第二話 王都の外れの古い橋
馬車は王都の中心から外れた古い橋の上で止まった。
「ここは……?」
クラリスは窓の外を見た。
眼下に、小さな火が灯っていた。
夜の炊き出しだった。
大鍋から、白い湯気が上がっている。
木椀を並べる子供がいた。
パンの入った籠を運ぶ少年がいた。
両手で椀を包み、火のそばで肩を寄せる人々がいた。
雨を避けるための小さな庇が、橋脚の間に張られていた。
クラリスは息を止めた。
あれは、自分がつけさせた庇だ。
あのパンは、自分が手配した二百個のうちの一つだ。
あの鍋の火は、冬を越すために準備しておいた薪で燃えている。
誰も、クラリスの顔を知らない。
誰も、彼女に頭を下げない。
誰も、感謝の言葉を口にしない。
それでも、そこにあった。
クラリスが紙の上で整えてきたものは、温かいスープになり、パンになり、雨を避ける庇になり、暖を取るための火になった。
「……あったのね」
「何がですか?」
アルトが静かに尋ねる。
「私の心」
クラリスは、窓の向こうの火を見つめた。
「こんなところに、あったのね」
アルトはしばらく何も言わなかった。
やがて、雨音に紛れるほど静かに言う。
「少なくとも、あの鍋の火は、クラリス様を冷たいとは思っていないでしょう」
クラリスは答えなかった。
代わりに、静かに涙が頬を伝った。
「降りますか?」
「……いえ、結構です」
降りて、自分がパンや薪を手配したのだと告げれば感謝されるかもしれない。
けれど、自分は感謝されたくてやったのではない。
誰かに認められたいわけでもない。
ただ、自分の心が、この人々とともにあるのだと分かっただけで十分だった。
「もう少し、この馬車の中にいたいわ」
「かしこまりました」
アルトは手綱を軽く鳴らした。
馬車は再びゆっくりと動き出す。
橋の下の火が、窓の向こうで少しずつ遠ざかっていく。
それでもクラリスは、じっとその火に目を凝らしていた。
「アルトさん」
「はい」
「私、明日から何をすればいいのか、まだ分からないわ」
「そうですか」
「公爵家へ戻るべきなのか、王宮に抗議すべきなのか、それとも、すべてを忘れてしまうべきなのか」
「……」
「でも……少なくとも、あの火を消してはいけないと思うの」
アルトは、わずかに微笑んだようだった。
「それが、クラリス様がたどり着いたところなのですね」
クラリスは、濡れた窓に映る自分の顔を見た。
泣き腫らした目。
乱れた髪。
夜会用のドレス。
王太子妃にふさわしくないと断罪された、公爵令嬢がそこに映っていた。
けれど、その女性は決して惨めではなかった。
「ねえ、アルトさん」
「はい」
「もう少しだけ、走ってくださる?」
「どちらまで?」
クラリスは少し考えた。
今なら、公爵家へ帰れるかもしれない。
それでも、まだ少しだけ夜の中にいたかった。
「どこにも」
そう言ってから、クラリスは小さく笑った。
「でも、さっきとは違うわ」
「はい」
「今は、逃げているのではないもの」
アルトは何も言わず、ただ手綱を握った。
雨はすでに上がっていた。
馬車は雨上がりの王都を走る。
橋の下の火は遠ざかった。
それでも、クラリスの胸の中には、まだその火の灯りが残っていた。
そしてその翌日、王宮は知ることになる。
自分たちが「冷たい」と切り捨てたものが、王都を動かしていたのだと。




