は覗き込むようにして、お千代の指先を眺める。お千代の身体は一々美しい。白く細い指、丸い爪と共に透けてしまいそうな指先は、ファイルに収められた一枚目の上に置かれていた。

 辻井湊 二十六歳 ウェイター

 成程、お千代の言う通り、都合良く、対象は近所にある喫茶店でウェイターをしている。

「事情聴取がてら、彼の店に行こう」

「了解」

 車にキーを差し込む。ハンドルを握り、アクセルを踏めば、赤色テントウムシは白黒パトカーの列を外れ、ノロノロ発進した。

 昼時、住宅街を走る車は他になく、俺達を乗せたアンティークカーは順調に走った。喫茶店は椿山邸から車で五分と離れておらず、直ぐ見付かった。三台分しかない狭い駐車場は、運良く真ん中の一台分が空いていたので、其処に車を停める。

 俺とお千代は車外に降り、店を仰ぎ見た。

 ダークブラウンの木造二階建て。オープンテラスも付いている。植木に取り囲まれている様子から林の中にひっそり建つ小屋を思わせる店は、其れなりに繁盛しているらしく、入口の硝子戸から中を覗けば、店内は主婦らしき女性客で賑わっていた。

 昼食と共に気儘なお喋りに興じる主婦達は、身なり良く、今時の有閑階級らしいファッション、即ちシルクのワイシャツにカシミアの緑カーディガンや、高級ブランドのスカーフを首から垂らした様な服装に身を包み、ガレットやケーキを(つつ)いている。

 上品な囁きと微笑に包まれた空間は、秋晴れの昼間、優雅な奥様方の為にこそあり、故に俺は一瞬躊躇した。が、お千代は店の玄関を開けてしまう。ドアベルが乾いた音を立て客入りの合図を鳴らすものだから、俺も入店せざるを得なくなった。

 途端、店中の注目が此方に集まった。片や場に似付かわしくない男、片や銀髪金瞳の美女。此の取り合わせに、一瞬、店内は色めき立つ……しかし主婦達は、お召し物と同じく、覗き見迄も上品に、強いて何事もなかった様に談笑を続けながら、チラチラと、偶然を装った好奇の視線を向けるだけに留めていた。

「君、注目されているね」

 そんな視線を愉しむ様に、お千代が言ってのける。

「いや、俺じゃなくて、お千代だろう」

 言下に否定してみるも、お千代は何処か誇らし気に、

「いいや、君の方が注目されている。君は容姿だけは優れているからね。其れが私の自慢でもあるんだ」

「……其れ、褒めてるか?」

「一応」

 クスクスと笑うお千代。俺は頬を掻いた。俺の容姿云々は置いとくにしても、満更嫌な気はしない。まぁ、お千代が愉しそうだから、良いか。

「いらっしゃいませ」

 と、俺達が話している間に店員が現れ、

「二名様で宜しいでしょうか?」

 型に嵌まった挨拶を丁寧に述べた。若い男の店員……此の顔は……ファイルで見た写真と全く一致している。

 店員をよく観察する。最前に容姿の話題が出たので敢えて取り上げるけれど、店員はかなり整った顔立ちをしていた。線の細い美青年。彼目当てで通っている主婦も相当数いる事だろう。ワイシャツの上に黒ジレを着、黒いネクタイを締め、黒いスラックスの腰に黒いギャルソンエプロンを捲いた、如何にもウェイター然とした衣装がよく似合っている。何より、ジレの胸ポケットに刺さった名札に書かれた「辻井(つじい)」という名前は、ファイルにも記されていた。

 若しや、此の店員こそ椿山夫人の間男?

