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花の鳥籠  作者: 白基支子
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休日 壱

 皆様が探偵に最も訊きたい事といえば、先ず間違いなく「今迄で一番難解だった事件は?」か、或いは「今迄で一番酷かった事件は?」辺りになるかと思う。

 右記二つの質問は、大同小異、多少趣味は違えているが、意味は殆ど同じだ。即ち、皆様は「ゾッとするくらい面白い話」を探偵に期待していらっしゃる。

 対岸の火事の面白味も含まれているだろうが、此の「面白い」に何より欠かせないものこそ、秘密であろう。

 路傍に真相が其の儘放り出してあったなら、きっと誰も見向きもしない。畢竟、真相は秘密という分厚い幕の内に厳重に隠されてこそ真価を発揮し、そうしてはじめて、皆様、布の端を捲り上げ、中身を覗き見たいと欲するようになられる。

 俺も探偵の末席を汚す者、これ迄に色々な事件を取り扱い、様々な秘密や謎に翻弄されてきた。紙面を大きく騒がせた事件にも幾度か出会した。自分が担当した事件の記事が新聞の一面を大きく割いているのを見ると、屡々(しばしば)、モヤモヤとした疑問を抱く時がある。其の疑問を今敢えて言葉にするなら、「秘密や謎が、何故これ程、人を惹き付けるのか?」に尽きる。

 俺は新聞を畳み、腕を組みつつ悩み、考え、熟考に熟考を重ね、其の結果、ある仮説に行き着いた。

 秘密が人を惹き付けるのは、官能とよく似ているからじゃないか、と。

 莫迦にしてはいけない。俺は探偵として、又、一人の男として此処に申し立てるが、此の二つには類似点が多い。特に、秘密にしても、女の衣装にしても、全てを曝く事にこそ皆様は最も関心を抱く、という点は共通している。或いは「下着や靴下くらいは残しておきたい」という諸兄もおられるだろう。其れも又一興である。

 背徳や禁断も同類だ。どちらも官能の親戚にあたる。尚且つ、大概、秘密の保護下にある。だからこそ、これらが絡み合う事件の話を聞きたがるのだろう。

 しかし、非常に残念ながら、探偵職には守秘義務というものがある。「面白い事件の話」を、おいそれと皆様に語ってはいけないと決められているのだ。故に、探偵への最大の質問は、大抵無解答、肩透かしで終わる。

 其れで仕方なく次の関心事へ移るのだが、第二に多く訊かれる事柄は、意外にも「休日の過ごし方」だ。

 有名人への取材めいた質問。世間は探偵を一風変わった職種と捉えているらしい。勿論、中には奇人変人の類もいる。誰とは明言しないけれど、俺が知る探偵にもかなり変わった御仁はいる。

 が、これ又失望させて申し訳ないのだけれど、探偵も大部分は普通の人、休日も世間並みの過ごし方が大半だ。遊び、学び、寝る。珍しくもない、平凡な過ごし方。

 とは言え、此方は事件の詳細とは異なり、守秘義務もない。語って聞かせるのに、何ら支障はない。

 年の瀬の真っ直中、十二月二十七日、木曜日の事だ。

 税金関係の書類仕事を終わらせた俺は、新聞を置いた机をぼんやり眺めつつ、ウチもそろそろ仕事納めか、などと呑気に考えている、そんな折だった。お千代が俺の傍へやって来て、

「明日から事務所も冬休みにしようか」

 と宣ったのだ。

 定時近く、冬至を過ぎた此の頃は日もとっぷり暮れ、辺りは夜、室内は照明に煌々と照らされ、橙色の光が床や柱の木目に吸い込まれている、穏やかな温もりの中、俺は「判った」と応えた。

 が、話はこれで終わらず、お千代は更にこう付け加えた。

「冬休みにはするが、明日は空けておき給え。出掛けるからね。兎にイヴの埋め合わせをしないといけないから」

 そうして待ち合わせの場所らしい南青山の番地と、午前十一時という時刻を言い置き、お千代は謎めいた微笑と共に去って行った。

 俺はこれにも「了解」と応えつつ、頭の内では早速明日の予定を思案し始めていた。

 学院の事件解決から二日経ち、相変わらず外に出ようとはしないが、其れでも兎はウチの新人として懸命に働いている。長い白髪を様々に結い上げ、事務仕事に専念する兎の姿をよく目にする。赤い瞳が時々窓の外を見ているトコロも……。

 諸々の処理は警察に任せ、事件はようやく俺達の手を離れた。学院から報酬も頂いた。休むには良い頃合いかも知れない。(かね)てからの約束、お千代の言う通りイヴの埋め合わせもある。今年は色々な事件が立て続けに起こり、俺も疲れた。せめて明日一日は、しっかり休養したい。

 ……昼前に集合とあれば、途中で昼食は摂る筈。ならば個室のあるレストランを探しておこう。兎が人目を気にせず、充分寛げるように……。

 端末を操作し、南青山近くのレストランを調べようとした矢先、ふと、脳裏に先程のお千代の笑顔が過ぎる。瞬間、俺は手を止めた。待て待て、そう言えば不吉な予感がするぞ。気を付けろ……あの謎めいた微笑……あれはお千代が何か企んでいる際に浮かべる笑みだった。段々不安が育っていく……お千代は、何故、あんな微笑を寄越した?必ず裏がある。一体、どんな画策を用意している?

