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花の鳥籠  作者: 白基支子
20/23

聖女の初夜 拾肆

 夜半の公園、ひっそりとした木立の中、満天の星空を背に教会は佇んでいた。其の一番高い屋根の上に立つ十字架は、蒼白い月光を浴びて、冷え冷えと夜空に浮き上がる。

 木戸を潜れば、礼拝堂は薄暗い。天井から吊り下がる、煤汚れたシャンデリアの火が隙間風に揺らめき、祭壇の奥、常燈明の油火だけが、十字架に吊された神の子の顔を照らしている。

 炎の影にちらつく神の子の顔は苦悶に歪んでいる。そんな彼の足下、礼拝堂の一番奥にあるベンチに彼女は座り、手に持つ文庫本を開いていた。こんな夜更けに、若い彼女は一人切り、俺達の闖入にも気付かず、囁き声で、小説の一文を読み上げる――

「神は弱者のためにのみ存在し、弱者は強者のためにのみ汗水を流し、強者は又、悪魔のためにのみ生存せるもの也」

「――夢野久作、『悪魔祈祷書』」

 足音を忍ばせベンチに近付くと、お千代は文庫本の表題を言い当てた。すると、ベンチに座る少女は、其処で初めて探偵三人が教会にやって来た事を知り、長い黒髪を揺らしながら振り返る。

 お千代は少女に微笑み掛けると、又本の中を覗き込み、彼女に代わって朗読を始めた――

「世界の最初には物質あり。物質以外には何物もなし。物質は慾望と共に在り。慾望は又、悪魔と共に在り。慾望、物質は悪魔の生れ代り也。故に物質と慾望に最忠実なるものは強者となり悪魔となりて栄え、物質と慾望とを最も軽蔑する者は弱者となり、神となりて亡ぶ。故に神と良心を無視し、黄金と肉慾を崇拝する者は地上の強者也。支配者也――いやはや、夢野久作も又、随分と大胆な事を書くが、其れを教会の礼拝堂にて読む君も又、随分と大胆だ」

「畏れ入ります」

 彼女は徐に本を閉じて立ち上がり、十字架を背に、俺達と向かい合った。

「今晩は、櫻井未伽さん」

「今晩は、お千代さん。其れに皆さんも」

 未伽はお千代の背後を覗き込み、俺と兎にも挨拶を寄越した。此の上なく嬉しそうに。

「そうでしたのね。皆さんが今夜、私を此処に御招待下さったのですね」

「御明察」

 声を弾ませる未伽に、お千代は頷いて、

「灯りを残していた甲斐があった。こんな遅くに申し訳なかったが、君が招待を受けてくれて良かった。門限は疾うに過ぎているから、一応、寮を抜け出す手筈は整えておいたけれど、キチンと活用してくれたみたいだね」

「其れはもう、有り難く」

「そうか。まぁ、君には馴染みの手段だっただろうから、心配するだけ無駄だったかな?」

 未伽はこれに応えず、首を傾げるばかりだった。惚けている風でもない。言わずとも判るだろうという態度だ。

 今の未伽は黒セーラー服でなく、多分就眠用だろう、フリルが段々になったネグリジェの上に、足下迄垂れた厚手の赤色ナイトガウンを羽織っていた。制服より数段大人びた恰好……少女の夜着姿は、俺の目には秘めやかに、背徳的に艶めかしく映り、礼拝堂の厳粛さも相まって、どうにも現実離れした感じだった。

 眼前にて立つ名探偵の、一つに束ねた銀髪だけが、夢を切り裂くナイフの様に頼もしい。

 お千代は、そして、黒い上着の懐から一冊の本を取り出した。本の表紙には「戯曲『ファウスト』」の表題。お千代は本のページを捲り、お目当てのページを見付けると、興味深そうに金瞳を輝かせた。

「丁度良いところにこんな本がある。これは消えた里見健一の私物だ。今は訳あって私達が拝借しているが……君の為に用意した、寮を抜け出す手段だがね、丁度良く、此の中の台詞に言い換えられる。悪魔メフィストフェレスの台詞だ。彼はこんな事を言っている――悪魔や化物には掟があって、這入って来た口から、出て行かなくてはならんのです」

 ――パタン。

 お千代は片手で本を閉じ、実に態とらしい身振りで以て……大袈裟に口を手で押さえたりして……悪怯れた。

「おっと済まない。嫌味っぽくなってしまったかな?いやいや、重ね重ね申し訳ないが、君が『悪魔祈祷書』を読むのを聞いたら、つい、私も悪魔の言葉を借りたくなってね」

「お気になさらないで下さい」

 未伽も然る者、無邪気な笑顔を湛えて、

「私も、此の学院に通っていながら、こういった、神を愚弄する本を読むのは心の毒だと判っているのですけれど……でも、こういう本が好きで、ついつい読んでしまうんです。悪い事と判っているにも関わらず、つい」

 演技の応酬。教会はさながら舞台上、二人の女優が台詞を回している。

「人の心なんてそんなものさ。善悪と好嫌とは必ずしも一致しない。法律と倫理とが必ずしも一致しないのと同様に」

 お千代は本を懐に仕舞いながら、

「そも、此の学院、延いては宗教の考え方には端的な部分も多い。善悪の彼岸を極端にし過ぎなんだ。人間の自然欲求、野性的部分、つまりは本能だが、其れを悪と見なしがちなきらいがある。そして本能が悪ならば、反対に善は理性だ。理性的人間、本能を抑え付け、何事にも無欲な人間こそ、善人であり、清く尊い……本能の無い人間など、此の世に存在し得ないというのに。あの『聖女』と呼ばれ、此処で殺された竜胆にすら、本能はあったというのに」

 未伽の頬が僅かに動く。無垢の一部が剥がれた様にも見える。が、そんな未伽のブレにも気付かないフリをして、お千代は苦笑を浮かべた。

「しかし、だからこそ竜胆は殺されてしまったのかも知れない。『ファウスト』と同じだ。自分の欲求に気が付き、其れを満たした途端、竜胆は悪魔に其の命を奪われてしまった」

