休日 参
明治通りを南へ、渋谷駅前を過ぎ、並木橋の交差点を右折、其処からお千代の案内に従って運転したのだが、誇張でなく店は非常に判り難い場所にあった。リビア大使館を目指す途中、思い掛けず細い道に入り、路地裏を走って暫し、小さな喫茶店の隣に建つアパートが目的地だった。
喫茶店に設けられた一台分の駐車場に停めて良いというお千代の言を信じ、車を降りる。
周囲を見回しても、これといった特徴は見当たらない。車一台分のか細い道路を電柱が一層狭めている。両側の建物は皆肩身が狭そうに、接し合う様に佇んでいる。日光は建物に遮られ、此処はまるで渓谷の底、薄暗く、青空は細長く切り取られている。こんな風景は都内だけでごまんとありそうだ。
そんな風景に溶け込む、有り触れたアパートへお千代は近付き……かと思えば玄関前は通り過ぎて、建物脇、地下へ通ずる階段の前で立ち止まった。
「ほら、こっちだ。兎も、もう怖くはないだろう?」
お千代がニッと笑って訊けば、兎は「まさか」と苦笑を返した。
「他人の目を考えると、未だ心臓の底がヒヤッとしますけど、これもリハビリなら、諦めます」
「素晴らしい心掛けだ。さぁ、最後の店へ行くとしよう……」
銀髪を翻し、お千代が階段を下りて行く。兎も後に続く。こんな所に服屋があるのか、甚だ疑問だが、俺も二人に附いて行く。
赤煉瓦の壁に挟まれた階段を下り切ると、玄関口か、煉瓦造りの二坪に出た。頭上に吊り下がった洋燈だけが辺りを照らす地下の、奥に控えた古めかしい木戸を、お千代が躊躇なく引き開ける。内側から漏れる橙色の光に吸い込まれ、俺達は扉を抜けた。
そうして言葉をなくした。
最前の、陳腐な景色が、地下に潜っただけで、何処か遠くへ飛び去ってしまったのだ。
広い広い空間。高い天井に貼り付いた、溢れんばかりの橙色を放つ巨大な照明は、魚の背鰭が二重にとぐろを巻いている様な奇態な恰好をしている。照明は同じく橙色の壁に跳ね返って一層光度を増している。此の壁も粘土細工の様な、有機的な凹凸を繰り返す妙なもの。壺の内側か、波打つ洞窟の中にいるみたいだ。床はコバルトブルーのタイル貼り……タイルは床に近い壁下部も浸食している。
そんな、異界らしい、生きている様な店内には、異様なオブジェと共に、極彩色の海、お待ち兼ねの衣装が陳列されていた。
此処が服屋だとこれで証明された訳だが、其れにしても、内装と同じく陳列された服も奇妙な物が多い。入口近く、濃緑色のハンガーラックに掛かった、男物らしい金ボタンのテーラードジャケットは、襟や背面に一から十二迄のアラビア数字が印刷され、加えて左袖を捲った裏地には腕時計の柄が刺繍されていた。其の隣に吊られた婦人用の真っ赤なベルベッドドレスには、首元から腰に至る間に鋲がこれでもかと打ち込まれている。
これら奇妙な商品が溢れんばかりに並び、更には服達を彩る種々雑多な模様の数々が、店内を怪しく覆い尽くさんとしている。言うなれば模様の樹海に迷い込んだ具合。男物も女物も入り乱れ、時には男女どちらの物か判らない様な衣装の間を、お千代は訳なく掻き分けて行く。息苦しいくらいの衣装に挟まれつつ、俺と兎も必死に附いて行く。
と、隙間ないカーテンめいた布の密林が俄に開け、目の前に円形の広間が立ち現れた。
