透明な依頼 壱
最初の一文字、肝心の出出しを模索する。が、考えれば考える程、思考の迷路は自己増殖を繰り返し、出口霞む迷宮の入口にて、ペン先は愕然と立ち止まった。
穏やかな日の光が庭の木々の紅葉を透かし、背中に当たって暖かい午前。陽光は家具や調度の木目を鮮やかに照らす。平和な事務所の中で俺は頭を抱えた儘、大判のポスターを眼下に、ボールペンを握り締めていた。
仕事机に置かれたポスターは此の事務所を宣伝する為のもの。近頃増え始めた依頼を更に増やす目的で作った、今朝方刷り上がったばかりの見本品だ。俺は先程から……一時間前から……此のポスターに添える宣伝文句を考えていた。
頭を抱え、語彙を駆使した画期的な売り文句を考えてみるも、物書きに関して全くの素人である俺には大分荷が重い。そも、文章力ならば、所長の方が圧倒的にある筈だのに、あの無茶苦茶な所長……お千代……は、俺が抗議すると、微笑と共に決まってこんな風に身を躱す――
「単純さは尊い。が、芸術に於ける単純さと云ふものは、複雑さの極まつた単純さなのだ――これは彼の文豪、芥川龍之介が随筆『芸術その他』の引用だが、これに習えば、私は少し複雑というか、煩雑に物事を考え過ぎてしまうきらいがあるものだから、こういった事には不向きなんだ。其れに、私は君の書く文章が好きなんだよ。君に自覚はない様だが、君の前職の影響が色濃く出た、古風な、と言う寄り、古風を模した様な、『退行』と呼ばれる現代に全く相応しい君の文章が、ね。まぁ、頑張ってくれ給え」
此の発言が賞賛の産物でない事を、俺は重々承知している。「君は単純だから逆に向いている」という詭弁にまんまと欺され、面倒事を引き受けた恰好だ。そもそも、俺の文体が時代掛かっているのは、お千代の所為ではないか。「報告書と雖も文学的に」なんて無茶な規則があり、しかも所長の好む文学がかなり限定的である事も手伝って、文才のない俺は人一倍苦労し、毎回四苦八苦しながら仕上げた報告書には駄目出しを喰らい、又書き直しと、所長の気に入る迄これを繰り返している内に、変な文章の癖が手に沁み着いてしまった、という始末……其れに、前職を持ち出すなら、俺より所長の方が、余程古式床しいではないか……と、胸中で愚痴を吐きつつ、其れでも一度引き受けた仕事、今更断れる筈もなく、嫌々ながら頭を抱えるハメと相なった。
……世紀の名探偵……。
……どんな難事件も必ず解決……。
……謎という錠前に対する、唯一の鍵……。
陳腐な文句を書いては消し、書いては消し、溜息を吐く。探偵稼業の売りといえば矢張り手腕が第一、依頼人はいち早く且つ正確に問題を解決して貰いたがっているのだから、当然、より優秀な探偵を抱えた事務所の門戸を叩く。
其の点に於いて、我が所長程の適任はいない。お千代は探偵の天才だ。贔屓目や宣伝ばかりでこんな事を言うのではない。俺は実際にお千代の実力を何度も目の当たりにしてきた。最近では世間も其の功績に注目し始めている。間違いなく、彼女は当代一の探偵だ。
何しろお千代は過去に……。
……そう、彼女一流の探偵的技能は、前職の技能を応用している部分が大きい。無論、あの人並み外れた頭脳は生まれ持った才能だろうが、其の頭脳に収められた多岐に渡る知見や、人心を見透かす観察眼は、彼女が前職勤務中に研鑽を積んだ賜物に相違ない。
何よりあの美貌……あれこそ最大の才能……。
ボールペンを机の上に放り投げ、座った儘背伸び、天井を仰ぐ。頭上ではシーリングファンが、クルクル、呑気に回っている。俺は凝り固まった頭を解す為、ぼぅっと、回るシーリングファンの羽を見るでもなく眺めた。
レトロ風の調度品ばかり揃う室内に降り注ぐ、白く透き通った朝の日光。東京の真ん中に構えた此の事務所は、高級住宅街の直中という事もあり、午前中はいつも閑静だ。陽光と静寂に包まれれば、眠気に負けた目蓋が落ちてくる。
……眠ったトコロで仕事が終わらない事は知っている。小さな妖精が俺の代わりにキャッチコピーを考えてくれる訳でなし、俺は目を開けて再びポスターを見下ろした。
ポスターには一枚の写真が印刷されてある。其処に写った豪華な屋敷、木立の緑の中に佇む建物は、一階全て赤煉瓦で組み上がり、二階は白漆喰の壁に、柱や梁の木が浮き出た外観、其れらの上に三角屋根が乗っている、田舎貴族の別荘みたいな建築物。これは分類すればハーフティンバー様式と呼ばれる事を、以前何かの拍子に知った。