「怖ろしい事です」

 台詞とは裏腹に、未伽は微笑みを取り戻す。白々しい茶番。俺は奥歯を噛み締めた。

「そう、怖ろしい」

 が、お千代は至って平静に、未伽の態度など歯牙にも掛けず、

「そして私は学院から、其の怖ろしい悪魔を見つけ出すよう依頼され……此処だけの話だ……其の悪魔が誰なのか、到頭突き止めた」

 名探偵は如何なる顔色でこれを言ったか、果たして、金色の瞳を油火に輝かせ、獰猛なくらい不敵に微笑んでいた。

「其れで櫻井さん、君を今夜招待させて貰った。私の推理を聞いて貰いたくてね」

「まぁ!」

 未伽は嬉しそうに手を合わせた。ときめく胸を押さえ、ガウンの袂を引き合わせている。

「光栄です。本物の探偵さんの推理が聞けるなんて」

「喜んで頂けた様で何より」

 少女は十字架を背に、探偵は十字架を前に、向かい合う。両者とも輝く程美しく、大いに余裕を保ち、少女は黒絹の髪を、探偵は銀糸の髪をなびかせる。

 探偵は胸に手を添え、金瞳で以て、ナイトガウン姿の少女を見据えた。

「では、お話ししよう。と言っても、推理とは探偵の創作を含む事が多い。今から披露する推理にしても、少しばかり空想を織り交ぜてある。だから多少の穴はあるだろうが、其れは我慢して貰って、一応最後迄聞いて欲しい。穴については、推理を全てお聞かせした後、質疑応答の時間を設けるから、其の時にでもお応えしよう」

 そんな前口上を済ませてから、お千代は推理を語り始めた。

 十字架に架けられた神の子は、相変わらず苦し気な顔を、チラチラと揺れる油火に照らしている。彼の頭上には“INRI”と記された紙が罪状の様に貼ってあった……。


 先ず悪魔、即ち殺人犯を、便宜上、「ミカ」と呼ぶ事にしよう……此の程度じゃ何とも思わないかな?良かった。此の程度で驚かれていては、とても先を続けられない。

 悪魔ミカは此処、聖柳風女学院の一生徒だ。人気のある生徒でね、魅力的な、蠱惑的な容姿で、友達は勿論、教師にも慕われていた。悪魔は魅力を持つものだから、これは当然かも知れないね。

 さて、ミカは学院生活を続けている内、ある肉欲……「禁断の果実」に口を付けた男女を見付ける。其れが竜胆霞と里見健一だ。恐らく、天井の隙間から覗いて見付けたんだろう。悪魔の指紋は採ってあるから、何なら後で照合してもいい。

 兎も角、竜胆と里見は恋仲だった。初々しく、仲睦まじい二人。しかし先程も述べたが、本能は悪だ。其処で悪魔は二人の命を奪う事に決めた。

 十二月十一日に犯行を決めたのは、ミカが此の「ファウスト」を読んだ事があるからだ。他ならぬ里見健一の「ファウスト」だ。何しろ、ミカはよく、里見から本を借りていたそうだからね。

 ミカは里見から借りた「ファウスト」の中に、蛍光マーカーの引かれた文章や、妙な書き込みを発見する。其の内の一つ、『ヴァルプルギスの夜 +212 +219 +226』、聡いミカの事だ、此の暗号を独自に読み解き、里見と竜胆の密会日を知った。そうして犯行日を決めた。

 これは詮ない私の愚痴だがね、事件の連絡があと一日早かったら、月曜日に依頼があったなら、もっと早く事件は解決出来ていただろう、そう思わずにはいられない。暗号に示された里見と竜胆の密会日、つまり十一月二十七日も、十二月四日も、そうして事件のあった十二月十一日も、全て火曜日だ。では何故、里見は密会日を決まって火曜日にしたか?此処の生徒なら簡単に応えられる。

 何故なら日曜日と火曜日が部活の休みに決まっているからです、と。

 迂闊にも私はスッカリ忘れていた。だから若しも月曜日に依頼があり、火曜日の放課後に学院の調査を始めていたのなら、丁度部活休みに行き当たった筈なんだ……仕様のない愚痴だ……しかし、これで里見が必ず火曜日に宿直だったのも説明出来る。新任の男性教師は、部活休みの火曜日に宿直を回される、これが此の学院の風習だからね。

 恐らく、ミカが密会日を知ったのは十二月五日から十日の間。でなければ、もっと前、例えば十二月四日に竜胆は殺されていた筈だからね。

 其の十二月十一日、早速ミカは行動を開始した。先ずは男の方。ミカは自分の容姿を利用し、里見健一を屋内プールのシャワー室に呼び出した。下世話な詮索はしない。が、色仕掛けに引っ掛かったかどうかは別にしても、里見は思惑通り、シャワー室に一人でやって来た。

 そして、あらかじめ調理室から取ってきた包丁を手に、ミカは里見を刺殺した。屋内プールのシャワー室から夥しい量の血痕が発見されている。其の量から推察するに、ミカは里見を殺した後、死体を包丁でバラバラに解体したんだ。相当な大仕事だったろうよ。成人男性一人分の解体は。

 里見を始末したら、次は女の方だ。竜胆霞は、夜中、里見が来るのを待つ為、一人で教会にいる。殺すのには実に好都合だ。

 が、此処でいきなり障壁が立ち塞がる。学院の生徒たるミカは、竜胆が待つ夜中の教会へ行く事が出来ない。門限があるからだ。生徒は門限過ぎに寮から出る事適わず……重ねて、ミカの自室は見晴らしも日当たりも良い四階。となれば、窓から脱走する事も不可能。

 ミカは困り、考え、一計を講じた。

 正直に白状すると、此の一計が最後迄判らなかった。全く苦労させられたよ。けれど、推理してみれば、其れはメフィストフェレスの言葉通りだった。

 ミカは先ず、寮の傍に植えられた木々に注目し、ある発見に至る。植木の枝、其の直ぐ傍、手の届きそうな場所にある、一枚の窓。

 あの窓を使えば寮を抜け出せる……。

 そう考えたミカは、夜になると早速其の窓のある部屋へ押し掛けた。人気者のミカが、陰気な部屋を割り当てられた不人気者を訪ねたんだ、宿泊を断られる筈がない。大した自信家だが、実際其の通りになったのだから、大したものだ。