異様な衣装に取り囲まれた広間は、丁度照明の真下に当たり、見上げれば二重巻きの魚の背鰭が其の黒いギザギザ迄も鮮明に観察され、又照明の大きい事……悠に二メートルはある事……も充分に見て取れると同時に、鼓動を感じる様な、頭上に怪物が潜んでいる様な、そう思えば押し潰される様な、頭から噛み付かれる様な錯覚に陥った。
床一面の冴え冴えと青いタイルは、周囲の橙色と相まって、砂漠に湧き出た美しい湖の様相を呈していた。陶器めいてすべすべとした、踏めば高らかな靴音の鳴る、ひたすらに深い青色の湖面。
其の湖面に若い女がいた。精霊の様な彼女は椅子に座った儘、火の点いていない煙草を咥えた口許を、微かに綻ばせた。
「いらっしゃい、お千代さん」
仄かに茶色掛かったボブカットを左分けにした涼し気な瞳の美女は、お千代にそう声を掛けると、前髪を改めて左耳に掛けた……其の際、耳たぶから下がる、金色の目を象った立派なピアスが、キラキラと、音を立てて揺れた。
俺は不思議な感覚に襲われた。無意識に椅子上の美女を眺める……赤い毛糸編みのシャツ型ワンピースに、傷口からチェック生地の覗くダメージデニムと、銀のパンプス、白いカットソーを着込んだ彼女……カットソーの胸元には――καλλίστῃ――というギリシャ文字の綴りが印刷されている……美女が頬杖を突く机の上には、鉢植えの多肉植物が沢山と、文庫本が二冊、無雑作に置かれている……本の題名は「金色の死」と「パノラマ島奇談」……其れから人の頭蓋骨を模した(よもや本物ではあるまい)置物も。
其の頭蓋骨と、無表情ながら目の醒める様な美貌の組み合わせに、俺は既視感を覚えた。記憶の光景に重なるものがある……俺は此の女と面識がある。
……そうだ、彼女は昔、振袖姿だった。そうして座敷牢に閉じ込められていた……。
「御予約通り三名様。お千代さんとは一昨日会ったばかりだけど、貴方は久し振りね、助手君」
美女の無表情が僅かに綻び、俺に微笑み掛ける。間違いない。俺は彼女と会った事がある。だけでなく、名前も知っている。
「お久し振りです、錦馬さん」
「御無沙汰。覚えていてくれたのは嬉しいけど、今はサユリって呼んで欲しいな」
彼女、錦馬サユリは、知性が底から光る瞳で俺を見据えた。昔、陰惨な殺人事件の最中、座敷牢の中から、事件解決の為、何より自らの容疑を晴らす為に、お千代と俺に示唆を与えていたあの頃の儘だ。
あれは一年半前になるか……難解極まるあの事件は、お千代とサユリ両名の頭脳があってはじめて大団円を見た。若しどちらか一人でも欠けていたら、事件は迷宮入り、連続殺人鬼は野に放たれ、反対にサユリは今も座敷牢、いや、最悪本物の牢屋に入れられていたかも知れない。
眼前にて再び相見えた名探偵二人。其の片割れであるお千代は、もう一方の片割れ、サユリの服に書かれた――καλλίστῃ――の文字を、持ち前の金瞳で注視しつつ口を開いた。
「其れにしても『不和の林檎』とは、相変わらず、全て見抜いた様な皮肉を用意する」
「美人が三人で、数も合うから」
サユリは淡々と無表情で、
「其れに、こういうのは色男の宿命みたいなものだし」
と、俺を一瞥した。が、突然林檎だの宿命だの言われても、意味が判らない。俺は何と応えたものか、返事に窮し、阿呆らしく口をポカンと開けた。
と、代わりにお千代が訳知り顔で応えた。
「『パリスの審判』か。戦争にならなければいいが」
更に聞き慣れない単語が増えた。審判?審判とは?俺が何か判決しなければいけないのか?何を?そうして、何故?