 脳裏に疑惑の芽が息吹くとつい厳しい目で見てしまう。が、お千代は普段通りの自然体で、「はい、二人です」と応えた。

「二名様。どうぞ此方へ」

 堂に入った笑顔を浮かべ、辻井は俺達を席に案内する。通されたのは、オープンテラスの隅、二人掛けの席だった。正午の陽光が緩やかに降るテラスに、お千代の銀髪が揺らめき、金瞳は色硝子の様に煌めく。周囲の客達は、間近に見るお千代の髪と瞳に、上品振りも忘れ、喰い入る様だ。矢張り視線を集めているのはお千代の方じゃないか、と、そう思うのだが、中には俺を窺う視線もあるらしく、何と無く居心地が悪かった。

 お千代は黒いロングジャケットの裾を窘めつつ、優雅な所作で以て腰を下ろし、辻井からメニューを受け取る。と同時、お千代は油断ない動作で以て、探偵免許証を示した……勿論、周りの客には気取られないよう、静かに。

「仕事中申し訳ない。実は、私達はこういった身分の者で、貴方とお話ししたくて此処に来たんだ」

 お千代が声音を落とす。と、周りの主婦達が怪訝に此方を睨んでくる。探偵免許証も、話の内容も、気付かれてはいない筈だが。

「えっと」

 辻井は探偵と聞くと、流石に表情は崩さなかったが、目に剣呑なものを宿した。

「探偵さんですか……前回の探偵さんとは違う方みたいですが、どんな御用件でしょう?」

 前回の探偵とは、「イセ顧問探偵事務所」の者だろう。辻井はファイルに載っていたのだから、当然、「イセ」の事情聴取を受けている。

「済まないね。私も仕事の邪魔はしたくない。手短に済ませよう……訊きたい事というのは、椿山の奥さんの事なんだが」

 お千代がそう切り出す時、俺は相手の顔をじっと見ていた。辻井は別段取り乱す様子もなく、困った様に微笑んで、

「椿山さんですか」

「御存知かな?」

「えぇ、勿論。常連様ですし、前回も椿山さんについて訊かれましたから」

 見る限り、辻井は「椿山」という名を平気で口にしている。まるで世間話程度といった顔だ。が、だからといって無実とは限らない。白を切っているのでは?疑う事こそ捜査員の仕事。これからが腕の見せ所、此の手の訊問は訊問だと相手に気取られてはいけない。唯でさえ探偵という職業は警戒され易い。其の警戒を解きながら、飽く迄自然に、婉曲的な質問、例えば「実は、其の、椿山さんについて、ある疑惑がありまして」とか、そんな様な質問を根気強く続け、相手がボロを出すよう仕向けるのが定石、其れも微細なボロ、表情や声色、態度の僅かな変化を読み取らねばならない。慎重、繊細な作業だ。

 なのに、

「実は、椿山夫人は今朝自殺してしまったんだが、彼女と貴方が浮気していたという嫌疑が掛かっていてね」

 いきなりお千代が全て打ち明けてしまった。

 一瞬、理解が追い着かなかった。追い着いた時には手遅れだった。直球というか、初手から手の内を開示する、策とも呼べない方法に、俺の方が狼狽えてしまう。

 が、当のお千代は不敵な微笑を湛えた儘、辻井の反応を待っていた……いや、金瞳は辻井を見ていない……彼の肩越しに別のものを見ている。

「其れってどういう意味ですか?失礼じゃありません?有り得ないと思うんですけど」

 思い掛けず険のある女の声が返ってくる。声の主は近くの席にいた主婦で、眉間に皺を寄せつつ、不機嫌を隠しもせずに会話に割って入った。他にも、同じ席に着く四人の主婦友達も俺達を睨んでいた。丁度デザートの段だったのか、彼女達の席には赤や青の蜜の滴るタルトが並ぶ。