が、此の写真の建物こそ、今現在、自分のいる場所だと思うと、少々違和感がある。写真だからか、其れともポスターだからか……ポスターの上半分には「蓼喰探偵事務所」と大きな文字が印刷され、下の方には住所と電話番号もある。が、矢張り現実味は薄い。自分の仕事場を客観視すると、途端に他人事の様に感じてしまう。
……気付けば、集中の糸はふっつり切れていた。思考と視線が勝手に泳ぐ。隣の机、スッキリ片付いた机上には、硝子のスタンド洋燈と大判の本だけが残されている。進まない仕事から逃げようと、本を手に取り、最初の数頁を捲ってみる。「実践合格!探偵免許」という表題の赤い問題集。兎ちゃんの物だろう。頑張って勉強しているのか。俺も昔、死に物狂いで試験勉強したものだ。
懐かしさから、載っている問題を幾つか解いてみようと試みる。が、所々怪しい。不勉強が祟り、記憶は風化して真っ平らになったらしい。焦った俺は、表面は平然と、後ろの方に纏められた解答を参照した。
【不貞防止法の歴史】
旧刑法第三十六号(① イ )には「(② エ )の婦姦通したる者は(③ ウ )に處す。其の相姦する者亦同し」とある。これは重大な男女差別であり、憲法に記された男女平等の精神に反するとして、法律の改正が求められた。これにより施行されたのが不貞防止法である。
不貞防止法は、従来の妻のみを罰する(①)とは異なり、不貞を働いた場合は夫妻の区別なく(④ ア )に処されるという点で革新的であった。又、婚姻後の不貞を予防する観点から、婚姻前の浮気に対しても明記がある。恋愛関係を証明する恋姻届を役所に提出した男女は、一方の不貞行為が発覚した場合、(⑤ オ )を起こす事が出来る。
ア 五年以下一月以上の禁錮
イ 姦通罪
ウ 六月以上二年以下の重禁錮
エ 有夫
オ 民事訴訟
「もう一回試験を受けるのかい?君はもう探偵だろうに」
不意に傍から艶やかな声がし、俺は問題集からやおら顔を上げる。
と、其処に妖精がいた。
白昼夢、いつの間にうたた寝したのか……。
「調子はどうだい?」
彼女が訊く。小柄で、絹と見紛う髪を持つ女。しかも異色な事に、髪は銀色、キラキラと秋の日の中で輝くのだ。
「お千代」
俺が名を呼べば、お千代は微笑み、又其の笑みが俺の心を一層掴んだ。
お千代は銀髪をサラサラとなびかせつつ一寸困った様に笑った。狡い笑顔だ。
「どうやら、調子は良くなさそうだね」
お千代は机に置かれたポスターを覗き込むと、キャッチコピーが空白なのを見、長い髪を耳に掛けた。完璧な造形の横顔に金色の瞳を添えて。
生来の銀髪と金瞳。浮世離れしたお千代の色合いは、しかし、造り物めいた美貌とよく調和し、不可思議な均衡を保っている。お千代はかなり小柄で身体付きも華奢なものだから、ともすれば少女にも見えるが、持ち前の大きな瞳や、言葉遣い、所作から滲む余裕は賢人の雰囲気を醸している。数年来の付き合いである俺でも時折化かされている気分になるのだから、取り分け初対面の相手はお千代の容姿に驚く。現に、新規顧客の中には、彼女を一目見るなり、物の怪か妖怪変化の類では?と訝んでくる者も屡々《しばしば》だ。銀狐が化けた姿と思うらしい。これだけ科学の進んだ世界に妖狐とは、時代錯誤、普段なら一考にも値しない。が、当の俺も、お千代はまるで幻想世界の妖精か、耽美主義者の作った人形とも付かぬ、生ける芸術と考えているから、そも、現実がどうこうと議論するだけ無意味かも知れない。
「いや、俺も必死に考えているんだけど、どうにも初めての事で、勝手が掴めなくて」
お千代の姿を観賞しつつ、俺は何とか其れだけ応えた。
今日のお千代は黒のロングジャケットを羽織っている。ジャケットは仕立て良く、小柄な身体を柔らかく包み込んでいる。又、其の下には白いフリルのキャミソールを着、キャミソールの襟元にはリボンが垂れていた。下半身には黒いショートパンツ……恐らくジャケットと揃いの物……を履いている。殊に、胸元で花弁みたく結ばれた白フリルのリボンが少女然と、夢の様な銀髪や、キレ長の金瞳、真っ白い肌と調和する。
「ふむ。どうも難しく考え過ぎている様だね」
お千代は上半身を起こして、
「複雑に考える必要はない。君が思った儘、事務所の其の儘を書けば良い。肩の力を抜いて、自然体で。さっきも言った通り、単純な方が良いからね」
「単純ねぇ……」
俺はポスターに視線を戻した。今、単純に心に浮かんだ言葉を書けば、「依頼は美女探偵、お千代にお任せを」とかそんな風になるが、其れでも良いのだろうか?