 加えて、悪魔の常、ミカは普段善人の仮面を被り、職員達の信用を得ていたものだから、夜の見廻りの心配もない。羨ましいね。日陰者の方は、全く別の理由で見廻りを受けていない……彼女の性格や素行を考えれば……まぁ、其れは今、したる問題じゃない。

 ミカは日陰者と会話を愉しむフリをして、彼女の珈琲に睡眠薬を入れた……説明が前後するけれど、ミカは小さい頃、不眠症に罹っている。睡眠薬は、其の時に処方されたものを実家から取り寄せ、入手したんだ。「近頃は何だか悩みが多く、夜も眠れないのです」……両親にはそう嘯いてみせたのでは?台詞は私の空想だが、ミカ宛の郵便物もスッカリ調べて、キチンと裏は取れている。

 これで準備は整った。哀れ、悪魔に利用された日陰者は薬の力で深い眠りに落ちる。彼女が幸福な寝息を立てている其の隣では、ミカは着々と脱出の支度を進めていた。

 ベッドと掛け布団のシーツを剥ぎ取り、其れらを細長く折り畳んで結び合わせる。其れを窓の外にある木の枝に括り付け、まるでロープの様に伝い、地上に降り立つ。

 以上が、寮脱走の全容だ。

 一体どんな景色だったろう?美しいミカが、月明かりの下、包丁を手に、寝間着姿で真夜中の公園を駈けて行く光景は。部屋を抜け出たばかりの彼女の足は、勿論靴を履いていない。氷の様に冷え切った真冬の煉瓦道は、月光を浴びて、だんだんと真珠のような色から、虹のような色に、変化しただろうか。瞳がチカチカ痛んでも、ミカはグングン走った。己の心がだんだんまっ黒くなって、其れから先は、ドウなるか自分でも知らないのに。

 教会にやって来ると、案の定、礼拝堂に竜胆一人切り、主に懺悔を捧げている。ミカは躊躇わず、竜胆の左胸を包丁で突いた。其れで竜胆は死んでしまった……丁度、其処で起きた出来事だ。

 しかし、竜胆が息絶えた後も、どうしてか、ミカは包丁の切っ先を彼女へ向けた。

 悪魔は悪魔らしく、陰惨な儀式が執り行われた。日頃親しんだ儀式はお手の物だった筈。ミカは包丁を竜胆の花弁に差し入れ、傷付けた。

 此の傷は悪魔からの伝言だ。生徒、学院、世間に向けた絶叫だ。

 兎も角、目的を果たしたミカは来た道を戻り、メフィストフェレスの言葉通り、出て来た窓から部屋に戻った。つまり、枝に括り付けた儘のシーツを辿って、部屋に帰った。

 翌朝、ロープに使ったシーツを、「経血で汚してしまった」と騙って回収、証拠を隠滅した後、悪魔は他の生徒に混じり、何喰わぬ顔で元の学院生活へ戻って行った……。


「如何かな?私の推理は?」

 お千代が微笑む。黙って聞き入っていた未伽も微笑を返し、パチパチと、小さな拍手を送った。

「素晴らしかったです。流石というか、探偵さんって、本当に明晰な推理力をお持ちなんですね」

「お褒め戴き、恐悦至極」

 喜ぶ未伽を前に、お千代が慇懃に腰を折る。

「でも」

 と、未伽は不意に拍手を止め、少し困った様な笑顔になって、

「失礼ですが、推理を伺っていて、少々気になる箇所がありまして」

「何処だろう?遠慮せず言ってくれ給え」

 演技だろうが、二人は旧知の間柄の様に親し気だった。

「そうですか?では御言葉に甘えて……先ず、お千代さんは、里見先生は、悪魔ミカの手に因って、シャワー室でバラバラにされたと仰言いましたが、ではミカは先生を解体した後、死体をどう始末したのでしょう?」

 未伽は自然に「悪魔ミカ」と口にする。躊躇なく、却って嬉しそうに。

 お千代は満足気に微笑み、

「良い質問だ。ミカは、推理中にも言ったけれど、人気者で、良い部屋に寝泊まりしていた。台所と冷蔵庫が備え付けてある部屋だ。恐らく、ミカは里見をバラバラにした後、死体の断片を黒いゴミ袋にでも入れて、自室の冷蔵庫に保管しておいたんじゃないかな。そして、町内清掃の日に持ち出し、ゴミ袋ごと収集車に捨てたんだ」

 と、其処で一拍の間を開けて、お千代は肩越しに俺を一瞥した。

「何しろ、清掃活動へ行く前からゴミ袋が重くなっているのは、明らかに可笑しいからね」

 俺は其れを聞くとハッと息を飲んで、鮮明に記憶を蘇らせた。

 一昨日、即ち十二月二十三日の早朝、学院の正門前にて、偶然未伽と出会った際、彼女は両手に重そうなゴミ袋を提げていた。「ボランティアに行く」とあの時は説明されたが、しかし清掃へ行く前からゴミ袋が重たくなっているというのは、お千代の指摘した通り、道理に合わない。

 ……つまりあの時、ゴミ袋の中に入っていたものは……。

 思考が其処に行き着くと、食道に込み上げるものがあり、俺は自分の胸倉を掴んだ。

「成程、そういう事ですか」

 明るい声に顔を上げる。と、未伽は益々嬉しそうに、笑みを深くしていた。

「では、次の質問ですけど、宜しいですか?」

「言って御覧」

「えぇ。推理の中に出て来た、『儀式』について」

 ピクリと、お千代の細い肩が上がる。対して、未伽は平然と世間話の様に続けた。

「其の、悪魔にとっては手慣れていた『儀式』とは、一体どんな『儀式』なのでしょう?良ければお教え願えませんか?」

 未伽の言葉には挑発も自棄も感じられない。唯々純粋な興味の響きだけで構成されている。故に俺は立ち竦んだ。

「其の儀式は……」

 初めてお千代が口籠もる。未伽は小首を傾げ、笑顔の儘……よくも笑っていられる。其の精神は、強いというより、最早破綻している。

 窮屈な沈黙が続いた。息苦しさが喉に詰まる。肌が粟立つ……俺は直視に堪え兼ねていたのに、何故か知ら、未伽から目が離せなかった。其れを本当に聞きたいのか?他ならぬ未伽は、其れを指摘されて、真実平気でいられるのだろうか?