「ほう……?」

 お千代は好意的とは言い難い主婦達の視線も余裕綽々と受けて、

「失礼、マダム。『有り得ない』とは、どういう意味でしょう?」

 ケレン味溢れる言い回し。お千代がニタリと笑う。金瞳はタルトを眺めている。

 こうなったお千代は些か厄介だ。

「お話中済みません。でも、(みなと)君が困っていたみたいなので」

 察するに、此の主婦も辻井目当ての常連だろう。其れにしても「湊君」とはお安くない。相当な入れ込み具合だ。

「湊君の名誉を守る為に敢えて口出しさせて頂きますが、浮気なんて有り得ません。彼は潔癖なところがあって、不潔な事は出来ないんです。そうよねぇ?」

 主婦が周りの友人達に同意を求めると、蜂の巣を突いた様に、皆々口を揃えて、

「そうね」

「其の通り」

 と、次々に頷いた。其れは一つのテーブルに収まり切らず、波紋の様に店中に広がり、隣から隣へ、辻井を擁護する声は際限なく、更に「椿山夫人の自殺」という醜聞(ゴシップ)が程良い辛味になり、昼下がりのお喋りは過激な熱を帯びていった。

「湊君は純朴で不器用なんだから、犯罪には向いてないんですよ。況して浮気なんか」

「湊君が可哀相……彼は凄く良い子なんです。きっと何かの間違いです」

「探偵なんて……」

「折角の美味しい食事が……」

「其れに椿山さんが亡くなったって……」

「自殺なんでしょう?何かあったのかしら」

「探偵さんの言う事と関係あるんじゃない?」

「浮気?椿山さんが?」

「確かに彼処の奥さんは美人だから……」

「美人女優は誘惑も多いだろうし……」

「彼処は仲が良さそうだったのに、其れも御芝居だったのかしら」

「そう言えば、今朝かなり早く、椿山さんの家の前にパトカーが停まってた。其れも沢山」

「何かあったのかしら」

「私も詳しくは知らないけど、尋常じゃないくらい警察の人がいたの」

「怖いわ。大きな事件かしら。其れも何か浮気と関係ある……」

「最近、椿山の奥さん、元気なかったんじゃない?」

「そうね。窶れてた。まさか、本当に浮気していて、旦那さんにばれたとか」

「芸術家は気難しいって聞くし……」

「けど湊君じゃないわ。そんな噂、聞いた事ない」

「やっぱりあれじゃない、女優をやっていた頃に噂されていた」

「俳優の……」

阿部(あべ)(みつる)?」

「そう其の人」

「阿部も結婚してなかった?」

「嫌だわ。近所でそんな汚らわしい事が進んでいたなんて、今迄全然気付かなかった」

「判らないけど、椿山さんくらいの美人なら、引く手数多でしょう」

「すると、貴方も椿山さんに惹かれていたのかな?」

 出し抜けに、ざわめきの間隙を突いて、お千代が辻井に訊く。途端、主婦達はお喋りを止め、一斉に此方を振り返った。其の異様さ、主婦全員が辻井の顔を見詰める緊迫感たるや、視線を針にして、嘘吐いたら針千本呑ますと言わんばかりだ。

「いえ、そんな……皆様の言う通り、僕と椿山さんはそういった関係ではありません。唯のウェイター、唯の常連様、其れだけです。其れ以上の関係は何も」

「そうだろうね。質問を変えるけれど、此の頃の椿山夫人はどんな様子だったかな?」

「様子……椿山さんは、近頃お店にいらっしゃらず、とんと御無沙汰なので、一寸判り兼ねます」

「では、浮気相手の心当たりもない?」

「はい。申し訳ありません」

 当惑しているだろうに、辻井は爽やかな笑顔を崩さず、テキパキ応えた。これこそ彼が人気者である所以だろう。大したものだ。俺などはこんな状況が苦手で、針の(むしろ)に座っている心地だ。