俺は首を横に振って、
「難しいな。何を書けば良いのやら……やっぱり、こういう仕事は俺より適任者がいると思うんだ。お千代とか、兎ちゃんとか」
そう言えば、今日は未だ彼女の姿を見ていない。ふと其の事に気が付き、職場を見回せば、コホンと、お千代が咳払いした。
「兎なら二階で勉強している。だからあの子の手は借りられない。其れに、君、確か本人から『兎ちゃん』は止めてくれと、そう言われてなかったかい?」
「あぁ……まぁ、そうなんだけど」
頬を掻く。確かに、当人から「ちゃん」付けで呼ぶのは止めて欲しいと厳しく頼まれている。が、未だ呼び慣れておらず、咄嗟の時などは「兎ちゃん」と口にしてしまう。
しかし、そうか、兎は勉強しているのか。ならば邪魔するのは忍びない。ではお千代はと言えば、俺に面倒事を丸投げした張本人、仕事を代わってくれるなど望むべくもない。
俺は小さく溜息を吐いた。
「ふむ、行き詰まっているみたいだね」
そんな俺を見、お千代は顎に手をやって、意味あり気に頷いた。こんな時、俺は必ず嫌な予感に襲われる。お千代が笑顔で考え事に耽る時程、怖ろしいものはない。
「成程。なら朗報だ」
ほら来た。これで朗報だった例がない。俺は自分の口許が引きつるのを感じた。
「朗報か。其れは是非、聞かせて貰いたいな」
「うんうん。君ならば、きっとそう言ってくれると思った。君も行き詰まっている様子だし、息抜きがてら、少し別の仕事をやって貰おうと思ってね」
お千代は美しい笑顔の儘、悪怯れもしない。
……心許してしまう俺も俺だが……。
「実は先程、珍しい人物から電話があってね。誰だと思う?何とね」
「うん」
「椿山だよ!あの椿山朔太郎!我が事務所も其れだけ有名になったという事だ」
「椿山……誰?」
俺が訊く。と、子供の様にはしゃいでいたのが一転、お千代は肩を落とした。
「椿山朔太郎を知らない……?」
「うん、全く」
「いけないね。君は不勉強でいけない。あんな文章を書くくせに、美術書の一冊、どころか本の一冊も開かないのだから」
酷く失望されている。お千代は嘆息するも、直ぐ気を取り直して、
「では、知らない君の為、簡単に説明しよう。椿山朔太郎というのは有名な画家の名だ。彼の油絵は国の内外を問わず人気がある。時には一枚数億円の値が付く物もあるくらいだ。来歴は省くけれど、画壇では高名な男でね。で、そんな彼からついさっき、ウチに電話があった」
「へぇ……」
俺は曖昧に頷いた。まるで遠い国の話。特に「一枚数億円の値が付く」と聞いた辺りで、俺の知る世界から遙か彼方へ話題は遠退いてしまった。
お千代が説明を続ける。
「其の依頼内容が少々面倒でね。今朝早く、彼の奥さんが自殺したそうなんだが、どうにもこれには裏があると、椿山本人は疑っているらしい。奥さんは元女優だからね。谷崎潤一郎原作の映画なんかによく出ていた、特に悪女役が見事な良い女優だったんだが……其れで、自殺の裏側を是非私達に調査して貰いたいんだとか」
「元女優……」
著名な画家の妻である元女優が自殺……本当に遠い、日常とかけ離れた世界の事件、現実離れした話題に俺が追い着く前に、妖精めいたお千代は既にやる気になって、
「依頼の詳細は彼の自宅で聞く事になっている。つまり事件現場でね」
と、出掛けの支度を始めていた。つまり、俺も調査に同伴しろという事か。
俺は椅子を立ち、仕事机から離れ、
「其れで」
と、お千代に声を掛けた。
「椿山さんの家には車で?」
姿見鏡の前に立つお千代は「うむ」と頷き、車のキーを此方へ投げ寄越した。
「彼の家は都内にある。運転は任せた」
「了解」
俺はキーを受け取り、出掛けの支度に取り掛かった。
と言っても、そう持って行く物もない。財布と、携帯と、探偵免許証くらいなものだ。
お千代は身嗜みを調えると、仕事場を横切り玄関を目指した。俺も後に附いて行く。廊下の途中、階段下に差し掛かった時、お千代は二階へ向けて、
「兎、私達は少し出掛けてくるから、留守番を頼むよ」
と声を掛けた。すると、少女の声で、
「はーい、いってらっしゃい」
と返ってくる。
そうして、俺とお千代は玄関を出た。
お千代は真っ直ぐ駐車場へ歩いて行く。カツカツと、石畳のスロープにヒールの音が鳴る。お千代の靴は黒に染めたスウェードのショートブーツ。
俺は玄関戸を閉めつつ、事務所を仰ぎ見た。ハーフティンバー様式の建物は、ポスターに印刷された姿と寸分違わない。強いて違う点を挙げれば、木々が秋色に染まっている事くらいだ。
玄関の鍵を閉め、俺も駐車場へ向かう。駐車場には車が一台だけ停まっている。真っ赤なアンティークカーは、いつ見てもテントウムシに似ている。
此の車も、事務所も、全てお千代の所有物だ。
お千代は既に車の助手席に収まっている。俺も運転席に滑り込み、次いでエンジンを掛けた。
「ラジオでも聞くか?」
「そうだね」