 ……どうだとしても、避けては通れぬ道……。

 やがてお千代は未伽を指差し、

「其の儀式は、櫻井未伽、君があの文芸部の部室で、少女達を相手に執り行っているものだ。少女達の純潔を、君の手で破るという、生贄の儀式だ」

 と、礼拝堂の静寂を切り裂く鋭い声で以て応えた。

 場の空気が一段と冷えた様に感じる。教会の床を冷え冷えとした空気が這い回る。昼間、賛美歌が歌われた教会も、今はしんっと静まり返り、お千代の推理の余韻だけが耳に残っていた。

「あら、御存知だったんですか?」

 其れでも未伽は一寸驚いただけで、直ぐにホッとした様な調子になって、

「誰が喋ったのかしら。園?絶対にないわね。広見君?有り得そうだけれど、疑わしいわ。なら、加世子君かしら?今夜、私が此処に招待されたのも、元はといえば、あの子から御手紙を頂いたからですし」

 未伽は知り合いの名を次々上げ連ねる。其の中の一人、加世子については、未伽の言った通りだ。

 昼間、俺達は病身の加世子にある事を依頼した。十二月十一日の晩について、お話ししたい事があります。今夜、あの晩の様に、あたしの部屋にお出で下さい……云々、という手紙を、一筆(したた)めて欲しいと頼んだのだ。其の手紙を未伽の部屋の戸の下に潜り込ませた上で、約束の夜、当の加世子には別の部屋に待機して貰った。

 こういう次第で、誰もいない加世子の部屋に未伽はやって来た。戸を開けた瞬間、きっと未伽は驚いたろう。窓の直ぐ外に、見覚えのある仕掛けが施してあったのだから。

 最前、お千代の推理にも出た、シーツをロープ代わりに使う仕掛けを、今夜、俺達は加世子の部屋に残してきた。だからこそ、未伽は真夜中の寮を抜け出し、教会にやって来る事が出来たのだ。即ち、真っ白いあのロープこそ今夜の招待状、という趣向だ。

 未伽の方を見やれば、依然として思い付く限り友人の名を上げていた。其の声音は徐々に喜色を帯びてくる。

「だったら葵かしら?」

 其の名が出た途端、俺は動揺してしまった。其れを見逃す未伽ではない。

「葵なんですね?きっとそうだわ。違いますか?」

 未伽は確信を持って訊く。踊り出しそうな程嬉しそうだ。が、お千代は事務的に言い含めた。

「我々探偵には守秘義務があってね。情報提供者について、おいそれと明かす訳にはいかないんだよ」

 しかし未伽はどんな言葉も聞き入れず、「そうだわ、葵だわ」と、嬉しそうに繰り返している。

「もう、葵ってば、どんな時でも真面目なんだから。其処が葵の良いトコロでもあるのだけれど」

 友人の長所を、まるで自分事の様に自慢して語る未伽。普段なら微笑ましい光景だ。が、今は違う。俺は未伽の笑顔に戦慄した。

 未伽は一頻り葵を褒め讃えると、持ち前の大きな、猫の様な瞳を俺達に向け、

「ねぇ、皆さん、どうして葵があんな事をしたか、そして、どうして私がこんな事をしたか、知りたくありません?」

 と、言い出した。其れは悪戯をばらす子供に似て、無垢な台詞だった。

 未伽は……其れから告白を始めた。其れは己が殺人の告白であったのだが、俺にはどうしても、其れが愛の告白に聞こえてならなかった。

 星降る聖夜の出来事である……。


 皆さんが御存知かどうか、葵には親の決めた婚約者がいるんです。けど、葵は相手の顔も、名前も知らない。親御さんも勝手なものですね。其の所為で、娘がどれだけ悩み苦しんだか、全く知らないんですもの。

 葵は悩んでいました。深く深く……身体に異常を来すくらい。其の為に、葵は御両親から不実の妊娠を疑われました。長らく生理が止まっていると、保健室からお家に連絡がいったそうです。御両親は、其れが御自分達の責任だとは露とも知らず、葵を相当に詰られたとか。嫁入り前の、其れも許嫁のある身で何たる事か……此の御時世、恋姻届を出した経験すらない生娘は、大変に価値がありますもの……貞女は二夫にまみえず……美品としての価値が生涯保証されますもの……親御さんが過敏ヒステリックになるのも、立場上無理はないのかも知れません。

 其の結果、葵は心をも病んだのです。

 あの時分、葵とはよくこんな話をしました。今の時代、結婚してしまったら、もう其れは家庭という牢獄に一生囚われ続けた、終身刑と変わらないって。無実の罪で終身刑。これで世を怨まぬ者はおりません。だからこそ、葵はあの復讐を思い付いたんです。

 其れは勝手に結婚相手を決めた親への、名も知らない婚約者への、理不尽な社会への、そして不幸な自分の人生への復讐でした。葵は私に懇願したんです……「未伽、お願い。あたしが結婚する前に、見ず知らずの男に奪われる前に、あたしの純潔を、未伽、貴女の手で散らして」……ダフネに請われたペネイオスが如く、私が葵を月桂樹に変えたのでしょうか?いいえ、商品が自ら傷物になる事を望んだだけ。これが葵の復讐だったんです。

 実際、これがよく出来た復讐だと、私が解したのは、つい最近でした。

 殿方は、幻の男に酷く怯える生き物だと、痛感する事件が、先月ありましたね。御存知ですか?確か、ある奥様、そうそう、元女優の奥様が、画家の旦那様に不貞を疑われた挙げ句、殺されてしまった事件。しかも、奥様は潔白だったとか。

 此の事件を新聞で読んだ時、葵の考案した復讐の真価に気が付きました。そして、葵の婚約者が永遠に呪われる運命である事も悟ったのです。彼は永遠に解けない謎にさいなまれるでしょう。葵の初めての男は誰か?という謎に。