 まさか……育った不安が花を咲かせる……まさかとは思うが、仕事じゃなかろうか。冬休みを口実に、何か厄介な事件に俺達を駆り出す算段なのでは。

 集合場所は南青山。高級住宅街に程近いからして、例えば、某富豪の放蕩息子が奇怪な死に方をした、とか。其の息子は背中を大きく斬られて死んだらしく、惨死体は床の間に伏しているのだが、妙なのは致命傷らしい切り口が文字になっている点だ。「死蔵」の二文字が、大きく、背中の肉にザックリ刻まれているのだ。妙な点は他にもある。死体は、どうしてか、伸ばした右手が床の間に飾られた松の盆栽を掴み、左手は身体の下敷きになりながらも固く握られ、其の拳の中には小さな鍵が収まっていた。此の鍵は、屋敷に秘された地下室の、古めかしい金庫の鍵で、登場人物が地下室に集まり、金庫の鍵を、怖々、開けると、中には嬰児の白骨が仕舞われていた、とか……。

 ……いやいや、まさか、そんな筈は、と、不安の種から芽吹いた妄想を否定しつつ、だとしたら勘弁願いたい、という本心は拭えない。血みどろの謎はもううんざりだ。大都会に潜む凶悪犯罪と対峙するだけの精魂は売り切れている。此の御時世、探偵稼業は生き馬の目を抜くものだが、英気を養うには休暇が必須、せめて気力が回復する迄待って頂かなければ、あんまり無体である。

 ともあれ、俺は個室有りのレストランを調べ、予約しておいた。これは俺の妄想、お千代とて鬼ではあるまい。大体、微笑の真相を問うても、お千代が正直に応える筈はない、其の確信だけはあったので、問い質すなんて無駄な行為はせず、俺は明日に備え、じっと待つ事にした。

 其の運命の日、二十八日金曜日、俺は一人、昼前の南青山に突っ立っていた。

 空を見上げ、白い息を飛ばす。雲一つない冬の快晴は分厚い硝子板みたくうっすら青く、空気も乾き、行き交う人々が息を吐くなり白くなる。あれら都会人の吐息が寄り集まって、一つの雲になりはしないか、空想しつつ、マフラーの隙間から小さな雲を飛ばしてみる。

 暮れも差し迫る今日此の頃、冷気に混じった師走の忙しない気配は色濃く、世間は浮き足立って、道行く人々も足早、俺を置き去りにして行く。

 急ぐのは嫌いだ。慌てては失敗の基になる。遅刻は其の最たるもので、其れを嫌って集合時刻より早めに来た訳だが、間もなく十一時になる。

 と、目の前の道路に、横滑りする様に走って来た一台の車が停まった。見慣れた赤いアンティークカー。お千代の車だ……車は、徐行しながら道路を曲がり、近場の店の駐車場に入った。

 運転席から出て来たお千代は、右腕を振り上げ「やぁ」と声を掛けて来た。

「早いね」

「張り切って早起きしたからな」

「これはこれは、嬉しい事を言ってくれる」

 東京のシャンゼリゼと名高い表参道の延長線上にある、此処、南青山は、殷賑(いんしん)な表通りから一本入った場所にあり、人いきれを離れた格式高い静けさに浸っている。と言って、閑散としている訳ではない。軒を連ねる店々は、表通りに負けず劣らず、静けさに似付かわしい高級衣装店(ブティック)ばかり。それぞれに意匠を凝らした店先が集中する一級洒脱な穴場に、我らが所長、お千代は又一層似付かわしく、冷え冷えと澄んだ冬の日の中で、銀髪と金瞳が一段と輝かしい。

 銀箔に貼られた金箔の花を眺めるが如く、お千代を観察する。上着はキャメルのチェスターコート、下には同色のサブリナパンツ、ウェッジソールはスウェード、コートの中には栗色のアイビーシャツ、首からビスケット色チェック柄のマフラーを垂らしている。茶色系統で統一された柔らかな色彩に、解けた銀髪が揺れる。