カーラジオを点け、車を発進させる。ラジオは丁度、コーナーが変わったところらしい。
「専門家の皆様には『不防法という現代の禁酒法』について議論して頂きました。皆様、有り難う御座いました。ではお天気です。本日は全国的に快晴、関東地方の空には秋晴れが広がるでしょう。気持ちの好い天気ですね。其れでは皆様、本日十一月六日火曜日も、どうぞお元気で」
門扉を抜け、赤色テントウムシは事務所の敷地外、公道に出た。
品川駅を通り過ぎ、少し南へ行った場所に其の家は建っていた。
道中、お千代に聞いた話だと、椿山は古い美術館を買い取り、アトリエ兼自宅として改築したらしい。流石は稀代の芸術家、到着し実物を目の当たりにすると、成程確かに、大小幾つもの正立方体を規則的にくっ付けた様な外観の家は、佇まいからも芸術的な趣が滲み出ていた。
が、折角の芸術性も今は形無しになっている。警察の物々しい出入りと、「立入禁止」を示す無粋な黄色いテープが玄関に張り巡らせてあるからだ。
俺はハンドルを切り、道端に連なるパトカーの車列の最後尾に車を停めた。住宅街特有の狭い車道を塞ぐのは心苦しいが、エンジンを止め、キーを抜き出す。と、お千代はもう車を降りていて、スタスタと現場に歩を進めている。
非常線の出入口に立つ門番代わりの警官に、お千代が探偵免許証を示す。俺も慌てて車を降り、お千代の隣に立って、同様に探偵免許証を見せる。
「探偵だ。椿山氏から依頼の電話を受けて来た」
お千代がそう言うと、制服警官は驚いた様に目を見張った。無理もない。銀髪金瞳の美女など、一般には珍しい以上に奇異である筈。更に、其の奇妙な色合いを物ともしないお千代の造形が、却って奇怪な印象に輪を掛けている。きっと門番の目には精巧な人形が動いて喋っている様に映っている事だろう。
突然現れた幻想的な女に面喰らいながらも、警官は何とか「どうぞ」と非常線の黄色いテープを捲り上げてくれた。
……テープを潜る際、意図せずお千代の銀髪が頬を掠め、俺は少し動揺する……。
非常線の中は、玄関迄の前庭にすら、制服、私服の警官入り乱れ、銘々、忙しなく捜査に当たっていた。鑑識官の姿もチラホラ見える。警官達が立話する横をお千代は我が物顔で突っ切り、戸口のインターホンを押した。
……ピンポーン……。
場違いに平和な呼び出し音。警官達の何人かが此方を振り返る。唯でさえ目立つお千代は平気な顔、萎縮したのは寧ろ俺の方で、居た堪れず方々に「どうも」と会釈してしまう。
然う斯うしている間に、ガチャリと音を立てて玄関戸が開き、中から男が一人、顔を出した。
「はい……」
血色の悪い其の男を見、俺は直ぐ椿山だと確信した。椿山と面識がある訳ではない。どころか、顔写真を見た事もないが、男のこけた頬や、落ち窪んだ双眸は、明らかに絶望の賜物である。髪を短く刈り込み、肩幅はあるが肉の付いていない不安定な身体の、ある意味芸術家らしい男は、此の場にいる誰よりも失意の底にいて、暗澹たる影に身を沈ませ、ともすれば「此の男こそ死人ではないか?」と思わせる程。正しく、妻に先立たれた夫の風体だ。
そんな、生気を失った男を前にしても、お千代はお得意の営業スマイルを浮かべ、改めて探偵免許証を示した。
「椿山さんですね?どうも初めまして。御連絡頂いた『蓼喰探偵事務所』の所長、蓼喰千代です」
「と、助手です」
俺も免許証を見せる。と、椿山の青ざめた顔に少し血の気が戻り、
「貴女方が……どうぞ、お待ちしておりました」
と、お千代の髪や瞳にも頓着しない様子で、急かす様に俺達を家に招いた。
「失礼」
「失礼します」
定型通りの挨拶を済まし、俺達は玄関を上がった。何人かの鑑識官が屈んでいる合間を縫い、靴を脱ぐ。
玄関を上がると正面に硝子窓に区切られた中庭が臨めた。人の死んだ朝だというのに、中庭に面した窓から差し込む陽光は美しく、小綺麗でモダンな内装を白く浮き上がらせる。家主である椿山の案内の下、無垢フローリングの廊下にスリッパを滑らせ、中庭を迂回する様に進む。初めて訪ねる家が(其れも、元が美術館という事もあって)珍しく、つい辺りを観察してしまう。と、廊下の壁に飾られた小さな油絵が目に入り、そう言えば、此の男は有名な絵描きなのだと、今更ながら思い出す。
飾られた油絵は風景画だった。山間に湛えられた湖畔の様子が、幻想的に描かれている。画の中の輪郭は全て朧気に、全て優しいかたちを持っている。霧漂う森の中、湖畔の水面は夕日を照り返し、水辺には女が一人、裸身を洗っている。女の輪郭線、特に腰周りは真紅で描かれ、其れが作品の印象を一段と官能的に仕立てていた。
素晴らしい画だ。が、俺は其の画の素晴らしさを賞賛するより先に「一体、此の画には幾らの値が付くのだろう」なんて俗物的な物の見方をした。前を行くお千代も此の画を見、溜息を漏らしている。対して、俺は此の油絵に触れないようビクビクしていた。万が一傷でも付けたら、賠償金はどれ程か、其ればかりが気掛かりだった。