と、益々混乱の度合いを増した俺の傍で、兎がマジマジと――καλλίστῃ――を赤瞳で凝視しつつ、呟く。
「『最も美しい女神へ』……」
「当たり」
耳聡くこれを聞いたサユリは兎を見やって、
「其の通り。これは『不和の林檎』に書かれていた有名な一文。其れにしても、誰が一番美人か?なんて、揉めるに決まってる。結果、トロイア戦争の引き金になったし」
サユリが椅子を立つ。咥えていた煙草は骸骨の口に預け、兎の許へやって来る。
「初めまして、サユリです」
名前と共に差し出された手を、兎は怖ず怖ず取って、
「兎です……」
「兎さん。貴女の噂はお千代さんからちょくちょく聞いてます」
サユリは再び無表情を少し綻ばせた微笑を浮かべ、兎の手を握った後、瞳だけでお千代を見やった。
「で、人生の先達として、此の子にアドバイスの一つでもした方が良いの?」
「まさか。私は唯、服を買いに来ただけだよ」
お千代が不敵な笑みを返す……大きな照明をマトモに浴び、金瞳はより煌びやかだ。
「あら、そう」
金色のピアスを揺らし、サユリは普段の無表情に戻って兎に向き直った。面喰らったのは兎である。握手を離した際、兎は困った様にお千代とサユリを見比べて、
「えっと、皆さんは古いお知り合いなんですか?」
「そんなに古いって訳じゃないわ。初めて会ったのは一年半くらい前。全く、お千代さん、何にも話してないのね。相変わらず意地悪なんだから」
溜息一つ、サユリは振り返ると、真っ直ぐ椅子に戻った。骸骨の口に挟んだ煙草も取り戻している。其の一連の動作を、お千代はニヤニヤと、意地の悪い笑みを浮かべながら観察していた。
「名探偵らしい説明不足。其れとも自供させる事こそ捜査員の矜恃なのかしら」
サユリの不満にも、お千代は依然何も語ろうとしない。兎も首を傾げるばかり。俺は此の不思議な沈黙に堪え切れず、俺達の関係を兎に簡単に説明した。
「サユリさんは以前、ウチの事務所に依頼に来た人なんだ。其の際、依頼人なのに俺達の仕事を手伝ってくれたりして……」
「何しろ私に殺人犯の嫌疑が掛けられたからね。其の容疑を晴らす必要があったの」
俺の台詞を遮るかたちで、サユリは説明の後を引き取った。
其の時、店内の何処かでオルゴールが鳴った。金属的な、荘厳な音色のする方へ目をやると、オルゴールこそ見えなかったが、重なり合う衣装の向こう、波打つ壁の片隅に、小さな窓硝子を発見した。天井に程近い場所に空いた、凡そ十センチ四方の小窓から、冬の西日が柔く差し込んでいる。
オルゴールの音が止むのを待って、サユリは再び口を開いた。
「仕方ない。大人しくお千代さんの企みに乗って、自供しましょう……兎さん、唐突だけど、貴女に聞かせたい物語があるの。これは人に言い触らす話ではないし、聞いて愉快な話題でもないけれど、お千代さんの事務所で働く新人探偵なら、此の際、よしみで打ち明けましょう。私の秘密を……其処の名探偵は、きっとハナから其の積もりでウチに連れて来たんでしょうし」
「はぁ……あの、何もかもいきなりで、事態に追い着けていませんから、どうとも言えませんが……でも、本当に良いんでしょうか?」
兎が遠慮勝ちに訊く。
「話し難い事でしたら……初対面で……其の、悪いですし、所長の差し金でも、無理矢理は一寸……」
戸惑う赤瞳。しかしサユリは「気にしないで」と飽く迄無表情で、
「話すのが嫌って訳じゃないし、これはお千代さんと助手君も関わった事だから、兎さんが聞いて損はないと思うし、其れに」
と、一度言葉を区切り、改めて兎を見据えた。
「私が私の秘密を打ち明けるのは、兎さん、貴女に対し勝手な空想を働かせたお詫びも含んでいるから」
「空想?……あたしでどんな想像をしたのでしょう?」
