第五話 貧民街で見つけたもの
「なぜこんなところに……? 何かの間違いではないですか……?」
セシリアは、はっと顔を上げた。
「まさか誘拐されて……」
セシリアがそう呟いた。
しかし、アルトには、馬車が止まった共同住宅のその部屋に、貴族の男性が監禁されているとは想像できなかった。
窓辺に、小さな子どもの服が干されていた。
そして、扉の前には、使い古された男物の靴がある。その靴には銀の飾りが付いていた。
その靴を見た瞬間、セシリアの息が止まった。
傷んでしまってはいるが、ジュリアンが履いていた靴に違いなかった。その靴は、昨年の冬に、セシリアが贈ったものだったのだ。
「ジュリアン様の靴だわ……」
部屋の中から、男が夜の闇に出てくる。
傷ついてもいない。
縛られてもいない。
その男は、ただ、その部屋から出てきた。
「洗濯物を取り込むのを忘れていたな」
そう言いながら、男が貧民街に不似合いな辻馬車に気づく。
「パパ……おなかすいた」
男の後ろから、小さい女の子が顔を出してきた。
「エマ、すぐご飯にするから、中で待っていなさい」
男は優しい声で子どもをなだめた。
子どもが家に戻ると、男が辻馬車に近づいてくる。
「セシリア様……ですか?」
男が馬車の窓の向こうに尋ねる。
「ジュリアン様……」
その男は、ジュリアン・ノルドだった。
アルトが御者台を降り、馬車の扉を開く。
「どうぞ馬車にお入りください」
ジュリアンは躊躇いながらも、馬車に乗り込み、セシリアの向かいに座った。
セシリアの頬を涙が伝った。
「ジュリアン……。無事だったのね……。良かった……」
「申し訳ございません……」
「何があったのか教えてくださる? 先ほどのお子様は?」
ジュリアンは答えなかった。
「ジュリアン様」
セシリアの声が震える。
「あの子は、あなたをパパと呼んでいたようですが……」
「……あの子は、私の娘です」
「娘……?」
セシリアの表情がこわばった。
「私には、ハンナという妻がいました」
「……奥様とは、もう離縁されているのでしょう?」
「亡くなりました」
ジュリアンは、かすれた声で答えた。
「あなたにお借りしていた別宅を去ったのは、あの子の面倒を見るためです。それまで、妻がエマを見ていました。けれど、妻が亡くなって……私はここへ戻るしかありませんでした」
「……では」
セシリアの唇が震える。
「私と婚約したときも、奥様がいらしたということ?」
「はい」
しばらくの間、二人は沈黙した。
「なぜ……」
セシリアはようやく声を絞り出した。
「なぜ、そんなことを?」
「妻が病でした」
ジュリアンは膝の上で拳を握った。
「薬代が必要でした。エマに食べさせる金も必要でした。けれど、働いても働いても足りなかった」
「だから、私を……?」
「最初は、誰でもよかったのです」
セシリアの肩が震えた。
「王都の大聖堂へ、妻を連れて行きました。聖女候補なら、病の民を癒してくださると聞いたからです」
ジュリアンは、窓の外の闇を見た。
「けれど、治癒を願う者は寄進を求められました。提示された額は、私が何年働いても届かないような金額でした」
「そんな……」
「その横で、裕福な貴族たちが、すり傷ほどの怪我を治すために高額の寄進をしていました」
ジュリアンの声が低くなる。
「あの時、思ってしまったのです。あの人たちの指輪一つでもあれば、妻は救えたのではないか、と」
セシリアは、何も言えなかった。
「貴族たちは、私たちから搾り取っている税で贅を尽くしているのです。彼らから金を取り返してやろうと思いました。
正義のためではありません。憎かったからです」
「それで、救済金の不正という話を……」
「嘘です」
ジュリアンは、はっきりと言った。
「王都の救済金の不正など、見つけていません。身を隠す必要もありませんでした。すべて、あなたから金を受け取るための口実でした」
セシリアの頬を、涙が伝った。
「私と結婚する気など、最初からなかったということ……?」
「私のような貧しい平民が、あなたのような貴族のご令嬢と結婚などできるはずがないでしょう」
「……私のことは、愛していなかったのですか?」
ジュリアンは目を閉じた。
「私が愛したのは、亡くなった妻、ハンナだけです」
「そんな……」
「ジュリアン・ノルドなどという人物は、この世には存在いたしません。あなたは空想の男と愛し合っていただけです」
男は深く頭を下げた。
「本当の名前は、マティアス・ロウと言います」
「マティアス……」
「こうなった以上、もう逃げるつもりはございません。ただ……虫の良いことを申しているのは分かっていますが……」
マティアスは、馬車の外へ視線を向けた。
「娘だけは、どうか助けてくださいませんでしょうか」
そのとき、エマが待ちきれず、もう一度部屋から顔を出した。
「パパ……どこ?」
エマは、闇夜に停まる馬車の中に父を見つけられず、不安そうに辺りを見回していた。
アルトは馬車のそばを離れ、エマの前に膝をついた。
「パパは、すぐそこにいるよ」
アルトにできることは、それだけだった。