と言うのも、廊下を進む間に、何人もの警察官とすれ違ったからだ。身体を避けた拍子に転びでもしたら事だ。其れ程に廊下の往来は激しかった。
途中、開け放された扉があり、中を覗けば其処は大部屋、多くの私服警官と鑑識官がひしめき合っていた。故に「あぁ、此処が現場なのか」と勘付く。
「どうぞ此方へ」
先頭を歩く椿山は、しかし、現場の部屋から離れ、廊下の突き当たりにある別室に俺達を通した。
「済みません、こんな部屋にお通しして。此処以外は何処も警察ばかりで、どうにも落ち着いて話せないものですから」
恐縮する椿山に、お千代は手を振った。
「いえ、お気になさらず。寧ろ私としましては、こんなかたちでも、貴方の大切なお部屋を拝見する機会を得られて、光栄に思っているのですから」
お千代の声が弾んでいる。反対に、俺は緊張から一歩も動けずにいた。
「まさか、椿山朔太郎のアトリエを見られるなんて」
心底嬉しそうにお千代が手を合わせる。矢張りそうなのか。俺は部屋を眺めながら、勝手に冷や汗が吹き出るのを感じた。
其処は絵の具の匂いの充満した、雑然とした部屋だった。北向きの大きな窓の傍に立つイーゼルには、下絵の途中らしいキャンバスが掛かり、又、部屋の壁一面には、大小様々な完成品が、押し合いへし合い、飾られていた。
壁に飾られた画の主題は多種多様、風景画もあれば、静物画、裸婦の画もある。が、其の描き方、筆のタッチは全て同じ、同一の作者による油絵だと直ぐ判る。此処の画全て、椿山朔太郎の作品に相違ない。
此の部屋にある絵画だけで総額はどれ位になる?
芸術を解さない俺には、美術品は金額でしか計れない。が、其れでも、此の空間の神聖さくらいは理解出来る。俺は一歩一歩に恐怖しつつ、部屋の中央に据えられた長ソファにやっと腰を下ろした。
少し遅れて、お千代も俺の隣に座る。お千代はショートパンツから伸びる白くしなやかな足を組みながら、依然として周りの油絵を観賞していた。
「……奥様を深く愛してらしたのですね」
出し抜けにお千代はそんな事を言った後、徐に視線を動かし、憐憫の瞳で以て椿山を捉えた。
「廊下にあった画もそうでしたが、椿山さん、貴方の画は実に様々だ。習作、大作……色々あるけれど、しかし其れら全ての画に描かれている人物は唯一人。丁度、あの裸婦画などは顕著ですね。奥様を描かれた画だ。其れにしても初めて見るなぁ……貴方の個展には必ず足を運んでいますが、あれは未発表ですね?こんな折に新作にお目に掛かれるとは」
金色の瞳が動き、うっとりと画を眺める。お千代が見惚れているのは臙脂色を背景にした丸テーブルの画だろう。厚手の白いテーブルクロスが掛けられた卓上には、砥部焼らしい太った花瓶が置かれ、花瓶の口からは緑の茎が多数伸び、赤や青の花が大きく咲いている。花々の向こう、即ち画面奥に裸婦が一人座っている。あれが奥さんか。裸婦はテーブルに肘を付き、そっぽを向いていた。
「……よく気付かれましたね」
椿山は力なく微笑み、俺達の目の前、一人掛けのソファに腰掛けながら、重た気に口を開いた。
「貴女の言う通り、あれ全て妻を描いたものです。私は妻を愛していた。心から。だから、人物は彼女しか描きたくなかった……だからこそ、貴女方をお呼びしたのです」
項垂れる椿山。
お千代はロングジャケットの裾を直すと、本題を切り出した。
「此の度は本当に御不幸で……お悔やみ申し上げます。其れで、早速で申し訳ないのですが、依頼内容を御説明頂けますでしょうか?」
「えぇ、はい……」
憔悴の淵に立つ椿山は、荒む前髪の合間から目線だけを上げた。アトリエの大きな窓から差す光は、椿山の背に掛かり、此の男の背負う影を一際強調している。新鮮な悲哀の中、椿山は訥々と、俺達を呼び出した経緯について語り始めた。
お電話差し上げた際、事情は簡単にお話ししたと思いますが、今朝、妻が死にました。ダイニングの梁に縄を掛け、首を吊ったのです。妻の死を目撃した私は、這々の体で警察に通報しました。間もなくパトカーが駆け付け、捜査が始まったのです。
やって来た警察の判断に因れば、妻は自殺という事でした。
争った形跡はなく、死んだとされる今朝、此の家には私と妻しかおりませんでしたし、家の鍵は何処も掛かった儘だったのです。
つい先程迄、私も警察に散々事情聴取されました。警察の関心事は矢張り自殺の動機らしいのですが、私には妻が自殺する心当たりが一つだけあるのです。
私は唯の世捨て人、しがない絵描きでしかありません。が、殊に妻に関しましては、誰よりも詳しいと自負しております。他ならぬ、愛する妻の事ですから。何よりも大切な、妻の事でしたから……。
……失礼。其れで、妻の自殺の根拠を貴女方に裏付けて頂きたく、お呼び立てした次第で……どうか、御助力願えませんでしょうか?