兎の態度に警戒の棘が生える。声にも、相手をしりぞけようとする、反発的な調子があった。そんな、毛を逆立てる野良猫の様な心を受け止めようと、サユリは差し伸べる様な淡い微笑を浮かべた。
「失礼な空想よ。先に謝っておきましょう。ご免なさい。貴女が世間に巧く馴染めていない、というより、世間の目にアレルギーを持っている、って空想したの」
兎が瞳を大きく見開きお千代を見やる。が、お千代は苦笑を浮かべ、黙って首を横に振った……長い銀髪がサラサラ揺れる。
「お千代さんは何も語っていないわ」
応えたのはサユリだった。
「お千代さんから兎さんの噂は聞いたけど、教えてくれたのは名前と、新人探偵って事と、
今度此処へ連れて来るって事だけ。だから今のは私の空想」
サユリは火の点いていない煙草を咥え直して、
「でも根拠のある空想。兎さん、貴女、さっきから無意識に手で髪や瞳を隠そうとしているし……加えて助手君、彼、さっきからズット、気遣わしそうに貴女を見てるから」
ハッと、兎は咄嗟に己の掌を握り締めた。俺も眉毛を掻く。
してやられた……こうもズバリ言い当てられてはいっそ清々しい。サユリの頭脳には、過去、散々驚かさた。兎もさぞ驚いただろうが、果たして、予想に反し、兎は得心のいった顔だった。白髪を庇うのを止め、露呈した赤瞳には少女らしい生意気が瞬いている。
胡乱な光を射る若い赤瞳に晒されながら、サユリは怒るでもなく、寧ろ労る様な声音だった。
「其の様子だと、生来の厭世家という訳じゃなさそうね。怪しい人物を見る瞳はしっかり稼業の色になってる。これなら話す甲斐もある」
サユリは満足気に頷くと、机の上、鉢植えの合間から、一枚、小さな新聞記事の切り抜きを取り出した。
「さて、そろそろ自供してもいいかしら?」
「お願いします」
今度は迷わず兎が応える。と、サユリは徐に切り抜きを兎に差し出した。兎がサユリの許へ歩み寄り、記事を受け取る。恐らく事件を報じたものだろう。記事の内容は俺も覚えている。忘れたくとも忘れられない事件だった。こんな短い記事の裏に、連綿と紡がれたドス黒い怨念が渦巻いている事を、何人も想像出来なかったに違いない。
記憶を手繰り寄せる。確か、記事の内容はこんな文章だった。
本日未明、東京都渋谷区南青山の錦馬宅にて、同家長男の錦馬遼太さん(三十一)が何者かに殺害されているのを家政婦が発見。警察は殺人事件として捜査する方針と発表……。
「一年半前、私が疑われた殺人事件っていうのが其れ。残念ながら、事件に関する記事は後にも先にもこれだけ、続報も何も無いの。厳しい報道管制が敷かれてね、公にはつまらない、よくある事件の一つとして、余人の記憶にも残らなかったわ。でも、内情はそんな簡単なものじゃなかった」
机上の頭蓋骨を撫でつつ、サユリが語る。
「事件当時、錦馬家の因習に従って、私は座敷牢に入れられてた。因習といっても下らないもの、多分に漏れず迷信だったわ。子年生まれの娘は家に魔を呼び寄せる為、魔の目に留まらぬよう外出を禁ず、っていう……まぁ、そんな理由で私は監禁されてた。なのに、私は事件の容疑者だった」
俺も当時の事を思い出していた。不言色の振袖を着たサユリは、座敷牢の奥で正座した儘、矢張り無表情で、格子を隔て俺達を眺めていた。
「第一の惨劇は其の記事の通り」
と、サユリは切り抜きを指差し、
「ウチの莫迦兄貴が自宅で殺されたの。妙な殺され方でね、兄は客間でうつ伏せに死んでたんだけど、右手に床の間に飾られた松の盆栽を、身体の下敷きになった左手には古めかしい鍵を握り締めてた。極め付けは死体の背中……背中に大きく、肉がえぐれるくらい深く、『死蔵』って二文字が刻まれていた……随分と芝居掛かった殺し方でしょう?だけど、そんな事より何より、洒落になってなかったのが、亡骸が握っていた鍵に私の指紋が残っていた事」
