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花の鳥籠  作者: 白基支子
22/23

休日 弐

 食後の珈琲も飲み干すと、其の内にお千代が銀煙管を煙草盆ごと片付け出す。レストランを出、其れでこれからどうするか、俺が予定を訊くより早く、お千代は伸びをしながらこう宣った。

「さぁさ、次だ次。次の店に行こう」

「次?若しかして又服屋か?」

 俺が車の運転席に滑り込みつつ、さっき行ったばかりでは、と訝しめば、助手席のお千代は平気な顔で「当然」と応えた。

「さっき買ったのはたった二揃い。一週間は七日あるんだから、まるで足りない」

 其の勘定はよく判らない。が、お千代は構わず「其れに」と続けた。

「其れに、君だって、色々な衣装に彩られた兎を見てみたいだろう?」

「確かに」

「あの、お二人共、お気持ちは有り難いですけど、もう充分ですから帰りましょう」

 後部座席から兎が訴える。本心は人目を嫌っての事だろう。そうと知っているお千代は、兎の主張をやんわり却下した。

「まぁまぁ、これもリハビリだと諦めて、も少し付き合い給え……其れからね、君、行き先は渋谷区神宮前の……」

 其の住所には覚えがある。

「其処のオーナーって、確か一度、ウチに依頼に来なかったか?」

「来た。しかし元オーナーだ。今は彼の弟が経営している」

「いつの間に……まぁ、無理もないな」

 イグニッションキーを回しつつ感慨に耽る。オーナー交代か。無理もない。あの男は元々、経営者の器ではない。

 俺は車を運転しながら、暇潰しに、隣のお千代に声を掛けた。

「あれは中々酷かった。オーナー……今は元オーナーか。兎も角、あの男が奥さんの浮気調査を依頼して来て」

「で、調べてみたら奥さんは黒だった」

 お千代も話に乗って回想している。車は表参道の並木道の下を走っていた。通りに建ち並ぶ瀟洒な店々に、枯れ枝の影が模様の様に被さる。大通りを区切る横断歩道……信号の色が変わる。群衆の往来が車道を分断する様子を眺めながら、俺はあの依頼の後味の悪さを再び舌先に感じていた。

 ……どんな人間も追い詰め過ぎてはいけない。あの依頼から学んだ警句だ……。

 信号の色が変わる。機能的に、今度は車列が動き出す。都心は車も人も多い。

 走り出した車の中、お千代は一拍間を置き、溜息を吐いて、

「不倫其の物は擁護出来ないが、動機を鑑みると、奥さんのみが罪人とは言い難い」

「旦那が昼夜を問わず遊郭へ通うから、当て付けに浮気したんだったな」

「うむ……しかし法律は旦那の味方だった。茶屋で色子に金を払ったなら未だしも、奥さんのお相手は立派な素人。現行法だと廓は合法、不倫は違法、理があるのは旦那の方」

「そうそう、そうだったそうだった。猶悪いのは……」

「猶悪かったのは、旦那が理を笠に着て、我々が止めるのも聞かず、奥さんを執拗に責め立てた事だ。人間の精神には限界があるという常識を知らなかったらしい……到頭、奥さんが包丁を持ち出した」

「ブスリ……幸い、命は何とかなったけど、奥さんは殺人未遂で塀の中。死に損なった旦那はノウノウと女遊び……」

「お二人共、探偵が依頼の内容から顛末迄、そんなにも明け透けに話してはいけないのでは?」

 後部座席から兎が批判の声を上げる。

「大丈夫」

 お千代は振り返って、

「兎はもうウチの所員だから、話したトコロで守秘義務には抵触しない。加えて、繰り返すが、オーナーは交代している。刃傷事件後、一命を取り留めた旦那は女遊びが愈々(いよいよ)激しくなり、終には身を持ち崩し、店の金に手を付け、其の(かど)で御用、今頃は塀の中さ……あぁ、見えて来たね」

 明治神宮前の交差点を南に折れ、渋谷駅に繋がる明治通りを走らせ、暫く、お目当ての店は建っていた。

 堂々たる見世蔵である。こんな古式ゆかしい代物が都心にあったとは。(いらか)を青空へ張り出した、二階建ての土蔵造り。二階には重厚な観音開きの扉を備えた鉄格子の窓が四つ、黒々と並んでいる。打って変わって一階は殆どが陳列(ショーウィン)(ドウ)の造り、洋装のマネキンが硝子越しにズラリ居並んでいる。