「兎は?」

 一通り観察し終えた後、俺が訊く。お千代の他に誰もおらず、既に待ち合わせ時刻の十一時を回っている。兎はいないのか……。

「いいや」

 お千代は細い眉を八の字にし、如何にも困ったという風な表情で振り返って車へ近付くと、躊躇なく助手席のドアを開けた。

「ほら、いい加減に観念して、出て来給え」

 俺も助手席を覗き込む。と、其処には白い貝が閉じ籠もっていた。上下の殻をピッタリ閉じた様に、席の中で頭を抱え丸まっているのは、果たして、兎である。

 兎は両手で長い白髪を隠すようにしながら、前髪の隙間から辛うじて赤い瞳を上げ、柄にもない弱々しい声音で、

「無理ですお姉様、あたしは帰ります」

「『お姉様』じゃない、『所長』だ。其れに、此の間は平気だったじゃないか」

「女学院は特別です。普通の所は未だ無理なんです。帰ります。お二人の御邪魔になりますし」

「聞き分けないな。今日はイヴの埋め合わせなんだから、主役が帰ってどうするんだ」

 これを聞き、俺は内心ホッとした。猟奇事件は起きていないらしい。世界は平和が一番、今日は本当に休養らしい。

「さぁさぁ、駄々をこねていないで。こういうのは下手に隠す方が却って目立つ。犯罪でも同じだろう?堂々としていた方が疑われないんだ」

 押し問答の末、兎はお千代に文字通り引っ張り出された。勢いの儘、兎が俺の前に立つ。

「お早う兎、って時間でもないか」

「は、はい。先輩、どうも……」

 兎が怯えた調子で挨拶を返す。本物の小動物みたいだ。不安気な兎の面差しが、普段の性格からは大変珍しく、これはこれで可愛らしいと思ってしまうのは不謹慎だろうか?兎は普段、持ち前の明晰な頭脳と気丈さに因って、器量をより鮮烈に輝かせ、赤い瞳にも年相応の脆い積極性を秘めている。其れが、今はどうだ、打って変わってこんなに弱々しく、此方の庇護欲求を刺激してくるとは。

 俺は無意識の内に熱心に兎を見ていた……兎の靴は厚底の赤スニーカー、足には黒タイツ、黒のショートパンツは左右に飾りバックルの付いているもの、ローゲージVネックニットは黒と赤の太い縞模様(ストライプ)、鶯色のミリタリーコートを羽織り、加えて白雲より明瞭な形で流るる白髪。

「あれ?いつもの帽子は?」

 ハタと気が付く。兎が日頃被っている帽子が今日は頭になく、其の所為で白髪が露わになっている。

 兎は恨めしそうにお千代を見やり、

「其れはお姉様……じゃなくて、所長が帽子を取り上げて……」

「そろそろリハビリを始めないといけないからね」

 兎の言葉を遮り、お千代は腰に手を当てて、

「ズット帽子に頼っている訳にもいくまい?大丈夫。今日は私が通う気心の知れた店にしか行かないから」

「でも所長、あの帽子は……」

「其れに」

 兎の抗議を、お千代は言下に封殺し、

「其れに、兎は髪を下ろしていた方が良い……(かつ)て、吉原で売れっ子だった時の自信を思い出し給え。なぁ?君も可愛いと思うだろう?」

「あぁ、当然」

 俺が()かさず頷くと、兎は困り果てた顔で、白髪を隠すか隠すまいか、右往左往、相当に悩んでいた。

「世界は個人を易々脅したりしないさ。万人が負い目を抱え生きている。其れを一々咎めていたらキリがない。其処の男の言う通り」

 と、お千代は俺を一瞥してから、

「世人が兎に注目するのは、兎の見た目に惹かれての事。其れも当然だ。私が衣装を見繕ったのだから……ほらほら、立ち話は切り上げて、そろそろ店に入ろう」

 先程から通行人が此方を窺っている。矢張りお千代と兎は目立つ。往来の視線に、兎が気付く其の前に、お千代は押し切る恰好で、直ぐ傍にある、馴染みだという店へ向かった。

 先述の通り、此処は南青山、並び建つ店はどれも洗い立ての様に眩く、俗世から切り離された様に洒落た、一寸お目に掛かれない造りものばかり。そんな中、お千代が目指す店は一等大きく、且つ奇妙な意匠であった。何と表現すれば良いか、全面硝子張りの神殿と言う他ない。透明な硝子と白っぽい曇り硝子が市松模様に組み合わされた、三階建て、六角柱型の建物なのだが、其の支柱六本は真ん中の膨らんだギリシャ様式、此処で何が売られているのやら、外観からは察し得ない異様な風体だ。俺などは、そもそも、これが店なのかどうかすら疑ったが、店には間違いないらしく、開いた門口には此方を待ち構える店員の姿があった。

「いらっしゃいませ」

 全身を揃いの黒スーツに包んだ女性店員が二人、慇懃に腰を折って出迎える。

「お千代様、お久し振りで御座います」

「そうだね。最近は忙しかったから」

「お忙しい中の御来店、誠に有り難う御座います。今、担当の者を呼んで参りますので、どうぞ別室にてお待ち下さい」

「うむ」

 店員とお千代との間に慣れた挨拶が交わされると。店の奥から別の店員が現れて、俺達を店内に通した。

 瞬間、白い砂漠の中に迷い込む。

 そう思ったのは、床一面に敷かれた、毛の短い白絨毯の所為に相違ない。外とはまるで別世界、現実感が薄い。広漠な白絨毯の上には、不規則な曲線を描く銀色のパイプが張り巡らされている。更に其のパイプには、白黒(モノトーン)を基調とした布が、幾枚も幾枚も、連なる様に吊り下がっていた。近未来的風景……荒廃した文明の跡地の様な……よくよく見ると、吊り下がっている布は、滑らかな、仕立ての良い高級(プレタ)既製服(ポルテ)ばかり。