鍵……正しくあれは事件の鍵だった。しかし鍵の意味や用途が判明したのは、事件発覚のズット後になってからだった。
「其れからも我が家には立て続けに不幸が起きた。どれも酷い事件ばかり。猶悪い事に、一々私の容疑は深まって、四面楚歌、逮捕の間際に、お千代さんと助手君を雇って、九死に一生ね、どうにか私の嫌疑を晴らして貰ったんだけど」
サユリは一度言葉を区切り、沈黙、やがて何か思い付いた顔を上げて、
「あれだけの大見得を切った手前、申し訳ないのだけれど、事件の詳細や解決への道筋は、語るととても長くなるから、差し控えさせて頂くわ。語り出したら一昼夜は必要だし……だから脳内で適当に補完しておいて。空想には空想で返して欲しい……若しかしたら、此の事件を題材に、面白い推理小説が書けるかも知れないし。けど、其の場合は、此の事実を必ず書き記しておいて。私は犯人じゃなかったけれど、此の事件は結局、私の出生が原因で起きたって。私にも責任はあったって」
拭い切れない悔悟が底に残る語り口につられ、俺の脳裏にも追憶が過ぎり続けた。連続殺人、忌まわしい因習、一族を取り囲む怨嗟の鎖、意外な結末……其れでも、お千代とサユリの尽力のお陰で、犯人は捕まった。
「あの時はお千代さんにも助手君にもスッカリ御世話になっちゃった。感謝してるし、大きな借りでもある。こうやって、兎さんに事件の事を打ち明けたのも、借りを返す一環かしらね」
そう言うと、サユリはふっとお千代を見やって、
「そうそう、事件が解決した後、小説なら最終章にあたる場面で、お千代さん、私を励ます為に、古い探偵小説の一文を引用したんじゃなかったかしら?私は暗記が苦手だから、とうに忘れちゃったけど、若しかして、兎さんにも同じ事を言ってあげたっかたんじゃない?」
「――この大都会で日夜間断なく起る様々な犯罪のうち、社会の耳目に触れるものはその百千分の一にも過ぎず、他の凡百の悪計と惨劇は我々の知らぬうちに始まり、我々の知らぬうちに終る――久生十蘭は『魔都』からの引用だ」
お千代の暗誦に、サユリは「そうそう」と頷き、平生の無表情を兎へ向けた。
「お千代名探偵の励ましは効くでしょう?私も思わず恋に落ちるところだったわ」
無表情で言うものだから、冗談かどうか、判断に困る。お千代も顔を背けてしまっている。が、サユリは此方の困惑も意に介さず、言葉を続けた。
「有り難くも賜った迂遠な引用に従って、私は開き直る事に決めたの。意地悪で説明不足で、其の上回りくどいけれど、暗く沈んでいた私の心に、パッと、明かりを点けてくれたのは確かだった。都合よく報道管制も敷かれてたし、どうせ誰も私を知らないのだから、これからは存分に、勝手気儘に生きて行けるって事実を、探偵さんは親切にも教えてくれた訳ね」
サユリは骸骨を撫でつつ周囲を見回した。
「事件後、直ぐ座敷牢を出た私は、譲り受けた実家の資産を使って、小さい頃から憧れてた洋服屋を開いた……あの狭い座敷牢と比べたら、此処は天国ね」
砂漠色に浸る有機的な洞窟の、澄み渡るコバルトブルーのタイルの床に居並ぶ、金色のハンガーラックに吊り下げられた、サーカスの衣装室めいた洋服達を、サユリは慈しむ様に眺めている。
……一頻り感慨に耽った後、サユリは深い息を吐いた。
「こんなに長く話したのは久し振り。御静聴有り難う」
「此方こそ有り難う御座いました」
兎は丁寧に礼をした。赤瞳の警戒は充分ほぐれていた。
が、兎は顔を上げると、
「其れにしても」
と、探る様な視線をお千代へ向けた。