 此の謎に解答はありません。葵は当然沈黙するでしょうし、第一、そんな男は此の世にいません。いて言えば、相手は私となるのでしょうが……ふふっ……きっと何方どなたも信じはしないでしょう。

 殿方の嫉妬は女の其れと同程度には苦しい筈。だとすれば、葵の婚約者は、可哀相に、生涯苦しむ羽目になる訳ですね。葵の初めての相手、恐らくは葵が愛した唯一の相手、存在しない相手、幻の男の影に、死ぬ迄怯えて暮らす羽目になるのですもの。

 これをあの純朴で優しい葵が考え出したなんて。こんな復讐を。

 葵が可哀相なくらい狂ったのも、今年の春に想い人が出来たから。

 私も葵も、どうかしていたのでしょう。ほら、葵は直ぐ思い詰めてしまう性格ですから。

 其れに、真実を打ち明けますと、私は葵の悩みに心からの共感は出来ませんでした。お恥ずかしながら恋というものを未だ知らない上に、親の決めた家庭に入る事に抵抗はありませんでしたし、何より、本物の囚人になる事の方がズット怖ろしい。愛など、私には親子としての情愛さえあれば充分です。道ならぬ恋に落ち、愛に狂って、世間様に後ろ指を差されるなんて、私にはとても堪えられませんもの。

 けれど、心から同情はしました。嘆き悲しむ葵を見ていられなかった。何より親友の頼みです、断る筈がありません。

 ある日の放課後……あれは夏休みの終わり頃だったかしら?……私達は生徒会室に集まって、二人切りで其れを執り行いました。今でも思い出します……部屋に響く、カチ、コチ、という時計の音、高鳴る葵の鼓動の音……私の心臓も早鐘を打って……葵は両足を広げ、私が器具を手に……。

 あの時の葵の顔ときたら。恐怖に戦き、痛みに涙したあの表情ときたら……。

 あら……?いけない、私ったら。ご免なさい。つい、あの時の葵が、あんまり可愛かったものですから。

 ですが、不幸はあるものですね。これこそ本当の不幸ですが、あの時、誰かが生徒会室の中を覗き見ていたのです。其の誰かの見当は付いていますが……今のお話には関係ありませんから、割愛させて頂きます。

 ですが、其れからの事は、詳しくお話ししなければいけません。

 有閑階級の御令嬢ばかりが通う此の学院で、私と葵の噂は瞬く間に広がりました。まるで野に火を放つ様に。

 そして二人目が現れるのに、そう時間は掛かりませんでした。

 若し御時間に余裕が御座いましたら、儀式を受けた生徒達を参照してみて下さい。全員の共通点にお気付きになる筈です。あぁ、いえ、堪え性のない私の口が、もう告白致しますと、彼女達は皆、婚約者のいる身なのです。つまり、葵と同じ境遇にある子ばかりが、私のところにやって来ました。皆、葵と同じ苦悩を背負っていたのでしょうか?中には、明らかに興味本位の子も見受けられましたけれど。

 しかし、苦悩をはらう為に儀式を受けるなんて、これはもう、立派な宗教ですね。教祖は葵?いえ、私でしょうか?どちらでも構いませんけれど、私が純潔を奪うあの儀式は、其の儘洗礼と言い換えられます……ふふっ……純潔だった自分は死に、新たな自分として生まれ変わる洗礼と……。

 入信者はどんどん増えていきました。洗礼を受けた二人目が三人目を呼び、三人目は四人目、五人目……十人……二十……五十と、毎日毎日、布教は膨らんでいきました。

 どんな風に儀式が行われるか、詳しくお教え致しましょう。先ず、文芸部の部室にある長机に、少女を乗せます。其れから、カーテンを閉めて……園なんかは興に乗って、蝋燭など持ち出して……薄暗い中、相手の下着を取って、足を広げさせて。

 見た事はありませんけれど、きっと産婦人科の分娩室ってあんな感じですのね。私達の儀式は、赤ん坊を取り上げる訳ではないのですけれど。どころか、儀式を受ける少女は皆、男性を受け容れた事すらないのですけれど……。

 処女生殖は、聖母様お一人で充分という事でしょう。

 勿論私だって人の子です。儀式について随分と悩みました。葵には何度も謝罪されました。けど、もう手後れです。剰りに数が増え過ぎていました。気付いた時には、もう私一人の手に負えず、さりとて誰にも相談出来なくなっていたんです。

 誰からも評価されない気分は御存知でしょうか?真実の孤独と卑屈です。皆、私の役職ばかり有り難がるものですから、いつしか私自身が役職に乗っ取られて、私自身が私の役職に仕えるようになりました。自らの偶像に自らひざまずく、こんな仕打ちがありますか?私は私の役職を誇示する他に私を保てなくなりました。心底軽蔑している洗礼者という役職にすがらねば、生きていけなくなりました。

 けど、たった一人、霞さんにだけは、私の悩みを見抜かれてしまいました。

 教会の……丁度此処ですね。確か、あの辺りのベンチだったと思います。霞さんに訊かれたんです。「そんな風に、泣きそうに笑っているのはどうして?」と。

 訊かれた刹那、私は強がりも笑顔も忘れ、無意識に泣いてしまいました。そして、止め処なく流るる涙に乗せて、全てを告解したんです。

 霞さんは泣きじゃくる私に戸惑い、儀式の内容に驚きながらも、其れでも私の肩を抱いて下さった……「貴女の行いは悪じゃない。其れに其の涙の意味を、神様はちゃんと判って下さる。私も未伽さんと一緒に悩みます。だから辛くなったら、いつでも構いません、私のところに来て下さい」と、私に言って下さった。