 ……此処は服屋なのか。ならば此処は旗艦店だろうか……。

 巡る銀パイプの中心点、白砂漠の中央には、これも白い柱が一本、(そび)え立ち、柱の周りを螺旋階段が取り囲んでいる……「ケーリュケイオン」と、兎が呟く……そんな部屋中央に俺達は案内された。此の柱はエレベーターらしく、店員がスイッチを押し込むと扉が開いた。照明の具合でクリーム色に見える箱の中に乗り込む。

 三階のボタンが光る。

 ポーンっと、木琴を叩く様な音がした後、エレベーターの扉が開く。と同時に開けた三階の風景は、未来的な印象は相変わらず、技術がより進んだ様子だった。

 最初に目に付くは硝子、建物の壁全面に嵌め込まれたあの硝子窓の群れだ。其の群れが、まるで生き物みたく深く息を吸う瞬間を目の当たりにした。と言うのは、外壁一面の透明な硝子が、一瞬で白く曇ったのだ。外から見上げた時には曇り硝子と透明なものが市松模様を描いていると思い込んでいたが、あれはどちらにも切り替えられるらしい。

 間もなく、三階を囲う硝子のほぼ全てが白くなる……たった一枚、透明なものを残して。あの一枚だけが本物の窓の様に。

 エレベーターの箱から外に踏み出すと、フカフカと、雲の上を歩く感触。此処の絨毯も白いが、毛足は一階のものよりズット長い。

 其れから正面に据えられた黒革張りのソファ。五、六人は平気で座れそうだ。ソファの手前には、銀色に縁取られたローテーブル。

 更に更に、目を引く部屋の中に建てられた小さな家。

 此処は服屋だから、察するにあれは試着室の類だろうが、其れにしては大きく、奇天烈な外観である。三角屋根の家の形、にも関わらず、屋根も壁も窓も扉も白一色に統一されている。雪で造られた小屋といった具合。

 お千代と兎と俺はソファを勧められ、お千代を真ん中に悠々と腰掛けた。あんまりゆったりしているので、俺は逆に落ち着かず、腰掛けに身体を預ける恰好でソファの隅にスッポリ収まる様にしていた。

 腰掛けて早々に、お千代はマフラーを解き、チェスターコートを脱いだ。俺は其の姿を見るでもなく眺めた……コートの中にあった時は判らなかったが、お千代の着るアイビーシャツは相当に凝った代物で、薄い生地を三層重ねた構造になっていて、ヒラヒラと、裾の辺りが時折透けそうに揺らめいている。豪勢にも同生地の肩章(エポーレット)迄備えていた。

「間もなく担当が参ります。皆様、お飲み物は如何でしょう?温かい珈琲や紅茶など御座いますが」

 店員が屈み込んで訊く。俺達は揃って紅茶を頼んだ。其の店員が下がるのと入れ替わりに、別の、初老らしい女性店員が俺達の許に進み出た。

「お待ちしておりました、お千代様」

「御無沙汰したね」

「はい。お久し振りで御座います」

 店員は美しい鋭角に腰を折ってから、親し気に、且つ礼儀を弁えた口調で応対する。其の身に馴染んだ黒スーツは皺一つない。多分、彼女が「担当」と呼ばれる店員だろう。

 担当は顔を上げると、俺と兎に微笑を送って、

「お千代様が男性をお連れとは、お珍しい」

「今日はどうしても彼が必要だったんでね」

「左様で……して、其方の御嬢様は?」

 担当の優しい皺の入った目が兎を捉える。当の兎は、頑なな貝の様に、顔と髪を両手でひた隠し、ソファの隅に閉じ籠もっていた。

 そんな兎にお千代は嘆息しつつ、

「ウチの新人だ」

「では其方の殿方も?」

「私の部下だ」

「まぁまぁ」

 担当は嬉しそうに両手を合わせ、

「お千代様の事務所は美形しかお勤め出来ないのでしょうか?皆様お綺麗で、今直ぐにでもモデルをお願いしたいと、デザイナーが此処にいたらきっと申したでしょう」

 店員の御世辞を聞き流しながらも、デザイナー、此の一単語に、俺の記憶が反応する。お千代も懐かしそうな顔で、

「彼は息災かな?」

「はい、とても、お陰様で」

 矢張りそうだ。ある独逸人の顔が脳裏に蘇る。あの時の依頼主は、此の店のデザイナーだったのか。

「其の件は大変に御手数をお掛け致しまして」

「構わないさ。あれも仕事、キッチリ依頼料は頂いているんだから……其れより、今日は彼女の……名前は兎と言うんだが……兎の服を何着か買いに来たんだ」

 豈図らんや、といったトコロだったのだろう。まさか自分の服を買いに来たとは知らなかったらしい兎は、反射的にお千代の顔を見やった。となれば、無論、担当店員に顔をマトモに向ける恰好になる。図らずも、兎と担当の視線が正面から()つかる。