 対して、全ての元凶たるお千代は嬉しそうに「うんうん」と頷いている。

「君の言う通り、君は間男じゃないみたいだ。いや、要らぬ嫌疑を掛けて申し訳なかった。これだけ証人がいるんだ、君の無実は確かだよ」

 其れから、お千代は何事もなかったかの様にメニューを開いた。

「では食事を頂こう。私は此のコースを。デザートはラズベリータルト、食後には温かい紅茶を一つ」


 味わう余裕もなく昼食を終え、お千代と共に店を出る。

 車上、助手席のお千代は、

「あの店、中々美味しかったね。次は仕事でなく、プライベートで行きたいものだ」

 と、呑気に言っていた。が、俺は恐らく二度とあの店に行かないだろう。彼処の常連には顔を覚えられてしまった。あんな気まずい昼食はもう二度とご免だ。

「味は置いとくとしても、随分アッサリ無実だって決めたな」

 そう言う自分の声に思い掛けず非難の色を見付ける。不機嫌な棘に自分が驚き、俺は取り繕う様に声色を(やわ)らげて、

「辻井が浮気相手じゃない理由が未だ判らないんだけど、俺が何か聞き逃したのかも」

 と、苦笑してみせた。

「おや、君は気付いていないのか」

 お千代は後部座席に放っていたファイル……男達の名簿……を取り上げ、白い足の上に乗せながら、

「まぁね。普通の聞き込みより簡単に済ませたが、今回に限って言えば、白黒付けるのは早い方が良いと考えての事だ」

 そう言うと、お千代はファイルを開き、ファイルの二枚目を指差した。お千代の意図する事はサッパリだが、こう自信満々に告げられると、根拠なく信じてしまう。俺は異議も唱えず、素直にファイルを覗き込んだ。

 前原達彦 二十四歳 運送業者ドライバー

 名簿に連なる彼……前原(まえはら)……は、此の付近を担当する宅配員らしく、備考欄には「度々椿山邸に荷物を届け夫人とは顔見知り ※恋人有り」と記されていた。

「次は彼の所へ行こう。家に出入りしていたなら、生前の夫人について聞けるやも知らん」

「了解」

 俺はキーを差し、ハンドルを握ってから、前原の勤務地を目で追った。住所を黙読する。と、「目的地に設定しました」という声が脳内に返って来る。システムの声だ。後は此の声に従って進めば良い。

 国道十五号を北へ走らせ、品川駅を越え十分程の交差点にて、「此の信号を左です」と、案内通り細い道に入れば、直ぐ目的地はあった。

 車を路肩に寄せる。

 俺とお千代は、車を降り、宅配会社の営業所へ向かった。鉄柵を回り、錆びた門扉を抜け、プレハブ小屋に近付く。

「済みません」

 小屋の入口にある受付カウンターに声を掛ける。と、間もなく白髪の警備員が顔を出した。警備員は最初、不審そうに俺達を眺めたが、探偵免許証を示し、事情を説明すれば、意外にも快く立入を許可してくれた。

「御苦労様。美男美女の探偵たぁ、絵になるね。にしても、若い子の間ではそういうのが流行ってるの?」

 警備員がお千代の髪と瞳の色を物珍しそうに眺める。

「いいえ、流行ってはいないですよ。これは私だけです」

 お千代は得意気にそう応えていた。

 営業所の中に入ると、受付カウンターには、警備員とは別の、中年らしい受付嬢が待ち構えていた。俺達は改めて探偵免許を示し、前原達彦(たつひこ)に会いに来た旨を伝えた。受付嬢は俯き、資料らしき物を眺め、「前原は丁度宅配に出ていますが、もう少ししたら帰って来ますから、暫しお待ち頂けますか」と、俺達を建物奥へ通した。応接間は他の来客で埋まっていた為、休憩室に案内される。受付嬢に「畏れ入ります」と謝られたけれど、急に押し掛けた此方が悪い。

 休憩室は十畳程の広さだった。中央に長机が据えられ、右の壁際にハンガーラックと雑誌ホルダーが並ぶ。正面には大きな窓、右側の壁には貼り付け型のテレビがあった。受付嬢は、机の上に放置された週刊誌を手際よく雑誌ホルダーに仕舞うと、俺達に着席を促し、自身は茶を淹れに部屋を出た。