大体こんな内容を、椿山はたっぷり時間を掛け告白した。其の悲痛な声音と、尋常ならざる居住まいに、俺はスッカリ圧倒されてしまったが、お千代は冷静を保ち、足を組んだ儘に椿山を見据えていた。
「成程、承知しました。私達でお力になれるのであれば、喜んで承りましょう」
「本当ですか……!」
椿山が顔を上げる。其の目は潤み、藁にも縋る思いで溢れていた。
「えぇ、勿論」
お千代が頷けば、椿山の目から一条の涙が零れ出で、
「有り難う御座います。有り難う御座います」
と、何度も繰り返すのだった。
一体、此の男の胸中にどれ程切迫した悲痛があるのか。当然、俺には推し量る事も出来ない。が、同じ男として、愛する女の死という現実は、最早言葉にするのも怖ろしい事であるのは間違いない。
俺はチラと、お千代の横顔を盗み見た。
……きっと、お千代が死んでしまったら、俺はこれ以上に嘆くだろう……。
そんな想像をすると同時、我に返る。縁起でもない。俺は即座に頭を振って、思考を掻き消した。
隣に座るお千代は、憐れみを残しつつも仕事の話を始めた。
「では椿山さん、お辛いとは思いますが、其の、自殺の根拠とやらを、お聞かせ願えますでしょうか?」
「えぇ、はい……実は……いえ、此処迄醜態を晒した上、更にお恥ずかしい限りなのですが……妻は、浮気していたみたいでして」
「浮気?」
声を上げたのは俺だ。其の単語は取り扱いが難しい。特に此の御時世、浮気という言葉の持つ意味は甚大だ。
「あの、済みません」
堪らず、俺は横から口を挟む。
「失礼ですが、其の、浮気というのは本当なんですか?探偵に調べさせたりとかは」
「一度、別の探偵に依頼しましたが、間男の正体は掴めませんでした。しかし、何しろ妻本人の口から聞き出した真実ですから」
「奥さん本人が……」
浮気を自白するとは大胆な女だ。俺の呟きは驚嘆で染まり切っていた。其れを聞き取ったのだろう、椿山は歯切れ悪くも委細を説明し始めた。
「驚かれるのも無理はありません。ですが……自分の妻を自慢するのもどうかとは思いますが……妻はあの通り美人ですから、結婚したくらいで世間が放っておく訳もなく、兆候は前々からあったのです」
そう言うと、椿山はアトリエに飾られた油絵を無雑作に指差した。俺は壁に掛かった大きな裸婦画を見、頷く。夫の色眼鏡を勘定に入れてもお釣りの方が多いくらい、彼の妻は美しかった。女性的な曲線美を保った身体と、女優然と際だった美貌。長い黒髪と白い肌、赤い唇が好ましい対照をなし、画の中で巧妙に纏まっている。何よりあの表情……意志の強い瞳は挑戦する様に此方を見詰め、唇の端を少し上げて嘲る様な微笑みを浮かべ、女は裸の身体を横たえている。
「仰言る通りですね」
俺は吐息と共にそう呟いた。
椿山は陶酔した表情で、自分の画を眺め、かと思えば悲嘆に目を沈ませ、
「判り切っていた事です。結婚当初から、私には勿体ない妻でした。私は情けない男なんです。体力もありません。妻はきっと不満を募らせていたのでしょう、外に男を作って、日頃の鬱憤を晴らしていました」
椿山は感情の起伏に翻弄されつつ、上擦った声で言い継ぎ、
「茶番ですよ。御存知でしょうが、私の妻は結婚前、女優業を営んでおりまして、演技はお手の物なものですから、私も最初は彼女の良妻振りにスッカリ騙されていたのです。女は女優と言いますが、本当ですね。浮気をまんまと隠蔽されて、私は安穏と結婚生活を続けていたのです」
女は女優。椿山がそう口にした時、俺は咄嗟にお千代の横顔を窺った。が、俺の心配も余所に、お千代は神妙な顔で口を挟んだ。
「済みません。お話の途中ですが、一つ、お伺いしたい事が……貴方は普段、此のアトリエで画を描かれている、つまり御仕事されている筈ですね?其れで、奥様も銀幕を退かれてからは、専業主婦としてズットお家におられたと聞き及んでおります。そんな状況下で、奥様は不貞を働かれていたのですか?」
お千代の疑問を受けた椿山は目を伏せて、
「情けない限りですが、どうもそうらしいのです。鈍感な亭主だと呆れられるでしょう?私も、まさか自分が此処迄愚鈍な男だとは、思ってもみませんでした。まったく、私は、画に向かっている時などは、周りが見えなくなる性質なものですから……」
椿山の嘆きは続く。
「しかし、あんまり私が愚鈍だから妻も侮ったのでしょうが、次第に綻びが見え出しました。努力する必要がないと判ると、演技も手を抜くようになったのです。驕れる者久しからずとは、本当ですね。鈍い私ですら妻の態度が妙な事に気が付き、そうして一度気が付いてしまうと其ればかりが気掛かりになって、仕事も手に付かず、不安が高じた近頃などは散々問い質したものです。お前は浮気しているだろう。私は知っているのだぞ、と……妻は最初こそ否定しました。『証拠はあるの?』と。事実、何の証拠もありませんでした。しかし、段々観念する気になったのでしょう、先日、私が詰め寄ると、開き直る様な態度でしたが、やっと浮気を自白しまして」