 俺は次の一言で決まると直感した。次に担当が何と言うか……兎を直視し、驚き目を丸くしている担当がどう出るか、其れ次第で決まる。俺は緊張しながら事態を見守った。

「これは……言葉も御座いません。長年、此処で接客に勤めて参りましたが、これ程に端麗な御嬢様は、一寸、お見掛けした記憶が御座いません」

 担当は熱狂的な言葉を足して、

「先程、僅かにお窺いしました折に、お顔がお綺麗な事は充分了解した積もりでしたが、どうしてどうして、これ程とは……女優、いえ、絵画的と申しますか、これ程の美はお千代様以来で御座います」

「だろう?」

 お千代が満足気に頷く。俺もホッと胸を撫で下ろした。(あなが)ち御世辞ばかりでもないらしい。事実、担当の目は、真実の美を見た者のみに宿る昂奮と喜色と崇拝の光で爛々としていた。これなら安心だ。服屋の店員ならば美品の取り扱いは心得ている筈。

「これは、是非、私めらの服をお召しになって頂かないと」

 担当はもう居ても立ってもおられず、矢庭に振り返って手を叩いた。当人たる兎は、ソファの隅で固まった儘、瞳をパチクリするばかり。茫然自失の兎を余所に、三階は俄に慌ただしくなった。

 いつの間に集合したのやら、先程迄は確かにいなかった店員が八人、それぞれワゴンを押し運びながら三階の広間に揃っていた……銀色のパイプを組み合わせた様なワゴンは人の背丈より高く、どれも白黒の衣装を満載している。

 これだけの変化にも頓着せず、お千代は担当と相談を始めている。

「今ある物の観点(コンセプト)は?」

 お千代が訊く。と、担当は傍に屈み込んでローテーブルの表面に触れた。途端、立体視動画が透明な机上に流れ始める。動画の背景には舞台めいた造り物の海原が広がり、夜空には異様に大きな三日月が白く浮かんでいる。砂浜には、巡礼か、白黒の服を纏った痩身の女達が、列を成し、静かに行進している……。

「今期のランウェイですが、御覧の通り、礼服を土台に、調律した歪みを注入しております。デザイナーはこれを『望まれた不協和音、即ち天才』と名付けておりました……展覧会の名前みたいでしょう?必ず説明するよう言い付けられておりますが、正直申しますと、私達にも意味はよく判っていないんです」

「彼らしい表現じゃないか。恐らくは自分自身を指しているんだろうよ。天才と、自画自賛しなければ、遣り切れないんだ……さて置き、相変わらず見事な仕事だ」

「えぇ、同意見です。『望まれた不協和音』が、お千代様の仰言る通りの意味でしたら、類い希な美人も同じく天才の一種と申せますでしょうね」

 担当は顔を上げ、再び兎を眺めて、

「額がスッキリしていらっしゃるから、ふとした時に二重になって、其れが又、変化に富んで美しゅう御座います。神様も流石の御業で素晴らしい御仕事をなさる。服も喜ぶ事でしょう」

 と、幸福な溜息を吐く。そう、兎は美人なのだ。其れも類い希な。今更ながら実感する。俺は兎の美を簡単に享受し過ぎたらしい。何という贅沢だろう。

 褒め殺しの目に遭っている兎は、取り繕った澄まし顔だったが、地の色が白い所為で耳が瞳と同じく真っ赤なのが明白だった。が、本人だけは其れに気付かず、落ち着き(めか)した声で、