 パーキングメーターに車を預け、外に出る。兎は相変わらずお千代の背に隠れている。

 俺達が店へ向かえば、年末らしく門松を飾った軒下で、駱駝色の三つ揃いの上に唐桟羽織、更に下駄履きという、洒脱な風体の、人好きのしそうな男が出迎えた。

「いらっしゃいませ、お千代様」

 店員だろう、お千代も見知った相手らしく、気さくに挨拶を返していた。

「此の時期には、其の羽織は温かそうで良いね」

「えぇ、役に立っています。ささっ、どうぞ、お寒いですから中へ」

 案内される儘、俺達は藍染め暖簾を潜った。

 途端、新しい木材の匂いと共に、木目の美しい板の間が目に飛び込んだ。

 視界一杯、江戸に戻った様だ。玄関脇に立つマネキンの横列を通り過ぎれば、正面に大きな衣桁(いこう)が立っていた。衣桁には左右で二色に分かれた打掛が飾られている……いや、これは二着のワンピースだ。それぞれ藍と黄緑の二着は、どちらも白い(コス)(モス)の画を(ちりば)めた総柄の物。これら二着を組み合わせ、一着の打掛の形で左右に吊り下げている。

 衝立も兼ねた此の衣桁を避ければ、店内が見通せる。絢爛な服で溢れる店内が……。

 似ている……店を見渡した時、俺は真っ先にそう思った。

 似非(えせ)打掛の裏手にも屏風式の衣桁が並んでいる。更に、壁際には非常に長い衣紋掛けが突っ張り棒の様に通され、其処に色取り取りの衣装が掛かっている有様は、大作掛け軸を思わせる。俺達はそんな服と服の間を進み、奥へ向かったのだが、進む程に店の内装が追憶に重なっていく原因は、鶯色の砂壁や床柱の和式な佇まいが手伝っている部分も多少はあるだろうが、何より肝腎の服……洋服には珍しく和柄……絹らしい艶やかな生地の上に小鳥が舞い、蝶が遊び、流水に紅葉の葉が漂って、青海波、これら屏風や掛け軸めいた紋様が記憶に囁くからだろう。

 此処は遊郭の支度部屋に似ている。

 真っ昼間に訪ねる廓の風情、昨晩感じた嬌態を壁や柱や振袖に染み着かせつつ夜を待つ明るい内の、眠気とじゃれ合う気怠い空気を、果たして俺だけが感じたか。いや、兎も同じ感傷に浸っているらしく、砂壁の柔らかな色合いや衣装の花鳥山水を懐かしみ、瞳も髪も隠すのを忘れ見入っている。

 唯一人、お千代だけは店員と世間話に興じていた。

「本年は大変に御世話になりました。お千代様が初めていらしたのが前のお盆辺りでしたが、あれから度々御足労頂いて」

「改装してから良い店になったからね」

「有り難う御座います……本日は逢い引きですか?」

「察しが良いね。だから美男美女を連れて来た」

「流石で御座います」

 世間話の潮、俺達は店の奥に着いた。

 奥は帳場になっており、腰の高さの上がり框を境にして、向こうは十畳の畳敷き、最奥には勘定台がある。仕切りの内では唐桟羽織の店員達がレジを打ち、商品を運んでいた。忙しく立ち働く彼らの背後には、吊り障子に区切られた大きな硝子窓が嵌め込まれてあって、其処から立派な庭園が臨めた。店構えに相応しい純日本式の庭園……庭石の間を小川が下り、見頃の寒椿が茂り、苔生した地面に赤い花をポタリと落としている。

 店員に勧められる儘、俺達は履物を脱いで畳に上がった。青い畳には既に人数分の座布団が用意されている。

 腰を落ち着けると早速、お千代が今日の用事を説明した。

「実は此の娘……私の部下で名を兎と言うが……兎の服を探しに来た」

「然様で。でしたら」

 真向かいに座る店員は嬉しそうに手を叩いて、

「新年も三が日が明けたなら在庫処分が始まります今時分、本来なら目星い物は残っておりません。が、特別な御客様の為、倉庫に隠した一押し、所謂取って置きが御座います。其れらを是非、お千代様に御覧頂きたいのですが」