 俺とお千代はパイプ椅子に並んで座り、出された番茶を啜った。白い壁には宅配会社の宣伝ポスターも貼ってあり、俺はポスターの上を軽快に動く猫らしきキャラクターをぼんやり眺めた。段ボールを担いだ猫が決められた動きを繰り返す。

 チラと隣を窺えば、お千代は雑誌ホルダーを見ていた。猫の挙動に飽きた俺も其方を見やる。

 黄と黒、攻撃的な配色の表紙に躍る見出しが、世の悪事を殊更惨く知らしめている。政治家の汚職、アイドルの不貞、教師の淫行、いつの世も取り沙汰される事件の数々。其の幾つかには探偵も関わってきた筈。椿山夫人の自殺も其の一つに加わる。一体何処から嗅ぎ付けて来るのやら。記者こそ探偵に相応しい。

 ……高名な芸術家の妻、自殺!浮気が原因か?元女優、背徳の演技生活……。

 そんな見出しを俺が空想していると、男が一人、休憩室に入って来た。

「お待たせしました」

 これ又爽やかな青年である。日に焼けた肌、締まった身体と、白い歯が、如何にも健康的だ。人相は顔写真と一致する。紛う事なき前原達彦は、しかし、部屋に入って来るなり扉の前で突っ立ってしまった。お千代の銀髪や金瞳に驚いたらしい。

「どうも、お忙しいところ済みません」

 そう言って、呆然とする前原に椅子を勧める。

「いえ……其れで、探偵さんが自分にどんな用でしょう?又椿山さんの事でしょうか?」

 前原が椅子に腰掛けながら訊く。笑顔こそ浮かべているものの、内心の不安が引きつる口角に滲んでいる。受付辺りで探偵が訪ねて来た事を知らされたのだろう。

「そんなに身構えないで下さい。大した用件ではありませんので」

 相手の緊張を解くよう、俺は慎重に言葉を選んだ。哀しい事実だが、二枚目は浮気を疑われ易い。実際は、二枚目だろうがなかろうが、不誠実な者が不貞に走るのだが……先程の辻井同様、前原も相当に整った顔立ちだ。彼こそ間男と告げられても俺は驚かない。後は、前原が不誠実な男かどうか見極めるだけだ。

 事情聴取なんてものは、先ず疑うことから始まる。何とも業の深い作業である。

 ……とは言え、さて、どんな切り口から始めたものか、俺が思案している間に、又してもお千代が先に口を開いた。

「前原さん、貴方には恋人がいるね?」

 お千代がファイルから顔を上げ、訊く。

「えぇ、はい」

 はにかみながらも、前原は素直に頷いた。恋人がいるという情報は、名簿の備考欄に書かれていた。

 お千代が淡々と質問を続ける。

「失礼だが、其れは正式な恋人?つまり恋姻届を提出した?」

「はい。届は一年くらい前に出しました」

 一年。口の中で呟く。しかもキチンと届を提出しているなら、お千代の言うところの、正式な恋人、という事になる。

 恋姻届。嫌な響きだ。これで俺は過去、訴えられた。婚前だったから慰謝料だけで済んだが……今はそんな事どうでも良い……重要なのは、此の青年に政府公認の恋人がいるという事実だ。

「成程。すると……大変プライベートな事を訊いて申し訳ないが……貴方は恋人を大事に想っているだろうと、私は推察するのだが、どうかな?」

「そうですね……口五月蠅いし、よく喧嘩もしますけど、大切だと想ってます」

「結婚の予定は?あるのかな?」

「えぇっと……」

 前原は言い淀みつつも、顔を赤らめ、低い声で応えた。

「未だですが、近々、プロポーズしようかな、なんて……指輪だけは買ってあるんですけど、言い出す機会が掴めなくて」

「そうかい、そうかい。うんうん」

 お千代が何度も頷く。矢鱈と上機嫌だ。お千代は一頻り頷き終えると、今度は俺の方を見詰めてきた。が、俺は強いて視線に気付かないフリを決め込み、宅配員から聞いた証言を頭の中で反芻した。