「今日、所長に紹介された服屋が、どれも昔の事件絡みなのは、真実偶然でしょうか?」
「御明察。推察通り、私が仕組んだ事だ」
お千代がハッキリ頷く。
「こんな仕事に就いていると、どうしても事件関係者の知り合いが増える。兎、君だって其の一人だし、彼もそうだ」
「先輩も?」
ギクリと俺の背骨が伸びる。兎が意外そうに俺を見ている。刹那、俺は思考を総動員した……此の場をどう切り抜けるか……考えろ……下手を打てば立場が危うい……俺は必死に考えた末、潔い自供こそ悪人の華、言い逃れるより正直に告白した方が心証は良い筈、そう結論付けた……結論でなく諦観と言い換えてもいい。
「まぁな。昔、浮気で訴えられたんだけど、其の証拠を集めたのが、其方に御座すお千代探偵という縁でね」
意外そうだった兎の瞳が、納得を経て、軽蔑と同情半々に染まる。サユリも小声で笑っている。
「其の辺で勘弁してやってくれ。本題は彼の浮気性じゃない」
お千代は愉快気に言い継いで、
「本日の本題は“Trouble is over, Travel goes on”という事に尽きる。犯罪を肯定する積もりはない。天下太平こそ至上の理想だ。しかし人生は長い。道中、一度は必ず事件が起きる。ならば踏破に向けて、罪悪感も含め、全てを糧にしなければ、というのが私の持論だ。其れが強さってものだ」
此の時、俺の脳裏には、過去に探偵として関わった色々な事件の犯人達の顔が、走馬灯の様に次々と過ぎった。そして、彼ら彼女らが無事に道に帰って来て欲しい、と、そんな事をふと願った。
「探偵らしい悪食。まるで芸術家ね」
サユリが茶化すも、お千代は平気な顔で、
「そうさ、何でも取り入れる。何が役に立つか判らない。其の点、事件の実体験は探偵にとって何より得難い」
お千代は兎に向き直り、
「そういう意味では、探偵と犯人は表裏。兎には、罪悪感に苛まれるのでなく、其れすら綺麗に包み隠して、世間を闊歩して欲しい。巧妙な嘘が吐けなければ、巧妙な嘘は見破れない」
キッパリ言い切る。と、サユリが椅子を立ち、お千代の傍へ。二人が並ぶと、小柄なお千代の身長が一層小さく見える。サユリとお千代は瞳と瞳を交わし合い、サユリは僅かに、お千代はニタリと、笑い合った。
「お千代さんの御説はまるでシェークスピアね――全世界は一つの舞台――っていうヤツに似てる」
「私としては寧ろコクトーの積もりなんだ。つまり――人生の価値は正しいか否かでなく、美しいか否かで決まる――というヤツだ」
俺は、ふと、波打つ壁に嵌め込まれた小窓を思い出した。見れば、日射しは随分傾いたらしく、差し込む光は赤み掛かっている。
「さぁ服を選ぼう」
お千代は仕切り直す様に手を叩いて、
「サユリの買い付けた服はどれも一級品だ。証拠に、着ている物を見るといい……今日の組み合わせは、此処で買った物だけで揃えてみたんだがね」
と威張る。
俺は、今一度、お千代と兎の服を熟視した。
お千代が歩く度、キャメルのチェスターコートの裾が遊ぶ。中に着るアイビーシャツは、薄布を三層重ねた贅沢な造りが、背景に広がる店の異国的内装や、お千代の銀髪金瞳としっくり組み合わさり、神話絵画めいた美観と美貌を作り上げている。
兎に目を転じれば、厚底の赤スニーカー、黒タイツ、左右に飾りバックルの付いた黒のショートパンツが、兎の見目良い足をより美しく引き締めている。何よりミリタリーコートの中の、黒と赤の太い縞模様ニットの、大きく開いた背中の芸術性……兎は背筋がピンと一直線に立っており、オマケに腰の位置も高く、華奢な背中が名作の様に恭しく飾られている。そんな白磁めいた背中に掛かる長い髪と、見返る瞳の色合いが織りなす兎の神秘性たるや……矢張り、あの白髪赤瞳こそ、幽玄な麗姿の源泉に相違ない。