「有り難う御座います。けど大袈裟です。あたしより、所長の方が美人です」

「勿論、お千代様も美人ですが、兎様も比肩致しております」

「ふむ。お褒め頂き光栄だが、女だけで決めては公平さに欠ける。ねぇ、君、君から見て、私と兎、どちらが美人だと思う?」

 まさか、話題が此方に降ってくるとは、考えもしなかった。俺は何の用意もなく、急に振られた審判の非常な重大さに、唯々、背筋を正す。

 お千代は試す様に、兎は窺う様に、俺を見詰めている。これは逃げられそうもない。俺は観念して、腕を組んで考え、考え込み、考え抜いて、

「狡い言い方にはなるけど、お千代も兎も美人の型が違うから、単純には比べられないな。型の内なら至高だって断言するんだけど」

 と、姑息な、しかし本音を明かした。

 が、これで済ますお千代ではない。

「ふぅん。なら、私と兎をどんな美人の型だと思っているか、打ち明けて御覧」

 予想通り。お千代ならきっと追い詰めてくると判っていた。言い逃れる犯人を追及するのも名探偵の役目。なればこそ、場所も場所、俺も瀟洒に太刀打ちせねば恰好が付かない。

「其れはもう、打ち明けてもいいし、打ち明けたいくらいだけど、人目のある所じゃ、どうも言い出し難いな。どうしたって気障な事を言わなきゃいけないから」

 お千代は不敵に微笑んで、

「及第点。今はこれで勘弁してあげよう。兎の服も選ばなければいけないし」

 と、兎を見れば、兎は座った儘縮こまっていた。

「今日はそんなに持ち合わせていないんですが……」

「気にしなくていい。私が持つ」

「良いんですか?」

「埋め合わせと言った筈だ。ほらほら、店員と服を待たせている。行った行った」

 兎は躊躇らしく俯いた。が、徐に店員の手が伸び、兎を純白の小屋へ優しく連れて行ってしまった。

 八人の店員達は機械的に、静かに、正確に動いた。

 店員はそれぞれ役割があるらしい。ある者は兎のミリタリーコートを預かり(兎がコートの中に着ているニットセーターが露わになる。セーターは背中側が大きくV字に開けていて、雪原の様な兎の背中がよく見えた)、又ある者は試着室の造りを説明し、別の者はお千代と担当の指示に従いワゴンから服を抜き出して、又別の者は試着室へ運び入れて其の着方を語り、靴を脱ぐ手助けをしながらフェイスカバーを手渡し、貴重品を預かり、服に似合うよう髪を纏める者迄いた。其の間に、残った一人が紅茶を俺の前に差し出す。男の出る幕はない。大人しくこれを飲みつつ待っていよう。


 さて、兎がお色直しの間、暇潰しに、途中で打ち切ってしまった思い出話にでも耽っていよう。つまり、此処のデザイナーから受けた依頼について。

 ……二年前だったか、一人の独逸人がウチの事務所にやって来た。髭の濃い、目のギョロついた、癖毛の男だった。彼こそ此処のデザイナーだったのだが、男は意気消沈の顔色で、探偵に依頼を持って来たのだった。曰く、「私の仕事が盗まれている」との事。彼のデザインが、発表前に、他社に剽窃されていたのだ。

 間違いなく盗作だった。依頼人のデザインと他社のものを見比べたが、色、形、生地に至る迄丸切り同一。一番の問題は制作日時だ。依頼人のデザインは、他社が制作したとされる日時より、一ヶ月も早く仕上がっていた。

 盗作の原因は大凡見当が付いている、デザイナーはそう言った。企業スパイが社内に侵入している、と。其のスパイが、一体誰か、突き止めて欲しい、そういう依頼だった。

 お千代の用意した策は、社員に扮して会社を内偵する方法だった。デザイナーの協力もあり、お千代は社長秘書、俺はヒラとして、社内を上下から悉く調査していったのだが、特にお千代は明晰な頭脳を存分に発揮し、敏腕秘書として八面六臂の大活躍、依頼の件だけでなく、社内に燻る幾つもの諸問題をも解決へ導いた。捜査は其れこそ経済小説の様に進展していった……のだが……全てを語ると長いので、割愛。結末だけ手短に。

 俺達は終にスパイを炙り出したのだった。

 炙り出した犯人は、あろう事か、副社長だった。

 動機も常軌を逸していた。

「私があのデザインを盗んだなんて、飛んでもない侮辱だ。私は我が社の為を想い、ライバル社にあれを売り付けたんだ。あんなものはデザインではない。信頼していたデザイナーだったのに、彼も腕が落ちたものだ……()りに選って、私が忌避しているあの色を服に使うとは……」

 副社長は悪怯れもせずそう宣った。

 無論、副社長は解任、警察に御用となり、これにて事件は無事解決、目出度し目出度し……。

 しかし事はそう巧く運ばない。後日談、事件の後遺症……副社長が吐いた最後の悪態が、デザイナーの心傷(トラウマ)となり、以来、彼は白黒の服しか作れなくなってしまったのだ。が、皮肉というか、怪我の功名というか、此の白黒デザインが業界にて高い評価を得、巷でも人気を博し、店の売り上げは却って伸びたというのだから、諸行無常、人生は結局、塞翁が馬である。

 

「君、君」

 俺は俺を呼ぶ声に呼び戻された。旗艦店の三階、広々しいソファにて、無意識下に紅茶を頂きながら、夢見心地、意識は過去に旅立っていた。連れ戻したのはお千代だ。キレ長の金瞳が怪訝に俺を見る。

「ぼんやりでは困る……退屈かも知れないが、君にもちゃんと役目があるんだから、未だ未だ現世にいて貰わないと」

「ちゃんといるよ。一寸だけ離れてたけど……で、俺の役目ってのは?荷物持ち(ポーター)か?」

 座り直しつつ訊く。隣に座るお千代は、金瞳に、ふと、理知的な鋭い光を過ぎらせて、

「なかなかどうして、そんなものじゃない。君の役目は率直な感想を述べる事」

 と、試着室の方を見やった。

「今から兎が次々と衣装替えをするから、其の一々に君の正直なトコロを申し給え。深く考えず、思った儘を口にする……出来るだろうか?」

「其れくらいなら」

 俺は頷いた。お安い御用だ。

 仕事は直ぐ始まった。宛も見計らったが如く、此の時試着室の扉が開き、先ずは一着目に袖を通した兎が中から現れた。兎が纏うは黒いドレス……俺は早速仕事に取り掛かる……と言っても、素晴らしい衣装と兎が組んでは、感想など最初から決まったも同じ。