椿山は頭を抱え、声を湿らせた。
「其れはもう悩みました。妻が浮気を告白した。私はこんなに妻を愛しているのに、妻は間男と肌を重ねている。悩んで悩んで、気が狂うかと思いましたよ。そんな折です。妻が死んでしまったのは」
「其れが今朝、という訳ですか」
と、お千代が訊けば、椿山は「はい……」と弱々しく頷いた。
「成程、御事情は把握しました」
お千代は足を組み替えて、
「其れで、椿山さん、御依頼の詳しい内容をお教え願えますか?先程、浮気の根拠を裏付けて欲しいと伺いましたが」
と、本題に入った。
「えぇ……お二人には、妻の浮気相手を捜して頂きたいのです」
項垂れる椿山は、悲哀の代わりに怒気で声を震わせているらしかった。膝に置いた握り拳も戦慄いている。
「妻は浮気を告白しましたが、間男の名前は終に白状しませんでした。恐らく庇っているのでしょう。其の男に迷惑が掛からないように……自殺も犯人の一つの告白なりと申しますが、若しかしたら、自殺を決意した本当の理由は、永遠に口を噤む為だったのかも知れません。死人に口無し……其れ程間男を愛していたのでしょう。私は其奴がどうしても許せません。正直に申せば、嫉妬しているのです。妻が死んでしまう程愛していた其の男が、殺したい程憎らしい……いえ、本当に殺す積もりはありません。唯、一矢報いたい。今更手遅れですが、せめて裁判にくらい掛けてやりたい……其の為に、間男の正体を掴む必要があるのです」
椿山は我を忘れていた。が、其れも仕方ない。愛していた分、裏切られた時の落差は大きい。其れだけの高さから突き落とされたら、理性だって破裂する。
……しかし腑に落ちない点がある……。
俺は怖ず怖ず手を挙げ「あのぉ」と怒れる椿山に声を掛けた。
「えっと……今の御説明で、奥さんが浮気されていた事は充分判ったのですが、しかし椿山さん、貴方は其れを知った時、どうして警察に連絡しなかったのでしょう?貴方と奥さんは御結婚されていたのだから、警察も無下にはしなかったでしょうに」
そう。此処迄我を忘れて怒り狂う椿山が、何故妻の不貞を公的に弾劾しなかったのか、不思議で堪らなかったのだ。
不貞行為を本人が自白したならば、不貞防止法(通称「不防法」)に則り、少なくとも警察に通報出来る。そうすれば警察も大々的に捜査し、間男は見付かる。奥さんも捕まるだろうが、自殺という結末は回避出来た筈だ。
実際、昨今の社会問題として、不貞に走った者が己の行いを隠す為、更に凶悪な犯罪、即ち配偶者や浮気相手の殺害、或いは罪の意識に堪え切れず自殺する、といった泥沼の事件が急増している。俺達探偵は、手の回らない警察に代わり、頻発する浮気を徹底調査し、斯様な悲劇を食い止めるべく捜査権を与えられている……だというのに、自殺されてしまっては後の祭り……以前に別の探偵を雇ったらしいが、探偵が無能だったのか、調査が余程難しかったのか、結局間男は見付けられなかった。ならば、椿山は其の段階で警察へ駆け込むべきだったのだ。
……因みに、全くの余談だが、俺は過去に一度、浮気で裁判を起こされた事がある。詳細は省くが、言い訳するなら、あれは職務上の事故だった。ともあれ、婚前だった事もあり、民事裁判の罰金刑で済んだ。とは言え、有罪判決のレッテルは世間体が悪く、判決後、前職を追われ、俺は敢えなく無職に身をやつしたのだが、そんな俺を拾い上げ、探偵に仕立て上げた人物こそ、今隣に座るお千代であった。
……尤も、俺の浮気の証拠を揃えた探偵も又、お千代なのだが……。
まぁ、俺の身の上話はさて置き……俺は椿山の返答を待った。
椿山は手を組み、暫く指をまごつかせていたが、やがて低い声でこう応えた。
「……通報なんて出来る筈ないじゃありませんか。妻を犯罪者にするなんて……でも、そうですね、妻を牢屋に閉じ込めておけば、或いはこんな事にはならなかったのかも知れません。妻を牢屋に入れておけば、少なくとも、妻は死なずに済んだのですから……」
椿山は悔やむ様に眉間に皺を寄せ、押し黙った。アトリエに沈黙が落ちる。窓の外から小鳥の鳴き声が聞こえてくる。俺も椿山も、何も言えなかった。
「委細承知しました。椿山さん」
と、流石はお千代、重たい沈黙も難なく破り、依頼内容の確認に入った。
「つまり、警察とは別に、生前の奥さんの浮気相手を突き止めて欲しいと、そういう事ですね?」
「えぇ、其の通りです。どうかお願いします。私はせめて、妻の浮気相手の正体を曝きたいのです」
「お任せ下さい。しかし一応確認を。浮気と断言されておりますが、調査対象は素人に間違いありませんか?若し仮に、野郎茶屋の色子などが奥様の相手だった場合、現行法では浮気は成立せず、見付け出してもお咎めなしという決着になりますが」