「調子の良い事を言って、残り物を売り付ける腹じゃないだろうね?」

「まさかまさか。しかし御不審御尤(ごもっとも)。論より証拠、手前は押し売り致しません、ゆっくりお確かめの上、御判断下されば結構ですので」

「大した自信だ。ならば此方も注意して見るとしよう」

 時代劇めいた台詞回しだが、当人達には自然なやり取りらしく、気負った風でもない。古い言葉遣いに釣り込まれ兎も顔を上げる。吉原を思い出すのだろう。赤瞳は店内を見回しながらも、何処か遠い場所を見詰めている。

 其の時、店員が初めて兎の姿を真正面に捉えた。其れに気付いた兎が緊張で顔を強張らせるも、敢えて視線を避けようとはせず、じっと堪えて相手を見返している。俺は又してもドキリとした……店員が奇異の目を向けやしないか……しかし、俺の心配は杞憂だった。店員はお千代を遇した場合と一切変わらず、柔和な笑みで兎に声を掛けた。

「お初にお目に掛かります。どうぞ御贔屓に……以前から兎様のお話はお千代様から伺っております。秘蔵っ子と、お千代様が勿体付けるものですから、勝手にお姿を空想しておりましたが、全く、手前の膨らませた空想程度では追い着きませんな。お千代様もお人が悪い……いやはや、服屋の甲斐が御座います。兎様はどの様なお召し物が御所望でしょう?」

 訊かれた兎は、悩む素振りをしつつ、一瞬俺の方を見て、

「白黒の服は揃ったばかりですし……友禅の様に色味の綺麗な物を」

 と、僅かに声を震わせつつも、しっかり応えた。

「承知致しました」

 と、店員が勘定台に目配せすると、忽ち別の店員が数人、奥からやって来た。店員達は抱えた緋毛氈を畳みに敷くと、其の上に服を広げた。「色味の綺麗な物」という注文通り、並んだ服は色に富んでいる。其れらを一枚一枚、冷徹な程に真剣に吟味する兎は、気分が吉原時代にスッカリ戻ったらしく、長い髪を垂らし、俯けた端整な横顔に、伏せた瞳は物憂げ、声音も冷静に、宛も振袖新造が今夜の衣装を姉貴分に相談する調子で、お千代とアレコレ議論し始めた。

「確かに、取って置きに偽りありませんね。カーディガンの白群が綺麗で……スカートも同色ですから、此の二つは一揃いでしょうか」

「らしいね。色味ならパーカーも翡翠が見事だ。作りはオーバーサイズ……ほら、源氏車を背中に幾輪も縫い込んである。けど、フード付きの物は、兎が隠れてしまうから、駄目かな」

「お姉様、一言余計です」

「『お姉様』じゃない。所長だ。ほら、此の瑠璃紺のワイドパンツも可愛いじゃないか」

「えぇ……裾を捲った時に覗く裏地の緋色がよく映えてます」

「ショートパンツも良いね。亜麻色を地に白緑が所々漂って、楽焼の趣だ。春を見据えるなら、今の内にこんな物を買っておいても……おや?」

 と、金瞳がある一着の上に留まる。其れは生成りのブラウスだった。裾に桜吹雪が刺繍され、胸ポケットには叢雲に隠れる満月があしらってある。お千代は其のブラウスを持ち上げると、店員を見やり、