「確かに才能だ。うん。よく似合ってる」

 真剣に、心に浮かんだ儘を述べる。と、兎は頬を朱に染め、はにかんだ微笑を浮かべたものの、照れ隠しか、即座に困った顔を寄越した。

 改めて兎の姿を見る……白レースの細工が緻密な丸襟、粗いプリーツの入ったスカート、生地は繻子らしい五分袖の黒ドレスは、前面に大玉の真珠を模したボタンが並んでいるのだが、スカートに入った辺りから、向かって左の方へ、ボタンラインが逸れている。プリーツを波に見立てれば、まるで真珠が夜の海の潮流に流され、沈んでいく様だ。あのデザイナーらしい白黒だけのドレスが、殊の外兎に映える。細い撫で肩にも、締まった腰にも、兎の身体にドレスはピッタリと吸い付いている。白髪も、レース襟と調和しあえかな線を引いて、顔の輪郭をクッキリさせている。何より兎の瞳は、白黒世界に唯一咲いた朱花の鮮やかさ、見る人の目をどうしても惹く。

 然しものお千代も凝然と兎を見詰めている。輝く金瞳がひた向ける視線は、普段事件と向き合う際、現場検証の時などに込められた熱量と全く同等の凄味があった。かと思えば、お千代は足を組み大儀そうにソファの背に身体を(もた)れさせて、ふぅ、と、一息挟み、担当の方に向き直って、

「今着ているのは頂こう」

「有り難う御座います」

「もう一、二着欲しいね」

「はい、唯今」

 担当は深々礼をすると、再び店員達に指示を出し始めた。手慣れた様子で、其れもお千代がどれを選ぶか聞かずとも重々承知といった具合に、兎が着るべき服や服が、粛々とワゴンから抜き出されていく。大変なのは兎だ。めくるめく衣装合わせ、次から次へ着替えが立て続き、六着目辺りから顔にも諦めの色を漂わせていた。

 そんな状況下で、奇妙なのは、あれだけ念を押して「君の役目」と言っていたお千代が、一着目のドレス以降、俺にマトモに感想を求めてこなくなった点だ。俺の役目は忘れ去られてしまったのか、一抹の寂しさが()ぎるも、俺が感想を述べる事自体は邪険にされなかったので、自主的に、一言二言、兎の恰好に反応し続けた。

 兎の顔に生気が戻ったのは八着目だった。パンツルックの細いダークスーツを試着していた……言わずもがな、唯のダークスーツではない。肩、袖口、ベント、スラックスのサイドシームに、白い二重線が引かれた物だ。

 兎は自分が着るスーツを物珍しそうに見下ろし、裾を摘まんだりしていた。

「気に入ったのかい?」

 お千代がティーカップを持った儘訊き、兎の返事も待たずに、

「ふむ。探偵ならフォーマルな物も必要だね。となると、靴も要る」

 と、早くも担当を見やった。

「御用意致しております」

 担当も担当で、予見していたのか、既に数足の靴を手許に並べている。お千代は其の中から、五センチヒールのエナメルパンプスを指差して、

「折角だから、さっきのドレスとも合う物が良い……兎、これを履いてみ給え」

 と、決めてしまった。パンプスが担当の手で兎に渡される。靴底が真っ白だ。兎は屈んで靴に足を入れ、留め具を締めると、怖ず怖ず、試着室から出て来た。

 透かさず店員達が兎を取り巻く。だけでなく、俺が気付かぬ内に、曇り硝子が漏れなく鏡に切り替わっていた。一枚の窓を残し、まるでバレエの練習場の様に、部屋は鏡に取り囲まれる。

「どうぞ、全身をお確かめ下さい」

 担当がにこやかに全周鏡へ手を向ける。つられて、俺も鏡の方へ目をやった……白雲めいた絨毯の敷かれた、白一色の小屋がある広間に、黒スーツの女達が居並んでいる。(かしず)く九人の女達の中心に、一人、白い二重線の入ったスーツの少女が立っている。しかも、其の少女は白髪と赤瞳を持ち合わせた麗人。異星の姫が従者達に世話されている場面、或いは精巧な機械人形がメンテナンスを受けている様子……鏡に映り込む光景は映画の様だ。

「うむ。靴と一緒に其れも頂こうか」

「有り難う御座います」

「じゃあ会計してくれ」

「畏まりました」

 お千代と担当の間で話が纏まったらしく、担当が下がる。其の途中、担当は俺にも「有り難う御座います」と礼を言った。

 会計は本当にお千代の担当らしい。カードで一括払い。デザイナーの好意で、お千代は生涯、此処の支払いが一割引かれる事になっている。とは言え、高級で知られる店名(ブランド)、どれも相当に値が張る。衣装代の総額が一体幾らか、努めて見ないようにしていたので、俺には判らない。兎が元の服に着替える間、俺はたった一枚残された透明な窓硝子の向こうをぼんやり眺めていた。冬の空は青が薄い。