 あの言葉に、私がどれだけ救われたか。

 けれど、あっと言う間でした。私は裏切られたんです。あの時、私の目の前で、聖女は血を流して死んでしまったのです。

 えいさいな探偵でいらっしゃるお千代さんには看破されてしまいましたが、私は物置の覗き穴から一部始終をスッカリ拝見しました。

 あの穴を発見したのは全くの偶然ですが、私は何かお導きの様に考えております。教会に通い、霞さんに慰められた後、私は寮に帰ったフリをし、二階のあの物置へ……霞さんに一番近い場所で、門限ギリギリ迄、祈る事が、習慣になっておりました。そうして季節が進み、段々と日暮れの時刻も早まって、灯りも点けず真っ暗の物置で一心に祈っていると、ぼぅっと、床の一箇所が光ったのです。不思議に思い、其の場所を調べてみますと、床板が呆気なく外れ、光の漏れる隙間から、階下にある霞さんの御部屋がスッカリ見下ろせたのです。

 お千代さんは、先程、私が密会日を知ったのが十二月五日から十日の間と仰言いましたが、其の点のみ推理を間違えていらっしゃいます。もっと前、十二月に入る前から、私は二人の関係に薄々勘付いていたのです。「ファウスト」に記された符牒ふちょうも既に読み取っておりました。日取りが里見先生の宿直当番と重なる事も。でも、どうしても信じられなかったのです。十二月四日の、其の日迄は……。

 鮮明に覚えています。十二月四日……私は儀式を終えた後、教会へ向かっていました。其の日の儀式は手間取ってしまって、教会に着いた頃にはもう随分と遅く、スッカリ日も暮れていました。頑強な純潔を相手にして、心身共に疲れ果てていました。でも、いえだからこそ、霞さんに逢いたかった。「ヴァルプルギス」の足し算も、里見先生との関係も、全て私の妄想、霞さんは今も私の為にこそ悩んで下さっていると、確かめたかった。

 霞さんは礼拝堂にはいらっしゃいませんでした。ですが諦め切れずにいた私は、悪事と知りつつ、物置に入り、床板を外して、件の穴から御部屋を覗いたのです。

 そして、見てしまいました。霞さんと里見先生の姿を……教会の、私室のベッドで、二人共何も身に着けず、其れから……霞さんの、私も見慣れた花弁から、純潔の死を表す血が流れ出でるのを。

 夢の様な心持ち、と、こういう場合に夢野久作は書いてらっしゃいましたね。御存知でしょう?全く其の通りでした。悪夢でした。悪夢以上の現実でした。

 葵との儀式を覗かれ不幸になった私が、又、霞さんを覗いて不幸になったのです。覗きなんて、するものではありませんね。誰も誰もが不幸になる、其の発端になってしまいますもの。此の世は見るべきでないもので溢れていますもの。

 脳裏に焼き付いたあの時の光景を、でも、詳しく語るのは控えましょう。あの時の感情が、もう、蘇ろうとしていますから……頭が熱くなって、頭蓋骨の中身が溶け出し、ドロドロと、喉から胸へ、其れから全身へ粘っこく流れる、酷い感覚が……。

 あの瀆神とくしんを覗いた時、私の中で聖女は死んだのです。殺したのはあの二人です。里見先生と、其れから霞さんのお二人。

 あの時、理解したんです。此の世に神様なんかいないのだと。都合が良いじゃありませんか。神様がいないのなら、生前の神罰も、死後の地獄も又在りはしないんです。ならば何をか怖れ、何をか憚る事がありましょう?


「だから殺したのか?」

 長い告白を聞き終えてから、お千代は静かに訊いた。

「えぇ」

 未伽が頷く。饒舌に語った為か、頬が僅かに紅潮している。

「里見先生は其の存在が許せなかった。だからシャワー室に呼び出したんです。けど駄目でした。どんなに私が裸で迫っても、先生は触れてくれさえせず……彼女が慕う、清らかで優しいひと……まぁ、死んで頂く事に変わりはなかったんですが。あれが一番大変でした。里見先生を切り刻む空想は以前よりしておりましたけれど、人間が想像以上に硬くて焦りました。門限に間に合わせなければいけませんでしたから。其れに、里見先生を解体しながら、何度も戻してしまいました。内臓というのは嫌な匂いがするものですね。けれど、人の内臓を見て戻すのには慣れていましたから、これはそんなに大変ではありませんでした」

 未伽は袂を開けて、ナイトガウンの中に冷たい夜気を取り入れる。未伽の額にはうっすらと汗が浮かんでいた。

「そう言えば」

 未伽は其の汗も拭わず、爛々と瞳を輝かせて言い継ぎ、

「いつか、初めて部室へいらっしゃった際、お千代さんに里見先生の行方を問われましたが……ふふっ……ご免なさい、あの時、『判らない』と応えましたのも、実は半分嘘なんです。思いの外重くて一度では運び切れませんでした。来月のボランティアで始末しようと思っていた里見先生の半分が、未だ部屋の冷蔵庫に残っています」

 凄惨な証言を、未伽はいとも容易く、軽やかさすら漂わせて告げる。

「竜胆は……」

 お千代は未伽の足下を見詰めながら訊く。其処は竜胆霞が死んでいた場所だ。

「霞さんは」

 ふと、未伽は言い淀み、

「……もっと酷い事をしようと考えたのですが、時間がありませんでした。睦言を盗み聞き、霞さんは逢い引きの後、夜遅くに必ず礼拝堂に一人でいる事を知って、其れであの様な脱出策を講じた訳ですが、其れでも脱走が露見する不安は拭い切れず、早く寮へ戻らなければと焦ったものですから」

「違うね」

 お千代は俄に顔を上げ、切り裂く様な声で否定した。其の声には哀しみが……唯々純粋な悲哀の色がにじんでいた。

「君は皆に気付いて貰いたかったんだ。自分の悩みを、自分の心の傷を。心が血を流し、泣き叫んでいる事を、皆に知って貰いたかったんだ。だからこそ、竜胆の死体に傷を付けた。あの傷は訴状だった。竜胆を殺したのはお前等だ、自分に儀式を強いた生徒全員だと、君は訴えた」

 グッと、お千代が拳を握る。小さな身体が震えている。

「其の証拠に、君は今夜、私達の招待を受けた。今夜、此処へ来る意味も判らない君じゃないだろう?君は自分が犯人だと我々に伝えに来たんだ。態々面倒を掛けて、寮を抜け出して迄」