加えて、相手が奥さんを既婚だと知らない場合、即ち奥さんが自身を独身だと偽っていた場合も、相手を不貞に問えない。どころか、逆に、相手が詐欺罪で訴えてくる可能性すらある。しかし、本件では奥さんが元女優なので、既婚者である事は世間に充分周知されている(俺は知らなかったが)と想定される為、此の条件は適用されないと思われる……こういった「不防法違反の要件」は、探偵免許試験に於ける必修項目なので、俺も昔、嫌という程勉強したなと、頭の中で独りごちる。
其れはそうと、お千代の質問に、椿山はキッパリと頷いた。
「えぇ、素人です。妻とは全財産を共有していますが、其の家計も浪費されていませんでした。他の探偵会社も妻の茶屋通いは否定しています」
「そうでしたか。いや、御気分を害されたなら申し訳ありません。何しろ最近は、色子や花魁に逆上して探偵を呼ぶ依頼人も少なくないものですから……其れでは事務手続きに入らせて頂きます。椿山さんは探偵保険には御加入済みでいらっしゃいますか?」
「はい。以前探偵に依頼した際、普通に頼んだのでは依頼料が高くなると聞かされまして、其の時に入りました」
「料金は、場合にも因りますが、どうしても一つの依頼に係り切りになりますから……今回は私と助手の二人が調査するという事で宜しいでしょうか?一週間毎に、二人分の調査費が発生しますが」
「構いません。是非お二人で、必ず間男を見付けて下さい」
「尽力致します。では其の様に契約を……」
お千代が瞳で合図してくる。俺は懐から自分の携帯を取り出した。一見したところは黒い板だが、此の中に一通りの書類データが入っている。俺は頭の中で携帯を操作し、契約書の立体映像をローテーブルの上に投影した。椿山は鉛筆で黒く汚れた指先で其の契約書に署名し、拇印を捺した。
事務手続が片付き、俺とお千代は「有り難う御座います」と、正式に雇い主となった椿山に頭を下げた。隣で銀髪が細い肩から滑り落ちる気配がする。俺達は揃って顔を上げ、俺が契約書の映像を保存している間に、お千代は早速調査に取り掛かっていた。
「恐縮ですが、椿山さんは、何か、間男について御心当たりは御座いますか?証拠や手掛かりになりそうな物などがあれば、助かるのですが」
「申し訳ありません。私も家中を捜したのですが、証拠の類は見付けられず終いでして。多分、妻が自殺する前に全て処分してしまったのでしょう。相手は名前も素性も掴めない、まるで姿の見えない透明人間みたいな奴なんです。しかし手掛かりは……少しお待ち下さい」
そう断りを入ると、椿山はソファを立った。そうしてアトリエの窓際に近付くと、書類ファイルを手に戻って来た。
椿山は真剣な面持ちでファイルをお千代に手渡した。
「どうぞこれを」
「拝見します」
お千代がファイルの表紙を開く。俺も横から覗き込む。
ファイルには数十枚程度の透明な紙が収められていた。
「あぁ、済みません。認証していませんでしたね」
椿山は慌ててファイルを取り戻し、表紙を撫でた。
「済みません。これで大丈夫です」
お千代がもう一度受け取る。椿山が撫でたファイルの表紙には「イセ顧問探偵事務所」と印字されていた。業界では知られた、敏腕探偵のいる事務所の名だ。其の表紙をお千代が開く。と、今度は透明な紙でなく、キチンと文字の書かれた白い紙が収められていた。どれも顔写真の載った履歴書の様な物で、其の顔写真は全て男のものだ。
「これは以前に雇った探偵が纏めた資料です。妻は女優業を引退してから極端に男の付き合いが減りました。なので、今でも繋がりのある男全員を調べ上げて貰ったのです。心当たりという程ではありませんが、御参考にはなるかと」
以前に雇った探偵とは「イセ顧問探偵事務所」の者だったのか。あの事務所の探偵が終に間男を見付けられなかったとは意外だが、こんな置き土産を残してくれていて助かった。依頼を達成出来なかった一流探偵の、苦し紛れの産物かも知れないが、取っ掛かりには充分、これは有り難く使わせて貰うとしよう。
お千代がパラパラと捲る男達の名簿を、俺も興味深く目で追っていった。
一.辻井湊 二十六歳 ウェイター
二.前原達彦 二十ニ歳 運送業者ドライバー
三.羽生幸之助 三十八歳 美容師
四.東海林正信 五十五歳 呉服屋店員
五.蝋山辰巳 四十歳 元マネージャー
…………
お千代は最初の数枚を捲ると、何故か眉根を少し上げ、ファイルを閉じた。
「貴重な資料を御提供下さり、感謝します。直ぐにも取り掛かりますので、本日はこれで失礼致します……ほら君、呆けてないで、サッサと行くよ」
お千代に急かされた俺は、椿山に頭を下げつつソファを立った。
ファイルを抱えたお千代と共にアトリエを去る間際、椿山に「どうか宜しくお願いします」と念押しされる。其の声には、妻の不貞を知ろうとする夫の、焦りと恐怖と高揚が、複雑に織り込まれていた。
廊下の警官達は依然として忙しない。すれ違う警察官の肩越しに、廊下に飾られた湖畔の風景画を見る。其の画の中の女……腰周りを赤く縁取られた水浴の女が、俺には先程より妖しく見えた。