 前原には恋人がいて、話を聞く限り関係は良好。プロポーズに関しては、是非、頑張って貰いたい。俺も成功を祈っている。

 が、では、彼も間男ではないのか。

 俺が腕を組んでいると、隣からファイルの閉じる音がし、其方を見やれば、お千代が足を組み替える艶めかしい場面を目撃した。

「じゃあ、質問を変えるけれど」

 お千代は銀髪を撫で付けつつ金瞳を細めて、

「椿山の奥さんは御存知だろうが、何処迄知っているか、教えて欲しい。椿山邸に配達し始めてどれくらいになる?」

 と訊いた。お千代は頬杖を着き、前傾姿勢で相手を見詰めている。

「入社してからズットなんで、もう三年くらいになります」

 西日を湛える金瞳に気圧されながらも前原が応える。

「三年か、長いね。其の間に奥さんと交流があっても可笑しくない」

「交流はありましたけど、別に奥さんに限った事では」

 前原の顔に警戒心が走る。俺は其の表情をじっと観察した。

「椿山さんの家は、旦那さんも大概、御在宅でしたし、荷物も大半は旦那さんの物でした。通販で買われた画材を宅配する事もあれば、完成した画を運び出す事も多かったんで、旦那さんとは懇意にさせて頂いてます」

「夫妻どちらとも親しかった、と」

「はい。旦那さんは無口だったけど、新しい画は必ず見せてくれました。奥さんも気さくな方で……」

 前原が急に押し黙る。其の顔には困惑と無念の混じった暗い色が落ちている。何事か、お千代は直ぐ悟ったらしく、

「しかし、そんな気さくな奥さんの浮気が発覚した」

 と、核心を突けば、前原は諦めた様に頷いた。

「今でも信じられません……あんなに良い奥さんが……俺なんかにも優しくしてくれて……外から見ただけでは判りませんね。俺には、旦那さんを凄く大切にされていた様に見えたんですが、そんな風に演じていただけだったなんて……」

「不貞が判ったのはいつ頃?」

「三ヶ月前です」

 前原が即答する。お千代は微かに眉根を上げて、

「偉く時期がハッキリしてるね」

「本当の時期は知りません。けど、俺が奥さんの浮気を知ったのが三ヶ月前なんです」

「どういう意味なんだ?」

「三ヶ月前に、浮気の事を、旦那さんと奥さんに教えられたんです」

「……益々意味が判らないな」

 お千代が怪訝な顔になる。俺も首を傾げた。妻の浮気を夫婦に教えられるとは、果たしてどんな状況か?

「俺にも意味は判らなかったんです。けど、兆候は以前からあったんです」

 前原は顔色を一層暗くして、

「半年前くらいから、椿山さんの家は変になっていきました。何と無く陰気というか、明るかった奥さんから笑顔が消え、不意に思い詰めた様な表情になるんです。反対に、旦那さんの口数が増えました……あれは空元気だったんでしょうか……」

 と、一旦言葉を止め、首を横に振った。

「前回、違う探偵さんにも話した事なんですけど……駄目だなぁ……嫌なものは、何度目でも嫌な感じがする」

「話してくれたら、御礼もするけれど」

「大丈夫です。御礼なんて却って頂けません。お話しします。短い話です。三ヶ月前、画を運び出す仕事が入ったから、いつも通り椿山さんの家へ行きました。旦那さんに案内されアトリエに御邪魔したんです。其処に奥さんがいらっしゃいました。いつもなら、奥さんは台所でお茶の用意をしてくれているんです。変だなと思ったら、旦那さんから『今日は君に聞いて貰いたい事がある』と切り出されました」