 お千代の指摘に、けれど未伽は何とも応えず、困った様に笑った儘、お千代の言葉を聞いている。

「確かに君の訴えは生徒達に届いていたよ。だけど、こんな取り返しの付かない方法を採る必要はなかったんだ。君には声を上げて泣く権利があった。女王ではなく、一人の少女として、自分の境遇を、我が身の不幸を嘆く権利があった。親身になって悩みを聞き、時には抱き締めてくれる人もいた。なのに、君は自らの手で其の全てを壊したんだ。竜胆を殺して、其れでどうなった?どうしてなんだ?何で、君は……」

 其れ以上は言葉にならないのか、お千代は押し黙ってしまう。

 教会に再び分厚い沈黙が落ちる。

 俺は竜胆霞の遺体写真を思い出していた。修道服に乱れはなく、抵抗の痕跡は見当たらなかった。彼女はされるが儘、未伽に殺されたのだ。加えて、霞は最近何かについて深く悩んでいたという。其の何かが、里見との関係だけでなく、未伽の背負う十字架も含まれていたのだとしたら……。

 いや……全て俺の妄想だ。

 かたわらに立つお千代が金瞳を閉じ、そっと、右腕を上げた。瞬間、背後で戸の打ち開く音が聞こえ、振り返る。と、スーツ姿の女二人が教会に押し入ってくるのが見えた。私服警官だ。犯人自供の合図をしたら、即刻逮捕に取り掛かるという手筈を、俺達は事前に整えておいた。

 二人の警官は、大仰な足音を鳴らして教会を奥へと進み……ガチャリ……未伽の細い手首に手錠が掛けられる。

 警官二人に左右を固められ、未伽は連れて行かれる。俺達は其れを見送っていた。赤いナイトガウンの裾がマントの様にたなびく。女王が退場する……。

 其の途中、兎とすれ違う際、不意に未伽は足を止めて、

「やっぱり、貴女と私は似てるわ」

 と、兎に微笑み掛けた。

「貴女は私と同じ。処女と、血の薫りがするの」

 兎は放心した様に赤瞳を丸くした。が、暫くすると未伽の言った意味を理解し、みるみる赤瞳に涙を溜め……。

「いや、似てないよ」

 赤瞳から脆い涙が零れる落ちる寸前、俺は未伽の前に立ち塞がった。丁度、兎と未伽の間に割って入るかたちだ。

 そうして、俺は一度深く息を吸ってから、未伽を見据え、

「悪いけど、櫻井さん、貴女と兎は似ていない。貴女より余程、ウチの兎の方が美人だ」

 と、本心を述べた。

 ……こんな事を言っては、後でお千代や兎に怒られてしまうかも知れない。が、関係ない。俺は今、無性に本心を伝えたかった。

 未伽は俺の言葉を聞くと、面喰らった様に瞳を丸くし、其の儘連行された。背後で「有り難う御座います」と呟く声が聞こえるけれど、俺は振り返らず、黙って未伽を見送った。

 教会の外は大変な騒ぎだった。念の為正門前で待機していた筈のパトカーが此処迄入って来たらしい。赤い回転灯が教会前の広場を照らし、闇夜に沈む木々と野次馬達を赤く染めている。

 其の中には村町先生や、葵の姿もあった。

 未伽は教会の外に出ると、もう笑顔を取り戻し、生徒や教師、数多の人々が見守る中、堂々とパトカーに乗り込んだ。


「若人は、いつも、つい思い詰める。ウェルテルでもあるまいに、其処迄思い詰めるなら、思い切って野郎茶屋にでも行けば良かったんだ。何の為の風営法改定なんだか。現代版ソドムに於ける貞淑なんてものは、全く陰口に違いない。第一、『破瓜が経験の証拠』なんて俗説が現代に迄生き残っている事こそ驚きだ。処女膜も、他の生体組織と同様、破れたとて再生するというのに……まぁ、何にしても、冬休みに入る前に解決してホッとした。帰省されたら、年明け、新学期を待つ必要があったからね」

 教会を出ると、お千代は(せき)を切った様にそう言って、

「私も警察へ行く。未だ色々と雑務もあるし、学院への報告は君達に任せるよ」

 と、パトカーに乗った。残された俺と兎は、何とも言えない空気をお互いの間に感じながら、取り敢えず言われた通り、報告の為に職員室へ向かう事にした。

「行くか」

「……はい」

 兎が頷きつつ顔を背ける。滑らかな白髪に顔を隠し、俺の方は見ようとしない。兎は肌が白いから、頬が見事に赤く染まっている様子は、夜闇に紛れても一目瞭然だった。

 日付もそろそろ変わる夜更け、蛍光灯の照らす校舎の玄関を上がる。今夜を最後に此処ともおさらば、お千代の母校、此の古めかしくも木目の美しい校舎ともお別れ。たった一週間の縁とは言え、別れ際の物寂しい感慨は湧く。見納めとばかりに、辺りを見回しながら廊下を行く。

 と、視界の端に見知った姿を捉えた。齢を重ねた女性、白髪をパーマにした、ツイードスーツの背中を、薄暗い廊下の先に見付けたのだ。

 村町先生?

 先生が一階のある教室の中へ消えて行くのを見、不審に思う。彼処は職員室ではない。何か用事でもあるのか?こんな夜中に。

 兎もどうやら同じ疑問を持ったらしく、俺達は目配せだけで、職員室は後回し、今は村町先生の後を追う事に決めた。

 先生が入った其処は、「視聴覚室」と札の掛かった教室だった。慎重に、音を立てぬよう注意しながら引き戸を開け、覗く。と、部屋は真っ暗闇、明かり一つ点いていない。机やカーテンの輪郭が、濃い暗闇に薄く浮かぶ部屋に、俺達は怖々足を踏み入れた。

 電灯も点けず、村町先生は何をしているのか?そう思うが早いか、突然眩い光線が部屋を横切り、俺と兎は手で顔を庇った。

 左の壁から発せられた透明に白い光の点は、埃を輝かせながら四隅に広がり、四角錐となる。目が慣れてくると、次第に光の正体が古めかしい映写機だと判る。白光は教壇の奥に掛けられたスクリーンを目指し、何かの映像を其の上に映し出す。映像の明かりに部屋は白く照らされ、村町先生の姿も浮き上がる。俺と兎、其れに村町先生は、揃ってスクリーンの映像を呆然と眺めていた。