「斯く一流の服をさっさと自分の物にし、一日も早く、兎には一流の探偵になって貰わなければいけない。そうして、我らが『蓼喰探偵事務所』の一員として、大いに役立って貰わなければ」
「はい」
お千代の発破にも、兎はアッサリ頷いた。其れから、愈々服屋らしい目的に手を付けるらしく、二人は連れ立って衣装の樹海へ赴いた。群がる模様の合間から、時折滑らかな銀髪と白髪がサラサラ流れ出る。俺はぼうっと其れを眺めた。
美人達が買い物に専念している間、放って置かれた男は暇なもの。今朝から三軒も服屋を巡り疲労も溜まっていた。これでようやく落ち着ける、と、俺は一息吐く心地でいたのだが、其れも束の間、いつの間にか傍に来ていたサユリが、
「そうそう、助手君も探偵なら、今度は浮気がバレないよう巧妙な嘘を用意しないとね」
と、出し抜けに飛んだ事を囁くものだがら、虚を突かれた俺は、其れこそ飛び退いてしまった。
「いや、そんな……俺は探偵としては全然、お千代や兎の足手纏いですし」
「いいえ、そんな事ない。助手君は探偵に向いているって、お千代さんがいつも言ってるもの」
「お千代が?」
「いっつもね」
サユリは微かに笑みを浮かべたらしかった。
「助手君もお千代さんの御自慢なのよ。此処に来たら必ず自慢するんだから。『彼は探偵に向いている。彼の文章を読めば判る。彼は人心を読むのが実に巧い。後は知識を足していけば、きっと良い探偵になる』って」
俺は自分の頬が熱くなるのを感じ、照れる自分に更に照れ、耳迄熱くなるのをはぐらかすべく、話題を元に戻した。
「いやいや、だとしても、俺は嘘が下手ですし、大体、浮気は二度としませんよ」
「あら、そう。とすると、林檎の代わりに恋姻届を託されたパリスは、これから大変ね」
サユリはお見通しとばかりに胸元の――καλλίστῃ――を指差した。トロイア戦争の引き金になったという文字列が、時を超え、現代の俺を脅かす。
次いで、サユリが瞳で奥を差し示す。俺も其方を見やる。と、服選びに興じる兎とお千代の会話が、此方の耳にも届いた。
「所長の思惑は大凡判りました。でも、あたしに服を買い与えるだなんて、やっぱり敵に塩を贈っている事に変わりありません。あたしは手加減しませんよ?大恩あるお姉様と言えど、退けない勝負ですから」
「承知の上だ」
「では、あたしが美人になっても構いませんね?」
「当然。私はフェアプレーを好む。俯くのでなく、顔を上げた美人になって、世間も私も見返してくれ」
「……ところで、所長は先輩の何処に惹かれたのでしょう?」
「顔」
たった一語、何と判り易い!簡潔過ぎて、喜ぶべきか、嘆くべきか、却って判り難い。更に、俺の思い過ごしでなければ、此の会話が持つ深遠且つ不穏な仔細は、並の事件を悠に上回る。名指しされた犯人よろしく、知らぬ間に俺の進退が窮まっている。
こんな場合、さてどう応えれば正解か、咄嗟に思い浮かばず、俺はつい押し黙る。其れを見逃すサユリではない……探偵役らしく、容疑者相手には無情な追い打ちを、無表情で仕掛けるのだ。
「ねぇ、序でだから、お千代さんも服を買っていって。誰が一番美人か、決めるには好都合でしょう?」
これを聞くや否や、振り返ったお千代の顔に、見る見る不敵な気配が波紋の様に広がっていった。取り分け金瞳は、新しい玩具を与えられた子供の様な、或いは難解な仕掛けが解けた瞬間の様な愉悦の色で爛々と溢れ返っていた。
案の定、お千代と兎は銘々に格別の一着を選び出し、広間に戻って来た。お千代が自信に充ち満ちているのはいつも通りだが、困った事に、兎の瞳にも、別種の赤色、やる気の炎が煌々と揺らめいている。これは飛んだ事になった。「不和の林檎」を誰に贈るか、重大な責任が、突如、両肩にのし掛かる……仕方がない……男一人、此処は腹を括る他に道はない。