 日に焼けた顔を青くしながら、前原は言い継ぐ。

「其の時は、今回の運搬には特別な注意があるんだろう、くらいに考えてました。そしたら、旦那さんが『妻が浮気したんだ』と、突然……旦那さんはいっそ明るく『そうだな?』って訊いてました。奥さんは『はい』と応えました。けど信じられなくて、俺、奥さんを見たんです。あの時の光景は今でも頭から離れませんよ。奥さんはいつもの、サッパリした顔で、堂々と『ご免なさいね、いきなりこんな話をして』なんて謝るし、旦那さんは相変わらず明るい調子なんです。『じゃあ、仕事の話をしよう』と……其れが何だか無気味で、逃げる様に仕事を片付けました」

 前原は心底嫌そうな顔をした。俺も同じ顔をしたに違いない。妻の罪を晒す夫の心境は判らなくもないが、他人を巻き込むのはやり過ぎだ。

「其れから奥さんは塞ぎ込んでしまい、家へ行っても会えませんでした。病気勝ちになったと、噂には聞きましたけど……あのぁ……やっぱり、奥さんに何かあったんでしょうか?」

 探偵の来訪が良い予兆の訳がない。其れに「やっぱり」と言っている辺り、悪い予感は前々からあったらしい。前原は怖々俺達を見た。今朝の事は未だ知らないのか。そろそろニュースになっていそうだが。

「椿山の奥さんは今朝亡くなった。自殺だそうだ」

 お千代が正直に事実を教える。前原は「そうでしたか」と肩を落とし、けれど決意に満ちた目を上げ、

「あの、奥さんの様子なんですが、本人だけじゃなく、画の方も良いでしょうか?」

 と、声を潜めた。

「画とは、椿山朔太郎が描いた奥さんの画の事?」

「そうです。さっきも言いましたけど、俺、アトリエには頻繁に出入りしてましたから、何度もあの画を見てるんですけど、半年前から、画の様子も段々変わっていったんです。特に画の中の奥さんの様子がどんどん色っぽく……花瓶と奥さんの画は御覧になりましたか?」

 俺とお千代は同時に頷いた。手前に砥部焼の花瓶があり、画面奥の裸婦がそっぽを向いている画の事だ。

「俺が見た中だと、あれが一番顕著に変化しました。最初、画の女の人は服を着て正面を向いてたんです。其れが描き加えられ、今では裸、顔も横を向いてしまいました。他の作品の奥さんも、最初は優しく笑ってたのに、いつの間にか挑発的になってたり……俺は芸術に詳しくないから、単なる勘違いかも知れませんけど」

「ふむ」

 一通り聞き終えると、お千代は腕を組んだ。お千代がこんな悩ましい溜息を吐く時は、決まって思考の海に沈んでいる。俺は其の思考が纏まるのを黙って待っていた。

 暫くすると、お千代は徐に顔を上げ、前原にニッコリ微笑んだ。

「貴重な情報を有り難う。最後にもう一つだけ。奥さんの浮気相手に心当たりは?」

「全くありません。前回の探偵さんにも言いましたが、今でも信じられないくらいです」

「そうか。時間を取らせて済まなかったね」

「いえ、平気です」

 前原も爽やかな笑みを返す。重荷を下ろした様な、人に言えない悩みを打ち明けた様な解放感が、彼の額の辺りに晴れ晴れと浮かんでいた。

 俺とお千代はソファを立ち、

「有り難う御座いました」

 と、改めて礼を述べ、休憩室を後にした。

 営業所を出、受付に控える警備員の老人にも挨拶する。老人は人懐っこい笑みを浮かべつつ手を振ってくれた。お千代も手を振り返し、其れから俺達は車に戻った。

 バタン、バタンと、ドアを閉じ、俺が運転席、お千代が助手席に収まる。

「彼は違うね」

 お千代が呟く。

「そうだな」

 車のキーを弄びながら、俺は応えた。十中八九、前原は浮気相手ではない。

「次に行こうか」

 お千代がファイルを開く。三人目は羽生(はぶ)幸之助(こうのすけ)、美容師。働いている美容院は椿山邸に程近い。俺はキーを差し込んで、「了解」と応えた。

 赤色テントウムシが十五号を戻って行く。秋の日は既に傾き掛け、街は橙色に染まっていた。

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