 光の色が変わって、スクリーンには青い背景に白い文字で「卒業の思い出」という文字が浮かび、かと思えば深緑の景色に切り替わった。

 季節はいつ頃だろう?此の景色には見覚えがある。恐らくは学院の中庭。其の中庭の、木漏れ日を浴びるベンチに、一人の少女が座っていた。

 素人手で撮影されたものなのか、映像は時折上下や左右に画面が揺れる。又、ピントも遠近を繰り返し、全体が何処か心許ない。加えて、何だか隠し撮りの感すらある。

 が、其れら全ては考慮の内になかった。俺は……兎も……画面の少女を一目見、剰りの驚きに言葉をなくした。

 間違いない。髪型は今と異なり、肩の辺りで切り揃えたミディアムヘアで、尚且つ、服は此の学院の制服である黒セーラーだが、見紛う筈もない、あの銀髪金瞳の少女は、我らが所長、此の学院に通っていた頃のお千代だ。

 お千代は一人、気難しい顔で、膝に広げたサンドイッチを食べていた。スクリーンに映写されているお千代は、酷く不機嫌そうに、黙々とサンドイッチを口に運んでいる。其れだけの映像が、二、三分間続いた。

 と、画面の右端から、唐突に別の人物がスクリーンに現れた。セミロングの黒髪を軽やかに纏った顔立ちは、随分と幼い。十代前半にすら見える。そんな童顔に、円らで大きな瞳と、通った鼻梁が可愛らしい少女は、ベンチに座るお千代を認めると、徐に歩み寄り、

「先輩。隣、良いですか?」

 と、存外落ち着いた声で訊いた。

「……駄目だ」

 対照的に、お千代は低い声で応えた。ぶっきらぼうだとか、そんな次元の声ではない。断固たる拒絶……こんなお千代は俺も初めて見る。

 が、少女はお千代の冷たい態度にもめげず、

「隣、空いてますよね?」

「空いてるから良い、という訳じゃない。だから君も『隣は良いか?』と訊いたんだろう?其れに私は『駄目だ』と応えたんだ」

「……よく判りません」

 少女は困った顔を返したが、其の瞳には春の陽光が輝いていた。

「其れもよく言われるよ」

 対して、お千代は冷笑を浮かべ、

「『よく判らない』、『あの人はよく判らない』と、よく言われる。しかし『判らない』と言う連中には『判らない』と言わせておくのが良いのさ。其れが賢明というヤツだ。此の理屈、判るかい?」

「判りません」

「ほら、今、私が実践した通りだ」

「はぁ……」

 意地が悪い。お千代は昔、こんなにも面倒な性格だったのか。

 が、少女も懲りないタチらしく、お千代の言葉を一切無視して、お千代の隣、ベンチの空いた場所に腰掛けてしまう。

「あ、こら、駄目だと言ったろう」

「はい。でも、本当に駄目という訳ではなさそうでしたので」

 少女は微笑み、手に提げた弁当箱を膝に置いて蓋を開けると、両手を合わせた。

「頂きます」

 少女は箸を持ち、弁当を食べ始めた。

「何を、勝手な事を」

 映像の中のお千代は未だ文句を言っている。

「君、私が誰だか知ってるのか?自慢じゃないが……本当に自慢にならないが、これでも私は悪名高いんだ。私が何と呼ばれているか知ってるかい?『妖怪』だとか『遊郭上がり』だとか『売女』だとかの渾名を、一度は耳にした事がある筈だ」

「知ってます。お千代先輩ですよね?」

「なら、そうと知って、何故私の隣で昼食なんか。幾ら『聖女』と渾名されている君とは言え……」

「先輩も、私の事、知ってるんですか?」

「……其れはまぁ、君は有名だから……」

「先輩も有名ですよね」

「君とは真逆の方向にね」

「嬉しいです。先輩が私を知っててくれて」

「いやだから……あぁもう……」

 言い負かされるお千代と、たおやかに笑う少女。

 俺は唖然としつつ、少女の顔を凝視した。捜査資料の写真でしか見た事はないが、矢張りそうだ。確かに面影がある。其れに映像の中で、お千代は彼女を「聖女」と呼んだ。俺は胸に込み上げてくるものを感じた。今、スクリーンの中でお千代と一緒に昼食を摂っているあの少女こそ、殺された竜胆霞、其の人である。

「先輩、サンドイッチ、美味しいですか?」

 霞は興味深そうにお千代の膝元を見る。

「……あげないよ」

「じゃあ、私のお弁当のおかずと交換しません?」

「お断りだ。大体、何で君は未だ此処に座っている?どうしてそんなに馴れ馴れしいんだ?」

 こんなに辟易するお千代も初めて見る。俺はスクリーンから目が離せなかった。兎も同じく無言で見入っている。

 視聴覚室にお千代と霞の声だけが響く。

 映像の中の霞は、そして、無邪気に「だって」と笑い、

「先輩と私は、今、一緒にご飯を食べているじゃないですか」

「君が勝手に座ったからね」

「其れでも一緒に食べてます――汝の隣人を愛せ――噂話はよく判りませんから、私はお千代先輩本人と仲良くなりたいんです」

 これには流石のお千代も返す言葉がなく、ブツブツ不平不満を呟きながらも席は立たず、サンドイッチを頬張った。

「あぁ、全部食べないで下さい。私のと交換しましょうよ」

 霞は慌てた様子で、そんなお千代の顔を覗き込んでいる……。

 何故だろう?スクリーンの中の出来事にも関わらず、其れを眺めるだけで、陽光降り注ぐ昼食を肌に感じる様だ。平和な此の光景は、遠い過去の記憶なのに。

「皆さん」

 と、村町先生は、目をスクリーンに向けた儘、俺達に語り掛けた。

「皆さん、お千代さんを、どうか、宜しくお願いします」

 涙に震える声で、村町先生はそう言った。其れは切実な、教師としての言葉だった。

「はい……」

 俺と兎はほぼ同時に頷いた。目の前のスクリーンには、在りし日のお千代と竜胆霞の姿が映されている。

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