「これは貴方が選んだ物?」

「差し出がましくも、手前が選ばせて頂きました」

 店員が頭を下げる。

「いやいや、大した見立てだ」

 お千代は感心しつつブラウスを眺めた。

「成程――春の夜の――大江千里だね。朧月夜に兎と掛けた訳だ。うむ、あの歌は今日の主題にも合う」

「何処がでしょう?」

 兎が首を傾げれば、お千代はニヤリ笑って、

「――照りもせず、曇りも果てぬ――という点がピッタリだ」

 と言った。が、兎には意味合いがよく飲み込めなかったらしい。況んや俺をや。

 しかしお千代はお構いなしに話を進めた。

「是非これは欲しいところだが、似合わなければお話にならん。先ずは試着してみないと……」

 そう言うと、お千代は俄に面を上げて俺を見、微笑んだ。

「ところで、これは私の思い付きだがね、これから私は君を除け者にしようかと思う」

「除け者?俺は仲間外れか?」

 驚いて聞き返せば、お千代は悠然と頷いた。

「言葉は悪いがそういう意味だ。しかし意地悪じゃない。これにはちゃんと訳がある。今から服を選ぶのだけれど、其の一部始終を君が見てしまったら、即ち兎がどの服を買うか君が目撃してしまったら、其れをいざ日常で着てみせても、新鮮味がない。其れではつまらない。折角の新衣装、君には内緒にしておこうと考えた」

「良い考えだな。其の方が俺も愉しめる」

 俺は当の兎を見やった。又しても耳が真っ赤に染まっている。兎は案外素直なのだ。

 お千代も兎を見ながら、

「箱を開ける迄のお愉しみ、秘密の旨味は仄めかされてこそ、だ」

 と嘯いた後、店員に向き直った。

「そういう事情だから、店長には彼の相手を頼む。私達には別の店員を付けてくれ」

「承りました」

 唐桟羽織の男が恭しく応える……彼が店長だったのか。

 お千代と兎が立ち上がるのを、花からヒラリと離れた蝶を眺める様に見送る。お千代達が座を立つと、直ぐ様女性店員が現れ、広げられた服を丁寧に抱えた後、兎を試着室へ案内した。此の試着室が意匠の凝ったもので、帳場の脇に据えられた巨大な桐箪笥、其の抽出を引っ張ると、箪笥の間口が開き戸の要領で持って開いたのだ。まるで隠し部屋の様に、桐箪笥に見せ掛けた試着室が現れるといった趣向。

 俺がぼんやりと其の仕掛けを眺めていると、隣から店長が声を掛けてきた。

「お茶など御用意出来ますが、如何致しましょう?」

「そうですね……長引きそうですし、お願いします」

 店長はポンポンと手を叩き、其れから言い付け通り俺の話相手を引き受けた。

「お千代様の事務所にお勤めという事は、貴方様も探偵でいらっしゃる」

「えぇ、一応。名ばかりの駄目探偵ですけど」

「御謙遜を。凜々しいお顔立ちにも優秀さが滲み出ておりますよ」

 思わずくすぐったくなる台詞だ。打ち消そうかとも思ったが、相手も客商売、簡単に世辞を引っ込めたりはしない筈。「いやいや」、「いやいや」と、否定の応酬を延々繰り返しても不毛である。俺は苦笑の後、話題を変えた。

「お千代はよく此のお店に来るんですか?」

「はい、御贔屓頂いております。御来店下さるのは月に二、三度にはなりましょうか」

「やっぱり此処で事務所の話をしますか?俺や兎の事なんかを」

 店長はニコニコと笑って、

「其れはもう、よく自慢なさっておいでですよ。近頃は(もっぱ)ら兎様のお話を」

 話題が其処に至ったのを機に、俺も店長も試着室の方へ目をやった。開いた扉の陰になり、試着室にいる兎は見えないが、扉の前に控えている店員と、何か熱心に口を動かしているお千代の姿はよく見えた。

 俺は目に見えない兎の姿を想像した。試着室の扉が閉まり、開く、其の度に兎は衣装を着替えている。中には振袖もあるだろうか?そんな筈はないけれど、場の雰囲気に飲まれ、美しかった兎の振袖姿を懐かしんでしまう。

 其の時、丁度出された緑茶を(すす)りながら、ゆらゆらと湧き上がる白い湯気の内に遊郭で起きた事件を見る。何と無し、周囲を見回せば、上がり框の向こうにある床几の上に飾られた扇子が、音曲に合わせひらひらと舞踊を踏む遊女の姿を連想させる。又、目を転じて帳場へやれば、文机の上、丸水槽にて泳ぐ二匹の金魚が、真っ赤な(ひれ)を、ゆらり、大仰に動かしている。其の様子をじっと眺めていると、華やかなりし吉原にて披露された夢現、宙に金魚が泳ぎ出るあの幻影が、今しも眼前に再生される様だった。