……其処で俺はハタと気が付いた。覚悟を決めたは良いものの、肝腎なものがない。何処にも試着室が見当たらないのだ。店内の四方を見渡しても、衣装の向こうは波打つ壁がそびえるばかり、扉は疎か、棚や箪笥等、凡そ隠し扉の類は一つも見付けられない。
兎も同じ事に気が付いたらしく、キョロキョロ辺りを見回している。
お千代だけは平然として、天井近く、巨大な照明を見上げていた。
そんな風に、俺と兎が当惑から立ち尽くしていると、出し抜けにサユリが「こっちこっち」と手招きして、
「少しの間、動かないでね」
と言い置き、一人店の奥へ向かって行った。頭蓋骨を乗せた机を避け、服の列も掻き分けている。
と、露わになった壁に、鈍色のクランクが二つ、取り付けられているのが見えた。
左右に並んだ二つのクランク。サユリは両手で両方の取っ手を掴み、ゆっくり、回し始める。
途端、何処からともなく響く歯車の噛み合う音に合わせて、シューッと、か細い物の滑る音がした。
かと思えば、視界の両端から、スススッと、まるで空中浮遊する様に二枚の大きな布が現れた。垂れ幕らしい二枚の布は、左と、右から、広間を横断すると、中央にある怪物照明の先端でピタリと停止した……よくよく見れば、照明の先端から左右の壁に細い糸が張ってある。垂れ幕は此の糸を伝ってきたらしい。
クランクは回り続ける……幕は終点に着くと同時に、どちらも傘が広がる様に裾を開いた。そうして、見上げる大きさの、双対テントとなって、俺達の前に垂れ下がり……クランクも止まる。
其れにしても、豪奢なテントだ。朽葉色のブロケード生地は二メートルを超えている。にも関わらず総柄で、ロココ調に描かれた種々の花々が咲き乱れている。
「着替えは此の中で」
サユリの声。呆然と突っ立つ俺達の許に、サユリが全身鏡を持って来る。鏡をテント脇に配すると、サユリは左右の垂れ幕をそれぞれ捲り上げて、
「ほら、ちゃんと二部屋になってるでしょ」
垂れ幕は切れ目に沿って捲れ、入口がポッカリ開く。確かに、テントはどちらも個室になっており、中は思いの外明るかった。上部の布だけ薄く、照明を透かしている。成程、此のテントこそ試着室という趣向か。随分凝っている。
「ではお先に」
そう言うと、お千代は銀髪を漂わせつつ慣れた調子で右側のテントへ入って行った。
対して、奇怪なテントを前に、兎は物怖じの気色を漂わせていた。何事も最初の一歩は怖ろしい。特に兎は意外にも臆病な一面があるから……。
しかし、間もなく、兎は躊躇を振り払う様に前を向き、毅然と左側の幕の内に入った。
かと思えば、何故か知ら、不意に、ひょっこり、兎は幕の切れ間から顔を出した。
「あの、先輩」
「どうした?」
「いえ、其の、正直に応えて欲しいんです……」
兎は声を震わせ、俺に訊く。
「先輩は、あたしの罪を、どう思っていますか?」
ジンと、鼓動が一つ、大きく跳ねた。胸を打たれた心地で憂いに潤む赤瞳に見入れば、反抗期は不安の裏返しなのだと悟る。ならば、出来得る限り真摯に応える事こそ、大人の役目。
其れに、と俺の心に開き直る気持ちがふつふつと湧いた。どうせ俺も悪人。生きていく中で人を傷付けた事もあるし、これからも誰かを傷付ける。だからこそ、善く生きよう。そう思った。
俺は暫し考えた末、自分の唇に人差し指を当てた。
「しーっ……迂闊に口にしたら駄目だって。其の件は俺達だけの秘密だろ?」
これを聞くと、兎はようやく安心した様子で、幕の内に顔を引っ込めた。
一区切り付きましたので、これにて一旦完結と致します。
御愛読有難う御座いました。
作者