 荷物持ちは本当に不要らしい。支払いが済むと、お千代は商品配送を頼んでいた。

「今晩、事務所に届くよう、お願いしたい」

「承知致しました」

 これで買い物はお終い。大勢の店員に見送られながら店を出れば、時刻は一時近い。流石に空腹という事で、事前に俺が調べておいたレストランへ行く事に決まった。備えあれば憂いなし、念の為に調査しておいて正解だった。雲が溶けた様な青空の下、俺は車を運転し、住宅街の合間にひっそり建つレストランへ、お千代と兎を案内した。此処は席が個室四つばかりという、人目を避けたい兎には打って付けの店である。

 食事が進み、空腹も満たされ、余裕が生まれたのだろう、個室というのも手伝って、兎は緊張から解放されると忽ち不機嫌になった。

「所長、衣装を買い揃えて頂き、有り難う御座いました。けど遣り口が強引です。もう少し(いたわ)ってくれても良いのでは?」

「ほう」

 お千代は珈琲をお供に、食後の一服、銀煙管を(くゆ)らせながら微笑んだ。

「強引?兎も愉しんでいた様に見えたけれど」

「愉しむだなんて、寧ろ不安でいっぱいでしたよ。突然服屋へ連れて行かれて、あれよあれよと試着室に連行されて、髪をきちんとして、はきものの泥を落として、帽子と外套(がいとう)と靴をとって、金物類、尖ったものは置いて、クリームを塗って、塩をもみ込んで、最後は食べられるかと思いました」

「ジビエは好きだが、まさか、兎を取って喰いやしないさ」

「どうでしょう?さっき食べた豚肉の豚だって、無理矢理に死亡承諾書に爪判をつかされたに違いないんですから」

「そもそも、お千代はどうして埋め合わせに服を買う気になったんだ?」

 ふとした調子で俺は口を挟んだ……実際は、兎の不機嫌を紛らわせるべく、話題を逸らす目的があった。

 勿体らしく紫煙を吐いてからお千代は応えた。

「ふふっ……『ピグマリオン』の積もりだよ。私はヒギンズ役なんだ。探偵らしい立ち振る舞いを教える為に、先ず形から、即ち服装から一流にと考えた」

「ふぅん……でも、服だけで人間も一流になれるものか?」

 半信半疑に俺が訊けば、お千代は直ぐ頷いて、

「なる。いや、形にも魂あり、という神髄を承知している者に限るが、其の点、兎は吉原出だから、充分に心得ている筈だ」

 と、煙管の灰を始末しつつ、持論の委細を語った。

「いや、特別売れっ子でなくとも、衣装次第で心持ちが変わる事はよくある話だ。職業に制服があるのも此の為に相違ない。特に女は其の気が強い。衣装は女の鎧なのだから……其の証拠に、これを逆手に取って推理も可能だ」

 お千代は挑戦的な笑顔を浮かべ、俺を見据えて、

「例えばハイヒールの高さで、女の心積もりをある程度は読める。三センチのヒールを履いている女を見掛けたら、これは動き易さに重きを置いているので、彼女は仕事か或いは出掛けるにしても一人切りだろう。次に五センチヒール。清楚な印象の強い五センチならば、上等な場所へ行く予定があるか、或いは恋心を抱き始めた相手と逢う約束がある場合と推量される。更に七センチヒール、これはもう女の武器だ。此の高さを履いている女を見たら、彼女は勝負に行くと思って先ず間違いない」

「へぇ……」

 俺は感心しながらテーブルの下を覗き込んだ。お千代のヒールが何センチか確認しようと思い付いたのだ。が、お千代は素早く足を引き、自分のヒールを隠してしまうと、

「尤も、高いヒールが苦手な女もいるし、又、低いヒールを嫌う女もいるから、一概には言い切れないけど、ね」

 なんて、したり顔で付け加えた。

「成程。つまり、所長は先程も其れをなされた訳ですね」

 不意に兎が口を入れる。兎は何か訴える様に俺を見た後、視線をお千代へ移して、

「所長はヒギンズ役だけでなく、探偵の方も抜かりなく兼ねていました」

「おや、気付かれたか」

「あたしも探偵です。お忘れでは困ります。所長はあたしの反応を観察していました。あれは実験だったのでしょう?まるで犯人を試す大岡(おおおか)忠相(ただすけ)の様に」

「或いはソロモン王の様に?」

 不敵なお千代の笑みに、兎が溜息を返す。

「まったく……人の事は言えませんが、所長も大概、面倒な性格ですね」

「まぁね。演繹(えんえき)は探偵の嗜みだから」

 蚊帳の外なんてものではない。曇天越しの空中戦と形容した方が的確だろう。音はすれども、何が、何で以て戦っているのか、厚い雲に阻まれ、俺にはまるで見えてこない。論戦の終局に、金瞳と赤瞳のどちらもが俺を一瞥したので、何と無し、目的は判るが、だからといって口を挟む度胸はなし、畏れ多いというもので、俺は愛想笑いを浮かべやり過ごした。

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