 微睡(まどろ)む白昼夢の心地でいれば、目の前にキラリと閃くものがあった。其の正体はお千代の銀髪だった。日光を浴びた銀髪が瞬くのだ。

 其の儘ぼんやり銀髪を眺めていると、昼前に聞いたお千代の台詞が不意に蘇った。

「万人が負い目を抱え生きている」

 其れは其の通りだ。負い目のない人間なんて、其れこそ赤ん坊くらいなものだろう。成長するとは哀しい事。しかし時間は戻らない。無垢な儘でいて欲しい、そんな願いは勝手な親心だが、俺は兎に対しそう願わずにいられなかった。若しかすると、あの事件を引きずっている度合いは、兎本人より俺の方が強いかも知れない。

 時の無情に嫌気が差し、天を仰ぐ。見上げた先には天窓が嵌め込まれていた。四角く縁取られた青空から差し込む西日が、先程お千代の髪を輝かせたのか。

 ……一つ、息を吐いて、俺は詮ない思考を取り止めた。兎自身が己の事件とどう向き合うか未だ迷っているのに、俺がああだこうだ悩んでも、其れこそ過保護な父親役になり兼ねない。大体、兎はさっき店長の視線にもちゃんと堪えたじゃないか。これこそ成長の証、吉原での事件から三ヶ月以上が経ち、年もそろそろ明けようとしている。兎は賢いのだから、俺がいつ迄も心配していては迷惑になる……。

 俺は座り直し、店長と差し向かいに他愛ない会話に専念した。

 そうして緑茶を飲み切る頃、試着も終わり、元の服に着替えた兎がお千代と共に戻って来た。

「お帰り」

「お待たせしました」

 兎は呆れ半分、疲れ半分の顔だった。

「お疲れ。服は決まったのか?」

 俺の質問にはお千代が応えた。

「決まった決まった。どれも兎に似合っていたから、愉しみにしてい給え。では会計しようか」

「有り難う御座います」

 店長は笑顔で頭を下げると、すっくと立ち上がり、勘定台へ向かった。そうして手に青い半透明な板を持ち、お千代の傍に帰って来た。

 板はA4サイズの物。店長が其れをお千代に手渡した拍子、板の表面に明朝体の文字と数字が浮き上がった。品物とそれぞれの値段、加えて総計らしい。お千代の金瞳がじっと数字を追い掛け、板の表面に指先で以て署名、拇印を捺す。商談成立。品物は又しても今夜届くよう頼み、俺達は見世蔵を出た。

 青い冬空の下、冷え切った空気を掻き分ける様に歩きながら、俺はある発見をした。店長達に見送られながら店を出、人通りの激しい往来を歩いているにも関わらず、兎がお千代の背に隠れていないのだ。店の玄関から車迄の間は僅か数十メートルに過ぎないけれど、兎が意識してやっているかどうかは別として、これは大きな、喜ばしい変化である。

 ……筈だのに、パーキングメーターに小銭を入れながら、俺は不思議と寂しさを覚えた。後部座席に乗り込む兎の顔は、緊張で未だ硬いけれど、根は強い娘だ、いずれ何もかも平気になる。兆候は既に現れている。そうなった時の事を思えば嬉しくもあり、少し寂しくもある。

 これは随分我が儘な寂しさだ……ふと気が付く……兎が独り立ちしたら、俺に頼る必要もなくなる。其れが寂しい……。

 いや、まぁ、今でもそんなに頼られてないか。そう思い直し、俺は運転席に乗り込んで、気分を変えるべく、助手席のお千代に声を掛けた。

「次の目的地は?」

「代官山」

 美しい横顔が短く応える。お千代は長い銀髪の向こうから、金瞳だけを動かし、俺を見据えた。

「もう一軒、付き合って欲しい。これが最後の店だから……兎も構わないかな?」

「えぇ、もう遠慮しません」

 意外にハッキリした兎の声。

 お千代は満足気に頷いて、

「よしよし、そうと決まれば代官山だ。店の場所が判り難いから、近付いたら指示しよう」

「了解」

 俺は車を発進させた。

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